5月1日は休みじゃないけど「メーデー」だ! で、「メーデー」って何の日?

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メーデーはもともと“夏の訪れを祝うお祭り”

 5月1日といえばゴールデンウィークの中日であり、「5月1日が祝日だったら…」と思う人も多いのではないでしょうか。そんな、時にうらめしくさえ思える日なのですが、実は過去に5月1日を祝日にしようという動きがあったのをご存知でしょうか?

 5月1日は「メーデー」(英語表記にすると“May Day”)。国際的には「労働者の日」であり、その歴史は100年以上に及びます。せっかくのゴールデンウィークの中日、これを祝日にしようという要望は昭和の時代からあったのですが、平成に入ってバブルが崩壊するとともに不況が深刻化し、労働時間を短縮する動きがにぶってしまいました。もし、バブルが崩壊しなければ、5月1日は祝日になっていたかもしれません。

 そもそもメーデーとは、ヨーロッパで古くから「夏の訪れを祝う日」とされ、五月祭の日でした。それが、産業革命後に常態化していた労使争議において「せめてこの日は休戦しよう」とされていたのです。第一次世界大戦で起こった「クリスマス休戦」のようなものだったと言われています。言いかえれば、それほど労使が激しく争っていたということなのです。今のように、会社を辞めて起業するというように、昨日までサラリーマン、つまり労働者だった人が、今日は経営者になっているというケースがほとんどなく、身分が固定されていたという事情もあります。

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現在のメーデー発祥国はアメリカ!最初は「8時間労働」を訴えていた!

 これが様変わりし始めるのは、1886年のアメリカで発生したストライキです。当時の合衆国カナダ職能労働組合連盟が「8時間労働」を要求してゼネラルストライキを起こしたのです。当時のスローガンは「第1の8時間は労働のために、第2の8時間は休息のために、そして最後の8時間はおれたちの好きなことのために」というものでした。というのも、かつて労働者の労働時間は12~14時間が当たり前だったのです。このゼネラルストライキは、8時間労働がなかなか実現しない中で、その後も5月1日に起こり、1890年には世界の労働組合に波及、第1回の国際メーデーが実施されます。これが、今に続くメーデーの起源です。

 メーデーというと労働者の権利を訴える日ではありますが、団塊の世代にとっては「社会主義運動の一環」であったり、それより若い世代にとっては「デモに参加させられる日」といったイメージがありますが、その起源は、実はソビエト連邦の成立前におけるアメリカが発祥だったのです。

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日本版メーデーは労働者が主役ではなかった?

 日本でメーデーというと、社会主義というイメージが強い時代がありました。発祥の国アメリカでは社会主義には関係なく、労働者の権利を訴える日だったのに、なぜ日本ではそんなイメージになったのでしょうか。

 日本でのメーデーは1905年、平民社主催の茶話会(さわかい)という形で実施されました。アメリカではゼネラルストライキでしたが、日本では“お茶を飲み語りあう会”というなんともノンビリした雰囲気で始まったのです。しかし、平民社は幸徳秋水と堺利彦を中心とする社会主義結社です。ロシア二月革命後の1917年には、社会主義者が集まったメーデー記念の集いが開催され、1920年には日本での第1回メーデーが上野公園で開催されます。ロシア二月革命が「資本主義を排除し、労働者主体の政治」を訴えており、その「労働者主体」という考えが「メーデー」に重なったのです。アメリカでは実際に労働者組合が主導してストライキが実施されたのに対し、日本では政治結社が主体となって、労働組合に声をかけて、人を集めたところが大きな違い。参加した約1万人の労働者は、8時間労働制の実施や失業の防止、最低賃金の保障といったスローガンを掲げて集会に参加していたそうです。しかし、余りに社会主義色が強かったため1936年にはメーデー開催が禁止されてしまいます。

米よこせ!が戦後最初のメーデーのスローガンだった!

 そして第二次世界大戦が終わった後、メーデーは復活します。終戦の翌年である1946年のメーデーのスローガンは「働けるだけ喰わせろ」というものでした。別名“食糧メーデー”あるいは“飯米獲得人民大会”と言われるほどで、当時の貧しい食糧事情が窺えます。参加者は全国で100万人、皇居前広場だけでも50万人が集まり、デモを行っていました。5月12日には「米よこせ!」と叫ぶデモ隊が皇居内に入ったという記録もあります。そこでは集会も開かれ、民主人民政府の樹立も決議されていたのです。「腹が減った!」と戦後の窮乏する生活改善を訴える声が多数だったのですが、その一方で政治的な決議が為されているあたり、メーデーを主催する組合側と参加する労働者の意識がずれているような印象が強く残ります。

 その後GHQの支配も収まり、日本に主権が回復してからは日米安全保障条約への反対がメーデーで訴えられ、デモ隊の一部が警官隊と衝突する流血事件も発生しました。その流れが後にも続き、日本でのメーデーは、社会主義的な政治活動の色合いがさらに濃くなっていくのです。

誕生から1世紀、メーデーはその役割を終えた?

 1989年以降、全国統一のメーデーは開催されていません。全国の労働組合の再編、そもそも社会人の労働組合への参加率の低下が原因に挙げられています。そもそも組合がない会社も少なくないのです。政治色の強さも敬遠される原因かもしれません。現在も日本労働組合総連合会(連合)、非連合系の全国労働組合総連合(全労連)や全国労働組合連絡協議会(全労協)がそれぞれメーデーを開催していますが、特別なニュースになることもなくなりました。それぞれの開催でも参加者は数万人にとどまっています。そんなわけで、現在の20~30代の人にとっては「そもそも組合ってなに?」という認識の人も多く、メーデーという言葉にピンとくる人が少ないのも当然なのです。

 元来は「夏の到来を祝うお祭り」だったものが、「労働者の権利を主張するイベント」に変化し、それが日本では社会主義的主張が強調されるようになったメーデー。その変化の理由は、はっきり言えば、“時代の変化”かもしれません。メーデーの存在が、労働時間の短縮や賃金、労働環境の改善を強く意識づけ、その実現の大きな役割を果たしてきた事実は変わりません。しかし、日本では政治色が強すぎたこと、そして世界的にも「労働者と資本家は必ずしも対立しない」「労働者の資本家の垣根が低くなっている」ことなどから、メーデーの意義が薄れていることも事実なのです。

監修 リクナビネクストジャーナル編集部

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