【澤奈緒×山口周】仮装で縛られている自分を解放~仕事も人生も楽しむ「アート思考」談義~

著書『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』を通して、ビジネスにおける「アート思考」の重要性を語ってきた山口周氏。アート仮装「KESHIN」のワークショップを通して、アートによる意識の解放を試みる造形作家の澤奈緒氏。
ビジネスの場でも求められるアートの役割とは何か。ライフスタイルはもとより、アート思考によって新たなサービス生み出すヒントを語ってもらった。

澤奈緒×山口周

澤 奈緒氏(写真左)

造形作家。武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科卒。2014年、IMA展外務大臣賞受賞。アダルトチルドレンやADHDに起因する自殺衝動を克服した経験から、「心の解放」を活動テーマとし、自らが制作した被り物を身につけ化粧を施した「アート仮装『KESHIN』」プロジェクトを中心に、ワークショップや講演会、ブログでの発信などを行なっている。

山口 周氏(写真右)

1970年東京都生まれ。独立研究者、著作家、パブリックスピーカー。電通、BCGなどで戦略策定、文化政策、組織開発等に従事。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』『武器になる哲学』など。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院文学研究科修士課程修了。神奈川県葉山町に在住。

自分の顔を塗りたくり、ガネーシャに化身してみたら…

:ウレタンフォームなどで作ったかぶり物や小物、衣服を身につけ、化粧を施し、神や霊的な存在の化身になりきる、アート仮装「KESHIN」というプロジェクトを2年前から進めています。いわば身にまとうバーチャル・リアリティ。過去の自分のトラウマを笑いとともに吹き飛ばし、羞恥心を捨て去ることで心の解放を促すことができるんです。

澤奈緒氏

山口:最近、子どもたちやビジネスパーソン向けのワークショップも開かれていますよね。そもそも「KESHIN」を始めるには、どういうきっかけがあったんですか。

:私のバイオグラフィーの話になってしまいますが、大学はデザイン学科だったんです。ただその頃から、消費社会に組み込まれる何かを作ることにはどこか違和感がありました。

大量生産・大量消費に加担するアメリカのデザイン業界を痛烈に批判したヴィクター・パパネックの『生きのびるためのデザイン』という本の影響も大きかった。何かモノをデザインしても、結局、ゴミを増やすことになるのは嫌だなと。

大学卒業後は教育系、映画配給会社、人材会社などの仕事を転々としてきたのですが、もともとADHD(注意欠陥・多動性障害)で、そしていわゆるアダルトチルドレンだったので、どの仕事も永続きしなかったんです。

デザイナーになるにしても、クライアントワークが苦手。受けた仕事をつい自分なりに解釈したくなってしまうんですね。やはりアーティストとして自己主張していくしかないのかなと思い、造形やVRなどの作品を作り、国内外で発表してきました。それでも自己肯定感というものが得られなかった。

アート作品を世に問うときも、自分が何を表現したいかよりも、他人の目を常に意識していたようなところがありました。たくさんの他人の目で、自分が窒息しかけていたんです。

ガネーシャ_澤奈緒あるとき、友達が作品展のイベントを企画してくれたことがあったんですね。ちょうど出品する作品がなかったので、開き直って、自分が作品になっちゃえと。

それで、ウレタンフォームで被り物や衣装を作って、自分の顔をむちゃくちゃ塗りたくった。ガネーシャ(ヒンドゥー教の神。人間の身体に片方の牙の折れた象の頭を持つ)になりきって会場に現れたんです。

みんなが素敵な作品を出品しているときに、ガネーシャの仮装ですから、ドン引きされますよね (笑)。でも私はすっかり「ガネーシャですが、何か?」みたいに開き直って。そのうちだんだん気持ち良くなってきました。

最初は引いて見ていた人たちも寄って来て、「本当は変身に興味があった、自分もやってみたかったけど、機会がなかった」と言ってくれるようになりました。

みんな恥ずかしいからやらないだけで、本当は変身願望があるんじゃないか。何かの化身になり、その形を借りることで、殻を壊せることもあるんじゃないか。そこで、自分のアートプロジェクトとして進めていこうと思ったんです。

8,568通り、あなたはどのタイプ?

