【1着15万円のオーダーメイド・セーターが即完売!】全国から注目を集める編み物会社、気仙沼ニッティングの魅力とは?

「うわぁ、赤ちゃん!今まで一番若いお客さんよ」

「ここ、どうやったらきれいになるかしら?」

 宮城県・気仙沼市にあるほぼ日の事務所から、和気あいあいとした声が漏れ聞こえてくる。けれど、編み目を数えたり、納品チェックをする際は、どの編み手さんたちも真剣なまなざし。2012年6月にスタートした手編みセーターの会社、気仙沼ニッティングの、仕事風景である。
 その代表を務めるのは、東京都出身の29歳の女性、御手洗瑞子さん。2014年5月に渋谷ヒカリエで行われたTEDxTokyoのスピーチはネット上で喝采を浴びた。
 多くのメディアで取り上げられているため、すでにご存知の方も多いと思うが、ゼロから新たな産業を生み出す、経営のかじ取りとその遍歴について聞いた。

「ただ楽しいこと」をやってはいけないという気持ちでいる人が多かったあの頃、「震災後、初めて自分のためだけに時間を割いて楽しかった」という声を聞き、こういう場が必要なんだと強く思いました。――気仙沼ニッティング・御手洗瑞子氏

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■気仙沼の第一印象は「ラテン的で垢抜けた、キャラ揃いな町」

 気仙沼へ初めてきたのは2011年11月、地震から半年後でした。地元の若手が集まったグループ「気楽会」が人を巡るツアーを行っていて、それが面白いと人づてに聞いて参加しました。その時は被災した人たちの話を聞くことがメインだったのですが、出会う人たちがとにかくユニークで、気仙沼の第一印象としては「すごくキャラ揃いな町」。
 当時感じた面白さというのは、それまで私が「典型的な日本人ってこうだよね」と思っていたイメージと真逆でした。最初に就職したのが外資系経営コンサルティング会社で、その後はブータンで公務員として働いており、海外の人と働く機会が多かったため、ある種「日本人の仕事の仕方」というものを一歩引いて見る機会が多く、それだけにステレオタイプのようなものも強かったんですね。
 当時、私が感じていた日本人の特徴というのは、たとえば、「和をもって尊しと成す」ことが大事な一方、視線が内向きになりやすく、外のもの、海外や外国人に対して及び腰になりがち、とか。ひとつひとつ物事を改善していくのは得意だけど、リスクを取ってチャレンジするのは苦手、など。 
 ところが、気仙沼の人は、ことごとくそのイメージとは違っていました。もともと遠洋漁業で栄えた町で、魚を追って海の反対側まで行くような人たちです。まず、感覚がすごくグローバルなんです。「いまアメリカで買い付けたイワシを、スリランカで漁船に販売するために運搬しているよ」とか、「いまうちの船がケープタウンをまわってスペイン沖で漁をしている」とか、そういう会話が日常的に交わされています。水産関係の仕事に携わっている人が多く、自分自身がそうでなくても、家族や親戚などに水産関係者がいることも多く、街全体として感覚がとてもグローバルなように思います。また、地理的にもリアス式海岸で、背後に山を控えているので、自然と視線は玄関口の海を向きます。そんな場所で暮らしている気仙沼の人たちが「外」に対してモノを考えるとき、それは東京や仙台ではなく、まさに「海の外」です。
 もうひとつの大きな特徴としては、気仙沼の人はリスクテイカーであること。遠洋漁業の街なので、大きな投資をして船を建造し、ときには危険も伴う海に航海に出て、大漁を目指して漁をします。そんな産業に支えられる気仙沼の人たちは、「大きな夢をドンと追いかけようぜ!」と、肝が据わっています。その大きな夢を獲得するためには、身銭を切ることもいとわない。日々、自然と対峙しているから体力もあり、声も大きいし、堂々としているのも特徴ですね。
 「グローバル」にはもともと「球体の」という意味があり、地球を「国境」ではなく「球体」として捉えようという意味合いが含まれています。一方、「インターナショナル」という言葉は、国同士の関係を意識した言葉です。気仙沼の人たちの場合、まさにインターナショナルというより、グローバル。本当に地球を丸く捉えているんです。
 最後に、気仙沼の人たちはカラッとしていて明るく、どこかラテン的で垢抜けています。初めて気仙沼に来たとき、そんな気仙沼の人たちと話すのがとても楽しくて、「自分は日本のことを何も知らずにいたなぁ。こんな場所があったなんて」と驚きました。気仙沼に移住を決めた理由のひとつには、そんな人の魅力もあります。

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■ 設備不要、自宅でも仮設住宅でもすぐに始められる事業が編み物だった

