仕事をする上で“センス”以上に不可欠なこととは?ヒットメーカー【古坂大魔王】の仕事論

YouTubeの再生回数が世界で1億3000万回を超えた「ペンパイナッポーアッポーペン(PPAP)」で大ブレイクした「ピコ太郎」。紅白歌合戦にも出場し、トランプ大統領の来日晩餐会にも呼ばれた。そんなピコ太郎のプロデューサーが、芸人であり、音楽プロデューサーでもある古坂大魔王さん。初の著書『ピコ太郎のつくりかた』(幻冬舎)を上梓した古坂さんに、ヒットを生み出す仕事の視点を聞く。

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貧乏で苦しい、は実は憧れ感さえあった

青森県出身。小学校3年で文集に「お笑い芸人」と書き、6年で同級生と録音した漫才のテープを地元のラジオ局に送り、ラジオに出演。中学1年でお笑いの道に進むと決めていたという。
だが、猛烈に勉強させられたという母親から求められていたのは公務員になること。青森出身の芸人もあまり聞いたことがなかった。あまのじゃくで、ひねくれ者だったという古坂さんは、高校を卒業して上京。日本映画学校に入る。
初日に相方を見つけ、2日目には学校を休んで練習。学校は半年で辞めた。お笑いトリオ「底ぬけAIR-LINE」を結成するも、家賃1万円のボロアパートに住み、居酒屋で働く「ど貧乏生活」が始まった。

お笑い芸人=貧乏で苦しい、というのは実は憧れ感さえあったんですよ(笑)。ビートたけしさんだって最初の頃は苦しんでいて、むしろ「かっけーなー」と思っていて。

だから、この時代に苦しいと思ったことは一度もないですね。むしろ、この期間は一年半くらいで短かった。といっても、それは今だから思うことで、当時はとにかく必死でしたから。明日はオーディション、明後日はお笑いライブ、と次から次に予定が入っていて。ネタ見せやって受かってくる人は決まってくるんです。当時は、爆笑問題さん、くりぃむしちゅーさん、ネプチューンさんとよく一緒になりました。ここに食らいついていこう、と。

僕たちは一番若くて、末っ子的な存在だったので、とても可愛がってもらえて。おごってもらったりしてました。

ウケなくなることが何より恐怖でしたけど、ウケるウケないはセンスではないと思っています。ネタを思いつけるだけのそれまでの経験値、ネタを考えられる受信機の高精度、あとは度胸。この3つはセンスではなく、努力で補える部分と思いますね。

お笑いはコンタクトスポーツなんです。ステージに上がった瞬間にその日の微妙な変化を捉えて、ゼロコンマ数秒だけツッコミを遅くしたり、声のトーンを上げたり、声を小さくしたりできるか。その空気を感じる力が求められる。そこには少しはセンスが入ってくるかもしれない。

でも、これも圧倒的な経験がカバーしてくれる。その意味でも、やっぱり努力ですね。

選択肢がたくさんあり過ぎると、人は選ばない

ちょうどお笑いブームがやってきていた。人気番組だった「ボキャブラ天国」などに出演、いきなりブレイクを果たす。お笑いライブも、イベントもチケットも飛ぶように売れた。ライブでウケると即、テレビ出演の声がかかった。今の若手からしたらいい時代だったかもしれない。
青森にいた頃、一番の夢は東京に行って、超一流のお笑い芸人と同じ楽屋に入ることだった。20歳で、そんな子どもの頃に描いた夢は叶ってしまった。無理だと思ったことも、思い続ければ本当になる、と知った。

ボキャブラ後は少しお金も入ってきましたけど、使い方にはこだわりました。当時はネタ見せの待合室に入るところからギャグをやって先輩たちを笑わせようと思っていました。それで、宇宙服でやってきて、芸人の気を引くようにする。

いきなり宇宙服で来るわけですから、笑われるわけです。「どうしたの?」「いや、東急ハンズで買いました」「いくらしたの?」「15万円です」「ばっかじゃないの(笑)」「はい、リボ払いで」みたいな。

でっかいシンセサイザー持ってきて、ステージには持っていかない。それでまた帰りにシンセを持って帰る。「どうしたの?」「いえ、シンセ大事で」「いくらしたの?」「50万円です」「ばっかじゃないの(笑)」みたいな。

そんなことばかりしていましたね。銀座や六本木で飲んだりしている芸人もいましたけど、僕はお酒飲めないんですよ。外車を買う芸人もいましたけど、僕は当時免許がなかった。まぁ、ある意味ラッキーだったかもしれません。

