好きな日に働き、好きな日に休む。嫌いな作業は“やってはいけない”──「小さなエビ工場」に大逆転をもたらした“会社のルール”とは(第1回)

「働きたい日に、働きたい時間だけ働く」「何時に出勤、退勤してもOK」「無断欠勤OK。事前連絡はしてはいけない」「嫌いな作業をやるのも禁止」──これは夢の国の会社の社則ではない。現実世界に存在する会社のルールである。その会社の名は「株式会社パプアニューギニア海産」。大阪にある水産加工会社である。なぜこれほどまでに自由すぎるルールにしたのか。これで本当に会社が回るのか。その結果会社はどうなったのか。この奇跡のルールを導入した工場長の武藤北斗氏に話を聞いた。

プロフィール

武藤 北斗(むとう・ほくと)

1975年、福岡県北九州市生まれ。水産加工会社「パプアニューギニア海産」工場長。芝浦工業大学金属工学科を卒業後、築地市場の荷受け業務を経て、父親が経営するパプアニューギニア海産に就職。2011年の東日本大震災で石巻にあった会社が津波により流され、福島第一原発事故の影響もあり、1週間の自宅避難生活を経て大阪へ移住。現在は大阪府茨木市の中央卸売市場内で会社の再建中。好きな時に働ける「フリースケジュール制」や「嫌いな作業はやってはいけない」などの独自の社内ルールを導入。2016年、武藤さんが朝日新聞に投書した自社の働き方に関する記事が掲載されるとtwitterで大きな話題となり注目される。著書に『生きる職場 小さなエビ工場の人を縛らない働き方』(イースト・プレス)がある。3児の父。

「働きたい日に、働きたい時間だけ働ける」フリースケジュール制とは

▲工場でエビの皮むきをするパートさんたち

──まずは「パプアニューギニア海産」について教えてください。

南太平洋のパプアニューギニアで獲れた天然エビでむきエビやエビフライなどのお惣菜を作って、オーガニックショップやスーパーなどの小売店やレストランなどの飲食店へ卸販売している会社です。その他に自社ショップやECサイトでも販売しています。

現在は代表取締役1名、社員は私を含む2名、パート16名の総勢19名。営業時間は月~金曜日の8時30分から17時まで。土日祝日はお休みです。工場でのエビの加工作業は主にパートさんに頼っていて、僕は工場長を務めています。

──武藤さんが導入して大きな話題となった「フリースケジュール制」について詳しく教えてください。

パートさん限定で「出勤日も休みも、出勤・退勤時間も自由」「遅刻・欠勤などの事前連絡はしてはいけない」というものです。つまり、会社への連絡なしで、働きたい日に、働きたい時間だけ働けるということです。ですので、当日欠勤、遅刻、早退、残業という概念がありません。毎日パートさんが好きな時間に出勤して来て、好きな時間に帰っています。ただ、帰る時間だけは、出勤した時にホワイトボードに申告します。

──毎日誰が何人出社するかわからないということですよね。それで会社としては本当に困らないんですか? 例えば誰も出勤しない日があるとか。

このフリースケジュール制を導入して5年経ちますが、特に困ったことはないですね。でもまだ従業員が9人の時に誰も来ない日が1日だけありましたが、その日は工場を休みにして社員が事務作業や配送作業をやったので全く問題ありませんでした。

──その日に出勤したパートの人数によって会社側が作業内容を変えるというのも普通はありえないですよね。

そもそも僕らがその日にどういう商品を作るかというのは、パプアニューギニアから届いた冷凍天然エビを解凍して鮮度やサイズのバラツキ等を確認しながら決めるんですよ。それが習慣づいているから、出勤人数で業務内容を変えるのもそんなに苦じゃない、つまり出社した人数はあまり重要じゃないんです。

自由にしても「パートが来ない」なんてことは起きない

──なるほど。しかし通常の工場の場合、例えば今月はこれだけの量のエビフライを作らなきゃいけないから、最低これだけのパートさんが必要というのを計算してシフトを組みますよね。そういうことを一切しないで年間を通して必要な生産量を確保できるのですか? 繁忙期などに困ることはないのですか?

