与えられた仕事のなかにこそ、新しい仕事が見つかる|橋本徹さん(会員制食堂「84」店長/元任天堂社員)

さまざまなシーンで活躍しているビジネスパーソンや著名人に、ファミコンにまつわる思い出から今につながる仕事の哲学や人生観についてうかがっていく本連載「思い出のファミコン – The Human Side –」。

今回ご登場いただくのは、元任天堂社員で、現在はマリオやゼルダにポケモンなど、任天堂ゲームファン垂涎のレアグッズをしつらえた店内が印象的な、会員制食堂「84」の店長である橋本徹さん。ファミコン発売直後に入社した任天堂社員として経験した当時の熱狂の裏側をはじめ、あの時代を経験したからこそ現在に至ったキャリアステップなど、往年の“ファミっ子”たちへの示唆に富むお話をうかがうことができた――

<橋本徹さん プロフィール>
1962年兵庫県生まれ。1984年に任天堂入社。同社では基幹系のSEや営業を経た後、ゲームソフトの評価部門である「スーパーマリオクラブ」の運営に関わり、その後ゲームのモニタリングやチューニングなどを行う株式会社猿楽庁を設立する。2015年2月には会員制食堂「84」をオープン。ゲーム業界人や愛好者に限らず、訪問客の輪を広げながら、知る人ぞ知る交流の場として盛況を博している。

地鳴りとともに体感したファミコンブームのクリスマス商戦

―― 橋本さんはファミコンが発売された(1983年)翌年の1984年入社なのですね。なぜ任天堂を就職先に選んだのですか?

元々父親が京都人だったことや、僕も学生時代を京都で過ごしたこともあって京都に愛着があり、できればそのまま京都で暮らしたいなあって思ったんですよ。だから、京セラやワコール、そして任天堂といった京都に本社がある企業に絞って就活をしました。そんななか最初に内定をいただけたのが任天堂でして……ファミコンブーム直前だったこともあって、じつは就活中にはファミコンで遊んだことすらなかったんです。たまたま偶然、時代の巡り合わせでしたね。

―― 入社後はどんなお仕事を?

入社後はシステム部門に配属されて、経理や財務など社内基幹システムのSEをやっていました。とはいえ大学を出てすぐ、しかも経営学部の出身でしたから、プログラムの知識はゼロ。研修でイチからプログラミング講習を受けました。仕事としてファミコンに関わることもありませんでした。

その後、自分たちでプログラムを組んで、売上データやら伝票やらを出力するシステムを作っていました。そこで『デビルワールド』とか『クルクルランド』が何本売れたとか、『スーパーマリオブラザーズ』がすごいとか……商品名とたくさんの数値やデータが行き交うのを見て、ファミコンブームを間接的に体感していました。

―― ファミコンブームを直接的に実感したエピソードはありますか?

入社した年(1984年)の年末はファミコンが発売されて1年半くらいで、ちょうどブームに火が付き始めたころ。新人でしたから週末土日はデパート応援っていうのがあって、デパートのおもちゃ売り場に立って販売を手伝うんですね。僕は京都大丸の担当だったのですが、前日から売り場に行って、ファミコンを大丸の紙袋に1台ずつ入れていくんです。それを1,000台ぶん用意しておきました。

翌朝も早めに行って準備して、店員さんとショーケースの前で開店を待つんです。すると10時の開店アナウンスとともに、下から地鳴りがしてくるんですよ! エスカレーターに階段、もうみんなダッシュで駆け上がってきて、まずやることはショーケースを店員さんと押さえること。「押すな!押すな!」でショーケースを押さえる一方、お客さんがみんな現金を出して「くれや!くれや!」ってなって(笑)、当時は列を作ったり整理券を配布するっていう慣習もなかったので、まさに早い者勝ち。転んだ人を踏んででも先に行くみたいな状態で、1時間もたたずに用意した1,000台はなくなりました。
ファミコン本体がとっくに売り切れた後にやって来た子どもたちは、やっぱりみんな泣いてましたね、床に転がって。本体はないけど、なんか適当なソフト……『五目ならべ』とか買い与えられてそれで納得させられて……(苦笑)。それはもう修羅場でした。

8,568通り、あなたはどのタイプ?

任天堂の代表電話に小学生が「橋本君、いる?」

―― 経験したことがないムーブメントのなか、予測不可能な出来事がたくさんあったのですね。

そうですね、今でこそカスタマーサポートというのが各社にありますが、初期の頃はありませんでしたから。たとえば任天堂の商品でも、説明書に書いてあるのは本社の代表番号と各営業所の電話番号だけ。だからユーザーさんは疑問があれば当然そこに電話をしてきます。

僕が営業だった当時の出来事ですが、本社代表番号にかかってきた問い合わせはとりあえず営業に回ってくるんですね。あるとき、「小学生の男の子から問い合わせです」って代表窓口から電話が回ってきて、とりあえず話をきいてみると、ゼルダの攻略に関する問い合わせでした。

「ゲームボーイのゼルダをやってるんですけど先に行けません」みたいな内容で、「今どこですか?」ってきくと、「どこのダンジョンのなんとかの部屋で……」「それだったら、そこの敵を倒すと右のドアが開くから、そこから入ってね」みたいなことを教えてあげたんです。当時はどこまで言っていいけどここからはダメって、情報解禁みたいなのもなかったから、もう僕の判断で(笑)。その子に「どこから電話してんの?」ってきいたら「九州!」とか言うもんだから、「じゃあこっちからかけ直してあげるから、ちょっと一回切ろっか」といったかんじで対応したんです。

