“拳銃”を口の中に突っ込まれたアメリカ留学時代。帰国後23歳でいきなり社長に。──声の仕事人・ケイ グラントの仕事論(3)

60歳を過ぎても現役DJとして活動しているケイさんに、これまでの人生を振り返り、仕事に懸ける思いを全4回にわたって語っていただく連載インタビュー。前回は現在の「ケイ グラント」という芸名の元となった幼少期の思い出や水泳コーチを目指してアメリカ留学を決意するまでの経緯などについて聞いた。第3回はアメリカでの忘れられない体験や帰国後に目指したボディビルトレーナーの修行、リングアナや歌手としての仕事について語っていただいた。

プロフィール

ケイ グラント(けい ぐらんと)

1959年、東京都生まれ。1979年、プロの水泳コーチを目指しアメリカ留学。1982年、帰国後、水泳コーチに。ボティビルトレーナーとして活動していた1988年、開局したJ-WAVEでDJとしてデビュー。その後NACK5やFM東京、FM横浜など様々な局でDJを経験。テレビでも日本レコード大賞・バラエティ番組・CMのナレーションなどを担当。2000年からはPRIDEやDREAMなどの格闘技イベントのリングアナとして大会を盛り上げた。2010年には歌手としてもデビュー。現在もbayfm78の「低音レディオ」のDJとして活躍中。

水泳コーチの修行に打ち込む

──アメリカの地を踏んだ時の気持ちは?

77年に初めてアメリカの地に降り立った時は、とにかく目の前にあるすべてのものがデカくて、ただ絶句するしかなかったですね。そんな信じられないくらいデカいスケールの光景は見たことなかったですから。すげぇ! って体中が震えるほど感動したのを覚えています。2回目の時は、最初に感じたほどの感動はなかったけど、水泳王国アメリカの強さの秘密を絶対解明してやるという目標があったので、気合いは入ってましたね。あとは一刻も早く英語を喋れるようにならなきゃとプレッシャーも感じていました。

それで、早速アメリカに着いた翌日から水泳コーチングを勉強しようと思って、ジムに紹介してもらったディアンザスイミングクラブに行きました。挨拶する時、事前に辞書で調べて「アシスタントにしてください」と手のひらに書いてあった英文を読もうとしたんですがなかなか読めなくて。まごついていたら、コーチのダンが僕の手のひらをグイっと引っぱって、自分の目で読むと、笑いながら「OK!」とウインクしてくれました。そして、プールのレーンロープを張るためのレンチを「これはコーチの命だ!」と言って渡してくれたんです。その瞬間から僕のカリフォルニアでの水泳コーチ修行が始まったわけです。

最初は4歳から11歳までのキッズグループのコーチ見習いからスタートしました。その時の上司が17歳の女子高生で、その子の使い走りをしながら、言葉とかしきたりとか所作とかいろんなことを随分教えてもらいましたよ。

──目標としては、アメリカの強さを解明し、将来は自分が指導した選手をオリンピックに出すところまで考えていましたか?

まだまだそこまでは考えていませんでした。当面は、翌1980年に開催されるモスクワオリンピックに出場する予定だった日本の水泳チームに帯同してお手伝いしたいなと思っていました。でもアメリカに渡ってすぐ、ご存知の通り、日本はアメリカに追従して簡単にモスクワオリンピックをボイコットしちゃった。この時はかなりショックでしたね。日本チームのお役に立つために早く英語を身に着けなきゃと思っていろんな語学学校に通って必死で勉強してたのに何だよ、簡単にボイコットするんじゃねえよと。

──水泳のコーチの仕事で一番印象に残っていることは?

モスクワオリンピックのボイコットでつらい思いをしたのはアメリカの水泳選手も同じで、彼らとつらい思いをシェアしました。モスクワオリンピックには出場できないのですが、オリンピックトライアルをやったんです。それが全米水泳選手権。オリンピックトライアルは4年に1度しかないし、実際にオリンピックには出場できないんですが、それに当たったのが非常に思い出深いですね。モスクワオリンピックのメダリストの記録に勝ったりすると大いに盛り上がっていました。

──英語はどのくらいで喋れるようになったんですか?

1年半くらいで不自由なく喋れるようになりました。

──生活費はどうしてたんですか?

