【聖徳太子の命で創業】世界最古の会社・金剛組の倒産危機を救った国宝級の匠技となにわ節

「灯台もとくらし」ということわざがある。日本のグローバル化が遅れていると言われる今、日本にしかない誇り高い企業文化があることを、私たちは忘れてはいないだろうか。その象徴ともいえるのが、創業100年以上となる長寿企業の多さだろう。日本には創業100年以上となる企業が約2万8000社あるが、創業1000年を超える長寿企業は現在7社。世界に類を見ない長寿企業国家なのだ。

 自然災害、飢饉、戦争などをも乗り越えて、脈々と1000年以上も続く企業は、どのように逆境を乗り越えてきたのだろうか。世界最古の長寿企業、創業1436年を誇る金剛組の取締役社長、刀根健一氏に話を聞いた。

金剛組 取締役社長 刀根健一氏

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(プロフィール)1954年生まれ。73年髙松建設入社、2001年同社取締役。04年青木あすなろ建設常務執行役員大阪建築本店長、05年青木マリーン取締役。11年金剛組専務執行役員を経て、12年同社代表取締役社長に就任。

■エピローグ:金剛組を潰すのは、日本の建築技術を潰すのと同じ

 西暦578年から大阪・四天王寺のお抱え宮大工として、脈々と続いた金剛組。2005年秋、この1427年続いた企業が倒産の危機を迎えていた。その頃、同じ大阪の松建設株式会社(現髙松コンストラクショングループ)の会長、松孝育氏は、共通の取引先であった銀行から金剛組の経営危機に関する噂を聞いて、堺市にある金剛組・美原加工センターまで足を伸ばす。宮大工たちの技巧をじかに目にして戻ってきた会長は、取締役を集めてこう告げた。

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「金剛組を潰したら大阪の恥や。古いものは一度なくなってしまうと二度と元に戻すことはできない。そうなれば長い年月、積み重ねてきた人の努力も技術もなくなってしまう。商人の街、大阪の上場企業として、それを見逃すようなことはできない」

「一般の建築屋だったら、支援はしていないでしょう。世界最高の社寺建築屋で、国宝級の技術があったからこそ、支援が決まりました」と刀根氏。

「それまでの松建設と金剛組との接点といえば、取引している銀行が同じだったことくらいです。最後に副社長がいろいろ調査するために乗り込んだ時は、瀕死の重症状態だったと聞いています。普通、M&Aをするとなると、利益目的になるはずなんですよ。会長は『金剛組を潰したら、大阪の恥や』以外、言わないし、私らもそれ以上は詳しく聞いていません。金剛組の宮大工の技を『国宝級や』と感動して、それを残したいと思った。金剛組への全額出資を決めたのは、義理と人情、“ほんまのなにわ節”です」

 支援をすると決めたあとも、借金の整理はしなければならない。債権者会議で協力を求めた際も、罵声を浴びるかと思いきや、債権者たちはふたつ返事だったという。「四天王寺を守り続けてきた金剛組の技術を、今度は我々が一丸となって守り抜こう」。会長の決断に、大阪中から激励の声が集まった。

■7度の焼失、神仏分離令、当主自殺など数々の危機に

●聖徳太子の命により、四天王寺を建設した初代金剛重光

 金剛組の歴史は、四天王寺抜きには語れない。西暦578年、聖徳太子の命を受けて、3人の工匠が百済より招かれた。このうちのひとりが創業者である金剛重光で、工匠たちは、日本最初の官寺となる四天王寺の建立を命じられた。当時の日本には本格的な寺院を建てられる技術者がおらず、仏教の先進国であった百済より技術者を呼び寄せたのだ。

 完成後、他の二名が大和と山城にそれぞれ配置されたのに対し、重光は「これからも四天王寺をお守りせよ」と命じられ、そのまま四天王寺に残った。以降、金剛家の当主は代々、四天王寺を護る大工の称号「正大工職」という役目を与えられている。

 そんな金剛組は、1436年という歴史の中で、幾度となく苦境に立たされている。戦乱や落雷、台風、空襲など、過去7回、四天王寺にある五重塔は焼失した。

●明治時代、「神仏分離令」により、寺領を失った四天王寺とともに困難に

 明治時代には「神仏分離令」が発令され、四天王寺は、ピーク時には100ほどあったといわれる寺領の多くを没収された。それまで四天王寺のお抱え大工として、それら寺領の工事すべてに携わっていた金剛家は、四天王寺領の工事が激減し、窮地の中、各地の寺社建築に新たに取り組むようになる。正大工を勤めた第32代目金剛八郎喜定氏は、金剛組の経営方針となる遺書「職家心得之事」を残している。「入札は廉価で正直な見積書を提出せよ」など、質素倹約に励み、必要以上に“儲けすぎない”ことが説かれている。 

