「箱根駅伝」史上一度だけ出場した東大メンバー【東京海上HD半田常務】仕事で結果が出せるかどうかの分かれ道とは――「うまくいく人の20代」

うまくいく人たちは20代にどんなことを考えていたのか? ビジネスで成功する人たちの若い頃について、インタビューを試みた第3回。どうやって天職に出会ったか。仕事とどんなふうに向き合ったのか。どんなことを頑張ったから、今があると思うのか。成長する人とそうでない人との違いとは……。今回ご登場いただくのは、東京海上ホールディングスの常務執行役員、半田禎氏。東京大学が一度だけ出場した箱根駅伝を走ったメンバーだ。

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プロフィール

半田禎(はんだ ただし)氏

東京大学卒業後、1984年東京海上火災保険株式会社(現:東京海上日動火災保険株式会社)に入社。東京海上ホールディングス常務執行役員。。

4年後を目指して頑張ってみようじゃないか

全国の大学長距離ランナーの夢であり、目標でもある箱根駅伝。毎年、お正月に大きな盛り上がりを見せるビッグイベントだが、箱根駅伝史上、一度だけ東京大学が出場したことがあるのをご存じだろうか。1984年の60回大会だ。駅伝は10人もの精鋭が、同じ年代にそろわなければ「タスキ」はつなげない。このとき東大のキャプテンを務め、山登りの5区を走ったのが、半田禎氏。東京海上ホールディングスの常務執行役員である。

「予選会を突破して出場が決まったときは、それはもう、うれしかったです。本番ではアドレナリンがとにかく出たのか、想定よりもラップタイムが良かったくらいでした。ただ、私たちは舞台に上げていただいたんです。先輩たちのおかげで、この舞台に立てた。年齢を重ねるごとに、その思いをかみしめています」。

駅伝常連校がひしめき合い、予選会では激闘が繰り広げられる箱根駅伝。60回大会に東大が出場できたのは、この理由も大きかったかもしれない。60回記念大会ということで、この年だけ出場枠が5校増やされたのだ。だが、それでも激戦であることには変わりはない。そこで東大は何をしたのかというと、なんと4年越しで、さまざまなチャレンジを繰り広げるのである。

半田氏は子どもの頃からかけっこが得意だった。中学時代、1500m走では県大会優勝。高校でも陸上部のキャプテンを務め、県大会の決勝に残った。

「やっぱり人よりも早くゴールできると楽しいですよ(笑)。かけひきをして勝負に勝つ醍醐味も好きでしたね」。

東大法学部に入学すると、先輩の誘いもあって陸上運動部に入った。意外にも当時の東大は陸上が強かった。トラック競技、フィールド競技とも名選手がおり、関東学連の1部に昇格していた。だが、箱根駅伝には一度も出たことがなかった。中長距離の選手も増えてきたところで、出場を目指してみようという機運が高まっていた。

「ちょうど私が入学した年、4年後の60回大会で出場枠が5校増えるかもしれない、という話があったそうなんです。それはチャンスじゃないか、ということで、4年後を目指して頑張ってみようじゃないか、となったんです」。

ただ、このときの先輩たちは、自分たちが60回大会には出ることは考えていなかった。自分たちは卒業してしまうからだ。後輩たちに、夢を託したのである。

「毎日20キロ走る練習をしていましたが、いつしか30キロになっていました。しかも、雨の日も雪の日も走る。正月もお盆もない。練習が休みの日は一日もないんです。でも、先輩たちはそれが当たり前だという環境を作ってくれた。文化を作ってくれたんです」。

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多くのメンバーが口にし始めた先輩への感謝の気持ち

東大らしい、とも言うべきか、いろいろな斬新なトレーニングにも挑んだ。体育の教授の指導のもと、高地トレーニングと称して、酸素マスクのついた重たい装置をかついで走ったりした。水槽に水着で入って息を吐き出し、体脂肪を計ろうとしたこともあった。

「ストレッチを導入したのも、あの頃の東大が、日本では一番早かったと思います。準備にもクールダウンにも、身体を伸ばすストレッチを取り入れたんですね。それまで陸上では手首足首をブラブラさせたり、ラジオ体操をする程度でしたから」。

イメージづくりも先輩たちが率先してくれた。箱根駅伝の日は、全員で駅伝を見に行ったのだ。

「1年のときから、先輩たちに正月集まるように言われて。1区のスタートを見終えたら、電車に乗って2区に移動して。実際に見て、箱根駅伝を肌で感じろ、と。こうなると、やっぱり出てみたい、と思うようになるわけです。熱くなって戻って練習を終え、グラウンドの裏で、やれ自分は何区を走りたい、俺は何区だ、なんて話にもなって」。

箱根駅伝を走ってみたい、夢を達成したいという思いが、厳しい練習に向かっている若いメンバーたちに確実に共有されていった。ただ、そのためには、自身も部内で予選会のメンバーに加わらなければいけない。一人ひとりの練習にも力が入った。

「紙の上にある計画じゃなくて、実際に舞台を見る中で、イメージができていったんです。これは、みんなやっぱり燃えますよね」。

自分たちが出るわけでもないのにバックアップをしてくれた先輩たちは、一人また一人と卒業していく。その思いを半田氏たちメンバーは受け継いでいった。そして迎えた、60回大会の予選会。東大は7位で予選通過を果たす。箱根駅伝への出場が決まったのだ。

