「消極性、悪くないよ」だけで、この本は終わっていないか?─『消極性デザイン宣言』11/4刊行記念トークイベント開催決定!!

話題の書籍『消極性デザイン宣言』(BNN新社)著者5人(栗原一貴氏、西田健志氏、濱崎雅弘氏、簗瀬洋平氏、渡邊恵太氏)が振り返る「消極性と、消極性を活かしたデザインとは」。この本の中で、消極的(性)/積極的(性)という人の気質に注目した情報システムやサービスの在り方を追求している消極性研究会の面々が、書籍にこめた思いを熱く語ります!

煩悩の世紀をいかに生きるか?

大内(編集):この対談に向けて宿題「私が薦めるシャイハックコンテンツ(仮題)」があったと思うのですが、まず栗原さんからお願いします。

栗原:『考えない練習』(小学館文庫、2012年、小池 龍之介著)です。

小池さんは、30代女性の相談「頼りにならない現代の男性を信じられない」への回答が素晴らしすぎると話題になった人です。「私は男性を信じることができない」という相談の女性に対して、「あなたはなんて煩悩に満ちあふれているんだ」みたいなことを言って、優しく厳しく諭す人なんですが。

瞑想についての実践的な効用を、この本を読んで感じました。なぜ、それがシャイなのかというと、これからのものづくり、コミュニケーションデザインは煩悩をどうするかという話に近づいていくんじゃないかなという予感があるんです。

大内:欲求ってニーズにも結びついたりすると思うんですけど。

栗原:もちろんその通りです。生きる糧というのは誰かの欲求を満たすことで得られることがほとんどですからね。でも欲望の行き過ぎをどうするかが難しい。自分の欲望をどう抑えるか、どうすれば人に嫉妬をいだかないか、とか。

これは現代で非常に重要になっていると思います。研究という形ではそれを示すのはとても難しくて。今回、特に渡邊さんの章を読んで、すごく共感したんです。

やる気をどう出す、出さない。
何を自分の中に取り込む、何をアウトプットするというのは、自然と禅みたいになっていくんじゃないかなと思っています。人に何を求めるか、とか。

本を書くというのは、研究よりもそういうことが語りやすくて、いいなと今回思いました。

栗原一貴さん

簗瀬:すごく共感する話です。私も、自分の持っている知見で人に伝えて一番役に立つのはそういう話じゃないかと思うんです。宗教とか禅だよねと思ってしまうんですけど。

自分が書いた中で私が一番に役に立つと思っているのは、誕生日を人に教えないことなんですよ。誕生日を人に教えないことで減るストレスはすごいです。特に小学生とかだと。

西田:誕生日をFacebookとかに登録していると、誕生日にメッセージを送ってきてくれる人がいるじゃないですか。自分は来たメッセージには返事はしますが、一切、誰にも誕生日メッセージは送らないんです。あれは、なんなんですかね?

簗瀬さんはもう1周して誕生日を祝われないことが平気になるんですか?

簗瀬:Facebookは自動的に誕生日にコメントしてきて、それにみんなが書いている時点で、誕生日を祝うという習慣がなくなったのと同じだと思います。

西田:そうなんです。超機械的になったおかげでストレスがあまりなくなったのかなと思うんですけど。

簗瀬:確かに、僕が子供の頃からこういうシステムがあったら、誕生日を人に教えないというのはわざわざやらなかったかもしれないですね。

西田:機械が代わりに「画面をのぞき見しないでくれ」というのは、誕生日のメッセージを言ってくれるのと対極みたいですね。

簗瀬:ただこのシステムは誕生日を特別視している人にとってはストレスなのかなと思います。

西田:機械的に祝われてしまって、だんだんどうでもよくなってくる感が。

簗瀬:機械的に祝われてしまうことに対して嫌悪感を持つ人はけっこういると思っています。それに対して、人に教えないハックは私の誕生日を祝いたい人以外には、特に害がない。そして、私の結論からいうと、そういう人は世の中にいないと。僕はこの何十年、本当に誕生日を聞かれたことはないです。

大内:教えたくないと公言しているからでは?

簗瀬:いえ、教えたくないというのはセキュリティホールなので言いません。この本に書くことはセキュリティホールだったんです。

西田:教えたくないと言われると気になるんですよね。教えたくないことがあるということ、その時点で止めておかなければいけない。

栗原:大学1年のときに中国語を勉強したんですが、そのときに先生から聞いたのは、中国だとあなたの干支はなんですかと聞くことがよくあると。それは遠回しに年齢を聞くことであるという。

濱崎:みなさんはFacebookは誕生日登録していますか?

栗原:登録したけど最初の誕生日でいろいろ懲りてやめたなー。誕生日は自他ともにだいたい無視。

簗瀬:以前、ミクシイは誕生日登録が必須で見えてしまうんです。そこで、誕生日を1月1日にしておいて、1月1日が近づいてきたら別の日付にするということをしていました。 

渡邊:すごくアグレッシブですね。すごいこだわり。リスクを減らしているわけですが、逆になんかおもしろいですね。他の人よりも、よっぽど簗瀬さんの誕生日のほうが一大イベントになっている感じですね。バレンタインならわかりますが、誕生日は。。

簗瀬:これは、バレンタインにたくさんのチョコをもらう渡邊さんならでは、の発言ですね。

渡邊:あれはだから、友達から義理的にもらえるじゃないですか? その日、何処かに出かけるとその可能性が出ちゃうわけじゃないですか。それを回避したいから出かけたくない。

どうでもいいチョコレートをもらってしまうことによる困ったこと、街頭のティッシュ配りのように仮に配っているとしても、それをもらっちゃうことによる困ったことが起こる。

簗瀬:僕はバレンタインハックもやっていて、チームがあるような職場で、よく女性社員がみんなにチョコレートを配ったりするじゃないですか。そのチョコレートは僕が提供している。女子と一緒にチョコレートを買ってきて、配る側になる。

