アメリカ軍居住区に“留学”していた少年時代。最初の夢は「プロ水泳コーチ」だった──声の仕事人・ケイ グラントの仕事論(2)

60歳を過ぎても現役DJとして活動しているケイさんに、これまでの人生を振り返り、仕事に懸ける思いを全4回にわたって語っていただく連載インタビュー。前回はDJになった経緯や目指す理想のラジオ番組などについて語っていただいた。第2回は現在の「ケイ グラント」という芸名の元となった幼少期の思い出や水泳コーチを目指してアメリカ留学を決意するまでの経緯などについて聞いた。

プロフィール

ケイ グラント(けい ぐらんと)

1959年、東京都生まれ。1979年、プロの水泳コーチを目指しアメリカ留学。1982年、帰国後、水泳コーチに。ボティビルトレーナーとして活動していた1988年、開局したJ-WAVEでDJとしてデビュー。その後NACK5やFM東京、FM横浜など様々な局でDJを経験。テレビでも日本レコード大賞・バラエティ番組・CMのナレーションなどを担当。2000年からはPRIDEやDREAMなどの格闘技イベントのリングアナとして大会を盛り上げた。2010年には歌手としてもデビュー。現在もbayfm78の「低音レディオ」のDJとして活躍中。

「ケイ グラント」誕生秘話

──DJデビューした時は「SUPER MASA」という芸名だったそうですが、現在の「ケイ グラント」に変更した理由は?

これもおもしろい話でね、ある日全然知らない人から電話がかかってきて、「あなた最近、体調が悪いでしょう」と言うんですよ。ちょうど、さっき話した「OSAKAN HOT 100」のDJをやってる時期で、確かに悪かったからそう答えると「それ、名前のせいだからすぐ変えたほうがいい」と。でも当時は「SUPER MASA」ですごく売れてたから参ったなと思ったんですが、僕もなぜか感じるところがあって、変えるならどんな名前がいいか考えました。うちの家系は伊賀忍者の末裔で、その中に慶の字がつく忍者がいたので、慶(ケイ)を入れた芸名にしようと思っていたんですが、地元の後輩が「兄さん、昔一緒に遊んだグラントハイツの記憶がなくなるのは嫌だから、芸名にグラントってつけてくださいよ」と言うので、それもいいかと思い、最初は「グラント・ヨシオ」みたいな名前にしようと思ったんですよ。でも何となく語呂が悪いなと。それで伊賀忍者の慶の字をもらって、「ケイ グラント」なんてどうかなと思ったんですが、外国人っぽいよなと迷いました。

それで、最初にお電話をくれた人に、「新しい芸名ですが、ケイ グラントってどうでしょう?」と言ったら、「やはりそうなりますね。それにしてください」って。ええっ! って驚きましたね(笑)。というわけで、1991年12月22日に放送された、J-WAVEの特番の「Denka J-wave Trial ウイスキー シネマ&ジャズスピリッツ」という番組で、ケイ グラントという1時間全編英語で喋る謎のDJがデビューしたんです。ちなみに「SUPER MASA」という人は1991年12月24日に病気で死んだことになりました(笑)。

──「グラントハイツ」というのは何ですか?

僕は1959年1月12日、東京都練馬区田柄というところで生まれました。子どもの頃は、近所に「グラントハイツ」という、日本に駐留しているアメリカ空軍の軍人とその家族が住んでる地区があったんですよ。元々は戦時中に旧日本陸軍が帝都防空の要として造った成増飛行場で、敗戦後アメリカ軍が接収し、広大な敷地を将校とその家族のための住宅地域として利用したんです。名称は、第18代大統領「ユリシーズ・グラント」の名から取って「グラントハイツ」としました。今の光が丘公園と団地がある一帯です。そこが子どもの頃の遊び場でした。小学校4、5年生の頃から毎日のように行ってたなあ。もちろんグラントハイツの敷地一帯はアメリカだから、許可証がないと入れません。でも近所の子ども用の出入り口があったんですよ。僕らが金網のフェンスを小さく破って作ったんですけどね(笑)。だから不法侵入して遊んでいたわけです。

少年時代はアメリカ軍居住区に“潜入”

──どんなことをして遊んでたのですか?