これまで欠品は一度もないですね。まず基本として知ってほしいのは、自由にしたからと言って、パート従業員が働きに来ないなんてことは起きないんです。1日では出勤人数の差は出てきますが、1週間、1か月と期間を拡げて考えれば以前と変わりはありません。それはこの5年が証明しています。

繁忙期に関しても、確かに毎年11月、12月は注文が殺到して忙しいのですが、それをパートさんたちもわかってるから、いつもより多めに出勤してくれるんです。数割の生産量アップは従業員のできる範囲の協力で足りちゃうんですよ。

──会社が来てほしい時には黙っていてもパートさんがたくさん出勤してくれるということですか?

いえ、11、12月は忙しいからなるべく出勤してほしいと、はっきりパートさんに伝えます。そうすればできる範囲で多めに出勤してくれます。それもあくまでお願いで強制ではありません。

──フリースケジュール制に関するパートさんの感想は?

僕はそういうことをパートさんたちに直接は聞きません。僕が「フリースケジュール、どう?」って聞いたって「めっちゃいいです! ありがとうございます」と答えるに決まってるじゃないですか。わざわざそういうことをする嫌なやつにはなりたくないので(笑)。ただ、当社を取材して放送してくれたテレビ番組を観ると、パートさんたちは「働きたい日に働きたいだけ働けるのは家庭をもつ母としてはうれしい」「子どもの急な発熱や突発的な家庭の事情でも会社に連絡なしで気兼ねなく当日休めるのは助かる」「夫や子どもとの時間を優先できる生活になったので働きやすい」などと答えているので概ね好評みたいです(笑)。

パートさんたちの満足度も高いようだ(写真提供:パプアニューギニア海産)

フリースケジュール制は、正直「メリット」しかない

──フリースケジュール制導入後のメリット・デメリットを教えてください。

結論から言うとメリットしかないですね。工場長としては、パートさんたちのシフトを考える必要がないのでその分時間と労力がカットできたし、パートさんの当日欠勤でイライラすることもなくなりました。最大のメリットは導入してからあきらかに職場の雰囲気がよくなったこと。これにより、自分らしくストレスなく働けるから、仕事に集中できるし、仕事の効率も上がるし、それが品質や作業効率の向上に繋がりました。

また、働きやすい職場なので辞める人が減って、採用コストも下がりました。この5年は求人費用がかかっていません。新人が入ってこないので新人研修のコストも不要です。これらによって、最終的に会社の業績が上がりました。

でも最初から業績アップを見込んでフリースケジュール制を導入したわけではないんです。

「従業員=取り替えの利く部品」だと思っていた石巻時代

──ではなぜフリースケジュール制を導入したのですか?

最大のきっかけとなったのは2011年3月11日に発生した東日本大震災です。この震災がなければフリースケジュール制は導入していないでしょう。震災前は宮城県石巻市で7年間、現在と同じエビの水産加工業を営んでいました。当時は今よりも工場の規模も大きく、パートさんもたくさんいて、さらにエビの取扱量や商品数を増やして、利益を上げて会社を大きくしたいと思っていました。そのためにはもっと工場をシステム化して、パートさんもガチガチに管理しなければと考えていました。実際に当時は今よりは比べ物にならないほど勤怠も厳しく管理していました。工場に監視カメラをつけていたほどです。といっても実際にはパートさんたちがサボってないか四六時中監視しているわけではなくて、単に会社はいつも見ているぞという威圧感を与えるためだったんですけどね。でもそういう思考回路になっていたということはパートさんをガチガチに管理しようとしていたということで、経営側としてはそれが普通だと思ってました。今振り返るとそれが恐いなと思います。

──当時はパートさんの話を聞くということもしていなかったのですか?

面談のようなものはちょっとやっていたんですが、ポーズに近かったかな。パートさんから要望や意見を聞いても対応するわけではないし、単にいい顔をしたいというような感じでした。適当にパートさんたちの不満を聞いておけばうっぷん晴らしになるだろうと。今考えると超嫌なやつでしたね。

また、当時は派遣会社も利用してたんですよ。一番のメリットとして考えていたのは、すぐに契約を解除できるということ。正規雇用の場合は何かあっても辞めさせるのは難しいじゃないですか。でも派遣会社の場合はそれがすぐできるので、僕の中で、どんどん「従業員=取り替えのきく部品」のような感覚になっていっちゃったですよ。実際にちょっと問題がある人はすぐ切ってどんどん替えてました。

──今と真逆ですね。

今振り返ると、人として間違っているし、会社としても本当に非効率的でバカなことをやってたなと思いますね。

なぜ生き残ったのか…東日本大震災で「死生観」が変わった

──そういう考え方がなぜ震災をきっかけとしてガラッと変わったのですか?