 この家訓を守り、「いい材料で、いいものを作り、いい仕事をする」ことには長けていた金剛組だが、長い間、四天王寺から発注される工事のみを行い、部外者を入れるしきたりもなかったことから、営業やそろばん勘定に苦戦し、日に日に困窮していった。

●昭和初頭、当主が自殺、歴代初の女棟梁が五重塔を再建 

 昭和に入っても苦難は続き、無類の職人気質だった第37代金剛治一氏の時代には、極度の経営悪化状態に。ついに、1932年(昭和7年)、治一氏は先祖代々の墓前で自殺をする。その後、3人の子どもを抱えながら、妻のよしゑ氏が歴代初の女棟梁として第38代を継ぎ、活発に事業展開を行った結果、難を逃れる。「なにわの女棟梁」と異名を持つよしゑ氏は、1934年(昭和9年)、室戸台風のため四天王寺五重塔が倒壊した際も、果敢に再建に取り組み、1940年(昭和15年)、努力のすえに完成。しかし、時代は第二次世界大戦に突入し、1945年(昭和20年)の大阪大空襲により、境内のほぼ全域が再び焼失する。金剛組は、寺院関係の仕事がなくなり、軍事用の木箱を製造するなどして、戦時をしのいだ。

●戦後、コンクリート工法に転換するも、事業拡大の失敗により経営危機に

 それまでの寺社建築といえば木造建築だったが、戦後、寺社を復興する際は、防火・防災・経済性にすぐれる鉄筋コンクリート工法が取り入れられるようになった。四天王寺も例外ではなく、五重塔の再建にあたり鉄筋コンクリート工法に検討されるが、金剛組は、木造建築の経験しかなく、コンクリート工法の知識や経験はなかった。戦後の再建は、四天王寺始まって以来、金剛組以外の大手ゼネコンが工事を行うことに。このことに心を痛めた第39代金剛利隆氏は、経営の近代化を図り、1955年(昭和30年)、株式会社金剛組を誕生させ、専務として社長のよしゑ氏を支えた。以降、鉄筋コンクリート工法でも、日本建築本来の優美さや、木のあたたかみなどを損なわない独自の工法を開発。ほかの社寺建築にも応用されるようになった。

 しかし、このコンクリート工法の開発が、慣れない一般建築への事業拡大へ突き進むきっかけとなり、金剛組は負債が増大。前述のような経営危機に陥った。

 2006年、金剛一族が率いる旧金剛組は、松建設株式会社が立ち上げた新金剛組に営業権を譲渡し、大多数の従業員や宮大工が、そのまま移ることとなった。

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松建設株式会社の出資で新体制へ―改革の肝は“見える化”

 当時、金剛組には約120人の社員がいたが、新体制になることへの異論はなかったという。松建設が行った改革は、主に下記の4つだ。

●ガラス張り経営

 前社長の小川完二氏(髙松コンストラクショングループ社長)を中心に、「ガラス張り経営」を実現し、金剛組を「普通の会社」にすることに尽力した。それまで、経営に関する決断をほぼ経営者ひとりが取り仕切っていたが、新体制では、会議を設け、情報共有や意見交換を活発化。営業部と見積もり部だけが行っていた見積もり作成も、設計部も工事部も参画するように。

●本業回帰 

 そもそも金剛組の経営不振は、戦後に拡大していったマンションやオフィスビルの建設により負債が増大したことが原因だった。そこで、一般建築分野をすべてとりやめ、原点に戻り社寺建築に特化。現在の金剛組は、髙松コンストラクショングループ傘下で、社寺建築専業に徹している。

●コスト意識

「よい素材で、よいモノを作る」ことがモットーの旧金剛組が最も不得意としたのがそろばん勘定。小川前社長は、棟梁を頂点とした「組」を「株式会社」として法人化。よいモノを作るためには、コストを度外視しがちだった棟梁たちに、「赤字を出さない」経営感覚を身につけてもらう改革を行った。

