日本の未来のために、「立入禁止」の向こう側へ――写真家・西澤丞の仕事論(1)

“立入禁止の向こう側”を主戦場とし、そこで繰り広げられている事実を伝え続けている男がいる。写真家・西澤丞、51歳。2018年3月、先行きが見えない福島第一原発の廃炉作業を記録した写真集を出版し、現在も撮り続けている。西澤氏はなぜ立入禁止の向こう側にこだわるのか。何のために写真を撮るのか。その仕事観と生き様に迫った。

プロフィール

西澤丞(にしざわ・じょう)

1967年愛知県生まれ。愛知教育大学美術科卒業後、自動車メーカーのデザイン室、撮影プロダクション勤務を経て2000年、フリーの写真家として独立。「写真を通じて日本の現場を応援する」というコンセプトのもと、科学や工業に関する写真を撮影し、自身の著作物や雑誌などで発表している。日本における工業写真の第一人者。2018年3月、福島原発を撮影した写真集『福島第一 廃炉の記録』(みすず書房)を出版。現在も福島第一原発に通い、撮影を続けている。

公式Webサイト http://joe-nishizawa.jp/index.html

写真を通じて日本の現場を応援する

──現在は写真家としてのどのような活動をしているのですか?

主に、ものづくりやインフラ工事の現場、科学研究施設など、私たちの暮らしを支えているにも関わらず、一般人の立ち入りが禁止されている現場に入って、撮影しています。その写真を世間の人たちに伝えるために写真集としてまとめて発表するというのがメインの仕事で、これまでに8冊ほど出版しています。

──西澤さんをそのような活動に駆り立てるものは何なのでしょうか。

僕が写真を撮る根源的な動機は、「見たことのないものを見てみたい」「それを写真に撮って自分の手元にとどめておきたい」「多くの人に伝えたい」この3つです。

僕の活動のコンセプトをひと言で言うと「写真を通じて日本の現場を応援する」ですね。もう少し具体的に説明すると、その中で3つの目的があります。まず1つはこの国が何によって支えられているのか、自分の暮らしを支えているものは何なのか。それをまず自分自身の目で見てみたい、そして、この国を支える科学や産業の実際の現場がどうなっているのかを多くの人々に伝えたいんです。

技術を開発したりモノを作ることは、今後の日本が国際社会で存在感を示したり、世界に貢献するために重要な要素であり、存在意義にもなるものですよね。しかし、それらの技術は今後さらに重要となってくるにも関わらず、実際には技術を開発・研究したりモノを作る現場は立入禁止のフェンスの向こう側にあるため、我々一般人が知り得る情報がとても少ない。それによって、あらぬ誤解が生まれたり、日本を支える産業の現場での人材不足といった問題が発生しています。何より、自分の暮らしを支えているものを知らずに、物事を判断・行動してしまうと間違った未来にたどり着くかもしれない。

これまで多くの「日本の現場」に行っていますが、実際の現場は、想像していたイメージと異なる場合がほとんどなんですよ。マイナスのイメージだけが行き渡っている産業であっても、実際にはイメージとまったく違う場合もあります。にもかかわらずイメージだけで判断されて日本を支える現場で働く人がいなくなってしまえば、この国が間違った未来を選択してしまうことになってしまいますよね。だからそのような問題を解決するために、隠れている現場をカメラで記録して大勢の人に伝えることが写真家としての僕の役割、使命だと考えるようになったんです。

8,568通り、あなたはどのタイプ?