自分が「何かに縛られていた」と気づいたワークショップ

山口:変身することで、自分の中にある本来の感覚が取り戻せたわけですね。

:学生の頃に、自分の感覚を失っているときに気がついたんです。例えばB級グルメを美味しいと言ったら馬鹿にされるかもしれないという恐れで、友達とごはんに行くと、みんなが美味しいと言ったものを美味しいと言っていた。つまり、自分の味覚や感覚に自信を持てなかった。そういう他人の目に縛られていたんですね。それにあるとき気がついた。

そのきっかけになったのが、マインドフルネスですね。瞑想などを通して、いま現在の体験に意図的に意識を向け、評価をせずに、捉われのない状態で、ただ見ることで、心を開いていく技法です。

私のワークショップでも、マインドフルネスを取り入れています。参加者には、まず一緒に伸びをして、手の先の空気を感じてもらったり、床に寝転んで、その日のキーワードから連想できるイメージの海に沈んでもらう。

そして、今まで自分が一番恥ずかしかったことを考える。その内容は誰にも言わなくていいけど、自分には正直になりましょう。今日はその恥を乗り越えるくらい、恥ずかしいものを作りましょうって。

変身ワークショップ
▲ワークショップで、参加者とマインドフルネスする澤さん

山口:KESHINのワークショップでは具体的にどんなことをされているのですか。

:例えばウレタンフォームでいろんなかたちを作るんです。渋谷ヒカリエでアート仮装「KESHIN」ワークショップをやったときは、「交差点」をキーワードに、みんなにいろんなものを作ってもらいました。それこそ、交差点を渡るアリンコになったり、いろんなものが出てきましたね。

何もイメージができない人も、とりあえずウレタンに触ってもらう。ウレタンには不思議な力があって、大きな形を簡単に作れるんです。それまで造形なんてやったことがないという人も、これで何かを作れます。終わったあとに、「自分が実はものづくりが好きだったことを思い出しました」という感想を寄せる人もいました。

興味深かったのは、ある学校で理事長をされている方。学校改革を精力的に進めてらっしゃる。その人は最後までウレタンでのものづくりが難しいと言っていました。自分の心を解放しようとは思うけど、「教育者として子どもたちを導かなくては」という重圧があって、なかなか解き放つことができなかったんですね。でも、自分が「何かに縛られていた」という気づきを得ることも、ワークショップでは重要なことです。

小学生以下の子どもたちとやったワークショップでは、一緒に来た親が子どもの作品に干渉しちゃうことがあります。それはあえて阻止しますね。親が「子どもにやらせている」というのではだめなんです。

こうしたワークショップを企業の研修などに取り入れてもらう話も進んでいます。ワークショップを通して社員の内面が出るので、社員間の相互理解が進むようになる。チームビルディングにも役立つはずです。

BIT VALLEY 2019 変身ワークショップ
▲BIT VALLEY 2019 変身ワークショップ@渋谷ヒカリエ

ところで、山口さんの著書を読んでいると、私の活動はこれからの企業活動やイノベーションの創造とも全然無縁じゃないと気づかされます。社会が窮屈になるとビジネスも広がらないし、新しい創造性も生まれない

みんなが羽根を伸ばす社会になった方が、面白いビジネスが生まれる可能性があるじゃないでしょうか。もちろん、私にできることは、折れた羽根を直して、意識のマイナス状態をフラットなところに戻すお手伝いをすることくらいなんですが。

8,568通り、あなたはどのタイプ?

物差しが一つしかない社会からは、創造は生まれない

山口:日本では、物差しが一個しかない社会がずいぶん続いたと思うんです。柔軟性がなくて、直線しか測れない物差し。つまり生産性至上主義みたいな話です。企業だけでなく、学校の教育も、早さと正確さで競っている。その一つの物差しの上に子どもたちが並ばされている。

特に、中学受験期の子どもたちはやばいですね。その時代から序列があって、上の人間、下の人間を決めてしまっている。受験戦争を勝ち抜いた優等生も危ういし、そこから早くにドロップアウトした子どもたちも、それはそれで苦しい。中学受験の段階で敗者の烙印を押されて自信を喪失している。上に行っても下に行ってもおかしなことになっているように思います。