中は広大な芝生が広がっていて、そこでよく野球をしてました。あと冒険的な遊びも。入り口からより奥まで入れたやつほど、仲間から褒め称えられ、ヒーローになれるんです。「俺なんか昨日PX(ショッピングモールの中にある売店)まで行ったぜ」「すげえなお前、よくMPに捕まらなかったな」って。グラントハイツの中では不法侵入を取り締まるために、MP(警備兵)が15分に1回くらい、シヴォレーのピックアップトラックに乗って見回りにやってくるんです。それをみんなわかってるから、遊んでてそろそろMPが見回りに来るなという頃になったら、側溝に隠れるんですよ。バカだよね~。車の上から見ると子どもが一列に並んでいるのは丸見えなのに。

──バレたらどうなるんですか?

優しいMPは見て見ぬふりして通り過ぎてくれる。嫌なMPは車を止めて「お前たち~、顔を上げろ~、全員逮捕~」と言いながら拳銃を出して銃口を上に向けてバーンと撃つわけ。もちろん空砲なんだけど、僕らは本当に殺されると思うからさ、慌てて逃げるわけよ。だけど、芝生の上をバッコンバッコンいいながら、シヴォレーで追いかけてくるんですよ。今から思えばMPもよくやるよね。暇だったんだね(笑)。

──捕まったことはあるんですか?

もちろんありますよ。捕まるとこっぴどく怒られて、本物の犯罪者みたいに名前入りの板を持たされて正面と横向きの顔写真を撮られる。あと親も呼び出されてMPに懇々と説教される。「あなたの息子さんは不法侵入者だから、殺されても文句は言えないんですよ」と。だから解放された後、親にもバチバチに怒られる。でもね、捕まるとMPが紅茶と手作りのバターケーキを出してくれるんですよ。これがもう絶対日本では食べられないような、この上ないおいしさだった。それが食べたくてわざと捕まるやつもいてね。だからいくらMPや親に叱られても、その翌日、必ず“留学”するんです(笑)。

▲かつての遊び場だったグラントハイツがあった場所、現在の光が丘公園周辺を愛車で案内してくれたケイさん

──当時はまだ都内に駐留アメリカ軍の居住区がありましたもんね。今の代々木公園はワシントンハイツがありましたし。

そういう在日米軍居住区があったエリアは普通のエリアとはちょっと違う雰囲気だったんですよ。僕が小さい頃、うちの近所は農村地帯だったんですが、そんなところをアングロサクソンの白人の金髪の人たちがとんでもないドでかい車に乗って走っているのがすごく不思議だったんですよ。黄色いボンネットのスクールバスが家の前を走っているのが一番の謎でした。のちに、グラントハイツ内の小学校に通う子たちのためのバスだとわかるんですが。当時はアメリカ軍人と日本人の女性の間に生まれたハーフの子もたくさんいて、一緒に缶蹴りとかして遊んでました。僕は混血の子たちと遊ぶ方が楽しかったですね。やつら、発想がユニークだったから。

──何歳くらいまでグラントハイツで遊んでいたんですか?

中学3年生の時、沖縄返還と同時期にグラントハイツも閉鎖されたので、最後に行ったのは中学2年のカーニバルの時ですね。その後、光が丘公園として生まれ変わりました。

というわけで、確かに僕の人生の中でグラントハイツは特別な場所なので、新しい芸名に入れることにしたんです。

中学高校は水泳に明け暮れる

──中学、高校時代の夢は?

はっきりした夢はもっていませんでしたが、1971年に父親が地元でスイミングクラブを開業したこともあり、中学から水泳を始めました。ちなみに、中学は兼部できたので、ブラスバンド部にも入ってトランペットを吹いていました。それと、授業クラブではフォークソングクラブに入ってキャプテンをしてました。当時は空前のフォークブームでしたから。

高校に上がっても水泳は続けました。日が登りきらない早朝から日が暮れるまで水泳漬けの生活でした。でも時代がビーバップハイスクール全盛だったので、よく乱闘の現場に駆り出されていました。といっても、ケンカする方じゃなくて止める方。ケンカなんかしちゃった日には水泳の大会に出場できませんからね。元々高校生にしては老け顔で、身長も180センチくらいあったので、大学生だと思われて絡まれることもそんなになかった。それに日が登る前に学校に行って日が暮れるまで水泳部で泳いでいるので、学校間の抗争には巻き込まれなかったですね。それでもたまに他校の不良からケンカのオファーが来ることがありましたが、「秋まで待ってくれないか。インターハイが終わったら相手してやるから」と断ってました。で、秋にこちらからオファーに行くと、逆にみんな大人になってて「いや、僕そんなこと言ったっけ? ごめんねその節は」と逆に断られてしまって(笑)。

──ケンカを止めるというのは?