だが、危機感は強まった。お笑いライブなどではウケるのに、笑いの数では1位にはなれない。他の芸人には勝てない。トリオの内2人はもともとは俳優志望。限界があった。そこで作戦を立てないと、とお笑い以外の何かを持とうと決めた。それが、音楽だった。歌に興味があったというより、音やBGMに興味があった。

それで極めつけは、音楽をやるための機材に、全財産をつぎ込んだんです。「何、それで機材にいくら使ったの?」「700万円です」「ばっかじゃねえの(笑)。それ、高級車買えるじゃん」みたいな(笑)

でも、そうなると本格的に勉強しなければならないんで、毎日のように機材を触って学んでいると、オープニング曲を作ってくれ、とか言われるようになったり。でも、こんなことは芸人はやっていなかった。だから、楽曲提供やリミックスなどいろいろ声がかかって。仕事が舞い込んできた。オンリーワンって、強いな、と思いましたね。

どうして先輩たちはテレビに求められたのか

せっかくブレイクしたお笑いの世界だったが、ブームには怖さも感じていた。自ら距離を置き、音楽の世界へ進む。音楽性を追求するテクノユニット「ノーボトム!(NBR)」 の音楽活動を展開、クラブイベントのプロデュースや楽曲リミックスなどを手がけるようになる。
だが、音楽ライブの世界では「お笑い芸人が来るところではない」と言われた。中途半端ではダメだ。真剣に音楽をやろうと決めた時があった。芸人活動を抑えて音楽活動に集中した時期が続いた
前例はなかったが、うまくいけば、新しいカテゴリーができる、と。本気で音楽をやろうとすると、一から勉強することが山のようにあった。3年は下積みだった。全国をライブで回ったが、客席が数人のこともあった。

それまでの仲間が次々にテレビで売れていく中、やっぱり寂しさはありましたよね。曲を作って人に提供したり、インターネット番組が始まって草創期に番組をやっていたので、それなりに忙しかったんですが。

それでも、くりぃむしちゅーの上田晋也さんとか、Take2の東MAXとか、古坂ちょっといこうよ、と飯に誘ってくれるわけです。そうすると、頑張ってんだな、と。昔の笑いそのままでしたから。お前は、どうやったら売れるのかなぁ、なんて心配もしてもらって。

実際には、会いにくかったですよ。でも、可愛がってもらえたことはありがたかったし、僕も負けず嫌いでした。売れているからといって芸が負けたとは僕は思わなかった。ちゃんと1対1で組めば勝てるという自信がありました。だから、エンジンフルパワーで会いに行きました(笑)。

全国をライブで回って思ったのは、やっぱり音楽に食らいついて深掘りしていかないと負けるな、ということでした。音楽とお笑いのミックス。そんなことを考えている芸人はいなかった。しかも、自分で作って、自分で最後まで演出する。でも誰もいないというのは、需要がないことなのかな、と。ここが一番苦しかった時代ですね。

1996年くらいから音楽コントをスタートさせた。コントの中に音楽を入れる。音と舞台が融合する最高のエンターテインメントを目指した。
実は「PPAP」のトラックは、1996年の「テクノ体操」というネタがベースになっている。ダンス振りもほぼ同じ。しかし、ブレイクはこの時できなかった。その後、自分がやるのではなく、「ピコ太郎」にやってもらう、というアイディアが浮かぶ。

今も若い人としゃべっていて、若いというのはすごいと思うんですが、分析なんか何もしていないんですよ。漠然と夢しかない。僕も同じでした。何も戦略なんてない。決めたのは、音楽をやろうというだけで。

でも当時、言われたことがあったんですね。古坂のキャラは注目されないと受けない芸だ、と。僕は身長が186センチもあるくせに、芸が細かい。しかも、力を持ってその場を制するような場に行かないと、勢いの出ない芸なんです。

楽屋は仲間ですから、いくらでも場を制すことができる。そういう場では、圧倒的に面白いんです。でも、場を制することができない場では、力が出ない。

これは書籍に書いたんですが、「転校生の原理」なんです。その人が何者かわからないと、急にドアが開いたときに扉を閉じられてしまう。でも、僕を知っている人は急にドアが開いたら笑ってくれる。大事なのは、知ってもらうことなんです。その環境をいかに作るか。