山口周氏

生産性向上だけが唯一の大義であった時代なら、早く正解を出せる人が偉いという一つの基準でよかった。しかし、今はそんな一つだけの価値で決まる世界ではない。例えば8K画質が映るテレビで同品質のものが、10万円、15万円、20万円とあったら、みな10万円のものを買う。20万円の製品が負けるのは必然です。

ところが、ピカソとルノワールがあったとして、どっちが上か?という質問はナンセンスです。誰かがこれ素敵と言えば、それは価値があるのです。それだけ物差しが多様化している。人の育て方もアートも、多様化が前提にないと面白くな

高級車のマーケットも同じでしょう。ポルシェとフェラーリを比べて、どっちが勝ちか負けかを語ることには意味がない。価格の問題ではなく、自分はスタイルとしてアルファロメオが好きだとか、いやランボルギーニがやっぱり俺の琴線を震わせるとか、そういう多様な価値の尺度があって、マーケットが成立しています。逆に、一つの物差しで序列を競うゲームしかできない人は、たいてい多様化を忌避しますね。

:会社の中でも物差しが一つだから、そこに生きづらさを感じているビジネスパーソンも少なくないですよね。個性や多様化を前提にすれば、誰もがもっと楽に生きられると思います。

澤奈緒氏
 
山口:企業ももちろん、ダイバーシティが大切だ、イノベーションが大事とか表側で掲げているわけですが、たいていは建前、おためごかしなんですね。「たしかに、それはそうだけれど」つまり「然は然り乍ら(さはさりながら)」という言い訳が必ずついてまわります。

これは日本の近代社会の作り方に淵源(えんげん)があります。日本社会の上部構造にはさらに屋根裏部屋みたいな上部世界があって、実はその裏側のルールで物事は動いている。だから、建前としてのモットーや理念をいくら掲げてあっても、誰も信じない。あまりにもそれを信じて社員が動いてしまうと、役員の不興を買うわけです(笑)。

例えば、「安全でクリーンなものづくり」を企業理念に掲げている会社だったら、真っ先にサスティナブルなエネルギーを使って、自動車を作るにしても電気自動車にすべてのリソースを注ぎ込んで作らなくちゃいけない。でも、そうはしないですよね。理念と行動の間にギャップがあるんです。

これに対して、私が最近感動したのは、世界的な広告・コミュニケーション関連のアワード「カンヌライオンズ」で去年グランプリを獲得したIKEAのプロジェクトです。IKEAのビジョンは「美しい家具を民主化する」といたってシンプルなもの。

美しい家具をお金持ちや権力者しか買えない社会はおかしい。洗練されたデザインのものを誰でも買えるようにする。ただ安くするだけではなく、美しい暮らしをワールドワイドにデリバーすることを理念に掲げている企業です。

だが、その理念を徹底させるにあたって、そこからこぼれている人がいることに彼らは気づいた。障がい者の人たちですね。脳性麻痺の人は足腰が弱いから、普通のソファに座ると立てない。脳性麻痺用の特殊なソファは高いし、使いにくい。

そこで、IKEAは家具に障がい者も快適に使えるアタッチメントを提案し、実際、3Dプリンターで作れるように、そのパーツの設計図を無料で世界に公開したんです。しかもユーザー側から修正ができるようにオープンプラットフォームにしたら、それがいまや世界中で使われるようになりました。

「美しい家具を民主化するためには、誰でもが使えるようにすることが欠かせない」と彼らは考えたんですね。その結果、その考えと行動に共鳴して、これまでIKEAの家具に興味のなかった人が買うようになり、IKEA全体の売上げが38%も増えたのです。これこそが、クリエイティビティ、アート思考のビジネスだと私は思います。

カンヌライオンズの映像を見ると、まるでそこには一陣の風が吹いたような気分になります。クリエイティビティとビジネスが調和する世界。一つの企業がビジネスを通してどういう世界を作りたいかが明確に理解できる。まさにこれは一種の“社会彫刻”じゃないか、とさえ思いますね。

抽象的な理念と具体的な行動を一貫させる

:これが日本の企業だったら、どうなんでしょうか。

山口:日本のビジネスパーソンが欧米に比べて弱いのは、抽象概念に基づいて具体的な行動を起こすとき、抽象概念と具体的行動を一貫したものとして判断する能力ですね。理念なんて建前にすぎないと軽んじているから、社員の行動規範もルールではなく、「周りの人や上司がどう思うか」「これやったら何か言われないか」が判断の寄りどころになってしまうんですね。