一番大きかったのは死生観が変わったことです。それまでは年齢的にも自分が死ぬとか身の回りの友人が死ぬということに関してはほとんど実感がもてなかったのですが、震災では多くの友人・知人が亡くなりました。それを目の当たりにしたことで、人間はやっぱり死ぬんだと改めて実感したんです。同時に、なぜ僕は生き残ったのかなとか、生き残ったのならば死ぬまでどう生きるべきなのかなとか、何のために生きるのかなとか、そういうことを考えるようになって。

というのも、あの震災で僕自身、死んでいても全然おかしくなかったんですよ。あの日、連日の激務で疲れが溜まりすぎていたので、通っている仙台の整体に行こうと思い午前中に連絡しました。すると14時50分からなら診てもらえるということだったので、その時間に到着するように会社を出ました。ご存知の通り、地震が発生したのは14時46分です。その40分後、会社は石巻港の近くにあったので、襲ってきた津波によって社屋や機械など全部流されました。社長である父は会社の屋根に登って助かったのですが、もし僕が普段通り会社にいたら、父と一緒に自宅に帰っていると思うので死んでる可能性が高いんです。

このことで「死」というものを強烈に意識したんです。ただ、死ぬこと自体に対する恐怖というよりも、「死」を前向きに捉え始めたというか、いつか終わりは来るならその時をどういうふうにして迎えるかが大事だなと。終わりの迎え方を考えながら日々生きていけば間違いはないような気がしたんですよね。つまり、死ぬ瞬間に後悔しない生き方をしたいと痛切に思ったということです。そう考える中で、死んでもおかしくなかった状況の中で運良く生き残ったからには、何か人のためになるようなことをしなきゃいけないなと思ったわけです。まずそれが根本にありました。

もう1つは会社の再建に伴う思いです。社屋や工場は津波で失いましたが、できれば宮城で会社を再建したかった。でも福島第一原発の爆発でその考えはなくなりました。一番大切だったのは、妻や子どもの安全。それに僕は元々原発には反対で、事故後も政府の言ってることが信用できなかったので、一刻も早く東北を離れようと決断したんです。

──やはり石巻を離れることに対して罪悪感や葛藤はありましたか?

正直に言えば、当時は全然なかったです。それよりも原発から離れることの方が僕にとってはすごく重要だったので。罪悪感にさいなまれるのはもっと後になってからですね……。

「従業員に嫌われている会社」を何とかしなければ。大阪で再起を図る

それで2011年6月に取り引き先の方のご縁もあり、大阪で再起を図ることにしたんです。移転前は社長以外に社員は3人、パートさんが25人ほどいたのですが、移転後はその半分の規模になりました。また、大阪で新たに工場を借りなければならないので二重債務になり、1億4000万の借金を抱えたスタートになってしまいました。

当社はそもそもパプアニューギニアの人たちの自立を目的として設立された、国際貢献の意味合いが強い会社です。大阪でもう一回頑張ろうと思った時、その会社としての理念や在り方、今までやってきたことを改めて考えて、この会社を続けなければならないと改めて決意しました。しかし、大阪に移転してからしばらくは、職場の雰囲気は最悪でした。ドアを開けて工場の中に一歩足を踏み入れた瞬間、何も喋れないくらいの険悪な空気が充満しているというような感じだったし、パートさんたちが休憩している場所に入るのもすごく嫌でした。

なので、会社は存続させていかなければならないけれど、一方でここまで従業員に嫌われている会社を続けていく意味はあるのかとか、続けていくならこの職場の雰囲気を何とかよくしなきゃと思っていたんです。ただ、変えるためにいろいろなことを考えてはいたのですが、当時、僕は工場内のことは工場長に任せていました。現場のルールを作って仕切るべきは現場の責任者である工場長だと思っていたので、あんまり僕が口出ししちゃいけないという気持ちがあったんですよ。それでずっと悶々としていました。

でも大阪に移転してから2年経った頃、石巻からついて来てくれた工場長が辞めることになったんです。「この人まで辞めちゃうんだ。そういう会社なんだよな」と悲しい気持ちになったのと同時に、これで自分が工場に入って改革するしかないと腹をくくったんです。 

──差し当たってどんなことから始めたのですか?

