山口周氏が語る——モノを欲しがらない時代、なぜビジネスと人生に「アート思考」が大切なのか

数多くの企業のコンサルティング活動や『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』などの著書を通して、ビジネスにおける「アート思考」の重要性を語ってきた山口周氏。新規事業やイノベーション思考に関心がある若手ビジネスパーソンに向けて、 あらためて「アート思考」が注目されている背景や社会に与える影響や変化について伺った。

山口周氏

コーン・フェリー・ヘイグループ シニア・クライアント・パートナー 山口 周氏

1970年東京都生まれ。独立研究者、著作家、パブリックスピーカー。電通、BCGなどで戦略策定、文化政策、組織開発等に従事。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』『武器になる哲学』など。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修士課程修了。神奈川県葉山町に在住。

山口周氏が指摘する「アート思考論」のポイント

山口周氏山口氏は、著書『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社新書)の中で、グローバル企業が世界的に著名なアートスクールに幹部候補を送り込んだり、ニューヨークやロンドンの知的専門職が、ギャラリーで開催される早朝の美術鑑賞セッションによく参加しているという状況を伝えている。

そして、これは単に見せかけの教養を身につけるためではないと指摘している。

その背景には「これまでのような『分析』『論理』『理性』に軸足をおいた経営、いわば『サイエンス重視の意思決定』では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない」という、エリートたちの意識の変化があるという。

単なる儲け主義、利益拡張主義ではなく、アートを含めた人間の感性をベースにビジネスを展開することがこれから求められているのだ。これは一部のエリートに留まらず、若手ビジネスパーソンに広く共通する意識の変容かもしれない。そうした山口氏の問題意識を、の視点を今回はまた別の角度から語っていただいた。

企業が「SDGs」を目指さなければならなくなった背景

近年、「SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)」という言葉が流行り、「企業経営も持続可能性を意識して目標設定を行うべきだ」と、よく言われるようになりました。

これは、逆に言えば、現代のビジネスそのものがこのままでは持続可能ではなくなってしまう、という危機感の表れなのです。あえていえば旧来モデルのビジネスは、もはや歴史的な使命を終えつつあるのではないか、とさえ考えています。

ある事業モデルが「歴史的使命を終える」ことは、過去にも例があります。例えば、日本でも1950年代以降の高度経済成長に伴って、企業の生産活動に起因する「公害」が発生しました。

高度成長下の日本では、国策として重工業型のものづくりや加工貿易の振興を掲げ、足りない人手を農村からかき集めました。農村に人がいなくなる一方で、農業生産は維持しなければなりませんから、農薬を大量生産する必要がある。

大量の製品を効率よく生産するためには、製造過程で生じた廃液等を無処理で排出するしかなかった。ある意味、ビジネスの必然として公害が生まれてしまったのです。

当時は、地球環境がサスティナブルに維持することよりも、国ごとの産業政策が大事にされた時代。また、その政策課題を解決するためにも、ビジネスが有効とされていた時代でした。しかし、今はどうでしょう。個々のビジネスに、地球全体にわたる課題を解決する能力があるでしょうか。

ビジネス優先から環境優先へと動く流れの中で、私はビジネスの価値の重要性が相対的に下がっているようにも思います。だからこそあえて企業はSDGsを掲げざるをえなくなっているのです。

一億総貴族化。モノを欲しがらない時代がやってきた

マズローの欲求5段階説は、マーケティングに関心のある人は大体ご存知だと思います。「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものです。一番下は生理的欲求で、次が安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求へとピラミッド型に構成されています。

これまでのビジネスは生理的欲求と安全欲求の段階における人々の不満を解決するためには、きわめて有効に働いてきました。例えば日本が得意としてきた家電は、寒い・暑いのは嫌だ、食べ物を保存しておきたいといった生理的欲求を解決するために生まれた製品です。日本は一時期、世界の家電シェアの7割を占めるまでの家電王国でした。

こうした人間の欲求レベルを、低次の段階から満たすためにモノが、世界にあふれるようになります。「幸福度」に関する国際的な調査をみると、物質的欲求に対する満足度は、日本を含む先進国ではほぼ90%にも達しています。つまり、もはや欲しいモノがない。世の中から物質的欲求での問題がなくなってしまったのです。

