デビュー戦以来、ファイトマネーを寄付し、介護とボクシングの二足のわらじを履く大沢宏晋さんにその理由や仕事観を聞く連載インタビュー企画。今回は大沢さんがボクシングを始めた理由や、引退も考えた事件、それを乗り越え夢の舞台で戦った時のことなど、これまでのボクサーとしての歩みを語っていただく。
プロフィール
大沢 宏晋(おおさわ・ひろしげ)
1985年、大阪府生まれ。ALL BOXING GYM所属のプロボクサー。現在、45戦36勝5敗4分 21KO。WBAフェザー級1位(2019年12月現在)。18歳の時にボクシングを始め、19歳でプロデビュー。2007年から介護職とボクサーの二足のわらじで活動。デビュー戦以来、ファイトマネーのほとんどを福祉系の団体等に寄付している。2011年、第42代OPBFフェザー級チャンピオンに。その後ランキングを上げ、2016年に初の世界タイトルマッチに挑むもオスカル・バルデスに7R TKO負け。現在、再び世界チャンピオンを目指して練習中。
大沢宏晋オフィシャルサイト
目次
きっかけは両親の離婚
──そもそもなぜボクシングを始めたのですか?
元をたどれば中学3年生の終わりに両親が離婚したことです。言葉にはできないほどの大きなショックを受けました。周りに親が離婚している友達もいましたが、まさか自分の家で起こるとは全く想像すらしていなかったし、三人兄弟の末っ子だったのでなおさら…。
もちろん両親に対して「なんでそんなことすんねん」という怒りもむちゃくちゃ感じました。親の都合でやったことでなんで俺ら子どもが被害を受けなあかんねんて。
その後、僕ら兄弟は最初は母親の方に引き取られて一緒に暮らしていたんですが、長兄と衝突して僕だけ出ていって、親父と一緒に暮らし始めました。とにかく理不尽なことばかりでいつもイライラしていました。
僕は小学校3年生から野球をやっていて、プロを目指していました。高校入学後は寮に入ったんですが、周りが真面目でおとなしい生徒ばかりだったので全然合わず、喋っとってもつまらなくて。こいつらとは生きてきた世界が違うかったんやろなと。そもそも親の離婚に始まった家庭環境の激変で常にむしゃくしゃしてて精神的に不安定になっていたこともあって、ほかの部員はもちろん、監督やコーチともよう衝突しとったんですよ。
あとは1年生の半ばくらいの時にイップス症候群になってもうたんですよ。ボールを相手に投げるのがめっちゃ恐なって、もう野球を続けるのは無理やなと。野球選手としての未来が見えなくなったので退部しました。これで高校に行く意味もなくなったので中退したんです。
手のつけられない不良からボクシングの世界へ
──それからすぐボクシングを始めたのですか?
いえ、その後の1年くらいはめっちゃ荒れてました。不良仲間とつるむようになって、悪さばっかりやってました。
──どんな感じで荒れてたんですか?
当時のことはあんまり話したくないんですが……まあ、しょっちゅうケンカをしてました。当時の僕は相手をとことんまで痛めつけることにためらいがなかったです。大人数を相手に大乱闘になることも珍しくなかったです。
そんな暴れまくっていた僕を見かねた友人にある日、「お前、このままではヤクザになるしかないで。それでええんか?」って言われました。正直言って、その時は僕自身もそうなってもええかなと思ってたんですよ。この先の人生に夢も希望も見い出せなかったから。でもその友人は続けて「それでええわけない。そうならんためにお前にぴったりのとこ、行こ」と言って、連れてってくれた先がボクシングジムやったんです。18歳の終わりくらいでした。
──初めてジムに行った時はどうだったんですか?
そのジムが『あしたのジョー』に出てくる「丹下拳闘倶楽部」みたいなほんまにボロボロできったないジムでね。中に入ったら、プロいうても4回戦ボーイが1人縄跳びしてるくらいの寂れた感じでした。他にはトレーナーらしき人が椅子に座ってウトウト居眠りしてたから、腕をパーン叩いて「おい、おっさん、起きろ起きろ!」言うて起こして、「ボクシングしたいねんけど」って言ったんですよ。当時は口の利き方も知らない生意気なガキやったんで。
そしたらトレーナーは寝ぼけ眼で「1ラウンド何分か知ってるか?」て聞いてきたから「3分やろ」って答えました。そしたら「そこのサンドバッグ3分間殴ってみろ。それができたら褒めたるわ」って半笑いで言われたからカチンと来て「はよグローブ貸せや」言うて3分間ばーっと殴りきったんです。その時、今まで感じたことのない新鮮な楽しさを感じて「うわー、めっちゃおもろいな」と思いました。
殴り終わったら、トレーナーが「すごいなお前、初めてで3分殴りきるって普通できひんぞ」ってびっくりしてその後こう言いました。「リングの上には金がいっぱい落ちとる。お前やったらそれ全部拾えるから俺と一緒にボクシングやろうや」と。
当時の家はめっちゃ貧しかったし、「人を好きなだけドツいて金もらえるなんて最高やん」って思って「その言葉、嘘ちゃうやろな。本気でやるから俺にボクシングを教えてくれ。このジムの日本ランキングにも世界ランキングにもすぐ俺の名前入れたるから」って言うたんです。なんか知らんけど俺やったら絶対頂点まで行けるという自信があったんです。
トレーナーも「お前やったら絶対イケる。俺がお前に見たことない景色を見せてやる」って言ったんですが、僕の方も「俺がおっさんに見たことない景色を見せてやる。このジムの歴代のチャンピオンを追い抜いて俺が頂点に立ったるから。見とけよおっさん」って、その日にジムに入門しました。ここから僕のボクシング人生が始まったんです。
この日を境に一緒に悪いことをしてた仲間とは縁を切って、ボクシングと仕事だけの生活になりました。3ヶ月でプロテストに合格して、半年後の2004年4月にプロデビューが決まりました。
引き分けでもファンがつく
──デビュー戦はどうだったんですか?
