【わるなら、ハイサワー♪】タモリさんも絶賛!博水社・田中秀子社長の“大人・楽しい”脇役道(前編)

「わるなら、ハイサワー」のテレビCMソングでおなじみの割材『ハイサワー』。シチリア産レモンを約30%しか搾らない贅沢な“真んなか搾り果汁”とピチピチ強炭酸入りの、お酒を割るための炭酸飲料だ。

 アルコールといえば、日本酒やビール、ウイスキーしかなかった1980年。焼酎のあとに入れ、焼酎(芋以外)とハイサワーさえあれば手軽に美味しい王道レモンサワーができると爆発的なヒットとなった。日本初のサワーを作るためのお酒の割材である。
 販売当初は、工場で働く10人ばかりの従業員たちが肩にビールケースを背負い、東京都目黒区にある工場から直径300メートル圏内にある行きつけの飲み屋へ出向いて実演。飲食店のクチコミからどんどん広がっていった。

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▲ラムネ屋工場時代から数えて創設86年目となる博水社3代目社長・田中秀子氏

 現在3代目社長を務める田中秀子氏は、ハイサワーを開発した父で先代社長の田中専一氏(現会長)より2009年に社長の座を譲り受けるや否や、次々と新商品を開発。そのほかにも、テレビ番組『タモリ倶楽部』でハイサワー特集が組まれたことを記念して美尻をモチーフにした美尻グッズ販売や秋葉原にあるネットカフェとの異色コラボを展開したりと、常に話題を振りまいている。

 そのハイサワーの魅力について、田中社長自身は、「こうでなければならないと枠を決めずに、『とにかくこれで割ってみよう』と遊び心をもって挑む“大人・楽しさ”」と「主役になろうとせず、あくまで脇役として何にでも寄り添う精神」と語る。「主役」であることや「リーダーシップ」があることを求められる世の中で、自身もまた、“ハイサワー的な生き方”を貫いてきた。
 そんな田中社長の半生と、そこから得られた教訓について伺った。

■華やかなダンスやジャズシンガーの道から一転、工場仕事を始める

 我が家は二人姉妹で、私は長女だったのですが、息子ではなく、娘だったというのもあって、「継ぐ」ということを特に意識せずに育ちました。子どもの頃からダンスをやっていて、高校卒業後は、ニューヨークへ留学して真剣に振り付け師になることを夢見ていました。ところが、渡米直前に腰を痛めて、挫折。渋々、短大に進学するものの勉強などせずに、ジャズライブハウスばかり通っていました。
そこからジャズスクールに通うようになり、プロのジャズシンガーとして歌うようになったのですが、同時期に「お父さん、夜中まで働いていて大変そうだし、ちょっと助けてあげようかな」という家のお手伝い感覚で工場に入ったんですね。

f:id:w_yuko:20141207221917j:plain▲ハイサワーレモン×すりしょうが×キンミヤ、体の芯からポカポカ

 ところが入ったら、何のことはない。会社の皆が何を言っているのか、さっぱりわからない(笑)。そもそも日本語を話しているように聞こえませんでした。「ぺーハー(PH)って何?ガスボリュームって何?え、何?」って。自分が子どもの頃から長靴を履いて工場を走り回っていたから、「仕事なーんて、おまかせを!」と思っていたのに。
 それで、これはまずいと思って、東京農業大学の醸造科に社会人入学したんです。まぁ、踊ったり歌ったりの世界にいたから、これまでの経験は残念ながら何ひとつ役には立たなかった。なにせ食品化学の世界。父親にしてみたら、してやったりだったんじゃないですか。

 それでも華やかなダンスや歌の世界から、こちらの道へすんなりと入れたのは、やっぱり父親が小さいときから夜中まで働く姿を見てきたからだと思います。夏はラムネを、冬は『シャンメリー』といって、クリスマス用にシャンパンを模した子供用の清涼飲料水を作っていて、クリスマスに父親が家にいたことなんてありませんでした。夏は汗を流しながら、冬は木のたてつけから入る隙間風や冷たい水の寒さに耐えながら働いていました。
 そんな父の姿をずっと見てきたから、大変なことがあっても前へ進もうという気持ちが身についたのかもしれません。自分なりにできることなんて、ちっちゃいかもしれないし、うまくいくかなんてわからない。でも、一歩ずつでもいいから、先に進むほうが止まるよりはずっといいかもと思えたんです。

