ラジオ番組のDJ、テレビ番組のナレーター、格闘技のリングアナ、歌手など、様々なフィールドで活躍してきたケイ グラントさん。昨年秋に芸能生活30周年を、今年1月には還暦を迎えた。バリトンのセクシーな声と英語ネイティブ顔負けの発音で長年にわたって多くの人々を魅了し、60歳を過ぎても現役DJとして活動しているケイさんに、これまでの人生を振り返り、仕事に懸ける思いを全4回にわたって語っていただく。第1回はDJになった経緯やラジオ番組づくりに対する思いなどについて語っていただいた。
プロフィール
ケイ グラント(けい ぐらんと)
1959年、東京都生まれ。1979年、プロの水泳コーチを目指しアメリカ留学。1982年、帰国後、水泳コーチに。ボティビルトレーナーとして活動していた1988年、開局したJ-WAVEでDJとしてデビュー。その後NACK5やFM東京、FM横浜など様々な局でDJを経験。テレビでも日本レコード大賞・バラエティ番組・CMのナレーションなどを担当。2000年からはPRIDEやDREAMなどの格闘技イベントのリングアナとして大会を盛り上げた。2010年には歌手としてもデビュー。現在もbayfm78の「低音レディオ」のDJとして活躍中。
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気がついたら30年が経っていた
──昨年の秋には芸能生活30周年を、今年の1月に還暦を迎えられました。おめでとうございます。率直な感想を聞かせてください。
実は気がついた時にはすでに30年前にDJデビューした日が過ぎてたんですよ(笑)。率直な感想としては、30年経ったかあという感じですね。振り返れば、30年間の半分はDJ、もう半分は格闘技に携わった仕事人生でした。そのどちらもやりがいのある、素晴らしい仕事でした。
──あっという間という感じですか?
そういうわけでもなくて、やっぱり30年もやってればいろんなことがありますよ。いい時もあれば悪い時もあった。例えばラジオDJとしてデビューした当時はバブル期だったので毎日がお祭り騒ぎみたいな感じでした。一方で、リーマンショックの時はエンターテイメントや広告的なものにチャンスがなくなったし、東日本大震災の時はテレビやラジオのCMが全部ACになったり、予定されていたいろんな仕事が中止になった。こうなると僕らはダルマですよね。手も足も出なかった。だから山あり谷ありの30年で、楽しいことだけじゃなくて、厳しいことも経験することで人っていうのは強くなるなという感じですよね。今は山じゃないですが、日々頑張ってます。
──現在の仕事の状況について教えてください。
ラジオは、bayfm78の「低音レディオ」(毎週土曜20:00~21:57)とインターネットラジオの練馬放送の「The Radio GrantHeights」(毎週土曜23:00~0:00)のDJをしています。J-WAVEから始まったDJとしてのキャリアは大阪(FM802)、横浜(FM横浜)、埼玉(NACK5)、半蔵門(FM東京)へと続き、2003年に僕のDJとしてのキャリアはいったん終止符を打ちました。それから16年の時を経て自分がbayfm78の土曜日夜8時の番組を担当させていただいていることに心から感謝しています。その他、スポットでテレビ番組やCMのナレーションをしたり、時折、企業イベントや結婚式の披露宴の司会などをすることもあります。
僕のキャリアのメインはラジオ番組のDJですが、そもそもDJになったのも、自分でなりたかったわけじゃなくて本当に偶然というか縁ですからね。30年前のある日、あるご縁で突然DJになったんです。それまではバーベルとかダンベルが仕事道具だったんですよ。ボディビルのインストラクターをやっていたので。その前は水泳のコーチをやってましたしね。まさか自分が芸能の世界に入るとも、しかも、60歳になるまでDJを続けられているとも夢にも思っていませんでした。
カフェで突然開けたDJへの道
──DJを始める前は全く関係のない仕事をしていたのですね。DJになったきっかけは?