最初リングに上った時、何百人のお客さんに囲まれて、うわ~って頭が真っ白になりましたね。それまで生きてきた中で一番緊張しました。
で、むちゃくちゃ空回りしました。わけわからんまま1ラウンドにダウン取ったんですが、2ラウンドはダウンを取り返されて。3ラウンドもう1回ダウン取ってよっしゃ! と思ったんですが、最終4ラウンドにまた倒されて。お互い2回ずつダウン取って、結果はドローに終わりました。
確かに倒し倒されの試合だったので、やってる方は必死やったんですが、会場はめっちゃ盛り上がりました。こいつおもしろいなと思ってくれた人も多かったみたいで、ファンも増えました。

引退一歩手前まで考えた
──その後は24戦19勝3敗2分で2011年に臨んだOPBFフェザー級のタイトルマッチに勝ってチャンピオンになります。翌2012年4月にはWBOアジア太平洋フェザー級チャンピオンにも。でも2012年12月のWBOアジア太平洋フェザー級タイトル防衛戦を境に1年間ブランクがありますよね。これはどうしてですか?
このWBOアジア太平洋フェザー級タイトル防衛戦をやった時、JBC(日本ボクシングコミッション)のルールに違反したらしくて、OPBF東洋太平洋フェザー級王座とWBOアジア太平洋フェザー級王座を剥奪されて、ライセンスも1年間停止処分になったんです。自分ではなんでか全くわからなかったんですけどね。
──その時はどんな気持ちでしたか?
怒りとかいうよりも、もう全身の力が抜けたような感じでしたね。当時は世界ランキングの一桁に入っとって、次はいよいよ世界戦というタイミングでした。そんな時に1年も試合ができなくなってしまったので、「ああ、これでこれまで積み上げてきたものを全部失ったな」と思って。
だから全部が嫌になって、完全にやる気も失って、ずっと家に引きこもってました。実はもうボクシング自体を辞めようと思って、引退届にサインして判子も押して、後は出すだけという状態にまでなってたんです。
震災ボランティアをきっかけに立ち直る
──そこからどうやって復活したのですか?
ちょうどその頃、大親友の大阪で「博多モツ鍋 いっぱち」という居酒屋を経営している社長が、僕がめちゃくちゃめげてるのを見て、何とか元気づけたろと思って東日本大震災の炊き出しのボランティアに誘ってくれたんですよ。
僕も10歳の時に阪神淡路大震災を経験していたし、何か少しでも被災地の方々のお役に立ちたいと思っていたので、行くことにしました。
現地で被災者の皆さんの姿を見た時に、ハンマーで思いっきり頭を殴られたような衝撃を受けて、こう思いました。
大事な人や財産を失って絶望のどん底にいても、こんなに歯を食いしばって生きてる人がようけおるのに、俺はたかが1年試合に出られないくらいで何メソメソしてんねん。俺の場合はまだなんぼでも取り返せるやん。そんなしとったらこの人らに申し訳ないわ。
もしここで腐ってボクシング辞めたら中途半端になるし、この先別のことをやったとしてもちょっと何かあるたびに投げ出すようになる。窮地からどれだけ挽回するかが俺の持ち味ちゃうんか。落ち込むんじゃなくて、どう盛り返すかやろ。倒れたらまた立ち上がって歩き出したらええ。それだけのことやろ。その一歩を踏み出す覚悟と決意がどれだけあるか。
だからこのトラブルで調子を崩して終わるんやなくて、逆にこれがあったからさらに強くなって、頂点まで上り詰めたなと後々言われるようになりたい。だからこんなことでメソメソしてる場合やない。ここからもう一回死ぬ気で頑張るしかない。そう決意したんです。
──ではもしその時、居酒屋の親友社長にボランティアに誘ってもらえなかったらボクシングを辞めてましたか?