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▲飲んで、みんな笑顔になれるっていいよね

■「ケセラセラ、なるようになる」と思うきっかけをもらった難病時代

 20代後半には、難病指定の潰瘍性大腸炎を患い、丸10ヵ月間、入院しました。いわゆる絶食治療です。
 ものを食べることができないので、肺に近いところから針を刺して、中心静脈栄養というのを入れて、あとはエレンタールという、粉ミルクのような経腸栄養剤を溶いて飲む。それだけがごはん代わりです。いつ治るかも分からないまま、落ち込みました。
「なんで自分が病気になっちゃったのかな」とか、「なんでほかの患者さんはごはんを食べられているのに私だけごはんを食べられないの」と思うわけです。ずっとメソメソしていました。
 するとある日、相部屋のおばあちゃんが「あなたね、そうやって、明日も、明後日も、明々後日も同じメソメソするんだよ。それでいいのかい」と優しく言葉をかけてくれました。それを聞いて、はっとしたんですね。
 人間というのは、自分でどうがんばっていても、泣きたいくらいどうにもならないことに出くわすことがある。「ケセラセラ/なるようになる/明日のことなどわからない」という歌がありますが、まさしくあの歌詞の通りで、なるようにしかならない。それを乗り越えていかなくてはならないし、気持ちを切り替えなければいけないときもあるんだなと思いました。
 そうして、いよいよ退院という時になって、10ヵ月ぶりにパァーッと病院の自動ドアが開いて、外に出ることができたとき、「当たり前のことって、なんてありがたいんだろう」と思ったんです。それまでは強い薬で副作用が強く、一切外へ出歩くことも禁じられていました。これまで当たり前と思っていたことをもっと感謝しなければならないと思いました。そのあと完治するまでに丸3年かかりましたが、重湯になって、おかゆになって、ご飯まで食べられるようになって、今では酒まで飲めるようになりました。本当にありがたい。
 そこで学んだのは、自分の努力じゃなくて、もっと大きな世の中の流れに揺られながら人間は生きているわけで、それをただ嘆いていても仕方がない。その流れを受け入れながら、「自分にも、もしかしたら何かができるかな」と探していくのが大事なんだと。どうせ同じ時間を過ごすなら、プラス志向で元気にやっていかないと罰が当たりますよね。

f:id:w_yuko:20141207221915j:plain▲ハイサワーハイッピー×杏露酒、ホップの苦味と杏の甘味が絶妙のバランス

■社長だなんて関係なし、成長するには「分からない自分」を認めること

 2009年に会社経営を引き継いでから気を付けていることは3つあります。1つ目は、人の話を聞く際に、極力「MUST(~しなければならない)」というこだわりは、できるだけ持たないようにすること。「MUST」ってよくいえばかっこいいけれど、悪くいうと、新しいことや若い人の意見を自らロックしてしまう怖さがある気がします。例えば、一般的にはみんながワイワイ話しているところに社長という名刺を持つひとが口を挟むと、一気にみんなのやる気を萎めてしまう。商品もサービスも、みんなの意見があって出来上がるものだから、なるべくみんなの意見を聞ける空気をつくるのも社長業の大事な仕事です。
 2つ目は、誰かの意見を却下するときは、説明をきちんとするように心がけています。頭ごなしに「だめだよ」とは言いません。
 3つ目は、「分からない自分」を取り繕うとせず、常にそんな自分を認めることです。社長になりたての頃、私は「わからない」となかなか言えませんでした。きっと気負いがあって、肩肘を張っていたんでしょうね。会社の中ならまだしも、一歩外に出て商談へ行くと、情報不足で当然わからないことに出くわします。すると、かっこつけて適当に返答したり、知ってるふりをしてしまう。そういう時の商談は、大概話がチグハグで、不利に終わっていました。何より自分のために時間を割いてくれる方に対して失礼ですよね。
「これは自分のためにも、相手のためにもよくない」と気づいてからは、分からないことを言われた際は「商談の最中で誠に申し訳ないのですが、教えてください」と必ず言うように決め、「社長っていう名刺なんか関係ないや」と開き直ることにしました。すると、意外と人間って「しょうがねぇな。本当に知らないの」と言いつつも、丁寧に教えてくれるものなんですよね。そうすることで気持ちが楽になり、たくさん知識を与えてもらえるようになりました。

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▲大人・楽しいハイサワー号

≫後編へ続く

取材・文・撮影:山葵夕子

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