「やりたい仕事」が見つからないのは、「本当にやりたい」ことが“誰もやったことがない”仕事だったから――フェアトレードに取り組む 藤原愛の仕事論(1)

皆さんは「フェアトレード」という言葉をご存知だろうか。発展途上国の生産者の生活改善と自立を目的として、途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入し、自国で販売する「公平・公正な貿易」のことである。
このフェアトレードに2014年から取り組んでいる女性がいる。藤原愛、32歳。
扱っている商品はインドネシアのカポポサン島産のココナッツオイルだ。なぜ藤原さんは最近まで地図にも載っていなかったインドネシアの小さな島の人たちのためにフェアトレードに取り組んできたのか。その経緯やフェアトレードに対する思い、仕事観や働き方に迫った。第1回はカポポサン島との運命の出会いを果たすまでを語っていただいた。

プロフィール

藤原 愛 (ふじわら・あい)

1987年兵庫県生まれ。高校卒業後、カナダへ1年間語学留学。帰国後、2年間スペインバーのバーテンダーを経て、22歳の時フェアトレードポリシーのショップカフェ“Love’s Gallery”を神戸市に開業。2012年、閉店しインドネシアへ移住、通訳の仕事を経験。この時知人を介してココナッツオイルに出会い、2014年、カポポサン島でフェアトレードココナッツオイルプロジェクトを開始。現在に至るまで、島民の生活改善、自立支援、環境保護に寄与している。一児の母。ココナッツオイルはオンラインでも購入可能

Love’s Gallery  http://lovesgallery.wixsite.com/coconutoil

スーパーヒーローに憧れて

──現在取り組んでいる活動について教えてください。

2014年から、インドネシアのカポポサン島で島民が作っているココナッツオイルを日本に輸入し、販売するフェアトレードに取り組んでいます。フェアトレードとは、途上国から原料や製品を適正な価格で継続的に購入して、自国で適正な流通・価格で販売することによって、途上国の労働者の生活改善や自立、環境保護を目指す貿易のことです。

──なぜそのような活動をするようになったのか、これまでの人生を振り返りつつ経緯を教えてください。子供の頃からそういう活動に興味があったのですか?

そうですね。子供の頃の夢はスーパーヒーローになることでした(笑)。感受性と正義感が強い方で、他人が悲しんでいたら自分のことのように悲しく、悪者をやっつけて世界をよくしたいと思っていました。その思いは高校に入ってからも持ち続けていたのですが、世の中をよくするために、どのような大学に進学してどのような学問を学ぶべきかわからなくて。とりあえず英語を喋れたら可能性が広がると思ったので、高校卒業後はカナダのバンクーバーに留学することにしました。

バンクーバーは多種多様な人種、文化が入り混じっていて、今でいうLGBTの人たちも自由に自分自身のことを表現していました。また、貧富の差も激しく、富裕層エリアでは高級マンションや住宅が立ち並ぶ一方で、貧困層のエリアでは麻薬依存症やホームレスの人たちが昼間から道端で寝っ転がっていました。このような現実やいろいろな人に出会えたこと、多様性に大きな衝撃を受けたんです。この約1年間の経験で私にしか担えない役割は必ずあると思いましたし、人や世の中の役に立つことが何かできるはずだという根拠のない自信はつきました。

帰国後、スペインバーで働く

──帰国後はどうしたのですか?

カナダから帰国後、人の役に立ちたいという思いは持ち続けていたものの、具体的にどんな仕事をしたらいいかわからない時期が長く続きました。そんなモヤモヤしていた時期に社会起業家という職業を知り、「私がなりたいのはこれだ!」と思いました。でも具体的に何をするべきかはわからなくて。とりあえずお金を稼ごうと、子供専用の写真スタジオで撮影アシスタントのアルバイトを2ヶ月くらいした後、スペインバーに入店しました。バリスタやバーテンの仕事に興味があったし、外国人のお客さんがたくさん来くるので英語が使えると思ったからです。このお店は、スタッフの皆さんも海外経験者で話も合うし、自由な雰囲気だったので、ようやく自分に合う場所を見つけられたと思っていました。でもじきに息苦しさを感じるようになりました。

──なぜですか?

カナダ時代は年齢など関係なく、誰に対しても言いたいことが言えたし、やりたいことができたのですが、日本の職場では年下で経験がなければ何もさせてもらえないとか、年上の人の言うことは間違っていると思うことでも何でも聞かなければいけないということが多くて。私自身、まだ若かったし、根拠のない自信に満ち溢れていただけに、歯がゆく、悔しい思いをしました。

──具体的にはどんな悔しい思いを?