部活中、柔道着を着て竹刀もちながら水泳部の練習を観ていた時、先生がいきなり「おい、お前、行くぞ!」と。「どこに行くんですか?」と聞いたら「池袋駅だ」と。何をしに行くのかと思ったら、「一般生徒が抗争しているから止めに行くぞ!」と。それですぐ池袋駅に行って、ケンカを止めて、解散させたらまた学校に帰って水泳の練習をする。そんな日々でした。

──夜遊びももちろんしていたんですよね。

ディスコによく行ってましたね。その後、ソウルからR&Rのクールさに引き込まれてロカビリークラブに通うようになりました。当時有名だったのが、新宿にあった「怪人二十面相」、原宿の「キングコング」、渋谷の「シンガポールナイト」の3店舗で、僕は2年生の後半くらいから原宿の「キングコング」に出入りするようになりました。ヘアスタイルはリーゼントで顔はスマイルのお兄さんたちがとっても素敵に見えて、そこでロカビリーの洗礼を浴びたわけです。オールディーズというのはこんなにハートフルなのかとすっかり魅了されました。

ちょうどその当時、映画「アメリカン・グラフィティ」が大ブレイクしていて、僕も観に行ったんですがドハマリしました。映画の中に出てくる60年代のアメリカ文化そのものが、僕が生まれ育ったグラントハイツを中心とした原風景とそっくりだったんですよ。劇中の高校生たちが織りなすドラマが成増ハイスクールで繰り広げられてた感じとほぼ同じでね。あとDJウルフマン・ジャックを見てかっこいいなあと思ってましたね。当時はもちろん、後に自分がDJになるとは全く想像すらしていなかったけどね。こういった高校生の時に経験したディスコや映画がアメリカへの憧れの原点になったのは間違いないですね。

ケガで選手からコーチの道へ

──水泳の方は?

インターハイ優勝を目指して頑張っていたのですが、17歳、2年に上がる時に右肩を壊してしまったんです。痛くてどうしようもなかったから、監督に相談したら、「実家もスイミングクラブをやってることだし、選手はあきらめてコーチの勉強しろ」って言われて。それからマネージャーから水泳コーチを目指す人生を歩もうと思ったわけです。

──やっぱり選手をあきらめざるをえなくなった時は落ち込みましたか?

全然。落ち込みませんでした(笑)。とにかく練習がきつかったんですよ。毎日足にバケツを縛り付けられて何kmも泳がされるみたいな練習で。あの地獄の練習から解放されて、プールサイドの上から泳いでいるやつらを見られるようになるというのはうれしかったですね(笑)。あとうちの高校の水泳部は日本の中でもトップチームで誇りに思っていたのでチームにいられる事自体がうれしかったです。

──大学進学後は水泳は?

高校卒業する時点ですでに水泳のプロコーチを目指してアメリカに留学するつもりだったので、大学の水泳部には入らず、白金にあったスイミングクラブに入ってコーチになるための修行をしてました。ちなみに、高校が大学附属の学校だったので、高校の水泳部の仲間の多くはそのまま大学にエスカレーターで進学して水泳部に入りました。やつらに僕が大学の水泳部に入らないと言うと、泣いて喜んでましたね。

──なぜですか?