渡邊:そういう意味では、その場で僕も持っていきたいですね。バレンタインデーとホワイトデーを分けているのがすごく嫌で、交換したほうがまだいい。

栗原:僕は女子大に務めるにあたり、バレンタインの過ごし方が怖かったので、女子率の高い大学にいる西田さんに聞きました。そしたら、すごいハックを教えてくれたんです。

バレンタインの日はどうでもいいお菓子(「どうでもいい」というのが重要)を大量に持っていって、(チョコを)くれた人にその場で渡すんですって。

一同:おおー、それはすごい。

栗原:なるほどと思いましたが、着任してここ2年くらいバレンタインデーが平日になっていないのでまだ実践はしてません。

西田:持ち帰ってしまうとめんどうくさいんです。

栗原:「ストック」にしない。

簗瀬:僕もわりとそれに近くて、バレンタインデーにチョコレートを提供する側にまわっているのでホワイトデーのことはあまり考えていない。

大内:ホワイトデーはもらうんですか?

簗瀬:いえ、ホワイトデーもあげています。男性が女性に送るときに。僕はどちらも提供する側にまわります。けっこう奇策だと思いますね。一方が多数になると、そもそもバレンタインデーは崩壊するので。むしろ崩壊してしまったほうがいいのかもしれないけど。

西田:何事にもつねにハックがある感が、この本のとおりですね。

渡邊:バレンタインデー市場も全体的に売上を伸ばしたいからか友チョコ、友達にあげるみたいになってきていますよね。それはけっこうありがたいというか、好きな人にあげるというそういう変なのはやめて。

栗原:全方位的になった。

渡邊:それはとてもよいと思います。友チョコとか、でも、もらえなかった人は友達じゃないのか的なものがありますよね。

簗瀬:アンチバレンタインのマークを作って、それを付けている人にはチョコレートを渡さないという暗黙をつくる。

栗原:韓国にありませんでしたっけ? ブラックバレンタインデー。恋人がいない人が黒い服を着て、黒い麺を食べる日です。それが出会いハックにされて、いつしかブラックデーも恋人をつくるチャンスの場になっている。

簗瀬:デザイン的に明確で、いないということを明言しているので。けっこううまいやり方な気がしますね。でも、ここのメンバーならたぶん黒い服を着ないですよね。そういう習慣には無縁ですという感じで。

栗原:クリスマスに「カップル爆発しろ」のような破壊活動を行う文化は、みなさんどうですか?

簗瀬:そんな文化あるんですか? 反抗する活動をしたら負けで、その日は人前に姿を表さないのが一番いいと思います。

栗原:一人、世の中の幸せを祈るみたいな。

大内:それは負けでは?

簗瀬:いえ、違います!

西田:クリスマスよりもハロウィンがうるさいですね。女子大とかだったら、先生、ハロウィンパーティをしてくださいとか言われませんか? 栗原さん。

栗原:はい、……。なかなか(消極性研究会で)一枚岩になれなくて申し訳ないんですが、ハロウィンパーティは去年か一昨年に一度やってしまいました……。ただの飲み会でしたが、はじめて自分がハロウィンというものに運営側として関わることができました。

西田:仮装する飲み会ですか?

栗原:いや、それはただの飲み会です。ああ思い出した! そういえば、一度だけ、お茶の水女子大の先生である共同研究者(男)に誘われて一緒にハロウィンパーティに参加したことがあります。

簗瀬:いま、ここにいる全員を敵に回しましたね!

でも、女子大のイベントってすごく学ぶことが多いですよね。僕はお茶の水女子大の伊藤研の中間発表に毎年行っていますが、普通の中間発表って別に何かおみやげを持っていったりしないんですが、伊藤研はOGがおみやげを持ってきて、終わった後に懇親会でそのお菓子を食べるんです。

栗原:よく組織されているな〜。さすが。(それに引き換え栗原研究室の消極的学生たちときたら……)

簗瀬:僕、1年目にそれに気づいたんですが、2年目に忘れてしまって。しまったと思った瞬間に350日後くらいに中間発表におみやげを忘れないようにするというリマインダーをセットして、3年目はちゃんと持っていきました。

栗原:……ええと、話の誘導をしくじりました。ちょっとだけ話を戻しまして、簗瀬さんの「反抗したら負け」というのは、すぐにアンチに走らないようにしようよということですよね。

簗瀬:そうですね、無関心なほうが強い。

栗原:そうですね。

簗瀬:愛の反対は無関心。

栗原:そうはいっても、ちょっとくらいはうらやましい状態、体験できるならしてみたい状態っていうのに対する気持ちを持っているのは別にそれは嫌悪すべきことじゃないと私は思ってます。ただ、そこに至るまでの道がいまはウェーイ系しかなくて、それに自分がなじまないために劣等感を感じてしまっている。

『考えない練習』を通じて私が言いたいことは、ウェーイは幸せへの1つのベクトルの向きであることは間違いないんですが、そこに至る道がウェーイな道しかないのはいかがなものか。競争原理のみなのはいかがなものか。

たとえば、恋愛で勝ち残るには……とか、弱肉強食だ、そんなんじゃ甘い、人を騙してでも、のし上がれ的なものしかないと、そこまでしなくても…ということ。

簗瀬:僕はそこに疑問を持っていて、本当にウェーイしかないのか。実は到達可能なものは手の届くところにちゃんとあるんだけれども、うまく入れないという可能性を否定するためにウェーイしかないということにしていませんか? という。

一番大げさなやな感じのものをやり玉にあげることによって、自分のまわりにはないんだと主張をするためにウェーイが使われているような気がします。

栗原:なるほど。理想であるとともに仮想敵であるんですよね。

簗瀬:これは僕の誕生日ハックと同じで、理想的なものが手に入らないから敵ということにして遠ざけてしまおうということではないかと。

ウェーイはわかりやすいけど、現実はもうちょっと微妙なところがある。コミュニケーションとか、いろいろ考えなければならないすごく繊細な部分がたくさんある。ウェーイを敵にすることで、ウェーイだから俺たちには無理と、繊細な試みをすることを遠ざけているのではないか。