留学ビザなので本当は働いたらいけないんですが、ベビーシッターから始まって、日本人向けのサンフランシスコのガイド、サンノゼの本願寺別院の盆踊りでのビール売り、植木屋の手伝い、芝刈り、引っ越し、などいろんなバイトをしました。全部取っ払いだからバレませんでした。でも有色人種は安く使われるので悔しかったですね。

──語学学校やバイト、スイミングコーチの修行で、めちゃくちゃ忙しかったでしょうね。

確かに忙しかったんですが、楽しかったですよ。朝起きた時のこの気持ちのよさは、旅行者にはわからない、住んでる者にしかわかんないよなあというのはよく感じてましたね。ただ、悔しいのは1人なんですよね。波乗りしながら、夕焼けが波を巻いてカーブしている素晴らしい光景に感動しても、一緒に語り合う人がいなかった。それが切なかったですね。

拳銃を口の中に突っ込まれる

──留学時代、忘れられない思い出は?

何回か死にそうな目にあってます。ある日、ドライブしていてUターンしようとした時に、対向車線からわざと車が猛スピードで突っ込んできたんです。直前でキーって止まったのですが、次の瞬間、ベロベロに酔っ払ったドライバーの男がえらい剣幕で車を下りてきて、僕の顔に拳銃を突きつけて「お前、ぶっ殺す!」って叫んだんです。両手を顔の前で上げて「やめてよ」って言ったんだけど、「ダメだ、絶対ぶっ殺す!」って銃口を口の中に突っ込まれて。本気でやばい、殺されると思った瞬間、小さな男の子が「ダーッド、ストップ!」って叫ぶ声が聞こえました。その声で男の動きがピタっと止まり、僕の口から銃口が抜かれ、男は帰っていきました。男が連れていた子どものおかげで命拾いしたわけです。

こんな感じのことが何度かありましたが、それを補って余るほどの素晴らしい体験もたくさんしたので、アメリカ留学時代は楽しかったですよ。水泳コーチとしての理論やスキルも学ぶことができたし、身につけた英語力は後々まで役に立ちましたしね。そんなこんなでアメリカに渡って3年後の1982年に帰国しました。

▲現在でも母校を訪れ、水泳部の練習を視察することも

帰国、実家のスイミングクラブのコーチに

──なぜ留学期間は3年間だったんですか?

同級生が日本で就職する年だったからです。それに合わせて、みんなと一緒にスタートラインに立って社会に出ようと。帰国後は実家のスイミングクラブに入ってコーチとして仕事をし始めました。でもその3ヶ月後に社長である父親が亡くなったんですよ。入社3ヶ月、23歳でいきなり社長にならざるをえなくなったわけです。この時は大変でした。昨日まで善人だと思っていたやつが大悪人になって近寄ってくる。僕を陥れようとつぶやいてくるやつもいる。人間不信になりました。

それでも何とか踏ん張ってスイミングクラブを経営していました。でもこれからの時代はスイミングクラブだけでは心もとないから、エアロビクスやヨガなど、いろんなトレーニングができるトータルアスレチッククラブに生まれ変わろうという構想が芽生えてきました。それで、弟が大学を卒業後うちに入社してスイミングの現場に入ってくれたので、僕はその構想を実現するために、よそのアスレチックジムに修行に入りました。社長になって5年が経った1987年、28歳の時でした。

昼間は水泳のコーチがメインだったのですが、夜はジムでマシントレーニングなどの基本的な指導法を学んで、すぐインストラクターとして教えるようになりました。

──そんなにすぐ教えられるものなんですか?

アメリカ留学時代に筋肉の生理学を学んだので、どんな運動をすればどこの筋肉が効率的に鍛えられるかがわかっていました。それを元に筋トレの指導をしていたら評判になって、あちこちからダンベル、バーベルフリークの皆さんが集まるようになったんですよ。そうなると、インストラクターは見栄えも大事なので、自分の体も鍛えて、ある程度でかくしておかなければいけません。だから自分でもボディビルの練習をやって筋肉をつけました。そんなことをやっているうちにボディビルのインストラクターになったんです。曲に合わせてフリーポーズをつけるのがうまかったので、教え子の何人かをボディビルの大会で入賞させたこともあるんですよ。

そんな時に、練馬のカフェで声をかけられてDJになったわけです。(※詳しい経緯は第1回参照)

格闘技イベントのリングアナに

──ケイさんといえば、PRIDEなどの格闘技イベントのリングアナとしても一世を風靡しましたよね。私も会場やテレビでコールを聞くたびにかっこいいと思っていました。リングアナを始めたきっかけは?