ある日、行きつけの練馬のカフェで友だちと話してた時、たまたま隣に座ってた人が「キミ、日本人?」って聞いてきたんですよ。たぶん英語で何か喋っていたのを聞いたのだと思うんですが、「はい、そうです」って答えたら、「これからJ-WAVEっていう新しいラジオ局がスタートするんだけど、DJやらないか?」と言われたんです。そりゃびっくりしましたよ。一応「そのDJの仕事って1回やったらいくらもらえるんですか?」と聞いたら、「君はまだ駆け出しだから5万円くらいかな」と。その時、修行先のフィットネスジムの月給が9万円だったんです。しかも労働時間14時間で。もちろん「やります!」と即答しました(笑)。
それで1988年、29歳の時、開局したJ-WAVEで深夜番組「Still Life」のDJとしてデビューしたわけです。今でいえば深夜に放送してる「J’sセレクション」みたいな番組ですね。当時の芸名は「SUPER MASA」でした。
──カフェでスカウトされたんですね! もしその時そのカフェでその人が隣に座ってなかったら、DJケイ グラントは生まれていないかもしれないわけですね。
声を掛けてくれた人はそのカフェでも有名なジャズメンで、まともに話したことはなかったのですが店で顔は合わせていたので、遅かれ早かれ声は掛けられていたかもしれません。でも僕も修行先のジムに通うために埼玉に引っ越していたのでその店に昔ほどは通わなくなって、たまにしか行かなくなっていました。だから確かにタイミングが合わなければ、DJデビューしていなかったかもしれませんね。
──まさに運命を変えた出会いですね。それまではDJをやりたいと思ったことはなかったのですか?
一切思ってなかったです。ただ、よく小林克也さんの英語でのトークのものまねはしてました。「ベストヒットUSA」とか「ブリジストン・サウンド・ハイウェイ」って喋るとみんなからうまいな~ってほめられてました(笑)。でもまさかスカウトされるとは思ってなかったです。
──なぜDJ未経験のケイさんに白羽の矢が立ったのでしょうか。
J-WAVEのプロデューサーは、「これまでのラジオの概念を打ち破る、新しいスタイルの番組を作るから、新鮮な人材がほしい」と言っていました。だからDJ未経験の人間ばかりがDJになったんです。僕もその中の1人だった。もちろん、本場仕込みの英語力も大きかったと思いますけどね。
選ばれし者の恍惚と不安
──未経験なのに、いきなりよくDJなんてできましたね。実際にJ-WAVEのDJをやってみてどうでしたか?
DJやってねと言われてから最初の収録までの恐怖たるや言葉では言い表せませんよ。何にもわからないので、何をどうしたらいいんだろうとずっと怯えていました。最初の頃は何回もNGが出て、喋り直しをさせられました。でもその一方でものすごい喜びと興奮も感じました。これまで日本に純粋に音楽を楽しむ、レス・トーク、モア・ミュージックというレイディオ・ステーションはなかったので、こんなにいい局が日本に生まれたんだと感動すると同時に、そこにオープニングメンバーの1人として足を踏み入れることができたわけですからね。あとね、ナビゲーターたちが主催するパーティーもいっぱいあったわけ。ジョン・カビラさんなんかもいいパーティーをいっぱいやってくれたりして、自分がその中の一員でいられることもとってもうれしかったね。
▲2010年12月にはクリス・ペプラーさんの番組「SAPPORO BEERオトアジト」に出演。「J-WAVEの開局メンバーの番組にゲストでシンガーとして呼ばれるなんて、夢のようでした」(ケイさん)
──アナウンサーやナレーターになるための学校などには通わなかったんですか?
いやいや、今でこそたくさんありますが、当時はそんな学校自体がないですから。僕もクリス・ペプラーさんもカビラさんもみんなアナウンス教育は受けてないと思いますよ。ちなみに、今、僕らを教材にした学校はたくさんあるようです(笑)。
先生はFENだった
──ではDJとしての技術はどうやって勉強したんですか?