栗原:それは、この本でも言っているようにデザインによってなんとかできる部分もあるんじゃないかと。

簗瀬:シャイハックはまさに、1つのメソッドを提示する、1つの風穴を開けた、0と1の間に1つのやり方を作ろうという試みなんじゃないかと。別に世の中の一般的な方法ではないけれど、みんな、それなりの手段を持って結婚していたりする。

道は無数にあるけれど、ケースバイケースすぎるから、共通の何かで道を作ろうというのがシャイハック。

西田:ウェーイが結局なんなのか、よくわからないです。そんなにそこにたどり着きたいという気持ちはないです。そんなに楽しいものですか? 僕が思うに、それは一過性の楽しさ、消費される楽しさ。いまになってそうなったのかもしれませんが。そんなに魅力を感じなくて。

僕が楽しめるのは、打ち上げとか、がんばったあとにがんばった人たちと打ち上げをするというのは楽しいですけど、なんでもないのに楽しいというのはそんなに楽しくないなとか思ってしまって。そういうのを楽しめているのを見ると不思議に近い。うらやましいとかうらやましくない以前に、不思議。

西田健志さん

簗瀬:それは思いますね。過程をすっとばして、何か一定の型で楽しんでいる感じになれるという。あれって、1つのメソッドだと思うんですね。

西田:ほんとにみんな楽しいって思うのかな? みたいなところはある。

渡邊:FacebookでもInstagramとかでも、ウェーイ系の人たちは何か楽しんだときに2,3倍盛って、超やばかったとか、とりあえず言っているんじゃないかって僕は思ってるんですが。真実はわからないんですが。

西田:思うのは、我々がごはんを食べておいしかったというのと同じようなことなのかなっていう。元気になるんだろうと思うんです。私はあまりならないんですけど。土曜日とか日曜日にみんなで遊びにいくと元気になって次の日がんばれる。

僕は、土曜とか日曜にそんなことしたら疲れて月曜日から仕事がはかどらない。そのへんはきっと人によって違うんだろうな。お互いに違うということを知らないのが不幸。知っているとだいぶ違うんだろうと思います。

簗瀬:もともと、大声をあげるという文化がない人間にとっては、その大声が何を意味しているかわからないという意味で、会話手段を持っていないのかもしれない。

渡邊:ウェーイ系じゃない人は、楽しさをどうやって共有しているんでしょうね。

簗瀬:それは食べたものの写真をアップする。誰と何をしているとは言わないけれど、複数の人が同じ食べ物の写真をアップしていると、どこかで楽しく食事しているんだなとわかる。というのは渡邊さんはかつてかなりやっていましたよね? 

みんなで同じ食べ物の写真を同じ時間にアップするという。あれはすごい楽しさの表現だと思います。

渡邊:なんなんでしょうね。別にまわりが思っているほど楽しくないですよ。

簗瀬:でも、楽しそうに見えますよ。

渡邊:楽しそうに見せないとやってらんねー、みたいな感じがあった(笑)。

簗瀬:あれじゃないですかね、完全に我々とは違う場を共有している人たちがいるということ自体がすごく楽しそうに見えるわけです。このチャットも参加していない人からみるとすごく楽しそうに見えるんじゃないですかね。想像以上に。

渡邊:僕らは、あれはなんというかネタでやっていますよね。誰のためにやっているかというと半分自分たちのため、それによって得られるリアリティがあっての寂しさですよね。

簗瀬:僕は逆に淡々と食べ物の写真をアップしているんですよね。前職の会社で、僕は社食の写真を毎日アップしていたんです。社外のひとにすごくいい会社に見えるって言われて、まあいい会社なんですが、社食の写真でそういわれるのが意外だった。

僕はただ機械的にアップしているだけなのに。何らかのメッセージがその行為から読み取られてしまうという。実際、社食の写真を数えてみたら120枚くらいあったので。

渡邊:写真をアップするという時点で相当のモチベーションなんだなっていうのがあるから、楽しそうなんだな、写真を取る=楽しいことである、というのがある。

栗原:すごくいいなと思うのは、嫉妬と表裏一体ですね。

8,568通り、あなたはどのタイプ?

インターネットって嫉妬じゃないですか?

渡邊:インターネットって嫉妬が起きちゃうんですよね。なんか、インターネットって嫉妬じゃないですか。暗いことを書くか、楽しいことを書くかしかなくて。Twitterで変わったかもしれないけど。

何らかのコミュニケーションを目的としているわけではないんですが、なんか忙しいとつぶやくのはネガティブな話だし、リアクションが欲しい、わかってもらいたいという思いか、楽しかったことを書いて、共有したい。どっちも寂しい感じなんですけど。

渡邊恵太さん

簗瀬:やっぱりネットというか、短い文字コミュニケーションって書いてある以上のことを勝手に読み取ってしまう。出力した量より、返ってくるリアクション、感情の総量のほうが大きい。だから炎上させて楽しむ人とかがいるわけです。

栗原:そこで『考えない練習』に話を戻しますと、嫉妬は避けられない。基本的には、自分の中でなんとかしないといけない感情だということを、禅とか瞑想の思想は教えてくれるんです。

何らかの形で、情報社会に接することによって否が応にも感じてしまう負の自分とどう折り合いをつけていくか。誰に対しても積極的でいられないという負い目とか、人のことを妬んでしまうとか。

自分のことを自慢したいと思ってしまうみたいな気持ちとどう折り合いをつけるのか。そういう研究も私たちの業界ではちょいちょい出てきています。ソーシャルネット、SNSにおける嫉妬の分析とか、Twitter上のネガティブ表現を自然言語処理によってマイルドにして、タイムラインから受ける気持ちをやわらげる研究とか。