正しい未来を選択するために

──これまでの体験でもう少し具体的に教えてください。

例えば核融合施設と聞くと、核という文字を見ただけで危ないことをやってるんじゃないかと不安に思う人も多い。でも核融合は、暴走するわけではありませんし、将来的には海水を燃料にして発電することを目指しているわけですから、資源の少ない日本にとっては、とても重要な研究をしていると私は考えています。でもそれを核という文字がつくだけで、反対! ってやられちゃうとエネルギー問題を解決するための研究が進まなくなっちゃう。だから現場をちゃんと撮影して写真と文章で正しく伝えることで、わけのわからない不安や妄想を解消し、そのうえで賛成・反対について考えてもらう機会を創る。その結果正しい未来を選択することに繋がるんじゃないかと。

また、人工衛星をロケットに積んで飛ばすプロジェクトも数百億というコストがかかるから、制作費が安い海外で作って打ち上げてもらえばいいじゃないかと思う人もいるかもしれないけど、国際情勢の変化などでその海外の国やメーカーが突然、「おまえの国の衛星なんか打ち上げてやらないぞ」と言い出したら日本はどうなりますか? 目も耳も塞がれた国になっちゃいますよね。だから簡単にコストだけで海外に外注することはいいわけはない。こういうことはロケットがお金に代えられない重要な役割を担っているということを理解していないとわからない。そしてこういう事実は実際に現場に行ってみないとわからない。だから、ロケットの製作現場に入って、写真を撮り、解説文を書いて『イプシロン・ザ・ロケット~新型固体燃料ロケット、誕生の瞬間』という写真集を発表したわけです。

こんな感じで、僕が現場の写真を撮影し発表することで、マイナスの「思い込み」や「誤解」を少しでも解消できるのであれば、また違う未来が見えてくるのではないかと思ってこのような活動を続けているんです。

8,568通り、あなたはどのタイプ?

子どもたちの職業の選択肢を増やす

2つ目の目的は「子どもたちの職業の選択肢を増やす」。僕が撮っている現場って存在すら知られていない場所ばかりなので、当然、そこで働く人々がどんな仕事をしているかも知られていません。知らない職業は選びようがないですよね。だから様々な知られざる職業を写真や文章で紹介することで、この仕事に就きたいなと思う人も増える。それによって日本を支えるものづくり人口の減少や雇用のミスマッチなどの問題を解決したいんです。

例えばさっき話したロケットも、僕自身どんな人が作ってるのか全然知りませんでした。ロボットアニメみたいに白衣を着た博士が作ってると思ってた。でも実際は町工場の人たちが作っていて、実は最後の仕上げをするのはおばちゃんがうまかった。こういうことって現場に行かないとわからないんですよ。こういう事実を知らない子の中には、自分はロケット開発に関わりたいけれど、博士になれるほど優秀じゃないから無理だとあきらめちゃう子もいるかもしれない。でも『イプシロン』のような写真集を読めば、工業高校しか出ていなくても、このような町工場に入ればロケット作りに関わることができるということがわかって、その道に進むかもしれない。そのためにこの仕事をやってるというのもあります。

3つ目の目的は、「日本のブランドイメージの向上」です。日本人、特に職人さんってちゃんとした仕事をしていれば、黙っていてもいつか誰かはわかってくれるとどこかで思ってる人が多いんですよね。自分のやってる仕事をことさらにアピールすることが恥だと思っている人も。でもこれからの時代は、高品質な商品を作っても、すばらしい活動をしていても、ちゃんとした形で伝えないといつまでたってもわかってもらえないと思うんですよ。全く知らない人に正しく伝えるためには、きちんとした写真が一番。だから、ちゃんとした仕事をちゃんとプレゼンできるような手伝いを写真でできればいいなと。それが「日本」や「日本製」のブランドイメージ向上に繋がると信じているんです。

こんなコンセプトで10年ほど活動しています。でも最初からこのコンセプトが固まっていたわけじゃないんです。最初は、このような現場を好奇心だけで撮影していたんですが、撮影を進めて行く過程で、暮らしを支えている現場を撮影して伝えることには意味があることなんじゃないかと思うようになっていって、自分のやらなければいけないことが明確になっていったんです。

子どもの頃から工事現場に興味

──ではその経緯を教えてください。まず、現在のような活動をするようになった原点は?