格闘技イベントのリングアナの仕事は僕の30年のキャリアの半分を占めてますからね。最初のきっかけはPRIDEの運営側からこう口説かれたこと。「“レディース・アンド・ジェントルメン”を日本で一番かっこよく言えるのはケイさんです。身長も厚みも日本人離れしているからヘビー級のファイターたちと並んでも見劣りしない。その声の質も体格もすべてが大事です。PRIDEのリングアナを任せられるのはケイさんしかいない。ぜひお願いします」と。ここまで言われて意気に感じない男はいませんよね。それで「やりましょう」と引き受けたわけです。

▲格闘技イベントのリングアナとしても一世を風靡

──ここでもアメリカ留学で身につけた英語力と、さらにボディビルのインストラクターで作った体が活きたわけですね。最初にリングアナをやった時の感想は?

デビュー戦は、2000年5月1日、東京ドームで開催されたPRIDE GP、桜庭和志vsホイス・グレイシーでした。

──日本人が初めてグレイシー一族に勝った歴史的一戦ですよね。あの試合、テレビの生中継で見て興奮しました。

75分の激闘。あの試合から日本の格闘技人気に火がついたんだよ。

──同じ喋る仕事でもラジオDJとは勝手も全然違うんでしょうね。

そりゃあ全然違いますよ。なんせ相手は5万人ですから。5万人のガヤを一声で黙らせるのって、皆さんが想像するより大変なんですよ。普通の音圧の声量だと5万人のお客は注目してくれないし、納得もしてくれませんからね。かなり自分で自分を高めて臨まないといけない。9万8000人の観客で埋まった国立競技場の時なんかめちゃくちゃキツかったです。だって9万8000対1だからね。だからリングアナする時は、1試合コールしただけでライブで10曲歌う分くらいエネルギーを消費します。

逆に、自分の声一つで5万人、10万人の観客を黙らせたり熱狂させられることは、この仕事の大きな醍醐味ですね。いかに試合を盛り上げるかということだけを考えてコールしているので、いい試合のお手伝いができたと感じた時はものすごい達成感があります。特に最高のコールをしたなっていう手応えのある時は。ファンからもSNSとかで「今日のコール最高でした!」っていう声が届くからうれしいよね。

──一般人には想像すらできない世界ですね。1回のイベントで何試合くらいコールするんですか?

全部で13試合くらいあるんですが、僕はメインイベントを中心に5試合くらいですね。もしくはイベント自体がしょっぱいときは第1試合から出てがっと盛り上げます。

▲試合前にDREAMガールと

ラスベガスのリングで号泣

──やはり観客の人数が多ければ多いほど燃えるんですか?

いや、必ずしもそうとは言えないですね。PRIDEがラスベガスでイベントを打った時は観客が1万5000人くらいしか入っていなかったのですが、日本の10万人の時よりも燃えましたね。

──やっぱり雰囲気は日本とは全然違うんですか?

そりゃ全然違いますよ。観客が試合の勝敗にお金を賭けているというのもあって、選手への称賛もブーイングも日本とは桁が違うんですよ。

忘れられないのが、現地のリングに立った時、最初に「こうしてラスベガスの舞台に立てたことを誇りに思う」と言ったら、会場からうわー! っていうものすごい大歓声が挙がったんです。それに魂が揺さぶられて、サングラスの中が半分洪水になって、その後しばらく何にも読めなくなっちゃった。そのくらいすごかったんですよ。ちなみにラスベガスでリングアナをやった日本人は僕だけです。たぶんこれからも誰もできないだろうね。

勝ってもらいたい一心でわざと名前を間違える

──他にリングアナとして忘れられない思い出は?