そういうのけっこう重要だと思うんです。私もそういう研究をやりたいんですけど、自分の内面と向き合うというのは研究としては非常にやりにくいんです。評価実験どうするの、客観的に真理と言えるのという話になってくる。所詮、自分一人ひとりの問題ですみたいになってしまうから。

簗瀬:インターネットハック、みたいなのってありますよね。私だと、TwitterでもFacebookでも感情を伺わせることはほぼ書かない。

渡邊:どういう書き込みをしたらいいんだろうってけっこう悩む。自己完結しているようなものはけっこう好きですかね。

西田:私のライフハックは落合陽一のTwitterアカウントをフォローすること。なんか、うたれて強くなる、みたいな。

濱崎:基本、M姿勢ですね。

簗瀬:確かに、その人のいっていることはいやだけど、あえてフォローするというのはありかもしれないですね。落合くんのことを言っているわけではないですが。

西田:(あ、そういうことではなくて、ただ彼の圧倒的な仕事量と熱量にさらされるのが心のトレーニングになると言いたかっただけなんだけど…)

栗原:今回、我々の本でも、渡邊さんはじめそれに近いことを雄弁に語ってくれたので、本というのはそういうのを表現する力があるんだなと思いました。

簗瀬:僕はそのへんのそういう対象を、悟りのようなものに求めるのが新たなハラスメントのはじまりじゃないかって。もっと心を鎮めて、嫉妬を持たないようにしようという「サトハラ」ですね。

栗原:他人が強要するものじゃないんですよね。

西田:なんか、思いっきり嫉妬したらいいと思うんですよね。

簗瀬:たぶん、人によってどう対処すべきかって違う気がするんです。僕はたぶん内面的には栗原さん方式に近い。悟りといっても、これを悟りということにしているだろうなって思っている。出力しなければないのと同じというやつですね。

栗原:聞きかじりの禅の知識でいうと、自分の中に嫉妬が起こるということ自体を否定するのではなく、起こったこと自体は素直に自分の中に否定はせず、ただ気持ちをちょっとずつ鎮めていく、というように僕はとらえています。

大内:具体的にはどういう感情になっていくんですか?

栗原:受け流すんですね。よくない感情が生まれても、それは単に自分の脳が自分をいじめているだけなんだ、と。そのいじめが脳にとって快感だからやめられないんだ。だから、そういう感情が生まれても取りあわずにいればいい。あ、俺こんなことを考えているんだと思って、「はい、おしまい」というようにする。

脳いじめは快感なので、何度も何度もしつこく自分の中のその感情を思い起こさせる、痛い快感を催すんですが、それを鎮めるのを何回も繰り返していると、この人はあまり快感に感じてくれないなと脳が判断して、だんだんそういうノイズが出る頻度が減っていくと。

簗瀬:いっけんネガティブなことを書くのってそれなんじゃないですかね。文字化することで自分でそれを受け止めると、その感情を外部に発信することで自分の中からは消えていくんじゃないか。

濱崎:嫉妬の話でいくと、盛り上がっているイベントとかバレンタイン、ハロウィンなど、たとえばありとあらゆることが実現できる能力があったとしたら、バレンタインは楽しみたいんですか?

栗原:僕は楽しめるなら、何でも楽しんでみたいというワクワク好奇心はあります。

濱崎:自己実現系の啓発書だと、その嫉妬を原動力に達成するためにがんばれといったりするじゃないですか。嫉妬に対して沈めろという方向と、そこで頑張れという方向がある。

後者はウェーイ系や啓発系だと思われるが、嫉妬=欲しい気持ちに対する付き合い方が違う? 実現可能でも、その嫉妬の手を引っ込めるのが正しいのか?

栗原:それは、みなさんと話したいところです。嫉妬とか怒りを原動力にして生きる人って身のまわりにけっこう多いけど、僕は全然そうならないんです。

簗瀬:僕もそうですね。怒りドリブン(注:怒りを原動力にする行動方法)の人は結構いる。

栗原:いますよね、でも絶対できない。怒りや嫉妬を原動力として何かはできない。

簗瀬:それができない人がシャイハックなんです。

大内:意外に少ないのかも。

簗瀬:研究している人のなかにはそこそこの割合でいます。ゲーム開発でも怒りドリブンの人はすごくたくさんいます。

大内:怒りドリブンというのは、モテドリブンと近いんですかね?

西田:近いですね。対極ですが、近いは近い。

簗瀬:怒りは持続する時間が少ないし。必要はなくて、怒ることによって何かを始める動機を作って、始めてしまえばそれでモチベーションを持続させるので。最初の一歩を踏み出すには使えるのかなっていう気はします。モテドリブンのほうが、あれこれ模索すると思います。

西田:怒りドリブンって、怒りの対象にあたらないで、怒りによって頑張る。

簗瀬:怒りドリブンの場合は効果を測定する必要があんまりない。モテドリブンは効果を測定する必要がある。結果、モテないと持続できない。

けど、怒りはその対象がいないので、怒りドリブンのほうがモテドリブンより強そうな気がする。最初のエネルギーは大きくて持続しないのかなと思います。モテドリブンで研究している人っているんですかね?

西田:私は長らくモテドリブンで研究していますよ。

渡邊:モテの定義がわからないですよね。女子にモテるという話もあるし。結論からいうと、研究してもモテナイヨーということがわかった。

西田:それはそのとおりなんですけど、言わないほうがいいですよね。

栗原:それで頑張っている学生もいるので……。

8,568通り、あなたはどのタイプ?