そもそも、子どもの頃から工事現場に興味があったんですよ。例えば近所で工事をやってて、音はするけど、高いフェンスで囲われてて中が見えないから、何をやってるんだろうとすっごい気になってた。壁の向こう側を見たかった。これが原点と言えば原点かなあ。

──写真を始めたのはいつ頃なんですか?

高校に入ってからですね。きっかけはよく覚えてないんだけど、何となく同級生を撮りたいと思ってたんだよね。それで父親に一眼レフカメラを借りて撮ってみたらおもしろくて、それから撮るようになった。運動会で友達の写真を撮って売ったりしてたんですよ(笑)。

──お父さんの影響も大きかったんですね。

そうだね。家にカメラがなかったらやってなかっただろうね。

──写真部には入ってたんですか?

入部しませんでした。カメラの使い方とか撮り方とかは、カメラ関係の本とか雑誌を読んだらだいたいわかるからね。だから当時はお金がなかったから古本屋で雑誌をたくさん買ってきて貪るように読んでましたよ。独学なんだけど、勉強というよりそれが楽しかった。

──当時から写真家になりたいと思ってたんですか?

ないない(笑)。高校生の頃なんてまだ自分に何ができるかもわからないし、自分のやりたいこともよくわからないじゃないですか。だからモヤモヤしてた。多分みんなそうでしょ。当時は、特に写真が大好きって感じじゃなくて、美術全般が好きで、特に絵を描くことが好きだったの。カメラはあくまでおもしろいことの1つだった。だから美術部に入ってた。でも美術の中で何を専門的に勉強したいかっていうのはわからなかった。ただ、「人の役に立つ仕事をしたいな」とはぼんやり考えていました。

──それはなぜですか?

最初のきっかけは、僕の描いた絵をあげたらすごく喜んでくれた人がいたことかな。それで僕自身もうれしくなっちゃって。それで、美術が好きだったから、高校卒業後は愛知教育大学美術科に入学しました。

大学でデザインを勉強

──美術の先生になりたかったんですか?

いやいや。有り体に言えば、そこしか受からなかったから(笑)。

──大学ではどんな勉強を?

デザイン、彫刻、工芸、絵画の4つのコースの中から、デザインを選びました。理由は、社会に出てから、一番食いっぱぐれがなさそうだと思ったから(笑)。彫刻もいいなと思ったんだけど、それで食ってくのはかなり難しいだろうと。

──デザインを勉強してみてどうでしたか?

やってみたらすごくおもしろくて大好きになりました。先生から課題を与えられた時、アプローチは何でもいいからどういうふうに解決するかを考えるのがおもしろかった。だから今でも僕の頭の中は写真家じゃなくてデザイナーだと思います。

▲若かりし頃に使用していたカメラ

──写真は続けていたのですか?

友人のスナップ写真などを撮ってはいましたが、そんなにがっつり撮っていたわけではありません。当時使っていたのはフィルムだから今みたいにたくさん撮れないし、カラーは高いから白黒フィルムで撮影して自分で現像していました。

──就職活動の時期はどんなことを考えていましたか?

写真を仕事にしたいと全く考えなかったわけではないんですが、やっぱり不安じゃないですか。自分にプロカメラマンとして食っていけるだけの能力があるかなんてわからないし。でもデザインは好きだったのでデザインができる会社に入りたいと思い、愛知県内の自動車メーカーのデザイン室に就職しました。

社会に出て味わった衝撃的な挫折

──実際にデザインの仕事をしてみてどうでしたか?

いや、それがね、デザインの仕事はほとんどやらせてもらえなかったの。当時はバブルで、車を作っても作っても全然足りないっていう状況だったから、デザイン部門に採用されたのに、工場のラインで働かされてたから。しかもめちゃめちゃハードだった。この経験で、絶対サラリーマンは嫌だと思ったの。自分の意思とか努力は関係なく、会社の都合で自分の人生が決められちゃうのが耐えられなかった。

