【答えがないことが答え】全壊の自宅を被災地ファンドで再興!楽園民宿にした女将の本気‐後編

 (前編より)東日本大震災で、津波の大被害を受けた宮城県気仙沼市唐桑町鮪立(からくわまちしびたち)。そこで被災地ファンドを利用した民宿「唐桑御殿つなかん」が人気を博している。女将の菅野一代さん(以下、いちよさん)は、震災直後に学生ボランティアがダンボールに書き残していったメッセージに励まされ、1000万円をネットを介したファンドで集め、全壊した自宅を復旧。2012年8月にみんなが集まれる民宿を開く。マイナスからのスタートでもぐいぐい周りを巻き込んでいくそのパワーの源とは?後編へ!

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▲宮城県気仙沼市・漁師民宿「唐桑御殿つなかん」の女将、菅野一代さん

■震災後の出会いは神様からのご褒美

 震災が起きてからの3年半は、それまでの人生と比べものにならないほど膨大な数の人たちに出会ってきた。するとね、気持ちも自然と張ってくる。それも、さらっと会うのとは違って、一人ひとりとちゃんと向き合って話しているから、一緒に過ごしている時間が猛烈に濃い。学生ボランティアで来ていた子が、社会人になって再び訪ねてきてくれたり。都会でちょっと疲れてやってきた人が、笑顔になって帰っていったり。できて間もない宿だけど、おかげさまでリピーターだらけなの。純粋にうれしい。震災が起きてからのこうした出会いは、これまで一生懸命に生きてきたことへの、神様からのご褒美だと思う。

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▲一番左・料理長の今井竜介さん、中央・いちよさん.つなかんを訪れた家族連れと「ハイ、ピース!」

 それは無論、私だけの力ではなくて、人のことを思える心の余裕や、どんなに悲しくても腹の底から湧きあがる笑いの原点が、もともと唐桑の地にはみなぎっているんだと感じる。元来、それって誰しも持っている力なんだろうけど、それが出せない人は、出せない環境にあるってだけで、逆に言えば唐桑は出しやすい環境なんだろうね。都会じゃ電車の中で「あはは」なんて、ひとりで笑うわけにもいかないし、銀座のど真ん中でひとりでバカ笑いしていたら、下手すると救急車を呼ばれちゃうかもしれないでしょ。でも、今の唐桑では全然平気。どうぞ好き勝手やってくださいって。先月から働いてもらっている料理長のリョウスケなんて、しょっちゅう鼻歌歌っているけど、もう誰も気にしない。気にしているの、せいぜいうちのばあちゃんくらい。「びっくらこいたぁ」って。

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▲つなかんの料理に使われる野菜のほとんどは、83歳になるあやこばぁが畑でつくる

 海と共に生きている私たちは、ボソボソと何かを言っても波の音にかき消されてしまうから、もともと声が大きいわけ。ちょっとでも誰かが何かを言って聞こえないと「ハァ~?なぬぃ?」って大声で聞く。初めてその光景を見た人たちは、「喧嘩しているみたい」って思うかもしれない。それくらい皆、声が張っているから、当然、笑い声も大きくなるさ。

■震災を機に変わった人やお金との向き合い方

 おかげさまで今はここで暮らせているけど、自分ひとりで復興したわけではないし、ここはみんなのものだし、だからこそ恩返しは必ずしなくてはいけないという気持ちがある。だから、こうしてがんばれる。
 人との接し方ひとつとっても、誰に対しても今までとは違うよね。人のありがたみがすごく身に沁みるし、「人っていいな。真剣に向き合おう」と思う。

 今の若い人って、リアルな作業とか、リアルなコミュニケーションとか、なかなか体験できないと思うから、ここではあえてお客さんでも「手伝って」とお願いする。「早く来てえ。助けてえ。それやっている場合じゃないから、こっち先にお願い!」って。それでやってもらったら、「あなたがいてくれて本当に助かる」「あなたの助けがないと、この民宿は成り立ちません」とたくさん感謝すると、すごくみんな喜んで、ここに来て良かったと思ってくれて、自分の存在意義を感じてくれる。

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▲すし職人の料理長リョウスケさんが丹精こめてつくる料理は海の恵みと山の恵みが満載でどれも絶品