すると、その子から毎日攻略についての問い合わせ電話がくるようになって……しかも任天堂の代表窓口に、「橋本君、いる?」ってかけてくるみたいで(笑)。電話交換の女性スタッフから「『橋本君、いる?』って電話がかかってきてます」って回ってくるんですよ。毎日「どこまで進んだの?」なんて会話をしながら……そんなゆるい時代でしたね。

―― そうしたなか、ユーザー対応業務というのも「仕事」になってくるわけですね。

いろいろなハプニングを経験することでノウハウがたまっていって、その対応についてのマニュアルを作ることができますから。仕事をやりながら新しい仕事ができあがる、ということでしょうか。

たとえばその後、品質管理の部門で仕事をしていたときに、「デバッグ」というプログラムのバグをチェックして報告する業務を統括していたんです。でも僕の性分として、ただそれだけだと面白くなかったので、バイトの子たちと終日ゲームのバグチェックをしたあと、有志だけで終業後1時間集まって、そのゲームについて「もっとこうしたら面白くなるのに」みたいなディスカッションをして、意見をまとめて開発側にフィードバックをするようにしました。品質管理の仕事に、ただ与えられた作業をやるだけでなく、それ以上のアウトプットを出すようにしたんです。

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ゲームのチューニングから人生のチューニングの場づくりへ

―― なるほど、それがその後の猿楽庁を立ち上げてゲームのチューニングの仕事につながるわけですか。

じつはその後事情があって任天堂を辞めて無職だった時もあったのですが、その当時の仕事ぶりを先輩だった宮本茂さん(現:任天堂代表取締役 フェロー)が覚えていてくれて、ある日「最近何してるんや?」って電話をくれて、「元気に無職で子どもの送り迎えをやってますよ」なんて答えたら、「ちょっと東京へ行って、品質管理部を作ってくれや」みたいな話になって……それが株式会社猿楽庁の成り立ちなんです。

―― 見ている人はその仕事ぶりをしっかりわかっていたんですね。

僕自身、そういうゲームのチューニングみたいなことは好きだったんですが、宮本さん的にも「もったいないから、それをそのまま仕事にしたら?」みたいなかんじだったのかもしれません。まあ、宮本さんに言われたら断れませんので(笑)

―― 実際に猿楽庁での仕事というのはどのようなものだったのでしょうか?

企画から入る場合もあるので、その場合はまずゲームの企画書を見て、コンセプトがマーケットに合っているかとか、ユーザーに受け入れられるのかとか、そもそも面白いのか、ということを読み取るんですね。企画書の段階から現場の人たちともみ合うっていうことをずっとやっていました。

猿楽庁を設立したとき、「僕らはユーザー代表やで」っていうコンセプトを明確にして、ユーザーとしてゲームをプレイしてみた時にどうなの?っていう感性を大事に、主観と客観を使い分けながら、チューニング作業をしていました。

もともと品質管理の仕事はデバッグからスタートしたんですが、でもデバッグの時点だと、ほぼゲームが完成に近づいているので、もう直せないじゃないですか。なので、僕はよく病院とか医者とかに例えるんですけど、「もう末期ガンですよ」ってなってから治すのは無理なので、もうちょっと早く、定期健診のレベルからちゃんとチェックしていった方がいいよね、その方が健康だよね?っていうことで、結局「企画書からやりませんか?」みたいなかんじになっていったわけです。

―― その後、会員制食堂「84」をオープンすることになったわけですね。その狙いは?

2014年早々のことなのですが、ある大事な会議の最中に「飲食店をやってみれば?」という神の声(?)が降りてきたんです、いやほんとに。いずれにしても、やるなら他にはないものを作らないとなぁということで、店内に飾ってるゲームのグッズはほぼ全部私物なんですけど、ゲームっぽい雰囲気を楽しんでもらったり、それと人との繋がりだけは大事にしたいから、会員制にして友人知人だけからスタートするっていう形をとりました。

ファミコンやゲームで育った大人たちが子どもの時の原体験を共通言語に交流できるような場所があったらいいな、という思いがまずあって、その上でゲームを作る現場に近い所にいた僕のような人間が、今その現場で疲れた人を癒すような場にできたらな、という思いもあります。

お店始める直前まで、猿楽庁をやりながら、京都精華大学で大学の先生もしていたんですよ。そのときの学生さんたちも、卒業して、就職して、会社で打ちのめされて凹んで……でもここに来て話をきいてあげて、背中を押してあげたり転職先を探してあげたりとか、リハビリする場所にも実際になっています。
ずっとゲームのチューニングの仕事をしてきたわけですし、この「84」が“人生のチューニング”もできる場所にできたらいいな、と思っています。

取材・文:深田洋介
1975年生まれ、編集者。2003年に開設した投稿型サイト『思い出のファミコン』は、1600本を超える思い出コラムが寄せられる。2012年には同サイトを元にした書籍『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を刊行。
http://famicom.memorial/

撮影・編集:鈴木健介

 

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