先生はFEN(Far East Network・極東放送網。現在のAFN、American Forces Network・米軍放送網)でしたね。子どもの頃から何を喋っているか意味はわからないけど、雰囲気がいいからずっと聞いてたんですよ。それが3年のアメリカ留学から帰ってきたら、びっくりするくらい全部わかるわけですよ。DJになってからは、FENのDJが使うワードやコンテンツを何とか自分の中に取り込んで使いこなせれば、いい番組を作れるんじゃないかと思って必死に聞いてました。ちなみにこれって今でも生きていて、今僕がDJを担当しているbayfm78の「低音レディオ」も、ほとんどがFENからのインスパイアですね。例えばジングル(※ラジオ番組などでコマーシャルの開始や終了、楽曲・コーナーの切り替わりなど、番組の節目に挿入される短い音楽などの総称。通常はサウンドデザイナーや作曲家により製作される )は僕が作っているんですが、リスナーからのリクエスト曲のジングルは過去のアーティストの曲を使って最も合うものを作ります。それは誰の何という曲かが物理的にわかってないと再現できません。これは他の人にはできない芸当なので、その辺が僕の強いところだと思います。ジジイのずるいところですよね(笑)。
あとは、当時のディレクターに鍛えられたのも大きかったですね。今、名古屋のzip-FMの看板DJをやってるデイルなんですが、23歳で僕にキューを振ってたんですよ。その後、彼自身もDJになるとは思わなかったですが(笑)。彼も帰国子女でバイリンガルだったので、僕への指示・ダメ出しは英語が多かった。その指示がすごく的確で、鍛えられたんです。
でもJ-WAVEはスクリプト(台本)があったからまだよかったんですよ。読んでダメだったら何回もやればよかったから。翌1989年に開局した大阪のFM802で「OSAKAN HOT 100」のDJをやった時はすごくキツかったですね。台本なんてなくてディレクターから「○秒で歌出ますから」それしか言われない。その間、その場で自分が考えたワードで繋がなきゃいけない。だから最初の半年くらいはほぼダメダメDJだったですね。でもそれ以降はやっとリズムがつかめたし、ディレクターも「○秒間でこの内容を話せばいいよ」という簡単な台本のようなものを用意してくれたのでだいぶ形になりました。それでどんどん調子を上げてって、2年くらい経った頃が一番絶好調でした。だって最初の聴取率がおかしかった。6.8%取ったんですよ。テレビの視聴率でいう70%くらい。ありえない数字ですよ。でもその2年後に降板したんです。
ラジオ界を代表する人気DJの1人に
──そんなに好調だったのになぜですか?
体調を壊しちゃって。日曜日の番組なんですが、土曜日にスタジオに入って1回台本に目を通して、その後酒場に出かけて翌朝の8時くらいまで飲んでいたんですよ。その後ホテルでシャワーを浴びてスタジオに入って番組をやるわけです。そんなことずっとやったら誰だって倒れるよね(笑)。でもその時の、デイルと一緒にいろんなところに飲みに行きまくったり、いろんなことをして遊んだ経験から得たものは大きいですね。局に行って仕事だけして帰っていたような人間には得られなかったような貴重なものをたくさん得られました。例えば大阪の人々の人情や大阪におけるFM802の影響力などを土曜の夜から日曜の朝にかけてすごく肌で感じることができました。自分を鼓舞させるためにはとてもいい経験でしたね。デビューして5年後くらいに結婚したんですが、その頃はイケイケだから、車はロールスロイスとフェラーリ、バイクはハーレー。絶好調でしたね。
その後、DJとしてFM横浜やNACK5、FM東京でも長年に渡っていろんな番組を担当させていただきました。DJとしては2003年にいったん終止符を打つわけですが、ラジオが一番盛り上がっていたバブル期以降も15年に渡ってDJができたのはすごく幸せなことですよね。
13年ぶりのDJ復帰も偶然
──DJとしては2003年にいったん終止符を打ち、13年後の2016年からDJとして復帰したということですが、復帰のきっかけは?
僕はEXILEのHIROとはZOOの時からの友達で、2015年、彼らオリジナルメンバーが抜けるというので最後のライブを観に行ったんです。ライブ会場に早めに着いたから、小腹を満たそうと思って近くにあった鮨屋に入ってカウンターに座ってふと隣を見ると、bayfm78の編成局長兼取締役のAさんだったんですよ。「Aさん、どうも」って挨拶したら「お~ケイ グラントじゃねえか」と。いろいろ話している中で「あんたくらい業界で嫌われている人はいませんよね」って言ったら、「そんなこと俺に面と向かって言えるのは誰もいないよ」と言うから「いや、俺は言いますよ」って。そしたら「おもしれえじゃねえか。じゃあうちで番組やれよ」って感じで実現したんです。
──それもまたすごい偶然から始まったんですね。というか普通はそれだけ本人に面と向かって悪口を言ったら「うちで番組やれ」とはならないと思うんですが(笑)。もしその日、EXILEのライブを観に行って、鮨屋に行って、その席が空いていなかったら13年ぶりのDJ復帰はなかったかもしれない?