 震災の時ほどの辛さはもうないと思っているから、今は何でも受け止められる。来てくれる一人ひとりの気持ちが伝わってくるし、だからこそ、来てくれたらみんな家族。お客さんもボランティアも従業員も関係ない。資金もいろんな人からネットを介して出してもらっているし、もとはと言えば、みんなのものなんだから。
 震災まではとにかくお金が大事だった。このくらい貯まったら、イカダを作ろう、工場を建てよう、従業員を増やそうって、会社を大きくすることしか考えていなかった。でも、震災で全部流されて何もなくなってみたら、自分を助けてくれたのはお金じゃなく人でしょう。それまではお金のために睡眠時間も1日4時間で働いていたのだけど、もうお金どころではない。お金よりも大事なものがあるんだと、ここに集まってくれた人の力が、私に新しく命を吹き込んでくれたんだ。服装も今までは、ずーっとカッパと長くつとジャージだったけど、今は娘の服とエプロンになったし。
 こういったら理不尽だけど、震災があって肩の荷がちょっとだけ下りたのかも。ゼロどころか、マイナスからのスタートだと思うと、ちょっと楽だった。あとは、旦那や家族があまりにもシュンとしていたから、私ががんばらなきゃと。「お、肩軽いし、やるか」みたいな感じ。なんでも、プラス思考に考えるって大事だよね。

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▲ほんわが灯が暖かい夜のつなかん

■元気は自分でつくるもの

 カキむきで全国3位を獲ったことがあるのだけど、じいちゃんが言うように、どうせ与えられた運命なら、その領域で人よりも先頭に立ちたいと思うほう。「負けないぞ、負けないぞ、私はカキむき機械なんだ」って、必死に言い聞かせながらやり続けるのって大事。
 最初は嫌だったカキむきも、たくさんやっているうち好きになって、誰よりも先にバケツがカキでいっぱいになるのがうれしくてがんばったんだけど、よくよく考えたらしょうもないでしょ。でも、そのしょうもない自信が、今の私の軸になっている。どんなささいなことでも、人よりも勝てるものがあれば、いざという時に踏ん張れるもの。25年間、寒い中でもカキむきは誰にも負けずにやり通した。だったら何でもできると思う。

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▲がんばってむいています

 元気って、そもそも自分でつくるものなんだよね。それができないのは努力が足りていない証拠。努力するというのは、たとえば経営状態をよくするなんていう難しいものではなくて、とにかく基礎を固めることでしょう。
 人間なんだから、まずは元気に、正直に、勢いよく! 単純にそれだけ。「せっかく、この世に生まれてきたんだから、元気に生きてやろうよ」というパワーで、自分をみなぎらせる。そのためには他愛もないことで大きな声で笑うのが一番。そうやって笑っていると、人ってだんだんいい方向へ向いていく。その基本を多くの人が今、はき違えているんじゃないかな。
 先に難しいことを考えて前に進めないより、動いてみて「あはは、失敗や!さぁ、次いってみよう」ってバカ笑いしたもん勝ち。何も難しいことはない。すごく苦しくて、涙流しながらでも笑顔でいると、人って集まってきてくれるし、助けてくれるもんなんだよ。

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▲つなかん名物いちよ踊り(!?) 知らない人同士が集う夜の団欒は最高に楽しいひととき

■海は家族であり、人生そのもの

 嫁に来てからの25年間、海とともに「なにくそ」と思いながら生きてきて、いわば海は私の人生そのもの。今までずっと海の表情を見ながら仕事したり、生活してきた。

 今年、83歳になるあやこばぁ(姑)は、今でもずっと現役。ホヤをむいたり、漁の帰りに漁師が届けてくれたメカジキの腸の掃除をしたり、サラ貝のおこわを作ったりと、唐桑ならではの漁師料理をこしらえては、料理長のリョウスケに教えている。
 口数の少ない旦那も、毎朝5時に海に出ては養殖しているカキとホタテの管理をしている。漁協の出荷の際は、一度に500キロ、1000キロという単位で水揚げするんだよ。宿泊の予約がある日には、3キロくらいでも、その数分だけホタテをイカダから取ってくる。私たち家族も、ここを訪れる人たちもみんな、そうやって海の恵みで生かされている。
 津波に遭った直後は、海を見るのがつらいというより、むしろ海がかわいそうだった。海だって暴れたくて暴れたわけじゃなく、人を飲み込みたくて飲み込んだわけじゃない。あんなきれいな、みんなを和ませて、お腹いっぱいにもしてくれる、私が嫁に行きたいと思うくらい素晴らしい鮪立の海が、こんな状態になってしまってかわいそうって。なんだろうね、この感情は。やっぱり、ずっと一緒に生きてきたからかな。海は私の家族だもの。

■答えがないことが答え

 今でこそ震災から3年半経って少し落ち着いたけど、最初に来た人たちは被災した私たちに、どう声をかけていいのか分からなかったみたい。だからこそ、「全然、大丈夫だよ。ふつうだよ」と言いたい。もちろん、いろいろあったし、今もいろいろあるけど、みんなで我慢しないで、おいしいものを食べて、とにかく笑って、そういう生き方をしようって決めているから。そういうことを時々言ったりするんだけどね。だって、考え出したらキリがないし、そんな無理やり答えやゴールを見出そうとするより、みんな一緒に試行錯誤を楽しむほうが、よっぽどいい。