実は僕、高校に4年行ったんですよ。出席日数が足りなくて。部活は1日も休んでないんですが、授業は半分くらい休んでた。たぶん他に忙しい用事があったんでしょうね。で、留年しちゃったもんだから、もし大学に進学してコーチとして水泳部に入ると、僕が指導するのは、高校時代の同級生なんだけど学年が1つ上の上級生になる。だから1年先に水泳部に入った同級生が、「あいつ(ケイさん)が入ってくる。本来なら自分たちが鉄拳でシメなきゃいけない下級生から逆にシメられる可能性がある。どうしようか」と不安がってたんですよ。だから自分から大学の合宿所に行って、「俺は水泳部には入らないから心配すんな」と言ったら、そいつら全員が僕の手を握りながら「ありがとう~」って半泣きになって感謝したんです(笑)。

そして、その白金のスイミングクラブで1年間コーチの修行やアメリカに留学するための準備をしていました。

水泳コーチになるためアメリカ留学


──なぜアメリカに留学しようと思ったのですか?

1977年、まだ高校3年生だった時に、実家のスイミングスクールの子どもたちを連れて、アメリカのサンタクララに水泳のキャンプに行ったんですよ。その時に日本から連れて行ったのは11、12歳くらいの子で、アメリカの子より全然速かった。でも13、14歳になると逆にアメリカの子たちにぶっちぎられるんですよ。「なんでだ、この秘密を解明したい、そのためにはアメリカに住んでみっちり勉強しないとダメだ」と思ったんです。そして将来は実家のスイミングクラブを継ぐつもりだったので、アメリカで身につけた理論と指導法で強い水泳選手を育てようと。そのための留学でもあったんです。

──留学先や滞在先などの準備はどのようにしたのですか?

修行していた白金のスイミングクラブとアメリカのサンタクララスイミングクラブが姉妹クラブ契約を結んでいたので、僕に水泳コーチとしてのスキルを教えてくれていた恩師がサンタクララスイミングクラブのPTA会長のジム中西さんを紹介してくれたんです。ジムさんは広島の日系人で、日本で1回だけお会いしたことがある程度だったんですが、快く受け入れてくれました。その上、ホームステイ先まで紹介してくれて助かりました。

それで、1979年、20歳の時に大学を中退して、水泳王国であるアメリカに水泳コーチ留学したんです。

──大学中退することに迷いはなかったのですか?

何の迷いも未練もなかったです。水泳のプロコーチになるという目標がガッチリ定まっていましたから。ただ、今ならアメリカで指導者として活躍している人もいるけど、当時は全然いなかったのでいろいろ苦労しました。アメリカでコーチの修行をしてそこで得た理論や指導法を日本に持って帰って、日本の選手を指導しようとした人は僕で3人目だったようです。

──その時英語は喋れたのですか?

全然喋れませんでした。僕が話すことのできた英語は「Yes」「No」「How are you?」。何もわからないまま飛行機へ乗りこんだわけです。

──不安は?

全然なかったですね。喋れなくても行けばどうにかなるだろうと。その甘さで後々大変な目にあうわけですが(笑)。

──成田から飛行機が飛び立つ瞬間はどういう心境でしたか?

実にドラマチックでしたね。成田空港が開港して間もない頃で、1人の出国者につき見送り5人までと決められてたんですが、地元の仲間とか親戚とかが大型バス1台で見送りに来たんですよ。最後のイミグレーションに降りるエスカレーターに乗った時に、全員で「バンザーイ!」ってやられちゃって。もうちょっとやそっとじゃ帰ってこれないですよね。ところがサンフランシスコの空港に着いたらちょうど同じタイミングでイランアメリカ大使館人質事件が起こったせいで、入国審査がものすごく厳しくなってたんです。アメリカで留学のための長期滞在ビザを取得するのも無理だということになって、「バンザーイ!」の1ヶ月半後くらいに日本に帰ってきて、外務省に陳情に行ったんです。それでようやく長期滞在ビザを取得できたわけですが、あんなに盛大に見送りに来てもらってすぐ帰ってきたからちょっとバツが悪かったですね(笑)。

 

プロの水泳コーチになるために、日本を離れる決意をしたケイさん。アメリカでの修行生活は充実したものでしたが、時には命の危険を感じる“事件”に巻き込まれたことも。次回はアメリカでの生活や帰国後に目指したボディビルトレーナーの修行、リングアナや歌手としての仕事について語っていただきます。こう、ご期待。

取材・文:山下久猛 撮影:守谷美峰

Pagetop