そうですね。今もbayfm78でDJはやってないでしょうね。
──やっぱりまたDJをやれるってことはうれしいんですよね。
そりゃうれしいですよ。DJは僕のキャリアの始まりだし、大好きな仕事ですからね。
▲bayfm78の「低音レディオ」のオンエア前、スタッフと一緒に
──13年ぶりのDJ。16年ぶりの生放送は緊張しましたか?
全然しないです。どれだけ時間が経っていても、マイクを前にしたらすっとバリバリDJをやっていた頃に気持ちが戻りました。
──どんな気持ちで臨んだのですか?
やるからには今のFM業界に活を入れるという意味も込めて、本当にリスナーにとっていい番組を作りたいというのが最初の「低音レディオ」のコンセプトです。だから先ほどもちょっと話しましたが、ジングルなども局が用意したものは一切使わず、全部自分で作ったものを使ってるんです。あと、ディレクターも社内の人間じゃなくて、僕が尊敬する原田というフリーのディレクターを連れてきたんです。原田を入れないならやらないと。
こういうことをすると普通、局側はイラッとするのですが、「これでリスナーが認めてくれなかったらあきらめる。その審判はリスナーに委ねようよ」と局側に掛け合ったわけです。おかげさまで放送開始から今までの3年間、このスタイルで続いているので、結果オーライだったんじゃないでしょうか。
──そこまでするってことは相当気合いが入ってるってことですよね。
そりゃ入ってますよ。もしかしたらDJとして最後の仕事になるかもしれないんだから。自分のすべてを懸けて臨むのは当然です。あと、やっぱり僕は常に小林克也さんの背中を追いかけてここまで来ましたから。克也さんに聞かれて恥ずかしくない番組を作りたいという思いが強いんです。
▲師と仰ぐ小林克也さんと(2011年4月に行われた小林克也さん古稀祝賀パーティーにて)
目指す理想のラジオ番組
──ケイさんが目指す理想のラジオ番組とはどういうものですか?
僕がDJをガッツリやってた頃はFMの第2次隆盛期なんですが、日本のラジオの歴史を紐解くと、黎明期は東京FMがぽつんとできて、政治家が持ってきたクラシックの名盤を流していた程度だった。それからジェットストリームを中心にいい番組が増えていって、表現者たちが東京FMに集中するようになった。そのうちアンチが出てきて、彼らがJ-WAVEを作り、東京FMの枠に縛られてたらできなかったことを実現した。つまり、レストーク・モアミュージック。すべてが新しく、情報的なものも交えながら、おしゃれなひと時を演出する。そう、この“おしゃれ”というのが最大のキーワードなんですよ。聞いてる人が一瞬で非日常を感じますよね。ちょっとマンネリ化している自分の日常の中に、おしゃれなエッセンスがいくつか入ることによって、人々の心の中に潜んでいる人生をエンジョイするというか自分を彩るといった部分が出てくる。
このような状況を生み出していたのが黎明期のJ-WAVEで、これこそがラジオの理想形だと思っているんです。僕はこの時にDJとして関われたというのが非常にうれしくて、この時のラジオを、今の少し荒んでしまった世の中に少しでも再現したいと思っているわけです。
──では具体的にbayfm78のDJという仕事にどのような思いで臨んでいるんですか?
ラジオは人々の生活のお供として存在するメディアなので、聞いている人たちが心地よくなるように。これしか考えてないです。人の悪口を言って笑うような番組には絶対にしたくない。そんな番組は聞いていてふざけんなって思います。FMという高出力の電波を使ってそんな下世話な話や、ゲストにアイドルを呼んで初めて目玉焼きを作った話を流してもしょうがない。だからすべてのラジオ局はもう一度番組の作り方を見直して、もっと一般の人たちの生活に根ざした番組を作るべきだと思うんですよ。具体的には、NHKの「ラジオ深夜便」は抜群にいいですね。喋りのプロが聞いてる人に心地よさを与え、誰も不幸にならない。僕がbayfm78のDJとして目指しているのはまさにそこ。今のラジオ業界を変えたいと思いながらやってます。
練馬区への恩返しで始めた練馬放送
──練馬放送とはどんな局なのですか?