さらに、たまにやらせてもらえたデザインの仕事も全くおもしろくなかった。僕にとってのデザインとは、ただ形を作るだけじゃなくて、形を通して社会に何かしらの提案をするというもの。それがなければデザインじゃないと思ってたんですよ。そのデザインに対する考え方が会社のそれとは全く違っていた。この2つがとてもじゃないけど耐えられなくて、2年も経たずに辞めたんです。

その後、愛知県内の撮影プロダクションに転職しました。サラリーマンがどうしても嫌だったから、この時から手に職をつけて、将来は独立しようと思っていました。手につける“職”は、社会人になってもずっと続けていたし、好きでおもしろいと感じていたので、写真にしました。この時、写真でメシを食っていくと初めて肚を決めたわけです。

あと根拠のない自信もちょっとあったんですよ。デザインや絵は僕よりうまいやつ、到底かなわないと思うやつが山のようにいた。でもひょっとしたら写真ならそこそこ勝負できるんじゃないかっていう、根拠のない自信が。写真雑誌に載ってる写真を見て、このレベルなら俺でも撮れるかもなって(笑)。

でも僕はこれまで大学や専門学校で写真の専門的な教育は受けていません。写真業界のこともわからなかったし、撮影のテクニックなんかもなかった。当時はフィルムだったからデジタル全盛の今より技術が格段に必要だった。だから早く一人前の写真家になって将来独立するために、丁稚奉公でもいいから実戦を通してスキルや知識を身に着けようと撮影プロダクションに入ったわけです。

──前職の大手自動車メーカーと比べて給料は減ったと思いますが、そこは気にしなかったのですか?

確かに激減しました。死なない程度の給料になっちゃった(笑)。でも目的はとにかく撮影技術を身につけることだったから、それでもよかったんです。

──どんなものを撮影していたのですか?

その撮影プロダクションでは百貨店のチラシ、商品のカタログ撮影、モデル撮影、会社案内用の写真などを中心にやっていました。スタジオで4×5の大判カメラで撮ってたんですが、仕事自体はゲームみたいで楽しかったよ。

──撮影技術は先輩がちゃんと教えてくれたのですか?

いやいや、当時の撮影プロダクションは徒弟制度みたいなもんだから、先輩は手取り足取り教えてなんてくれない。技術は先輩の撮ってるのを見て盗むしかなかった。それと日曜日は会社のカメラを使っていいことになってたので、練習してた。当時は今と違ってカメラを使いこなすだけで大変だったからね。あと、写真を撮るだけじゃなくて、撮ったデータをCGで加工するという仕事もしてました。背景をイラストレーターとフォトショップで作ったりしてね。この時、デザイナーの経験が生きたんだよね。

▲撮影プロダクション時代の、写真をデジタル加工した作品

そんな感じで楽しく仕事してたんだけど、8年くらい経った時に独立することに決めたんです。

カメラマンとして独立するもモヤモヤ

──その理由は? もう独立してやっていける自信がついたからですか?

いや、きっかけはうちの奥さんに「あんた給料安いよね」って言われたこと(笑)。当時はバブルが弾けて、世の中が一気に不景気になっていた時代で、撮影プロダクションは広告写真の仕事が主体だったから、どんどん仕事はなくなるし、給料も下がるし、会社の存続自体が危うい感じになってた。だからこの危機的状況を打破するには何かアクションを起こさないとダメだった。このままその会社にいてもジリ貧だからね。だからその時に奥さんが僕のケツを蹴っ飛ばしてくれたのが大きいかな。そもそも独立することは決めてたからその時が来たなと。それで2000年、32、3歳の時に独立してフリーになったんです。

──独立した後はどんな仕事を?

撮影の仕事を取るために、デザインの雑誌に載っているデザイン会社や広告代理店に片っ端から営業をかけました。でも最初の頃はこれまでの作品をもって営業に行っても、撮影より、写真素材を提供されてCGで合成してポスターを作るみたいな仕事の方が多かったんだよ。当時はフォトショップが使えるデザイナーがほとんどいなかったからね。やっていくうちに、3DCGも好きだったから、そっちのスキルを上げたら、どんどんCGの仕事が増えていった。撮影の仕事もなくはなかったけど、CGの方が断然多かった。CG屋さんになりかけてたね(笑)。

──少なかった撮影の仕事ではどんなものを撮っていたんですか?