 気仙沼ニッティングは、ほぼ日のプロジェクトとしてスタートしました。以前の仕事を通して面識のあった糸井重里さんから、「気仙沼に編み物の会社を立ち上げようと思う。リーダーをやってみないか」と声をかけていただいたのがきっかけです。とはいえ、事業としてうまくいくかもわからなかったので、会社としてスピンオフすることを前提とし、社内プロジェクトとしてまずはスタートさせました。当初は4人の編み手さんとともに始めたのですが、2013年6月にほぼ日から独立して株式会社を設立し、現在編み手は36人になりました。
 まず事業を構想する上で気をつけたのは、具体的にスタートできるものであることと、ビジネスとして成立できる可能性があることでした。「新たな産業として成り立たせて、気仙沼に働く人が誇りを持てる仕事を創ること」が大きな目的だったので、この2つは特に大切でした。気仙沼は津波被害で土地が地盤沈下してしまっていたので、向こう何年かは新しい建物を建てるのは難しい状況でした。となると、工場など大きな設備をつくらないと始められない事業は、不向きです。何も設備のないところで、すぐに始められる事業でなくてはなりません。

 その点で、「編み物」というアイデアはぴったりでした。編み物だったら明日からでも始められるし、自宅でも仮設住宅でもできるから工場はいりません。さらに、編み物は着るものをつくることができる。そうすると、手芸ではなくファッションの領域で価格設定できるようになります。

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写真:操上和美 提供:気仙沼ニッティング

 また、編み物作家の三國万里子さんが知り合いだったことが大きなきっかけになりました。着るものにおいては、やはり、デザインが大事です。編みもので、人が「着たい!」と思うデザインのものをつくれる人がいることが重要でした。三國さんがいたから、このプランが現実味を帯びたのだと思います。
そして、気仙沼の人たちに「編み物の会社をやるのはどうだろう」と話してみたところ、「ああ、気仙沼の人たちはみんなよく編み物をしていたんだよ。何しろ漁師町だったから」とみなさんノリノリになってくださいました。私たちが今作っている製品は、フィッシャーマンズ・セーターと呼ばれるもので、ヨーロッパでもアイルランドやノルウェーなど、寒い地方の漁師町で防寒着として着用されているものです。気仙沼も北国にある海の町という点では共通しています。漁師さんたちが着るセーターを家族が編むことは多かったですし、セーターを編むことをご商売にされている方たちもいました。また、漁師さんたち自身が、漁場につくまで漁船の中でセーターを編んでいたこともあるそうです。気仙沼の人たちにとって「編む」ことは、身近で親しみ深いことだったんです。ここから一気にプロジェクトの実現化は加速していきました。

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■震災後、自粛モードだった“JUST FOR FUN”のためにも、必要だったワークショップ

 とはいえ、編み手さんを集めないことにはプロジェクトをスタートさせることはできません。そこで最初は「誰か編める人を知りませんか」とクチコミで探し始めたのですが、少しばかり人集めに難航しました。というのも、編み物って、皆さん自宅でやっているので、誰がどれくらいの力量なのかをお互いに知らないんです。それもあって、そんなに編み物をしない方や「紹介者の顔を潰したくないから、興味はないけど一応来ました」という方もいらして、これだとお互いに幸せな出会い方ではないなと感じ、リクルーティングの仕方を考え始めました。
 編み物が好きで、「編み物の会社ができるなら、ぜひ編み手として働きたい」という人とどうやって出会うか――。そう考えた時、手袋のワークショップをすることを思いつきました。三國さんのデザインの手袋の写真をポスターにし、「これ、編めます」と書いたポスターを作り、町のあちこちに貼っていったんです。あとは地元の新聞、三陸新報にも広告を出しました。
 その甲斐あって、定員30名のところ、40名以上の方が集まり、その時の熱気がとにかくすごかったんです。おかげで働いてくださる編み手さんたちと出会うことができました。その時のワークショップは、編み手を探すというためだけでなく、“JUST FOR FUN”、ただ楽しむ場をつくるという面でも意味のあるものでした。震災から一年ちょっと過ぎていたのですが、当時はまだ、家族や親戚に、亡くなった人や行方不明の人がいるという状況で、自分の趣味や興味があることといった「ただ楽しいこと」をやってはいけないような気持ちでいる人が多かった。編み物ワークショップに来た方々が、口々に「震災前は編み物が趣味だったけど、津波で針が流されて、なんとなく買わずにいた」とか、「震災後、初めて自分のためだけに時間を割いて楽しかった」と言われるのを聞き、こういう場が必要なんだと強く思いました。