ある時、『おいしいコーヒーの真実』というドキュメンタリー映画を観て、コーヒー豆の原産国の生産者が先進国の多国籍企業に搾取されている事実を知って大きな衝撃を受けました。その背景にあるのは利益至上主義の大企業や安い物を求める消費者の意向だということを知って、わざわざ「フェアトレード」と言わなくてはいけないほど、この世の中がフェアじゃないと気づいたことも大きなショックでした。自分の着ているものや食べているものが嫌になったくらいです。それで、お客さんにフェアトレードのコーヒー豆から作ったおいしいコーヒーを飲んでもらってフェアトレードの知名度を上げようと、フェアトレードの利きコーヒー会というイベントの企画書を上司に提出しました。でも上司から「そんなイベントなんてやっても店にとってメリットがないし、フェアトレードを広めたからって何になるの?」と却下されたんです。これがわかってもらえなかったらこの店で働くのは無理やなと思ったし、雇われている限りは与えられた枠の中でしか働けないような感じがして、自分を試すためにも、1人でやった方がいいんじゃないかと思うようになりました。

決定的だったのはある時、上司から「君はこの店だから通用するんや。外の社会に出たら通用せんぞ」って言われたこと。この時、めちゃめちゃ腹立って「それなら、自分でやったるわい!」と思って店を辞めたんです(笑)。

22歳で「Loves Gallery」のオーナーに

──辞めてからどうしたんですか?

22歳の時、自分自身が海外に行って生産者から買い付けた雑貨品と、フェアトレードのマークのついたコーヒーを販売するショップカフェ「Love’s Gallery」を神戸で開店しました。この時は、流通や販売がクリアであればフェアトレード商品になると思っていたので、それならば自分で途上国を旅して直接生産者から買い付けて販売すれば、フェアトレードのお店がやれると思ったんですよね。これは後に大きな間違いだったと気づくことになるのですが……。それでこれまでの貯金を全部はたいてお店を出したわけです。

──独立することに不安やプレッシャーはなかったのですか?

あんまりなかったですね。もし失敗してお金が全部なくなったとしてもまだ若いからやり直せばいいやと。基本的に楽天的でポジティブなんですよね。今考えたら恐ろしいとは思いますが(笑)。その時は、今はとにかく経験を積まなければという思いの方が強かったんですよ。当時の私がいくら探しても「これがやりたい!」と思える仕事が見つからなかったのは、多分まだ誰もやっていなかったからで、だとすれば自分の道は自分で見つけなければならない。そのためには普通の人とは違うスピードで人生経験を積まないといけないと思っていました。だから、ただ単に自分のお店を持ちたかったというわけではなく、同級生が大学生の時に私は社会で働いて、みんなが卒業して就職して社会人になる頃に独立してお店を開業しようと思ったんです。

でも、開業はしたものの、フェアトレード商品をどう生み出すかということまでは何もわからなかったので、先程もお話した通り、取りあえずフェアトレードマークのついた豆で淹れたコーヒーを出したり、いろんな国、例えばネパールに行って山岳民族の女性を支援しているという札のついた商品を買い付けて販売するということしかできませんでした。商品がどう作られているのか、原材料や生産工程までは把握しておらず、自分がプロデュースして商品を作るというところまではたどり着けなかったわけです。

しかし、このようなお店を経営していたら国際協力系のNPOやNGOの人がよく来てくれるようになって、情報交換の場になりました。そんなある日、ネパールの貧困支援を行っているNGOの職員が私の店の商品を手に取ってこんなことを言いました。「外国人は『フェアトレード』や『ハンドメイド』、『オーガニック』などの謳い文句がついたグッズを喜んで買う。それを利用して儲けている人たちがいる。でも実際に原材料や商品を作っている生産者は貧しいままというケースが多いから、気をつけたほうがいいよ」と。この言葉を聞いて、基本的に仕入先の人を信用していただけに大きなショックを受けました。そして「生産国で直接買い付ければフェアトレードになる」という考えは浅はかだったと気付いたんです。私がお店に並べていた商品が実際にそのような商品なのかはわかりませんが、中にはそういう商品があったかもしれません。だから、今後扱う商品は、私自身が原材料から生産工程、流通、販売まで全部把握しなければならないと思ったのです。

東日本大震災が転機に

ちょうどその頃、東日本大震災が発生しました。私自身、子供の頃に阪神淡路大震災を経験していたし、あの惨状を黙って見てることなんてできなかったので、すぐに常連のお客さんと支援団体を結成し、義援金や支援物資をかき集めて、震災の翌月から被災地にボランティアに向いました。神戸から来ましたと言うと、同じ震災経験者ということで被災者のみなさんに温かく迎えてもらえました。現地でまさに今困っている人のお役に立てて、ありがとうとお礼を言われるような支援活動ができたので、私自身もうれしかったし、すごい充実感を得られました。同時に、独立して自分でお店をやってきたからこれだけの人も物もお金も集められたし、自分の行きたい時に自由に支援に行けたので、頑張ってきてよかったなと思いましたね。もし会社員だったらとてもできなかったでしょうから。

▲支援物資でいっぱいになったお店

▲被災地でボランティアを行った愛さん

でもいいことばかりではありませんでした。被災地に行ってる間はもちろん店は閉めなければならなし、店内はどんどん届く支援物資でいっぱいになり、営業できない日が増えてしまって。そうなると当然収入は激減します。支援活動に夢中になりすぎて、気がついたら来月の店の家賃の支払いをどうしようという状況にまで追い込まれてしまったんです。この時、自己犠牲で支援活動するのは長くは続かないし、自己満足で終わっちゃうからあかんなと気づきました。それで、フェアトレードをしたいということに加えて、ちゃんと持続可能というか自分の生活を賄えるスキームを作らなきゃいけないと思ったんです。

インドネシアへの渡航を決意するも…

──確かにボランティアって負担が大きすぎると長くは続けられませんよね。それからどうしたのですか?