わかりやすくいうと、マリー・アントワネットがフランスのブルボン王朝期でしていた生活を、一般庶民が享受できる時代になったのです。家で映画が観られる、冷たいシャンパンを飲める。食生活やエンタテインメントの享受ぶりでは、18世紀の貴族の生活ができるようになってきたわけです。

なぜ、高級ブランドや外車の人気は廃れないのか

しかし、人間の欲望は根深いものです。モノがあふれ、物質的欲求が満たされ、退屈するようになると、次に求めるのは「ときめき」です。マズローの5段階説で言えば、承認欲求や自己実現欲求のためにお金を払うようになります。

例えば、エルメスのバーキンのような高級ブランドバッグ。正規店で買えば150万円前後します。でも欲しい人はいるわけですよね。それを身につけて街を歩き、人目に触れさせて、さり気なく自慢したい。さらに今はその様子をInstagram(インスタグラム)にアップして、「いいね!」を獲得したいわけです。

インスタに写真を載せると、自分のファッションやライフスタイルを広く世間にシェアすることができる。インスタは、いわば、自分という作品を世の中に対してプロデュースするツール。自分のすべてをアート化するためにとても大切なコミュニケーション手段になっているのです。

私は学生時代から車が好きなのですが、その頃は、ポルシェの上の高級車はフェラーリしかなかった。でも、いまはベントリーやロールスロイスが復活し、アストンマーティン、マクラーレン、ランボルギーニも健在で、5000万円クラスの車種がたくさん出ています。どうしてこういうことが起こっているのかをずっと考えているのですが、高級バッグも高級車も、人間の欲求が高次化するにつれて生まれる一種の文化的な消費だと思うんです。

山口周氏

19世紀末から20世紀前半に活躍したアメリカの経済学者・社会学者に、ソースティン・ヴェブレンという人がいます。『有閑階級の理論』という本で、欧米のいわゆる「金ぴか時代」の富豪たちの生活様式を研究しました。そこでは、彼らの邸宅や贅沢な調度品、パーティーや豪華な衣装は、アメリカ先住民族らのポトラッチ(過剰な贈与儀式)や豪華な羽根飾りなどと同じものだとみなしています。

わかりやすくいうと「見栄」「見せびらかし」ですね。過剰なところに過剰なものが生まれる。19世紀末から20世紀初頭のパリやロンドンは、社会資本の分厚い蓄積の上に、こうした文化が花咲いた。

もちろん、その後、大恐慌や世界大戦などはあったものの、低次欲求から高次欲求へ人々の関心が移るプロセスはずっと続いていました。単に安いとか、便利であるとか、楽であるものにはあまりお金を払わなくなる傾向は、戦後の高度経済成長を経て、さらに強まるようになりました。

生理的欲求や安全への欲求に応えながらも、次の段階の所属欲求や自己承認欲求は満たすことができなかった、その象徴が日本の家電産業なのです。いまや営業利益が2~3%に過ぎず、とても事業としては成立しなくなっています。あれほど、輝いていた日本の家電産業が、世の中に対して価値を提供できなくなっているのです。

有用性や利便性だけではないアート思考の目覚め

パーティーで仮面をかぶったり、羽根飾りをつけたらどんな気持ちがするか。それは実際につけてみないとわかりません。もしかすると自分がガラッと変わったような昂揚感を味わえるかもしれない。

しかし、羽根飾り自体には役に立つ、立たないという意味での有用性はほとんどない。いや、羽根をパタパタさせれば少しは涼しいかもしれないけれど(笑)。基本的にここでいう羽根飾りは自己実現のためのアートなんだと思います。

これからの消費者は、「単に役立つ」「便利になる」という観点ではモノを選ばない。そうした物質的欲求以上の、承認欲求や自己実現欲求を満たすために、自分の人生を一つの作品として描きたい。そうやって自分らしい人生を送るのに必要なものだけを選択していく。

例えば、都心にオフィスがあるのに、あえて鎌倉や軽井沢に移住する、会社を辞めて田舎暮らしを始める。そういう生き方を追求する人が増えています。そこでの主人公は、あくまでも自分。それを演出するのも自分です。そういう人たちに企業が財として提供できるものは、単なる便利さではないはずです。