努力の横滑り感があるほうがいい

西田:モテドリブンの力で研究が進むなら、何も悪いことはないです。それは秘密にしておいたほうが。

簗瀬:研究成果そのものより、それで有名になった、名前が売れたのほうが効果があるかもしれません。『融けるデザイン』読みましたよ、とか。

渡邊:それが、「モテ」なのかという感覚はわからないですね。

簗瀬:モテるという概念はモテない人にしかなくて、実際にモテるという状態になると具体性がある話になっていくから、モテるというのは消えてしまうのではないか。

渡邊:有名になるというのとモテるは違うと思うんです。有名な人とは話したいと思うわけで、それで来た人に対し、自分がモテているかというのはちょっと違うんじゃないのかな。一過性、一瞬だけで、友達になっていくという感じはしないし。一回会うだけで持続的な関係性を作る強度はない。

栗原:チヤホヤされたいというのは渡邉さんのレベルでもう達成されていると。ということに気づいていない。

簗瀬:僕は渡邉さんはすごいと思うのは、チヤホヤされているけどチヤホヤされたいという感じはぜんぜん醸し出していない。そこがすごく成功者っぽいですね。

渡邊:チヤホヤされたいと醸し出している人なんて見たことないですよ(笑)。

簗瀬:いや、いますよ。チヤホヤされたいというか、自分の言ったことに対してリアクションを得て満足したいという。

渡邊:芸能人は友達が少ないというじゃないですか。大勢の前で舞台に立ってファンがたくさんいてもプライベートでは一人とか。そういう感じに、本を書いて、いろいろな人が読みましたと来ても、そのときはうれしいけど、それはモテではない。全然質の違うコミュニケーション。モテが何を目指しているかがわからないですね。

簗瀬:実態が見えないから、モテたという自覚を得られることが少ない。逆にいうと、具体的にそれが何だかわかっている人しかモテた実感がないんじゃないですか? 

そして、その答えが得られないからこそ、モテたいという概念を捨てられないんじゃないか。もっといえば、本当にモテたいと思っている人はいるのか?

渡邊:西田さん、モテドリブンで研究していると言っていましたが、どういう状態をモテると?

西田:難しい……。そんな難しいことだっけ?

リアルに女の子と話していたりすると、モテた感じがしますね。学会に参加するじゃないですか。男女比は9:1、8:2とかじゃないですか。なのに、なぜか女性が集まっている少数の男性がいるじゃないですか。あれがモテですよ。

渡邊:確かに、それはモテですね。

西田:あれがモテで、ああなったらいいなというのが「モテたい」、モテたいからどうするか、何かをするわけですけど、そのために頑張るんですが、実際にモテたかどうかは関係ないんですよ。モテたいという気持ちによって努力することが大事なんです。モテたいというのは、モテている人に対しての嫉妬ですよね。

思い切り嫉妬してよーしとなって、その嫉妬は永遠に解消されないけど、解消されないくらいのほうがたぶんよくて、解消されちゃったらあれ? ってなりますよね。

これから何のために頑張るんだって、なくなれば次の嫉妬を探すんですよ。本当はそんなのなくて素直にがんばれたらいいんですけどね……。でも、嫉妬でがんばる人は嫉妬でがんばるんでしょうね。

濱崎:研究以外のところでモテているのは視野外なんですね?

西田:それは「モテたい」となったとき、なりふり構わず、何をしてでもモテたいという人と、なんやかんやいって自分のこだわりがあって、そこを外さないという条件のもとにモテたいという、ちょっとわがままなタイプの「モテたい」があるんです。

なりふりかまわずモテたいはまず髪型をどうしようと考え出して、服もユニクロじゃダメだなあといいはじめて。最近のはやりの映画はこれだとか、相手がどういうのが好きだとか、そういうところを頑張るんです。そのほうが結果は早く得られる。でも、それではイノベーションは起こらないんですよ。

ちょっと間違えて私は研究をがんばろうと思ったら、もしかしたらイノベーションが起きるかもしれない。前者の人は積極的な人と呼ばれて、後者の人は消極的な人だと言われるんです、きっと。でも、そう考えると世の中もっと消極的な人が多いほうがいいんじゃないかっていう。

簗瀬:つまり、何かに消極的であるがために別な方向に力が向くっていう。

濱崎:努力の横滑り感があるほうがいいんですね。

西田:間違えちゃうのが大事ですね。努力の方向を間違えるといい感じになる。

濱崎:本気で間違えたのか、実はやっぱりやりたいのは研究だから、ちょっとしたご褒美的なエサとしてモテを使っているのか。あるいはモテが本気なのか。

中二病とコミュニケーション

大内:モテで続けるのはつらいので、話題をお薦めのシャイハックコンテンツに戻しましょう。

簗瀬:僕は、栗原さんにオススメいただいたアニメがすごくよくて『中二病でも恋がしたい』。

簡単にいうと、中二病を脱出して普通の高校生になろうとした主人公が、中二病を脱出していないヒロインにあって、ドタバタするお話し。ラブコメっぽい話なんですが、なぜ中二病になるのか、どうやって人は中二病を脱するのか、というのが大きなテーマになっていて、非常に深いなと。

ここでいうと、中二病は「コミュニケーションの拒絶」なんですね。
結論はアニメ自体では出ていないんですが、悪いものじゃないねというのを全体として語っている。中二病は1つの形態であって、人は何かしら患っている。中二病はその1つにすぎない。

僕はけっこうアニメを見るんですが、この作品みたいに女の子がたくさん出てくる系のアニメは気恥ずかしさもあって滅多に見ないんですね。しかし、普段アニメをあまり見ない栗原さんが強くお薦めしていたので見たら非常によかった。

梁瀬洋平さん

栗原:たまたま、Amazonプライム会員向けビデオサービスが始まったので何でもいいからアニメを見ようと思ったら出てきて。見たらすごくよくて、生まれて初めてAmazonレビューを書きました。

簗瀬:いわゆる中二病って、ラノベではけっこうよく扱われるテーマなんです。もともとアニメ文化やラノベにどっぷり使った主人公が本当に超能力を持ってしまったり、異世界に行って活躍してしまったりという話はいっぱいあります。

そんな中で、世界で不思議なことを起こさずに、日常世界で向き合ったというのは珍しいし、物語のクオリティも非常に高いです。

西田:一般的に中二病というと、自分は特別だという妄想のイメージがあるが。ここでは違うんですか?