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▲掘りごたつを囲んでの、やんややんやが楽しいマッタリ試行錯誤タイム.
 誰かが何かで困っていたら、テーブルを囲んで、お菓子つまみながら、みんなで考えればなんとかなると思っているし。そういう意味では、「つなかん」を訪れる人は、迷ったり、どうしようって思ったりすることをむしろエンジョイしているよね。
 だって、答えなんて、そもそもないでしょ。やったことだけが答えだから。こうして生きて、皆で言葉交わせていることが答え。何かやってみて、何かが間違っていたと思っても、それで感じ入るものがあったなら、オールオッケー。
 銀行の研修旅行でやってきた人たちが悶々とした表情で来たことがあったのだけど、帰る時にはスカッとして帰っていったもんね。たぶん、答えなんかないんだって、分かって帰っていったんだと思う。一生懸命に生きているというだけで、単純に純粋に、心が豊かになる。それが何よりの答えでしょう。

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▲一生懸命に生きているということが、何よりの答え

■唐桑の一本松になりたい

 陸前高田の奇跡の一本松。あれを見た時になんかね、他人事とは思えなかった。ひとりでもなんとかしよう、なんとかなるさって、あの一本松はそんなふうに語りかけているみたい。ヘラヘラしているように見えても、私だって想いはあるんだ。
 本当にみじめだし、悲しいし、つらいし、落ち込むけど、そこで泣いても笑っても人生は一度きり。だったら、ちょっとここらで笑って「私は幸せよ!」ってクソ意地張りついでに海へ向かって声を張り上げてみたらいい。上を見ても、下を見ても、どうせキリがないんだからさ。
 家が流された。イカダが流された。借金だけが残った。たくさんの人が死んでいった。それでも私は幸せで、今ここにこうして命があるんだと思うと、残りの人生は本当にさ、思いっきり笑いたい。一本松じゃないけど、泥の中でも「ここに立っているぞ」って気持ちで、そうやって生きていこうと思う。なんだろう。私もそういう意味では負けず嫌いなのかもしれないね。他人に対してじゃなく、自分に対しての負けず嫌い。
 あの奇跡の一本松って、人を呼び寄せるじゃない。根くされして、ちょっと枯れちゃって、移植されながらも、それでも皆が見にくる。ああなりたい。そして、来てくれた人に「どうよ」って言いたい。「レプリカの一本松です。津波に遭って、ちょっと心が枯れちゃったけど、みんなが治してくれて、今はすごくライトアップされて、輝かせてもらっている。ちゃんとここにこうして立っている」と、見る人みんなに伝えたい。
 とはいえ、今度生まれ変わるとしても、やっぱり松よりは人がいいな。今は地元の子たちを含めて、本当にいろんな人たちが集まってきてくれるから、みんなのお母さんになれればいいと思っている。人ってさ、誰か世話好きがいなきゃダメなんだよね。どこにいたって見てやる人がいないと。そういう役になれたら、それが私のご恩返し。

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▲気仙沼の大漁旗を大きく振りながら見送ってくれた立命館の生徒たち

 著者が宿泊したその日は、立命館大学の生徒たちや唐桑の復興まちづくりサークル「からくわ丸」のメンバーが集まり、灯篭イベント「みなとの灯」を眺めながら、バーベキューが催されていた。携帯やスマートフォンをいじることなく、獲れたてのホタテや地元産のお米で握ったおにぎりを頬張り、目の前の人と語らい合う。地元の青年たちが、震災の体験を訪問者に臆することなく話しながら、それでもなお、笑い声や冗談が飛び交う不思議な空間、それが「唐桑御殿つなかん」だ。
 都心ではなかなか体感できない、“むき身”のざっくばらんなコミュニケーションや、ここで暮らす人たちのたくましさや温かさに、むしろ尊敬と羨望の情すら湧いてくる。“被災地だから”ではなく、ただ楽しいから人々が自然と集い、寄り添い合う。いちよさんをはじめとした、この宿の運営に関わる全ての人々のホスピタリティと、仕事や人に対する溢れんばかりの前向きさが凝縮された「唐桑御殿つなかん」は、まるで気仙沼の楽園のような場所だった。

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▲夕暮れの唐桑町鮪立の海

取材協力:有限会社盛屋水産

取材・文・撮影:山葵夕子 写真提供:今井竜介(唐桑御殿つなかん)

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