もうひとつは、くりぃむしちゅーさんはじめ、なぜ彼らが売れたのかがわかったことですよね。彼らは4、5歳年上だったんですが、人として大人だった。芸人の「人」の部分に経験値があった。だから、テレビとは何かを理解していた。テレビというプログラムを進行していく上で必要な人間、つまり求められる役割を果たしていたんです。

昔、僕は番組で他の芸人を笑いませんでした。でも、みんなゲラゲラ笑っていた。それは、番組のプログラムを盛り上げるために必要だったからです。僕は自分だけを盛り上げていた。この違いに気づくのが、ものすごく遅れましたね、僕は。

何より「熱」と「愛」がないといけない

なぜ別人なのか。例えば、無名の誰かが「いいこと」を発するよりも、より伝わりやすいのは、既にどの様な人か、どういう思想の人か世間に認知されていて、その人の言葉を聞こうという体制が整っていること。
古坂さんは、ここで自分と芸を離す。
実際、自分がやりたかったのは、自分のような男がやるお笑いではなかった。見た目が違った。だから、音楽ネタをピコ太郎にお願いすることにした。
ピコ太郎が単独ライブで「PPAP」をやると、子どもが反応した。2016年8月、YouTubeに満を持して映像をアップすると、最初に食いついたのは、女子中学生、高校生だった。1カ月後、ジャスティン・ビーバーがリツイートして、全世界に広がる。

なぜピコ太郎はブレイクしたか。大きく言ったら、運でしょう。もっというと、時代が変わった。インターネットが出始めて、そんなところに出ているのかとバカにされた時代から、もてはやされる時代に変わった。テレビ的なものに飽きた人が、テレビ的でない変なものを探し始めた。

アップした8月25日から数週間で、100万、200万の再生になって、誰だか何だかよくわかんない映像ですから、もうこれだけでもとんでもないブレイクだったんです。アジアでもロシアでも見られていて。

ところが、ジャスティン・ビーバーのリツイート以降は、想像を完全に超えました。苦しかった時期に試行錯誤してこだわったトラックも、一人になっても単独ライブをやり続けた粘りも、いろんな先輩が応援してくれたこともベースにありますけど、それだけでは説明できない。

野球で例えれば、コントロール良く外角低めで三振を取るタイプじゃないんです。思い切り投げたら、たまたま170キロ出たとか、変な握り方をして投げたら魔球になっちゃったとか、そういうタイプなんです(笑)。

ピコ太郎は正直、裏側のセンターに向かって変な球を思い切って投げたら、風が吹いてキャッチャーに行っちゃった感じなんです(笑)。要するに、裏の裏が表だった。お笑いキャリアと20年の音楽キャリアを全部ピコ太郎に注入したら、あぁなったんです。

高い音楽性とお笑いがミックスした独自の世界観に成功し、それが結実したのが、ピコ太郎の「PPAP」だった。ピコ太郎は今、シンガーソングライターとしての活動のほか、外務省がやっているSDGsプロジェクトにも加わっている。

ヒットのヒントはありますか、とよく聞かれます。こうすればこうなる、なんてことは誰にもわからない、というのが僕の正直なところです。でも、何より「熱」はないといけない。その人がどれだけ考えたか、どれだけ貫いたか。

1万時間何かをやればプロになれる、とはよく言われることですが、何か打ち込む時間、何かに没頭する時間は絶対にいるでしょう。それは「熱」を生む。「愛」を生む。「fever&love」です。そして熱と愛があるからこそ、風が吹いて人は動く。

この時代、拡散お願いします、といっても誰もしないでしょう。でも、そこに「ぜひ来てほしい」というとんでもない熱と愛があれば、どうか。ものすごい頑張りを知ってくれている人だったらどうか。あっという間に認めてくれるはず。僕の場合もそうでした。

どうすれば成功できますか? これもよく聞かれます。逆に聞きます。何かに没頭していますか?「まだ何もやっていない」。これでは成功しません。勉強していますか?「やろうと思っています」。これでは無理です。「去年からやっています」。それで兆しが見えないなら、やめた方がいい。

そして熱はすぐに冷めてしまいます。だから、常に薪を火の中に入れていかないといけません。明日からやろう、じゃない。今この瞬間、思い立った瞬間から、やるべきなんです。

『ピコ太郎のつくりかた』

古坂大魔王 / 著  (幻冬舎)

今初めて明かされる、世界で一番有名な日本人エンターテイナー・ピコ太郎の作り方。

文:上阪 徹   写真:刑部友康
編集:丸山香奈枝

 

 

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