格闘家の五味隆典君の名前を間違ったことがあるんです。「タカノリ」とコールしなきゃいけないところを「タカフミ」と言ってしまった。それはリングアナとして絶対にやっちゃいけないミス。その後すぐに訂正したんですが、試合が始まったら開始1ラウンド6秒で五味君がKO勝ちしたの。ひょっとして僕が名前を間違えてコールした選手は勝ってくれるのかなとジンクスめいたもの感じて、僕がリングアナを引退する試合で、高谷裕之君に勝ってもらいたくてわざと間違えてコールしたんですよ。そしたらやっぱり高谷が勝った。試合後、高谷に謝りに行ったら、「僕とケイさんは親戚同然の付き合いだと思ってたのに、まさか名前を間違えるとは思わなかった」とかなりショックを受けていたようで。「勝ってほしくてわざと間違えたんだ、ごめんよと」と謝りました。勝つには勝ったけど、がっくりしながら戦ったみたいだったから悪いことしちゃったなと。

──名前をわざと間違えたら相手にも失礼だし、ケイさん自身の評価も下がるリスクがあるので勇気が必要ですよね。それほど高谷さんに勝ってほしかったということですよね。

その通りです。僕はリングアナを引退するし、高谷は大の仲良しだったので申し訳ないけど、勝ってもらいたい一心でジンクスをかついでわざと間違えたわけです。やっぱりその後、SNSで「あんなバカなリングアナはいない」とバッシングされました。そりゃ言われて当然ですよ。ワンパンの高谷の名前を間違ったわけだからさ。ちゃんとやればよかったって思ってます。

──リングアナとしての最後の試合は?

2015年12月31日のRIZINです。リングアナの仕事はPRIDEから始まり、PRIDE武士道、ファイティングオペラ・ハッスル、DREAM、Dynamite!!など16年間で50試合以上やらせてもらいました。終わる時は寂しい気持ちもありましたが、物事には必ず最後は訪れますからね。この16年でやりきった感もあったし、満たされた気持ちでリングを降りました。

▲リングアナとして最後の舞台で、400戦無敗の伝説の格闘家・ヒクソン・グレイシーと(2015年12月 RIZINにて)

歌手としてもデビュー

 

──2010年から歌手としても活動していますよね。このきっかけは?

これもまたおもしろい話で、2008年、六本木のカフェで、あるインディーズレーベルの社長と偶然出会ったんですよ。「あんたケイ グラントだろ。格闘技のリングアナやってるよね。いい声してるよね。でもかっこ悪いよね」っていきなり言われて、「かっこ悪いと思いますよ」と答えたんです。そしたら「あ、それ認める? ってことはかっこいいよ。歌を歌いなよ」と。でも当時、3度目の心臓の手術を控えてたので、「これから死ぬか生きるかのオペをやらないといけないから、それが終わって生きてたら歌いますよ」と答えたら、「じゃあオペが成功したら連絡頂戴」って言われて。オペは無事成功したので連絡したら、「うちのレーベルからデビューしろ」と。それからボイストレーニングを1年くらいやって、2010年5月5日に自分で作詞作曲した「星の輝く夜だから」でデビューしたわけです。11月24日に出したセカンドMaxiシングル「Baby YOU Babe」は英語で作詞しました。それからライブ活動を毎月1~2回、仲間と組んだバンド「KGB」と一緒にやってて、2015年にはバンドとして初のアルバム「GRANT HEIGHTS‐虹色の街」を、2016年2月14日にはMaxiカヴァーシングル「黄昏のビギン」をリリースしました。今はコーラスの子が産休に入ったからバンドも産休に入ってて(笑)。バンドを組めるのは年に1、2回くらいです。

──心臓病の件は後ほどじっくり聞かせてください。歌は以前からやってみたいと思っていたのですか?

いえ、せっかく声をかけもらったし、心臓の手術が成功してもらった命だから何でもチャレンジしていこう、そうしなきゃ一度きりの人生、もったいないなと思って歌をやってみようと思ったんです。

──歌う仕事で大切にしてきたものは何ですか?

歌は何かを表現したい人にとって、最もシンプルな表現方法の一つだと思います。人間が作った作品を人間が演じて人間に送るという、全部人間が絡むので、どこか後ろめたい気持ちとか騙してやろうという気持ちが入るとすぐバレます。だから実直な気持ちでやらないとダメだという気持ちで歌ってきました。

 

水泳コーチを目指していたはずが、不思議な縁でラジオDJ、格闘技のリングアナ、歌手としてデビューし、多くの人々を魅了していったケイさん。しかし、これまでの30年間は決して順風満帆だったわけではありません。4回も生死の境をさまよったことも──。連載最終回となる次回は声の仕事に懸ける思いや、4回死にかけた持病のこと、これまでの経験から若手ビジネスパーソンに伝えたいことなどについて語っていただきます。こう、ご期待。

取材・文:山下久猛 撮影:守谷美峰

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