GoogleにしてもMicrosoftにしても、グローバルなテック巨人企業が、なぜコンセプトにこだわり、ルールを徹底するのか。実はそのほうが、生産性が高いからなんです。Googleではインターンの学生にさえ、重要なプロダクトのソースコードにアクセスする権限があるといいます。世界の情報格差をなくすとことが企業理念だからこそ、チーム内での情報格差があってはならないと考えるのです。

逆に、正社員とインターンの間でルールを切り分けたり、アクセス権限分けたりすると、オペレーションの効率が落ちちゃうんですね。日本の生産性が上がらない理由は、実はこのあたりにあるんじゃないでしょうか。ルールを決めてそれぞれがそのルールに準拠しながら、物事を判断すればいいのに、「さはさりながら」といって周囲の顔色を見たりする。これでは、意思決定のスピードは上がりません。

視覚だけに囚われるな、それ以外の感覚を思い出せ

:山口さんの本でもう一つ共感したのは、日本の教育にもっとリベラルアーツを導入しなければいけないという点です。

大学時代、視覚伝達デザイン学科の授業で、いきなり先生が「教室の外に出ましょう」と学生たちを連れだしたことがあったんです。芝生の上に座りこんで、二人一組になって片方は靴を脱げと。脱いだほうは目隠しをしなさいと。それで学校の中を1時間、目隠しをしたまま歩き回されたんです。

あとで振り返ると、ビジュアル・コミュニケーションはみんな視覚で考えがちだけど、視覚はいろんな感覚の中のたった一部にすぎない。視覚だけに囚われるな、それ以外の感覚をちゃんと思い出せということを伝えたかったんじゃないかと。

リベラルアーツも、あらゆる常識の根底を疑えという点では同じ。リベラルアーツを美術教育の中だけに押し込めるのはもったいない。全ての教育の基礎にあるべきですよね。私もアーティストを名乗っていますが、実は自分をアーティストだと思ったことはない。自分が、そして他の人が生きることを楽にする手助けをしているぐらいに思っています。

仕事や生活をする上で、アートや表現なんて自分は無縁だと思って切り離しまっている方が多いけれど、でも「自分の感覚に耳を澄ます」ことだと捉えなおしたら、本来の自分らしく生きる上で不可欠なもの。そのことに、気づいてほしいと考えています。

山口:私も似たような経験をしたことがあります。外資系のコンサルタント会社にいたときに、1週間くらいイギリスの古いお城にこもって組織開発のトレーニングをしたんです。最初の課題は、外国人同士ペアを組まされて、広大な敷地のお城を1時間散歩する。ペアの片方は、そこで感じたことを全て口に出す。もう片方は言われたことを必ずコピーして反復するというトレーニングです。何の役に立つのか説明はない。

でも、結構面白くて、「ああ、この人はここでこんなものに気づくんだ」とか、それをコピーしながら相手になりきるという感覚も生まれます。人ってそれぞれ違うものだ、ということが体感的にわかる。

それと、全員が目隠してダンスしたり、みんなでその様子をビデオで見たりするプログラムもありました。目で見ると周りの目を気にしてしまうけど、見えないからみんな独創的な踊りをする。これもまた、人が持つ固定観念、常識的な感覚への囚われを解き放つということですよね。あれは、面白い体験でした。

澤さんは先ほど「生きることを楽にする手助けをしている」と言っていましたが、それってアーティストというよりは「リベレーター」に近いと思いますね。

:リベレーター!それいいですね。今後のワークショップではツタンカーメンの仮面をかぶって、人々を解放する、リベレーターの女王として登場するかもしれません(笑)。

山口:リベレーターの原義は「解放者」という意味です。第2次世界大戦中、フランスのレジスタンスを助けるために、連合軍は簡易な拳銃を空からばらまいたんですが、その銃のことをリベレーターと呼びました。レジスタンスに銃を配るのと、ウレタンで簡単なアートを作って人々を解放に誘うというのは、どこか似ています。これからも人々を解放に導いていくリベレーターの女王を応援しています。

山口周氏が語る——モノを欲しがらない時代、なぜビジネスと人生に「アート思考」が大切なのか

WRITING 広重隆樹 PHOTO 刑部友康 EDIT 馬場美由紀
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