絶対に辞めてましたね。だから僕は本当にいい人の縁に恵まれてると思います。感謝しかないです。
復帰するからには失った1年間を取り戻すために最短で世界までいかなあかん。そのためにはこれからの試合は全部KOで勝つと決意したんです。
世界タイトルマッチで夢の舞台へ
──その言葉通り、2013年12月20日の復帰戦を皮切りに7連続KOで勝ってますね。
もう一試合でも負けたら俺のボクシング人生は終わりやという覚悟で試合に臨んでいたので。それで、2016年11月5日についに世界戦が決まったんです。しかも世界中のボクサーが憧れるラスベガスで。それを聞いた時は体が震えて鳥肌が立ちましたね。
──その夢の舞台に立った時の気持ちは?
ボクシングの世界タイトルマッチは20数年前、小学生の頃から友達とテレビで見てて、すごいなあ、どんなとこなんやろと憧れていました。そのブラウン管の中の世界に自分が実際に飛び込んで、リングの上に立った時は、正直うわー気持ち悪いなって変な感じでした。あれから20数年後に自分が今ここに立っていることが考えられへんような、変なテンションの上がり方で平静を保てなかったです。

その日のメインイベントがマニー・パッキャオで、その前の試合がノニト・ドネア。世界の名だたるスーパースターと同じリングに立てるというのはすごい光栄なこと。僕を2万人の観客が取り囲んでいるんですよ。しかもその全員が本気でボクシングが好きなやつらだからものすごい熱気なんです。もちろん日本のリングとは全然ちゃいます。そもそも日本ではこんな大会場で試合することなんかありえへんし。いろんな世界チャンピオンの方々がいてると思うんですが、全員がこの舞台に立てるわけちゃいますからね。だから普通のボクサーじゃ立てない舞台に立たせてくれた会長はじめ、マネージャーやトレーナーなどジムの方々に感謝しました。
──どういう気持で試合に臨んだんですか?
勝っても負けても辞めようと思っていました。この一戦にこれまでのボクサー人生のすべてを懸けるつもりだったので。
──結果は7回1分50秒TKO負け。試合の感想は?
完敗ですね。パワー、スピード、テクニック、ハート、すべてにおいて相手が上で、何もさせてくれなかったという感じです。

妻の言葉で再起を決意
──勝っても負けても辞めようと思っていたんですよね。そこで引退しなかったのはなぜですか?
確かに正直ここで僕のボクシング人生は終わってもいいのかなとも思いました。でも試合が終わった後、妻にこう言われたんです。
「そんなんで辞めるんやったらあんた一生笑い者やで。あんたの目標は何やったん? 世界チャンピオンやろ? あんたが一番ほしかったのは世界チャンピオンのベルトやろ? それを取らずに終わるんやったらただラスベガスに行っただけの記念旅行や。終わった時に勝っても負けても辞めるつもりやったとか、そこでギブアップとか絶対許さへんからな」と。
それ聞いて確かにそうやなと。目が覚めた思いでした。
──ではその時、奥さんにそう言われてなかったらそこで辞めてたかもしれない?
確実に辞めてましたね。もうええわって。だからむちゃくちゃすごい嫁さんですよね。常に僕のことを誰より一番理解してくれて。ほんとステキな人です。
あともう一つ思ったのが、チャンピオンと戦って、「ほんま強いな。これが世界トップのボクサーなんやな」ってこと。それでこの世界でもっと戦いたいという意欲がむっちゃ湧いてきたんです。
それで辞めるんやったら世界チャンピオンのベルトを巻いて有終の美を飾りたいと思って、ボクシングを続けることにしたんです。
再度世界の頂点を目指す
──それから7戦6勝でWBAフェザー級1位までランキングを上げました。今後の予定は?
2020年中に2度目の世界タイトルに挑戦する予定です。僕ももう35歳やし、次が勝っても負けてもほんとに最後の試合になるでしょう。だからこそ死ぬ気でやります。
──世界戦への意気込みを聞かせてください。
前回の世界戦は絶対に世界チャンピオンになるって明言せえへんかったからベルトを獲られへんかったのかなと思うんですよ。だから次の世界戦では王座を確実に獲ると明言して、必ず勝つという覚悟と決意で挑戦します。
ここに至るまでの道のりにはいろんなことがあったけど、あっという間でした。次また見たことのない世界に飛び込んでいって、そこで今の俺の方が強いということを証明して最後はチャンピオンベルトを巻きたいなと。それだけですね。このプロ生活15年の集大成をかけて王座を獲りに行きたいです。
何より世界で一番愛しているあくびちゃん(奥さん)に僕が世界のベルトを巻いているところを見せたいですね。それが今の一番のモチベーションです。
次回は仕事に対する姿勢、仕事観、今後の目標について語っていただきます。こう、ご期待!
第1回記事『「自己中心的な人間、周りの人に優しくできひん人間は、人の上に立てるわけない」』はこちら