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■費やす時間に対して、全うな価格をつける

 産業として成り立たせるためには、価格設定は重要です。最高品質のオリジナル毛糸をつくり、デザインも人気編み物作家・三國万里子さんにお願いし、編み手さんに十分な報酬を支払うことを見積もると、どうしても価格は15万円ほどになってしまいます。たまに「それでも売れるという自信があったのか」と聞かれますが、正直、やってみないとわからないという側面もあります。私たちの最初の商品はオーダーメイドのカーディガン「MM01」ですが、最初は4人の編み手しかいなかったので、たった4着だけ受注しました。すると、100件ほどの申込みがあり、ほっとして、とてもうれしかったのを覚えています。

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写真:操上和美 提供:気仙沼ニッティング

■プロジェクトをよい方向に導くには、スピードと、“ルン・ルン気分”の伝染

 2012年6月にプロジェクトをスタートさせ、気仙沼に移住したのが7月。ワークショップを8月に始め、その裏で毛糸の開発をし、できあがったのが9月です。秋ごろにオーダーメイドのカーディガン「MM01」の商品デザインが完成して、12月に初めての受注を行いました。また、夏ごろから編み手さんたちには、オーダーメイドでカーディガンを編む練習をしてもらっていました。少し速いペースでしたが、どんなに小さくても、その冬に商品を出すことを1回はしたかったんです。まずは小さくても行動し、トライ・アンド・エラーを繰り返す。気仙沼ニッティングも、「半年後に出荷」という明確な目標があったからこそ、キビキビと動いて実現できたのであって、逆に「来年の冬に出せたらいいですね」とのんびりやっていたら、どんど後ろ倒しになって、実現できなかったかもしれません。あとは、「この船は、面白そうだからとにかく乗ってみよう!」と思ってくださる、前述の気仙沼の人たちの気質にも助けられました。とにかくカタチにする必要がありましたから。
 5月に行われたTEDxTokyo2014でスピーチした際、編み手さん二人にMM01とエチュードを着てもらって、ステージに上がってもらったんですけど、二人ともノリノリでした。事前に「当日は何を着ていけばいいですか」と相談され、「メインはMM01とエチュードだから、好きなものを着てきてください」と答えたら、「でも、合わせるものは大事ですよね。一度、見てもらっていいですか」と、3パターンくらいの全身コーディネートを持ってこられました(笑)。もちろん、当日の会場でも、「ルン・ルン♪」でしたよ。

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■お客さんとの直接的なやりとりがプロ意識を育む

 うちの編み手さんたちは、とにかくプロ意識が強いです。それはお客さまを直接見ているからだと思います。これが会社との関係しか見えてなくて、「商品チェックをパスすればOK」という気持ちだったら、ここまでプロフェッショナルにはなれないと思います。
 販売サイトには、編み手さんひとりひとりの名前が載っています。お客さまからメッセージカードをいただくこともあります。編み手が、お客さまを感じられる環境なのです。そうすると、「もっとこういうことに気をつけて編むと、着る人にとっては着やすいかな」とか「こういう感じで模様が浮き立っている方が美しいし、よろこんでもらえるかな」と、 お客さまのことを想像して編むことができ、技術が上がっていくことにつながりますし、またなにより、お客さまによろこんでいただくことはなによりのモチベーションになります。
 オーダーメイドのMM01は、注文してから届くまでに何ヵ月もかかるのですが、うちでは、その仕上がりまでの過程も、写真を送るなどしてお客さまにご覧いただいています。すると「仕上がりましたので、いよいよ来週お届けです」とご連絡したときに、「届くのはうれしいけど、こうやって楽しみに待つ時間が終わってしまうのはさびしいですね」と言われる方が結構いらっしゃいます。お寿司屋さんへ行くと、「あ、海老あぶっている」とか、「あの雲丹、こっちかな。あ、違った!」とか、板前さんの手仕事を見ながら待つから楽しいじゃないですか。それと似た楽しさなのかもしれません。
 中には、「直接採寸してほしい」「このセーターを編んだ編み手さんに会いたい」と、気仙沼に足を運ばれる方もいらっしゃいます。そうやってお客さまをお迎えできることは、本当にうれしくありがたいことです。セーターをきっかけにこうしたつながりが生まれるのは、なによりです。

■10年後の気仙沼ニッティング

 10年後までには「ねぇ、気仙沼ニッティングって知っている?」と、海外でも言われるようになっているといいなと思います。いいものを編む会社として、名が知れていて、マメ知識のように誰かが、「ねぇ、知ってた?あれって実は2011年の東日本大震災がきっかけで出来たんだって!」と噂されるくらいになれたらいいなと。今はまだ、いろいろな種をまいていて、「至らぬところがあってごめんなさい」と日々言いながらやっている感じですが、2、3年後にはひと周りもふた周りも成長していたいです。

取材・文・撮影 山葵夕子

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