簗瀬:現実と折り合いを付けたくない理由があるんです。ネタバレになるからあまり言えないんですが。現実と折り合いを付けたくない理由があって、中二病を使って現実逃避をしている。

西田:中二病って特に理由がなくてもなりますよね?

簗瀬:そうですね、ただやはりそれぞれなんかあるんじゃないですかね。自分を特別だと思いたいというのはあるでしょう。

西田:全然いまでも私は思いたいですね。

簗瀬:『シュタインズ・ゲート』も、中二病をちゃんと扱った作品ですね。主人公の中二病ぶりが痛いんですけど、ちゃんと理由があるんですよね。もう1つ、『異能バトルは日常の中で』という作品。

これは、中二病の人が本当に超能力を身につけてしまうんです。そのグループみんなで超能力を身につけてしまうんですが、使い道がないんです。事件も起きないし、敵も襲ってこない。すごい超能力を持ったまま日常を過ごすことになるという話。

この話も超能力を持っているんですが、中二病なのにコミュニケーション能力が非常に高い。人の話をちゃんと聞いて、人のことをちゃんと理解しようとする主人公が描かれていて、特異な作品として注目しています。

主人公は、超能力を持ってしまったという中でけっこう混乱するわけです。もともと、中二病とかアニメとか小説など、そういう知識を持っているおかげで、そんな日常にも対処できるというコミュニケーション能力を発揮しているんですけど。

人として一番大切な、相手のことをちゃんと見て話を聞いてきっちり理解しようとするという中二病の中に主人公の良さが見えてくる。

栗原:中二病といわないまでも、誰でもシャイな時期、自意識過剰な時期はあるんじゃないかと。一部の超越的な人以外は。そんな気持ちに向き合って、いつかはそれを乗り越えて……というのが平均的な人間の成長ではないですかね。

その過去をなかったことにしないで、優しく大切に思うことの素晴らしさを教えてくれる作品でしたね。誰にでもシャイな時期ってあるよね、人生、時にシャイなことにこだわるのも良いんじゃないかなって。

簗瀬:中二病ってアニメとかラノベ由来の、誰かと戦っている人っているじゃないですか。日本社会は異常だとか、政府がどうとか。そういうのも近いものがあるなという気がします。

栗原:自意識過剰な時期ってそういう恥ずかしいことを平気でやるわけです。世界を変えるとか、悪だとか。そういうのを他人にさらす恥ずかしさよりも、その自意識を守ることのほうが大切だと思い込むくらいの強さを持っちゃっているわけです。それくらいの強さがある自分というのは大切にすべきだと思うんです。

簗瀬:『中二病でも恋がしたい』は、そういう過去の自分と向き合って、毎回転がるほど恥ずかしがる。僕だって、中学生の頃に読んだ小説とか直視できないですから。

そういうのはどうするかというと、昔考えたネタを使って本当に市販のゲームを作ってしまうというハックを。これはあまり一般的ではないのでお薦めはできないですが。

「実は踊りたいけど恥ずかしくて踊れない」のか?

濱崎:僕のお薦めのシャイハックコンテンツは、古谷実の『僕といっしょ』。メインキャラクターは3人の中学生の子供で、親が駄目だから弟と一緒に家を飛び出して……みたいな話なんですが、主人公の「先坂すぐ夫」は強い男、頼れる兄でありたいという思いと、実際の実力や努力が一致しない、中二病のさなかにいる中学生。

野球選手になると周囲に言いながら、でも、特にチャレンジするわけではない。すぐ夫と対比的なキャラクターに「イトキン」がいて、彼は現実的というか、ウェーイ的というか、おもしろかったら乗ればいいじゃんってタイプ。

すぐ夫とイトキンの性格の違いが話のポイントになることも多いんですが、この漫画の中に、踊る阿呆に見る阿呆同じアホなら踊らにゃソンソン、と実は踊りたいんだけどプライドとか恥ずかしくて踊れないんだと、すぐ夫が叫ぶシーンがあるんですが、みなさんはそういうのはありますか?

簗瀬:それはその場にならないとわからないですね。

濱崎:突きつけられた瞬間ってありますか?

簗瀬:僕はどっちかというと恥ずかしくて踊れない人間なんです。でも、経験的に恥ずかしくて踊れない人間のほうが恥ずかしいというのはわかっている。でも、そういう機会って小学校終わるとなくなるじゃないですか?

WISS(補足:Workshop on Interactive Systems and Software / インタラクティブシステムとソフトウェアに関するワークショップ )が青森で開催されたとき、夕食のときに地元の踊りをやらされたりしましたよね。ステージにお客も呼ばれてショーとして楽しむ。

僕もそのとき上がっているし、特に恥ずかしがることもなく踊れるんですが、あのとき研究者の集団の中で恥ずかしかる人はいなかった。内心はどう思っていたかはわからないですが、恥ずかしがることが恥ずかしいと理解して行動できてしまうんだ、これが大人だなと。

栗原:すごく嫌でしたよ。

簗瀬:僕も積極的にやりたいとは思わないんですが。心を無にして動きをトレースするということに集中しました。

栗原:すごく嫌で参加するんですが、しばしば目立っちゃって指名されたりしちゃいます。たぶんやりすぎているんだと思います。加減がわからない。

西田:青森のねぶたはリオよりもあとでしたね。

栗原:リオね……(遠い目)。現地でサンバ踊っている栗原みたいになってしまってたな……。(補足:リオデジャネイロで学会があった際、栗原がほんとうは嫌なのに楽しそうにサンバを現地の方と踊っている様子が激写され、話題になった)

簗瀬:それは、かなりはっきり嫌ですね。

西田:でも、一番ハードルが高いのはヨーロッパで社交ダンスを踊りましょうとか。リオやねぶたは適当でいいじゃないですか。

栗原:日暮里のイラン料理レストランに行ったとき、途中でダンスが始まっちゃって。すごくやりたくなかったんですが、いつの間にかベストダンサーになっちゃって……。

西田:簗瀬さんも言っているように、そういう場でやらないほうが恥ずかしいからやる。

簗瀬:僕はそこは加減して、一番ダメでもなく、一番目立つわけでもないくらいのところで切れに収めます。

濱崎:栗原さんは、やるからには全力?