営業に行った広告代理店が、メインクライアントが国交省で、橋とか道路の撮影をポツポツしていたんだけど、なんとなくモヤモヤを抱えてた。

──そのモヤモヤとは?

実は撮影に対するモヤモヤ自体はプロになるずっと前、趣味で写真を撮ってた頃から感じていたんです。例えば町並みや自然の風景ってどこに行っても同じようなものが広がっていて、旅行に行った時、観光地を歩いていても、自分が見ているものは何かの表面でしかないような漠然とした感覚をもっていました。それで、写真を撮っても上っ面だけ撮ってる感じがすごいしてたんですよ。撮ってる時に、自分の内側から「そんなものを撮る意味があるのか?」という声が聞こえてきたり。

撮影プロダクションにいた頃も、会社案内用の撮影で工場の写真も撮っていたんだけど、「こういうふうに撮れ」みたいな暗黙の了解があるし、お客さんもそれを期待しているから自分のセンスで撮れなかった。会社員だから当然なんだけどね。だけど、会社員という立場で撮影する当たり障りのない写真では納得がいかなかったのも事実。

それはフリーになってからも同じで、もっと深いところに突っ込んでいって上辺だけじゃない“本物”を撮りたいとずっと思っていた。でもそれが何なのか全然わかんなくて悩んでいたんだ。わかりやすく言うと、自分の撮るべきテーマが見つからなかったってことかな。

──自分にしか撮れない写真を撮りたいということですか?

クリエイターの人はみんなそうだよ。そうじゃなかったらクリエイティブじゃないもん。誰もやったことがないことをやる方がおもしろいでしょ。

で、広告写真の撮影自体はおもしろかったんだけど、どこかで自分が本当に撮りたいものはこれじゃないんだよなあというモヤモヤ感は拭えなかった。そしてもう1つモヤモヤを感じていたことがあって。高校時代に人の役に立ちたいと思っていたということは話したけど、どうせやるなら自分の好きなことや得意なことで人の役に立ちたい。その2つをどうやって結びつけたらいいのかがずーっとわかんなくて悩んでた。もちろん広告写真でも喜んでくれる人はいるんだけど、せいぜいクライアントとか広告代理店の人とかデザイナーなどの関係者だけじゃないですか。だから物足りなかった。

そういうモヤモヤの苦しい時期が、サラリーマン時代からフリーになって6、7年くらい、40歳を手前にしてもまだ続いたんだよね。

巨大地下施設との出会いで人生が一変

──そこから抜け出せたきっかけは?

大きな転機となったのは、2005年頃に入った東京の共同溝のPRの撮影の仕事。共同溝とは、電気やガス、水道などのライフラインを地下のトンネルに収めた施設。最初は、そんなところなんて行ったことないし、どう撮っていいのかわからなかったから戸惑ったよ。

でも、いざ現場に行ってみたらものすごく感動したんですよ! 普通のオフィス街にある工事現場の中に入り口があって、そこから入って撮影現場に到着したら、これまで見たこともない風景が広がっていた。それはまるでSFの世界だった。僕はSF映画が大好きだから、「うわ、SFの世界が現実にあった!」と思ったんですよ。自分が生活しているエリアのすぐそばに、全く知らないSFのような空間があるのにも驚いたんだけど、そこで僕らの生活を支えるインフラが整備されていたことにも驚いた。まさに衝撃的な現場だった。

この現場を目の当たりにしたことで、自分は知っているつもりになっていただけで、実は、何も知らなかったことに気がついたんですよ。例えばトンネルを掘るシールドマシンひとつとっても、トンネルを掘る機械は先の尖ったドリルのような形を想像していたのですが、実際には全く違う形をしていた。

▲共同溝で初めて見たシールドマシンは想像とは全く違った形状をしていた(撮影:西澤さん)