いろいろ考えましたが、具体的にどうすればいいかわからなかったし、お店の運営資金も底を着きそうだったので、このままお店を続けるのは厳しいかなと。ちょうどそんな時、知人から「インドネシアのジャワ島で日本食レストランを開業するから通訳の仕事をしないか」と誘われました。このまま日本にいてもフェアトレード商品を自分で作るきっかけにも出会えそうもなかったし、インドネシアはコーヒーでも有名だったし、行けば何らかのチャンスをつかめるんじゃないか、また、海外で働いてみたいとも思ったので、その誘いを受けることにしたんです。

いざ、インドネシアで頑張るぞと決意した矢先、思ってもみなかった深刻な問題が発生しました。2012年の4月か5月頃にインドネシアに渡航するために病院で健康診断を受けたところ、卵巣に腫瘍が見つかったんです。医師からは、初期の段階だったので、手術・入院で1週間、体力の回復まで1ヶ月くらいかかると言われました。でも1ヶ月以上も店の家賃が払えないところまで困窮していたので、慌てて店を畳んで2012年5月末に手術をしたんです。おかげさまで手術は無事成功。体力が回復して、もろもろ準備が整った2013年1月にインドネシアへ渡りました。

▲入院中の愛さん。手術は無事成功した

──そのタイミングで健康診断してよかったですね。

そうですね。腫瘍が10センチを超えていたら卵巣ごと摘出しなければならなかったのですが、その前に見つかったので摘出せずに済んだんです。もしその時インドネシアの話がなかったら健康診断を受けてないと思うから運がよかったです。いろんなことに感謝ですね。

インドネシアで仕事を始めるも行き詰まる

──インドネシアではどんな仕事をしていたのですか?

現地に出店するためには現地パートナーが必要なので、募集するところから始めました。興味をもって応募してきた現地の事業家に、日本人のオーナーが話す企業理念や事業形態、フランチャイズ契約の内容などを英語で通訳するのが主な仕事で、じきに現地パートナーが決定しました。日本食レストランの営業が始まってからは、現場での仕事はなく、ビジネスパートナーと日本人のオーナーとのミーティングに同席して通訳する仕事がメインになりました。

でも、間もなくいろいろな問題が発生して経営が傾いてしまいました。1年半後には私の仕事も徐々になくなり、精神的にかなり追い詰められてしまって。その時は日本に帰ろうかなと思ったこともありましたが、このまま帰ったら負けやと。経営が傾いていく間、何もできなかったし、そもそもインドネシアに来た本当の理由はやりがいのある仕事を見つけるため、つまり、フェアトレード商品を自分で手がけるという夢を叶えるためだったので、それが何にもできないまま日本に帰りたくなかったんです。

カポポサン島との運命の出会い


──では当時はかなり苦しかったんですね。

はい。限界まで我慢してたというか、日本に帰れるきっかけを探してたという感じですね。そんな葛藤を数ヶ月抱えていたのでめちゃめちゃ苦しかったです。その精神的ストレスと、インドネシアは乾燥がひどいので、元々患っていたアトピー性皮膚炎が悪化してしまって。しんどいことをFacebookで愚痴ってたんです。そしたら、インドネシアで仲良くなった友達がそれを読んで、カポポサン島という小さな島で島民の手で作られているココナッツオイルをペットボトルに入れてお土産にくれたんです。島の人も紫外線から肌を守ったり、乾燥対策で塗ってるからよかったら使ってと。

すぐに塗ってみたら肌が乾燥してチクチクしてかゆかったのがすっと収まったんです。香りもよかったので、「このオイル、めっちゃええやん。日本でもけっこう売れるんちゃう?」と冗談半分で言ったら、「カポポサン島は主要な産業が漁業くらいしかなくて、みんなすごく貧しいから、そんなことができるのならぜひやってほしい」と。その言葉を聞いて、それやったら私も本気で島に行かなあかんなと思いました。それで通訳の仕事を辞めて、スラウェシ島のマカッサルという港町に住んでる、カポポサン島の人々と親交の深い、漁師の友達に船を出してもらい、1週間後にはカポポサン島にいました。

 

ココナッツオイルと出会ってわずか1週間後にはカポポサン島にいたという愛さんの行動力には驚くほかありません。その後も驚異的な行動力でどんどんプロジェクトを進めていったのでした。次回は愛さんがカポポサン島に渡ってから気づいた真の問題、それを解決するために取った行動、そして目の前に次々と立ちはだかる壁を乗り越えて、ココナッツオイルが日本に届いた時のことなどを語っていただきます。

フェアトレードに取り組む 藤原愛の仕事論 第2回はこちら

 取材・文:山下久猛 撮影:山田紗基子

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