栗原:そこで1番になろうとは思わなくて、単純に嫌だなという思いにさいなまれるのは嫌だから。いやいややるのが嫌だから、嫌だなと思う気持ちを消して無になって動いてます。

濱崎:いったらイベント楽しかった的な、アイスブレイキング的な人たちの設計には乗らないわけですか? やってみたら楽しかったよねという結論には至らない?

栗原:そういう気持ちになることもあるという確率は極めて低い(と言いたい)。

簗瀬:やってみたらよかった的な空気を出すとつけ入る隙を与えるので、そういう空気を醸し出さない。

栗原:醸し出さないと普段から思っているけど、絶対に……というわけじゃない。それをどの場面でも毎回やらせるのは稚拙すぎる。ダメージが大きすぎる。

この本の先には何があるのか?

大内:そろそろ時間的にまとめに入りたいのですが、みなさん、この本を書いてどうでしたか?

簗瀬:あえて言うなら、私は自分の行動の意図を勝手に読まれるのがすごく嫌いなんです。こういうシャイハックを公開してしまったことで、「それ、シャイハックですね」って言われることが増えそうでそれを危惧しています。

コンテンツをつくるときはそういう思い込みをうまく使いたいんですが、日常生活では一切起こってほしくないので。これを読んだ人はそういう勘ぐりはやめてください(笑)。

そういうストレスの持ち方をする人間がいて、いろいろな工夫をしているということを知ってほしいというのはあります。対策として何も言わないのが一番なので、世の中に知られていない。一番のテーマは、そういう人が世の中に知られなくても良い世界。

僕は誕生日会やめようとは言わない。僕が誕生日を言わないことで解消されているので。そういう方法があるということ。それは知ってほしい。あくまで一例ですが。

SNSでは何でも情報発信しようとする、共有しようとするけれど、ケースバイケースで、掘り下げて考えなければならないと思うんです。みんなとつながるのが本当にいいことなのか、情報が広く世の中に知られることがいいことなのか、システムとかサービスをつくる人は本当に考えなければならないなと思います。

西田さんがいつも言っていることですが、これを使ったことでまわりにどう見られるか、というのも含めて設計する必要があるというのがいまのSNS社会。

栗原:アプローチャビリティと同じように定義できそうな概念ですよね。

簗瀬:Appleとかは比較的そういうことに敏感な企業ですよね。

栗原:みんなで集まって本を書いて、共感が得られたなと思うんですけど。タイトルにもなっているように「声を上げよ、いや上げなくてよい」ので、じわじわと共感が広がってほしいと思います。

ただ、そのあとどうしていくかは、このあと考えなきゃなと。西田さんが書いてくれたように、匿名の善意を集めるというのは確かにそのとおりだなと思う。本当にデザインしなければ可視化が難しいと思うので。

「俺たち、通じ合っているぜ」というのを、より大きな輪に、1つ1つの社会のいろいろな場所に施されたよいデザインと統合するようなつながりがデザインできないかなと。いろいろな局面でシャイハックしているよと通じ合えて、世の中がより良くなっていく。

それがどういう形態なのか、シャイハックを投稿するようなサイトなのか、シャイな人同士がすれ違うとピコーンと鳴るようなデバイスなのか、わからないですが。密かに通じ合うというのをもうちょっとみんなで感じて、総体としてどうするか。

自分の日々の中で取り組むということは本の中で書きましたが、合言葉みたいなものがあるといいなと。人を集める、つながる以外の何かを考えないければいけない。新たなスタートになれば。

西田:消極性、シャイハックというのは、デザインとか問題解決の演習として、非常にちょうどよい題材になるのではないかなと思います。デザインとか問題解決というと、すごく高尚な感じがしたり、使える感じがしたり。

そういう印象があるのを、ぐっと身近なところに持ってこれたのであれば、この本を書いてよかったなと思います。

僕が国際文化学部というところにいるせいか、最近グローバルイシューとよく言われるんですが、そんなに大きなことばかり考えていても何も解決できないんじゃないかって思うんです。一人ひとりが身近な問題を解決していきたいと考えて、それが集まった先にそういう大きな問題の解決があるんじゃないか。

なんでもかんでもみんな短絡的に考えすぎるのかなと思います。なんか知らないけどイノベーションしてくれとか短絡的すぎて。身近なことに一歩一歩向き合って行く先にそういうものがあるんじゃないか。

すぐにイノベーションなどと言うのがたぶん(世の中的にはもてはやされている)積極性で、我々にとってはちょっと気を付けるべき対象で。その反対側にある「身近な自分の悩み」みたいな、消極的だとかうじうじするなとか言われがちなものこそ、それを問題提議して考えていく先にもっと大きな問題があるのではないか。

僕の中で積極的と短絡的は「考えないこと」としてセットになっています。消極的と「よく考えること」がその反対で。本の中では(消極的な人について)シャイハックに限定して活躍できるよと書きましたが、本当はもっと全方位的に活躍できるんじゃないかという気がしています。

濱崎:こういうネガティブになりがちなものをポジティブにとらえたものが集まったというのはすごくいいと思います。AをやるにはBをやらなければならないということは現実世界に多い。でも、BやCをやるほど動機がない、ということも多かったわけです。

個々人の持っているタスクはAの問題解決までできる、けれど現実世界の仕組みではAもやるならBもCも一緒に、というくくられ方をしているので、結果的にAの解決に力を発揮できるはずだったのに、そのチャンスがない。

そのときに、BもCもやる強い動機のある人、苦手要因に気を止めないような、できる強さのある人が上に立ってしまう。そういうことが現実世界では多々あるのかなと思います。

