順調だったキャリアが一転 無職へ……復活に役立ったものとは?|関純治さん(ハッピーミール社長)

さまざまなシーンで活躍しているビジネスパーソンや著名人に、ファミコンにまつわる思い出から今につながる仕事の哲学や人生観についてうかがっていく本連載「思い出のファミコン – The Human Side –(→)」。

今回ご登場いただくのは、ゲーム開発者の関純治さん。2019年1月にリリースされた、ファミコン風の世界観を再現した話題のアドベンチャーゲーム『伊勢志摩ミステリー案内 偽りの黒真珠』のプロデューサーである。ファミコンソフトの新作リリースが途絶えてから四半世紀を超えた今、なぜファミコン時代を彷彿とさせる作品開発に至ったのか、関さんのビジネスキャリアを紐解きながらその真意を探ってみた――

プロフィール

関 純治さん

1973年生、千葉県出身。ハッピーミール(株)代表取締役社長、プログラミングアカデミー(株)代表取締役社長、名前入りカセット博物館 館長。ゲーム専門学校卒業後、複数のゲーム制作会社でキャリアを積み現職。往年のファミコン名作のIPを活用したゲームをはじめ、パズルや知育など多くのタイトルを手がける。2019年1月ファミコン風コマンド式アドベンチャー「伊勢志摩ミステリー案内 偽りの黒真珠」をNintendo Switch向けに配信開始。

勉強が嫌いで、ゲームの専門学校に進学

―― まずは新作『偽りの黒真珠』についてご紹介いただけますか?

伊勢志摩地方を舞台にしたサスペンスゲームです。ファミコン風のコマンド式アドベンチャーで、ファミコン世代には懐かしい「週刊ファミ通」の漫画「べーしっ君」や、ファミコンの名作アドベンチャー「北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ」で馴染みのある、荒井清和さんにキャラクターデザインをお願いしました。

―― あの頃の記憶がよみがえりますね! 関さんの少年時代について教えてください。

印象的な思い出といえば、唐突に父が我が家に借りてきたインベーダーゲームの筐体です。かつて喫茶店にあったテーブル式の筐体で、なぜかうちに1週間だけ、置いてあったんですよ。ファミコン本体を買ったのは『スーパーマリオブラザーズ』などの人気作がブレイクするより前でした。定価14,800円の5,000円引き、9,800円で購入したことをよく覚えています。それからは、当時流行していたビックリマンシール等には目もくれず、小学生なりの全資金をファミコンゲームの購入に注ぎ続けました(笑)。

中高生になると、仲良しだった友だちの家がたまり場になって、いろんなハードのゲームが遊び放題で、ほんとにゲーム三昧の日々でした。その後は進路の話になってくるんですが、あまり勉強は好きじゃなかったこともあって、大学進学よりはゲームを作る仕事に就きたいなあ、という思いに至り……。ちょうどその頃は1990年代初めで、ゲーム系の専門学校が続々と開校し始めた時代だったこともあり、ゲーム関係の仕事に就くには一番手っ取り早いだろうと考え専門学校に進学しました。

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順調だったはずのキャリアが一転、無職に

―― ゲーム専門学校ではどのような学生生活を?

通い始めた頃はスーパーファミコン、PCエンジン、メガドライブ、ネオジオ等の全盛期。私は真剣にゲームを作る仕事がしたいという熱い想いをもって進学したのですが、まわりの同級生たちはゲームが好きだからとりあえず通ってる、みたいなかんじで真剣に取り組んでいる人はごく少数でした。そんななかでも良かったことといえば、パソコンが自由に使えたことでしょうか。自分では到底買えないようなハイスペックの機体で、グラフィックツール等を使って課題をこなしていました。

―― 卒業後はすぐゲーム業界に就職できたのですか?

希望は大手ゲームメーカーへの就職でした。ただ現実的に考えたら、超高倍率のなかで自分が内定をとれるわけがない、万が一入社できたとしても、すぐにゲーム制作には関われないだろうな……、と思ったんです。そんなわけで、経営層との距離が近い規模の小さい会社を狙っていきました。そうした環境なら、早くからある程度の裁量をもってゲーム制作に関われるだろうと考えたからです。会社選びで役立ったのが、「ゲーム業界就職読本」。結果としてはかなり早い段階でネオジオのソフトを開発する会社に就職が決まりました。

学生時代から「いつか役に立つ時がくる」と考え、自分が遊んだゲームの面白いところ、つまらないところ、特徴的なところ……等のレビューをノートにまとめていました。作品数にして100本以上を書き溜めていました。就職活動の時に、自分の真剣な気持ちを企業に伝えたい、という一心で面接に持参したほどです。

 

―― そのままゲーム業界でキャリアを積んでいったわけですね?