最近、自分が好きなぬいぐるみに旅行させる旅行会社が流行っているそうです。ロボットと一緒に京都を歩き、ロボットに集合写真を撮ってもらうというような旅のスタイルも人気だそうです。お客さんはその様子をSNSに上げて、「いいね!」を獲得する。これなど典型的な自己承認欲求を満たすための消費活動でしょう。

山口周氏

私の車好きの例で言えば、イギリスの古いスポーツカーに乗っているんですが、夏は暑すぎてとても乗れたものじゃない。燃費もハンパじゃないし、車検もやばい。それでもその車が好きだからお金をかけちゃうし、それを無駄遣いとは思わない。

こうした文化的消費はどんどん細分化する傾向にあります。鉄道ファンがその代表例です。乗りテツ、撮りテツ、時刻表テツとさまざまな流儀があって、それぞれマーケットが成立している。すべて同じ鉄道ファンとしてひとくくりにできなくなっている。消費自体が趣味的になると、こういう現象は至るところで生まれるようになります。

スマホでデジタル写真を撮るのが当たり前の時代に、ライカの古いカメラを200万円で買って銀塩フィルムで撮るのが好きな人もいます。その良さがわからない人には想像を絶する世界ですが、好きならそれでいい。そこにはデジタルにはない情緒的な価値があるはず。「そこにこそ、アート思考の萌芽がある」と、私は言いたいんです。

一つの物差しだけなく、物事の本質を観察する訓練を

文化的消費の欲求を満たすための画期的なサービスやイノベーションが求められる今、これからのビジネスパーソンは、自分自身の好きへのこだわりや専門性をもっと追求していっていい

あまねく全ての人にサービスを提供するというのではなく、好きな人だけに集まってもらえばいい。すべての人に受けなくても、わかる人にはそのこだわりがわかってもらえる。そうやって個々の消費者に、深く刺さるようなビジネスが展開できれば、世界はもっと豊かになると、私は思います。

ただ、サービスの企画者や開発者の側に、そうした多様性や個性への理解が身についていなければ、独創的なビジネスを展開することはできません。私が気がかりなのは、日本では教育であれ、ビジネスの現場であれ、物差しが一つしかない社会がずいぶん続いてしまったということです。

柔軟性がなくて、直線しか測れない物差し。みんなが早さと正確さで点数を競っている。一つの物差しの上に人々は一直線に並ばされ、そこから外れる道、外れるけど面白い道へのアクセスが閉ざされている。

たしかに生産性向上だけが唯一の大義だったら、早く正解を出せる人は偉いという一つの基準でよかったでしょう。しかし、今はそんな一つだけの価値で決まる世界ではないんです。

山口周氏

見て、感じて、言葉にする。感情の変化を言語化する重要性

アート思考の背景には、美的センスや、美学、哲学、文学も含めたリベラルアーツの教養が必要だというのはその通りです。しかし、美学を学んだからといって、センスが磨けるとは限らない。どうしたら、センスを高めることができるのか。

絵でも映画でもオペラでもいいので、その前で考えるという習慣を身につけてほしいと思います。そこではファインアートやクラシック音楽や大学での学問をハイカルチャー、それ以外の、ポップスやアニメやアイドル文化をサブカルチャーと区分けしてしまう議論はあまり有効ではありません。

作品を「見て、感じて、言葉にする」こと。その中でこれから起こりうることを想像すること、自分の中に起こった感情の変化を言語化することは、変動要因が無数にあり、正解がないビジネスの現場における将来予測と、実はよく似た思考作業なのです。

人間にはパターン認識能力がある。これは過去の失敗を再び起こさないためには重要な能力なのですが、パターン認識に縛られるあまり、未来を予測できないことがよくあります。ステレオタイプなものの見方に支配されるあまり、思考が停止してしまう。それを突破するための手がかりが、アートや哲学、文学にはあります。

センスを磨くために必要なことは、自分の心が震えるような「モノ・コト」を見つけること。そして、全体だけでなく、細部を観察することで、シンプルな本質を捉えることです。

生産性、効率性といった外部の物差しではなく、「真・善・美」を判断する美意識という内部の物差しに照らして、自らの在り様を考えていくこと。その訓練から始めてみることをお勧めします。

【澤奈緒×山口周】仮装で縛られている自分を解放~仕事も人生も楽しむ「アート思考」談義~に続く

WRITING 広重隆樹 PHOTO 刑部友康

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