それまでCGなどいっぱい作り物を作っていたところに現実・本物の迫力を見せつけられて、現実って自分のチープな想像力では追いつかないほど、こんなにもすごくておもしろいんだ! と感動したんです。そして、この現場を見た瞬間に、さっき言ったモヤモヤが一気に吹き飛んだ。「ここに撮るべきものがあったじゃん!」ってスイッチが入った。現実をきちんと見つめて記録したいと猛烈に思った。ようやく自分のテーマを見出したというわけです。だからあの時、共同溝を見ていなければ今の僕はないよね。さらに、この時撮った写真が評判がよかったんですよ。共同溝で見学会をやったんですが、その告知用に僕の撮った写真が使用されると、ウェブサイトだけの告知だったにもかかわらず、ものすごく大勢の人が集まったんです。

首都圏外郭放水路の写真が『TIME』に載る

もう1つ、僕の写真家人生を大きく変えた場所がある。同じクライアントからの依頼で撮影した首都圏外郭放水路。ここは大雨が降って河川が増水した際、地下に建設した巨大な空間に水を逃がすことによって洪水を防ぐという施設。別名、「パルテノン神殿」と呼ばれて、今では人気の見学スポットになっています。この時の撮影では、あまりの湿度の高さにカメラが壊れるんじゃないかと思ったら、案の定壊れてシャッターが切れなくなっちゃった。でも予備で持って行ってたもう1台のカメラが壊れなかったから、無事に狙い通りの写真を撮影できたんです。その写真がなんとアメリカの雑誌『TIME』に載ったんですよ。この時は自分でもびっくりしたよね。作品が『TIME』に載るなんてことは滅多にないからね。これが決定打だったかな。

▲『TIME』に掲載された首都圏外郭放水路の写真(撮影:西澤さん)

最初、こういう現場をおもしろいと思うのって僕くらいかなと思ってたの。でも僕が撮った写真で多くの人が現場見学会に集まったり、海外の人からも注目されたことで、おもしろいと思ってくれる人って意外と多いんだということがわかった。これは写真家として方向転換する上で大きな自信になりました。だから共同溝で自分のテーマを見つけ、外郭放水路がダメ押しとなった。それ以降、このようなおもしろい現場を探して日本全国を飛び回るようになったんです。

最初の写真集で写真家としてのミッションを得る

だけどまだこの頃は立入禁止の場所に入って、見たことのないものを見て、それを撮影したいという好奇心がメインで、日本のためとか若い人のため、なんてことは考えていませんでした。そういうふうに思い始めたきっかけは、2006年に発行した最初の写真集『Deep Inside』。宇宙の成り立ちの秘密を研究している施設や原子力発電所、地下トンネル、清掃工場など日本の先端技術を研究・開発したり、それを使って作業をしている現場を撮影して一冊にまとめた写真集なんですが、これを編集する中で撮影する目的が少しずつ明確になってゆきました。そういう意味で、処女作の『Deep Inside』は現在の僕の写真家としての道を決定づけたエポックメイキング的な作品と言えますね。

──どういうことか、詳しく教えてください。

最初はいろんな現場を取材していく中で、絵的におもしろくてかっこいい場所や設備ばかり撮っていたんですよ。でも撮影が終わって、各現場の扉のところの解説文を書いている時に、これって全部日本にとって必要なものだよなって思ったんです。それからですかね、使命感のようなものを意識し始めたのは。現場の人の話を直接聞いたりする中で、現場と社会との認識のズレが見えてきた。このズレを写真を撮ることでちょっとでも是正することができれば、自分のやってることに価値が出てくるんじゃないかと思うようになっていったんです。それが先ほど話した僕の仕事のコンセプトの元になりました。

それまで撮っていた広告の写真の場合、僕のところに依頼が来る時にはすでに絵コンテまでできています。あとはそれに従って、クライアントはどう撮れば喜ぶかなということを考えて撮ればいいだけ。でも僕が作っている写真集の場合は自分で企画を考えて取材先に提案するから、事前に何のためにこれを撮るのかを自分でものすごく考えて設定しなきゃいけない。それが大きいでしょうね。