2年ごとに会社を変えながらステップアップして、やがては大手ゲームメーカーへ!という計画を抱いていました。実際に最初の会社はとくに理由もなく本当に2年で辞めました。幸い当時のゲーム業界はハードが乱立して、働き手が売り手市場だったことも後押しになりました。

その後も順調にキャリアを積み、ついに最大手メーカーに転職のチャンスがきて、最終面接まで進んだのですが、残念ながら落ちてしまいまして……それはもうショックでしたね。早速、自分の理想どおりのキャリアビジョンが途絶えてしまい転職活動が停滞し、だらだらとレンタルビデオ店で映画をたくさん借りて、朝から晩まで映画三昧の生活をしていました。しかし、1ヵ月ぐらい経つと無職期間用の貯金も尽きはじめ、また、働いてない状態のストレスに耐え切れず、転職活動を再開しました。

 

―― そこからどのように持ち直したのですか?

たまたま雑誌で見た求人から、自分の実績がフィットして条件の合う、人気シリーズのタイトルを手がけるゲーム会社があったので、そこに就職しました。その会社には結局10年ほど勤めました。ゲーム業界である程度キャリアを積んでいたおかげで、社内で自分の意見を通しやすく、意思決定にも参加でき、気持ちよく仕事ができる環境でした。

ただ段々と、「自分が作りたいゲーム」と「売れるゲーム」との違いに葛藤が生まれ、さらには中間管理職ならではの苦労にも直面。さらに最前線でバリバリとゲーム開発を手がけるクリエイターたちと比較することによる劣等感も実感するようになっていきました。そんな折、以前から海外のゲーム会社に就職して、外国にしばらく住みたいという密かな目標があり、それにチャレンジすることにしました。一応、その目標達成に向け、仕事の合間を縫って英会話教室にも通い、ちょっとした準備をしていた甲斐もあって、日本国内の仕事ではありますが、外資系のゲーム会社に転職できました

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自分の裁量で、やりたい仕事をするのが理想

―― キャリアの中心は、ゲームからブレなかったのですね

そこは欧州資本の会社で、モバイルをメインに日本のゲームを海外展開したり、その逆を行う事業をしていました。外資系らしく自分の責任を果たしさえすれば、ゲーム作りや業務内容については実質すべて一任される立場で仕事ができました。

ところがモバイルゲーム市場も、ガラケーからスマホに大きな転換があり、事業をとりまく環境が急激に悪化。結局その会社は別の海外資本に買収されてしまいました。世界的にメジャーなコンテンツに関わることができたのは貴重な経験でしたけどね。

―― そして独立・起業の道に進んだのですね

自分の裁量で仕事をしたいという想いは、ずっと一貫してきたと思います。やりたいことを一番楽にするにはどうしたらいいか?を考えながら。
正直なところ、過度な名声なんていらないし、会社規模を大きくしたいとも思いません。今の会社で目標といえば、スタッフ全員の月給を100万円にしたい。それを実現できたらいいな、と思うくらいです(笑)。それ以上稼ぎすぎると何かがおかしくなっちゃう気がしますし、超リッチではないけれど、欲しいゲームくらいなら好きなだけ買えるくらいの稼ぎ、が理想かなと思います。

――ファミコン風のゲーム開発を手がける理由は?

壮大なストーリーや緻密なグラフィックを追い求めるのではなくて、ゲームの「ルール」を作る開発者でありたい、例えるなら、将棋やオセロやテトリスのようなゲームを作ることが私の夢です。決して過去のノスタルジーか何かを探求しているわけじゃなくて、これまでのキャリアで、「自分にとって面白いゲーム」「ゲームらしいゲーム」はファミコン時代のテイストが最も表現手法として合っていたんです。子どもの頃の憧れだったあの世界観で作品を作ることは目標のひとつでもありましたから。

いま人気の漫画やアニメであれば、ロケ地や舞台となった場所をめぐる「聖地巡礼」を見越した連動ビジネスが作られていますよね。そんな発想で、今回の新作ファミコン風サスペンスゲーム『偽りの黒真珠』を核にして、リアルを巻き込んだムーブメントが起こせたら、という野望も持っています。

 

取材・文:深田洋介
1975年生まれ、編集者。2003年に開設した投稿型サイト『思い出のファミコン』は、1600本を超える思い出コラムが寄せられる。2012年には同サイトを元にした書籍『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を刊行。
http://famicom.memorial/

編集:鈴木健介

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