まず、パートさんたちの話を徹底的に聞きました。その結果、職場の雰囲気が最悪だった理由がわかりました。パートさんたちは職場に愛情の欠片もなく、むしろ嫌っていて、お金のためにしょうがなく働いているみたいな感じでした。その原因はパートさんたちの人間関係がぐちゃぐちゃだったこと。派閥ができて、その派閥同士で憎しみ合っていました。それだけならまだいいのですが、会社への嫌悪感もプラスされていたのでまさに最悪でした。そうなった理由は、パートさん同士憎しみ合ってるという状況に対して、僕ら経営側が何の対応策も取らなかったからです。でも当時、僕らはそれが当たり前だと思っていました。3人いれば派閥もできるし、工場なんてそんなもんでしょと。

それに、当時の僕はあえてパートさんから嫌われるような役割を担うのが経営者の仕事だと思っていたんです。そうすることで工場長が悪者にならないし、パートさんたちが一致団結するかなと。でも実際は一致団結なんてしてないですからね。今考えれば職場がグチャグチャなのに何を考えてたんだと。要するに逃げですよね。自分の逃げの口実としてそういう発想をもっていただけで、僕は自分で悪いことをしてるなと思っている時でさえも、ちょっと理由をつけたがる性格なんですよ。こういう諸々のことが僕や会社への不満や憎しみにつながっていたんじゃないかなと思います。

だからせめてパートさんたちに会社のことを好きにならないまでも嫌いにはなってもらいたくない、今と違う形でパートさんに気持ちよく働いてもらいたい、そして、僕らがいろんな理念をもって経営してきた会社をみんなで続けていける会社にしようと決意しました。そのためのはじめの一歩としてフリースケジュールを思いついたわけです。

「半分やけくそ」でフリースケジュール制を導入

──「パートさんに気持ちよく働いてもらいたい」という思いから、なぜフリースケジュール制が浮かんだのでしょうか。

僕はパートさんと社員を明確に分けて考えるんですが、パートさんは自分の意思で社員よりもお給料の低い、時給で働くパートという働き方を選んでるわけですよね。その理由は社員としてフルタイムで働ける生活を送っていないから。当時のパートさんはお子さんをもつお母さんが多かったので、彼女たちが一番喜ぶ働き方は何だろうと考えた時、たぶん「好きな時に働ける」より「好きな時に休める」だよなと。それを目指せば会社を好きになってくれるだろうと考えたわけです。

また、僕の妻のことも考えました。幼い子どもをもつ妻がどこかの会社でパートで働く時に、どういう働き方ならうちの家庭にとってメリットがあるかなと。子どもが急な熱を出した時や子ども関係の突発的な用事が発生した際、気兼ねなく仕事を休んだり、遅刻したり早退したりしやすい会社だといいなと。それでフリースケジュール制を導入することにしたんです。

──フリースケジュール制を導入する時の心境は?

フリースケジュール制を導入して職場の雰囲気がよくならなかったら、そんな会社なんて潰れてもいいというくらいの気持ちでした。震災からそんなに時間が経っていなかったので、自分の中で何かおかしいというか、半分やけくそみたいな感じももちながら、フリースケジュール制をやり始めたんです。

──何かおかしいというのは具体的にはどういう思いなのですか?

先ほどもお話した通り、原発事故発生当時は全然感じていなかったのですが、時間が経つにつれ、石巻から大阪に避難・移転したことに対する罪悪感がどんどん強くなっていったんです。地元を捨てた男とか、いろんなことを言われて石巻から避難して来た負い目のようなものとか、石巻時代の従業員は解雇したのでその申し訳なさとか、いろんな負の感情が渦巻いていた。だから、将来は何か人のためになるようなこととか、宮城や日本の未来のためになることをやらなきゃいけないというようなことを漠然と考えていました。

そのためにはまずは自分の足元のことからやっていかなければという気持ちが強かった。会社の二代目で現場の決定権は僕にあるわけなので、まず自分が一番できることは会社のことだよなと。それで取りあえず働き方を変えて、パートさんたちがせめて憎しみ合わないような職場を作りたい。それすらできないのであれば潰れてもしょうがないと思ったわけです。

 

東日本大震災をきっかけにフリースケジュール制の導入を決意した武藤さん。しかし最初に発表した時、パートさんたちの反応は冷たいものでした。それどころか辞めていったパートさんも──次回はフリースケジュール制を導入したことで起こった思いもよらない出来事や、「嫌いな作業はしてはいけない」という新たなルールについて語っていただきます。乞う、ご期待!

文:山下久猛  撮影:山本仁志(フォトスタジオヒラオカ)

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