「自分が4年間、イメージしてきたものが達成されて良かった、という思い。当時はやっぱり、それが一番大きかったですよね。でも、箱根駅伝に出場して、あの舞台に立たせてもらって、だんだん変わっていったんです」。

多くのメンバーが口にし始めたのは、先輩への感謝の気持ちだった。

「たしかに走ったのは、私たち。4年間、努力もした。でも、この世代にオリエンテーションしてくれた先輩がいてくれたから、できたわけです。物・心ともに支援してくれたOBがいたからこそ。先輩たちのおかげなんです。先人がいろんな道を作ってくれ、先輩が肩を使わせてくれたところで、高いところから遠くが見えたんです」。

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組織も、最後は感謝の気持ちに行き着く

半田氏はこの箱根駅伝に出場した1984年の春、東京海上火災保険株式会社(現:東京海上日動火災保険株式会社)に入社した。陸上部の先輩から誘われたこと、大学時代に民法を学んでおり、損害保険というビジネスに興味があったことがきっかけだった。だが、決め手は面接でのこんな経験だったのだという。

「当時、課長職だった面接官に、せっかくなので学生さんから質問あるかな、と聞かれて、思い切って聞いてみたんです。この会社は、どういう人が偉くなるんですか、と。そうしたら、人望かな、と言われて。まわりから慕われて、こんな人についていきたい、と思われる人だ、と。ああ、この会社は人を大事にしてくれる会社、仲間を大事にしてくれる会社なんじゃないかと思いました。最後はこれが決め手になりましたね」。

入社後は、損害保険金を扱う部署で約11年を過ごす。賠償責任保険、信用保証保険から競走馬の保険まで、ありとあらゆる保険支払を担当した。

「とにかく目の前のことを一生懸命やる。好奇心を持って、新しいことに挑む。それを意識していました。少し上の先輩がやっている仕事に興味を持ったり、あれは難しいと言われる仕事を早くやってみたいと思ったり」。

振り返ってみると、さまざまな保険、さまざまな関係者と接していく中で、あらゆることが経験になったと語る。

「法律ではこうなっています、というだけでは物事は進まないわけです。20代にしては、いろんなことで揉まれて、人の気持ちが少しでもわかるようになったり、人の考え方は本当に多様であるということが、自分なりに見えてきたのではないかと思っています。とても貴重な経験でした」。

そして、たくさんの経験を経ていく中で、仕事は最後、どこに行き着くのか、気づいていったという。

「最後は感謝の気持ちに行き着くんです。特に保険の仕事というのは、一人でできる仕事ではないんです。いろんな縁の下の力持ちがいて、成り立っているんですね。チームで、みんなが役割を果たして、会社は成立している。だからこそ、みんなが同じ目的に向かって一所懸命、愚直にできる組織ができたら、これは力を発揮します。私たちが箱根駅伝に出られたのと同じ。感謝の気持ちがあれば、組織は強くなるんです」。

青い鳥を探している人には、青い鳥はいない

仕事をしていれば、誰だって大変さを感じることがある。つらくなることもある。うまくいかなくて、困ってしまうこともある。半田氏は次第に、そういうときに自分に向けて言葉を発するようになったという。

「ありがとう、とつぶやくんです。すべてが経験だから。それによって、自分は確実に成長しているから。自分に返ってきて、それを次の仕事で活かしていくことができるから」。

そうすれば、それまで以上にお客さまの役に立てる。

「どうしてこんなことをやらないといけないんだ、なんて思って仕事をしていても、何も生み出せません。それよりも、ありがとう、とつぶやいてみる。実際、気持ちがラクになりますよ。私は社内では逆境には強いと言われてきましたが、逆境のときにも、つぶやいているからです。そうすると、心を落ち着かせることができます」。

いろいろなものに感謝する。人に感謝する。出来事に感謝する。そうすることで、見えてくるものがあるという。

「青い鳥を探している人には、青い鳥はいないのだと私は思っているんです。青い鳥は、自分の心の中にいるんですね。その扉を開けていくことで、青い鳥に出会えるかもしれない」。

しかし、多くの人が心を閉じてしまっている。開けたほうがいい扉を、開けられなくなってしまっている。とりわけ、気持ちがネガティブになってしまうときには、扉は開かない。

「イヤだな、と思うこともあるかもしれない。でも、そう思ったところで、何も前には進まないんです。気持ちを前向きにして、好奇心を持って捉えてみることです。前に進むような考えに持っていくことです」。

年次を経るほど、ポジションが上がるほど、リーダーになるほど、難しい仕事に向き合うことになる。そういうとき、結果を生み出せるかどうかを分けるのは、その仕事にどう向き合うか、だと半田氏はいう。

困難に当たったとき、逃げないことです。責任感を持って受け止めて、なんとかそれを自分で乗り越える、という気持ちが持てるかどうか。大事なことは、それを自分なりにどうモチベートできるか。そのひとつの方法が、私の場合、ありがとうとつぶやくことなんです」。

箱根駅伝で体感した感謝の気持ちは、社会人としての半田氏に大きな影響を与えた。あらゆることに、「ありがとう」と思う。長い仕事人生を生き抜く、ひとつのとても大きなヒントかもしれない。

文:上阪 徹   写真:刑部友康
編集:丸山香奈枝

 

 

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