もちろん自分で企画して自分で撮るわけだから好きなように撮れるんですが、ただ「自分が好きだから撮りたいです、撮りました」では、そもそも取材先を納得させられないし、撮ったものが読者にも伝わらない。だから撮影をお願いする取材先には何のために撮るのか、読者には何のために撮ったかをきちんと説明できることが必要。こんな感じで写真集を自分で企画して作ることによって別のスイッチが入ったというか、同じ写真という道なんだけど、これまでとは別の車線に移ったという感じなんです。

それ以降、社会の表面から隠されている科学や工業、社会資本の現場を撮り続けると心に誓い、カメラを担いで、高速道路の工事、製鉄所、造船所、ロケット工場、福島第一原子力発電所の廃炉作業など、日本全国の現場を飛び回り、写真集を発表するようになったんです。

自ら大事な収入源を断ち切る

──そのスタイルになってからは現在まで安定して活動できているのですか?

いや、それが自分の使命を見つけたのはよかったんだけど、経済的にはものすごく厳しくなったんです。というのは、そもそも写真集ってお金にならないし、日本の現場を撮ろうと思った時に、それまでたくさんやっていたCGの仕事を辞めたから。

──なぜ大事な収入源を自ら断ったのですか?

こういうリアルの塊である現場写真を撮りつつ、一方で作り物であるCG制作もやっていたら、とりあえずお金はもらえるけど、現場写真も作り物だと思われる恐れがあったからです。それは「西澤丞とはこういう写真家です」という自らの写真家としてのブランディングを考えた時、リスクでしかない。だから当時のメインの仕事だったCGをやめたんです。それでここに新生・西澤丞が誕生したわけ(笑)。

──目先のお金より将来的なセルフブランディングの方を選んだわけですね。

そういうことです。だけど、最初の頃は収入はガクンと減ったからつらかったね。さらに当時、国交省の現場の撮影の仕事をくれていた代理店も不況で倒産しちゃったんだよ。ただでさえ死なない程度の収入だったのがさらに落ち込んじゃった。フリーになりたての頃も厳しかったけど、あの頃、40歳前後が写真家人生で一番つらかったかもしれない。もうダメかなと思ったことも何回もあるよ。

──そのつらい時期はどうやってしのいだのですか?

ひたすらひっそりつつましく、ですよ(笑)。冗談じゃなくて、パンの耳をかじっていた時期もあった。そうやって支出を極限まで押さえ、たまに来る撮影の依頼をこなして耐え忍んでいただけ。さすがに今は生活に困るってことはないけどね。これは余談だけど、僕の撮影機材が他の写真家やカメラマンよりめちゃくちゃ少ないのは、お金がなくて機材をたくさん買えないというのもあるんだよ(笑)。

──写真家として生活に困らないレベルにまでいけたのはなぜですか?

地道に現場の写真を撮ってたら少しずつ理解してくれる人が増えていって、写真集以外の仕事も増えていったんです。自分の場合は、依頼を受けて撮影することもあれば、撮りためておいた写真を広告や雑誌の記事なんかに使ってもらえることもあるし、取材先が写真を使ってくれることもあれば、講演なんかもある。ただ、撮るだけじゃなくて、写真を中心にいろいろなことをやっているのが、うまく回っているのかもしれませんね。

それに昨年(2018年)、WeTransfer社というオランダのデータ送信サービス会社が世界の写真家の中から3人を選んで支援する活動をしているんだけど、その対象者の1人に選ばれました。これは、とてもうれしかった。

ただ、今はたまたま仕事があるからいいけど、この先どうなるかなんてわからないから安心なんて全然できませんよ。

 

次回は西澤流写真集の作り方について詳しく語っていただきます。こうご期待。

取材・文:山下久猛 撮影:守谷美峰
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