●営業強化

 髙松建設の強みである、企画提案営業を金剛組でも行うように。寺社への開発・企画提案営業をスタートさせ、現在の悩みや困りごとを聞いたうえでプラン化。檀家との関係が深い寺社との関係を築くため、営業担当は足繁く通い、まずは信頼を得ることを大事にしている。

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■ティッシュペーパーの約3分の1まで削る神業のかんな使い!金剛組の宮大工仕事

 その一方で、伝統に裏打ちされた足場固めも欠かさない。金剛組の一番の強みは、専属の宮大工がいることである。現在、宮大工は、大阪に6組、東京に2組、計8組あり、総勢110人前後。1組3人~20人で構成されている。

 釘などの金物に頼らず、接木を行うなど、伝統的な技法を駆使する宮大工は、大工を志す者にとっては花形の仕事だ。それゆえ、若者の宮大工志願は多い。技術は徒弟制度のなかで、親方から弟子に口伝されるのが一般的で、一度弟子を取った親方は、生涯かけてその弟子の面倒を見ていき、強い絆が生まれる。

 宮大工は自分たちの仕事に誇りを持っており、決して手を抜くことはない。現在、金剛組で最も腕のよい宮大工のかんな使いは、ティッシュペーパー1枚の厚さが約20ミクロンであるのに対し、約6ミクロンで木を削る。「ハエもとまれないようにしてやる」と、ツルツルになるまで手かんなを続ける。「『少しスピードアップできないか』と親方に頼んだら、『これとこれとこの工程を抜かなくてはいけなくなるが、そんな仕事ぶりでいいのか』と返されて、『それは困ります』と撤回したことがあります。平面の図面から立体感覚を描くわけですが、一寸の狂いもないほど、彼らの仕事は正確なんです。1436年続く技巧と、その手のかけようは、とにかく圧倒されます」と刀根氏。

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■ 1436年続いた秘訣は“多神教”と“普遍性”

 刀根氏いわく、国内で1000年以上続く長寿企業の共通点は大きく2つあるという。

 ひとつは、神社や寺の奉納に携わる仕事であること。聖徳太子が沐浴されていたと言い伝えられている六角堂北面の池に花を供えていたことが始まりの池坊華道会、京佛具の本流を受け継いで千年余りの年月を刻む田中伊雅佛具店、今宮神社脇の休み処である一文字和助など、「神仏に仕える」という精神が先にあるため、「儲けすぎない」「手を抜かない」という心構えが根強く残っている。また、日本は多神教国であったため、共存共栄により信仰心が高まり、穏やかな国民性・民度の高さにつながったという。

 もうひとつは、昔から変わらないことを、ずっとやり続ける普遍性だ。1000年企業の稼業である、華道、仏壇、和菓子、温泉などは、時が経ても変わらない、昔ながらの手法を守り続けている。金剛組が行う社寺建築の様式も、和洋・大仏様・禅宗様・折衷様の4パターンで、その時々の時代背景により変化してきているが、軒の反りや曲線、彫刻などの伝統美は変わっていない。

「イノベーションを行わないことには、企業は生き残れない」とさかんに言われる一方で、世界でも類を見ない1000年企業の多くが、確かな手法を伝統的に守り続けていることを思うと、なんとも感慨深いものだ。

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 現在の社寺業界は、「少子高齢化による檀家様の減少や、政府・内閣府が今後20~30年の間に、かなりの数の消滅自治体が出る可能性について指摘するなど、将来的に不安要素があるのが現在の大きな課題」と刀根氏は語る。「お寺さんも、神社さんも、檀家さんや氏子さんの寄付で成り立っている。建築資金もそうです。金銭的なリターンがないにも関わらず、個人が寄付して、美しい寺社を見て、心の安らぎを得てきた。日本人は、その心を持っていたから、寺社が続いてきています。それが今、危機にある」。

 また、創業一族であり、第39代目正大工だった金剛利隆氏は、2013年10月28日に盲腸がんで死去。利隆氏の長男は2006年に同社が経営危機に陥った際、責任を取って社長を退任しており、正大工は現在、不在だ。

 2014年1月11日、代々、正大工が務めてきた宮大工の仕事始めの儀式「手斧(ちょんな)始め式」は、長年、正大工を補佐する権大工として利隆氏を支えてきた同社相談役、植松襄一氏が代務した。

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取材・文・撮影:山葵夕子  画像提供:金剛組

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