練馬放送は練馬に「コミュニティFM」としての開局を目指して活動している社団法人が運営しているインターネットラジオです。コミュニティFMとは、放送が聴こえる範囲が概ね1つの区市町村単位に限られているので、TOKYO-FMやJ-WAVEなどの既存のラジオ局と比べて規模が小さいものの、地域や人々の生活に密着した情報を発信することを目的に、1992年に法制度化された新しいラジオ局です。
──DJを始めたきっかけは?
これはね、ヒドいんですよ(笑)。うちの妻の鶴の一声で始まったんです。「あんたね、練馬に生まれ育って今まで練馬区にどんだけお世話になってると思ってるの?グラント(※グラントハイツ。1947年から1973年まで東京都練馬区に存在した、アメリカ空軍の軍人とその家族が住んでいた地区。現在は光が丘公園と団地がある一帯。ケイさんの少年時代の遊び場だった。詳細は第2回で公開)とまで名乗っててなんで練馬区に貢献しないのよ。貢献するなら今でしょ」と。だからもちろんギャラなんていただいてないです。2014年から始めたのでもう5年目に入りました。
──どういう思いで取り組んでいるのですか?
ラジオは災害で停電しても乾電池があれば聞けるので、コミュニティFMになれば、災害発生時に緊急かつ有益な情報を流せるので区民の人々の役に立ちます。例えば番組で練馬区長のインタビューも2回ほどしてるんですが、何とかしてこのような災害メディアとして確立させたいという思いが強かったからです。ところがどっこい、コミュニティFMになるまでの壁は3つも4つもあってかなり難しい。でも例えば葛飾区にはコミュニティFMがあるので、遊びに行くと居酒屋でも商店街でも放送が流れてるんですよね。それが理想の形。練馬区もこうしたいなというのが一番強い思いです。
今はまだインターネットラジオなんですが、その割には毎回サーバーがぶっ飛ぶほどのメールやアクセスが来るんです。これはケイ グラント効果だとしたらうれしいですよね。でも最近妻が「そろそろ辞めてもいいんじゃない? ノーギャラで1週間のうち1日取られるから」って言い始めた(笑)。そもそもお前がタダでやれって言ったんだろって。もちろん僕は練馬放送をコミュニティFMにするまで辞めるつもりはありません。それが僕の使命ですから。それが実現できたら僕のDJとしての役目も終わるでしょうね。
▲コミュニティFMを目指す練馬放送「The Radio GrantHeights」のスタッフと一緒に
リスナーからのメールに涙
──DJの仕事の喜びは?
ラジオ番組は双方向なので、リスナーからメールやツイートなどで激励や称賛のコメントが来ることが一番の喜びですね。
──リスナーからのコメントで忘れられないものは?
bayfm78の「低音レディオ」が始まってすぐ、熊本地震が起こりました。その時、「僕は東日本大震災の時にDJをやりながらすごい無力さを感じたんだ」という話をしたら、被災した皆さんから「あの時は勇気をもらったし、ラジオには大変お世話になった」というメールをたくさんいただいたんです。そういうのを読んでると僕も感極まって泣けてきちゃってね。その時に思いましたね。ラジオにはラジオにしか担えない役割があると。それが非常に印象的です。
ちなみに泣けてきて途中で読めなくなった時はディレクターの原田に「伝える人間は泣いちゃダメなんだよ。伝えて、後で受け止めればいいじゃないか。泣かずに読める練習もしなさいよ」とダメ出しされました。確かにその通りなんですが、そういうメールが来た時に泣かずに読むというのはものすごく難しいんですよね。でも、その後は何とか泣かずに読もうと努力しました。
還暦を過ぎた現在でもDJという仕事に魂を込めて取り組むケイさん。次回は現在の「ケイ グラント」という芸名の元となった幼少期の思い出や水泳コーチを目指してアメリカ留学を決意するまでの経緯について語っていただきます。こうご期待。