それが、情報環境などがきちんと設計され、AとBとCのタスクがちゃんと分離になれば、それぞれが持っている力を十全に発揮できるようになるのかな。それができるのが、情報システム、デザインだと思います。

情報システム、デザインだからできる可能性がある、そこがおもしろいと思うので。Aしか解けない人がもっと出てくるようなデザインがもっともっと出てくると、できるといいのかな。

もともと僕らが話していたのは、ソーシャルメディアとか社会的インタラクションのところをシステムがサポートするということは、社会的行為に対するケアが当然必要だと。物理的なもののデザインなら物理的なケアが必要なように。

認知的なデザインなら、弱視や色盲の人に見やすいよう認知的なケアをするように。社会的行為に対してある苦手意識を持っている人たちをケアした設計が当然あるべき。

残念ながらいまコミュニケーションだけだと、つながれば後はよろしく的になりがちなところがある。そこを組んでいくようなデザインのサンプル例がたくさん載っているのがこの本だと思うので、このあとポンポンできてくるともしろいのかなと思います。

濱崎雅弘さん(撮影:石澤ヨージ)

渡邊:全体的な感想としては、そういう意味で他の章を読むとああそんな発想しちゃっていいんだという感じがあって、しかもおもしろい。

私の章でいえば、コミュニケーションの話ではないんですが、書いてみて思うのはあまり積極的でない人、消極的な人をサービスの設計時にどう扱えばいいか、いいペルソナができたんじゃないかと思います。ユーザー像の手がかりになるんじゃないかと。

この本を書いたモチベーションは、見るテレビから使うテレビへとか、なんでもインタラクティブと言われた時期があって、なんでもかんでも人に操作させようという流れがある中で、研究として能動性・受動性というのを取りあつかってきて、個人的には受動的なインタラクションを模索してきたという経緯があります。

それで人間の消極性に興味がある。自分の生き方としても(自分で意識を掻き立ててではなく)、環境に依存してうまく活用して生きるという生き方をしているので、そういうノウハウが共有できたらいいなっていうのがまずあります。

それはインタフェースの研究をしながらも、自分がものを買ったりするときも、そもそも自分がそんなに積極的に、努力しなくても物事がうまくいくように、環境のほうに時間やお金をかけたりすることで暮らしているので。

そういうノウハウ、設計にも必要な話だよねということをうまくまとめたかった。日々の暮らしの中で僕はめんどくさがりなんですが、自分のせいにしない。やる気がないのを自分のせいにしない、すべて環境のせいであると割り切って考える。それって生き方として楽。それを自分は実践している。

震災後に日本人が明るいと報道されていましたが、日本人は自然には勝てない、天災に対して仕方がないという感覚があるからではと、誰かが言っていました。自然との付き合い方。西洋では、人間の力が絶対で制御したいと考える。

日本人は自然の中にうまく融け込んでいくという精神、その辺の流れとギブソンの生態学的視覚論の感じで、能力を自分の所有物のように感じているが意外と環境の設計次第でいかようにでも変わるという話。

他の章でも書かれていますが、デザインで解決しようというのはまさにそれなので。そういう話を伝えたかった。

インタフェースの研究者は、使えないのは人間が悪いんじゃなくて、環境に問題があるからだと考えるので。使いにくいのが人間のせいというのはそもそもおかしいという原理で動くので。

であれば、コミュニケーションが取りにくいというのも、自分の意思でコントロールすべきものかもしれないけど、デザインでもインタフェースの原理(=使えないのは人間ではなくデザインが悪い)で考えれば、意外に解決できることは多くあるということを示していると思います。うまくいかなかったら環境を変えてみましょうと。

西田:僕はもっと積極性をDisりたかったな。良い積極性と、悪い積極性がある。良い積極性は悪い積極性以外。悪い積極性は、ずるい、目的のためには手段を択ばない姿勢、たとえばポケモンGoをやるときにルール違反のアプリや行動を取る。

本当に悪い行為は法律で取り締まれるが、モラルでしか規定されないものは取り除けない。

僕が嫌いな積極性は、モテたいのときに自分を研磨するのではなく、相手の好みを研究して合わせていく。一足飛び、短絡的に答えを求めようとする姿勢、熟慮に欠けた勇み足を、(肯定的な意味での)積極性と勘違いしている。

悩んでいると優柔不断と悪く言う風潮に対し、もっと考えろと言いたい。

ウェーイが嫌いな理由もそういうこと。考えないことへの嫌悪感。

栗原:「悪い消極性」というのもありますよね。内向きの思考になることによって心身が疲れたり、病んだりするのはよくない。熟慮は生きる力・活かす力に変えるべきであって、熟慮が自分に苦しめる方向に向いてはいけないと思います。

それにしても、「目には目を」とかささくれ立っていた私を「積極的な人も大切で共存しよう」と諭してくれた西田さんからの積極性Dis宣言! 

まさかのどんでん返しで若干困惑してますが……。まあでも、我々は常に「言い過ぎたかな? 言い足りないかな?」とか考えるバランス感覚と議論の余地を残してるってことですね。熟慮を推しつつ、今回『考えない練習』を取り上げたのも、今思えば私なりのバランス感覚だったのかな。

(収録:2016年9月20日)

※本記事は『消極性デザイン宣言』(BNN新社)著者5人(栗原一貴氏、西田健志氏、濱崎雅弘氏、簗瀬洋平氏、渡邊恵太氏)が掲載用に行った座談会のフルバージョンです。

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『消極性デザイン宣言−消極的な人よ、声を上げよ。……いや上げなくてよい』
消極性研究会(栗原一貴/西田健志/濱崎雅弘/簗瀬洋平/渡邊恵太) 著、小野ほりでい イラスト
2016年10月24日発売、四六判/304ページ、BNN新社、定価2,000円+税

※イラスト:小野ほりでい
※写真:CEDEC2015 パネル討論「消極的なユーザのための◯◯システム」(一部「第4回ニコニコ学会β」より)
※編集:大内孝子

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