客から値切られる、毎年目標は上がる…「営業が嫌」で退職後、すぐに“ノープラン”で店をオープン――『肉山』オーナー・光山英明の仕事論(1)

2017年の外食関連業者の倒産件数は過去最高の707件に上った。業態別では、居酒屋、もつ焼きやなどの「酒場・ビアホール」が133件でトップ(帝国データバンク調べ)。

そんな厳しい飲食業界で勝ち続けている男がいる。光山英明49歳。17年前に開店したホルモンと焼酎の店『わ』以来、手掛けた飲食店が軒並みヒット。中でも『肉山』は予約1年待ちの超人気店となっている。さらに60店舗もの飲食店をプロデュースし、そのすべてが繁盛店に。しかもそのプロデュース料は驚くほど安い。飲食業界だけではなく、芸能界、スポーツ界、ビジネス界にも数多くのファンをもつ体育会系凄腕ヒットメーカーに、これまでの半生を振り返りつつ、独自の仕事論を語っていただいた。連載第1回は社会に出て初めて勤めた会社を辞めて、『わ』を立ち上げるまでの経緯をお届けする。

プロフィール

光山英明(みつやま・ひであき)

1970年、大阪市生まれ。個人商店代表取締役社長。小学4年生から硬式野球を始め、上宮高校野球部では主将を務め、甲子園に出場。ベスト8に。卒業後も中央大学野球部に入部、吉祥寺周辺で寮生活。卒業後は大阪に戻り、卸酒屋に就職。9年半勤務後、上京し、2002年11月にホルモンと焼酎の店『わ』を開店。2012年11月には『肉山』を開店。予約1年待ちの人気店に育て上げる。飲食店を開業したり知り合いの相談にも乗り、これまで60店舗以上をプロデュース、そのすべてが繁盛店となっている。

挫折からのスタート

──今や『肉山』などご自身が経営する店だけでなく、プロデュースする店を軒並み大ヒットさせている光山さんですが、そのキャリアのスタートからお話を聞かせてください。

僕は大阪で生まれ育ったのですが、高校卒業後、東京の中央大学に野球推薦で入学しました。学生時代はグラウンドと寮があった吉祥寺に住んでて、いろんなお店でご飯を食べるのが好きで、よく飲み歩いていました。その時、ぼんやりとですが、いつか東京でお酒と料理を出すお店をやりたいなと思っていたんです。その商売の勉強になるかなと思って、卒業後の1992年4月、大阪に戻って先輩が経営する卸酒屋に就職しました。

──卸酒屋では具体的にどんな仕事をしていたのですか?

軽トラにお酒を積んで、スナックとかラウンジ、クラブなどの飲み屋を回って販売してました。同時に営業もやってて、当時回ってたのが酒屋さんとして市場があんまりない地域だったので、先輩と一緒にそこでお店のママさんのお心を頂戴するにはどうしたらええんやろと考えながらやってました。最初の頃は楽しかったのですが、だんだんしんどくなってきて、9年半勤めて辞めたんです。

──その理由は?

大きく2つあります。

1つは、お客さんから値切られることが多くなってきたこと。原因はディスカウントショップの台頭です。例えばヘネシーは当時8500円くらいで納品してたんですが、ディスカウントショップでは7200円くらいで売っとるわけですよ。それをお得先のママさんが見つけて「アキちゃんとこで買うより1300円も安い。もっと安くしてよ」と値切られるようになったんです。確かに値切られるのもわかんねんけど、その時2つ考えたことがあって、1つはどうして俺らは値切られんねんということ。ある程度売り上げと利益をきちんと確保できないといい会社にはならないから、何でもかんでも安売りしたらあかんよという方針の会社だったので、値下げには応じられない。そのかわり、毎日お店に配達に行って、空瓶下げて、売掛して、集金するというサービスを行っていました。安売りできない分をサービスで補おうとしていたわけです。でも、そこまでしても値切られるわけです。このことで、値段だけでディスカウントショップに負けるとは自分にはなんて実力がないんだろうと反省しました。もし自分にもっと値段の差をカバーできる力があれば値切られたり、買ってくれなくなることもないのになと。もう1つ考えたことは、どうしてこの人は値切るんだろう、そこまで値切る必要ってあるのかなってことです。当然、仕入れの値段を安くすればするほど自分の利益は増えます。でも仕入れの値段を安くする、つまり値切ることで泣く人が必ず出ます。そうまでして自分だけ儲けたいんかと思ったら、この商売自体に嫌気が差してもうたんです。この時の経験が後に東京で開店した第1号店の店名の由来になってます。

2つ目の理由は、営業という仕事そのものに疲れてきたこと。これはどの会社でも同じですが、営業マンという職種は永遠に会社から前年よりも少しでも成績を伸ばすことを求められるじゃないですか。これが肉体的にも精神的にもしんどくなってきたんです。

──酒屋を辞めて東京に行こうと思った決定的な出来事はあったのですか?

特にはないですね。退職する直前はこれまでの人生で精神状態が一番悪かったので、一回リセットしよう。今の自分を大きく変えるためには働く場所や住む場所などの環境をがらっと変えるしかないなと。あと、学生時代から東京でお店をやることが目標だったので、退職して東京に行くことにしたんです。

たった3分、あなたの適職は?

適職診断

友達には店に来てほしくない

──大阪で起業は考えなかったのですか?

それは絶対ないですね。今後もし、大阪に直営の店を作ったとしても僕が現場に入ることは絶対ないです。学生時代の同級生や野球部の先輩後輩などの身内がいっぱいおるところではやりたくないんですよ。

──なぜですか?

例えば後輩とメシ食いに行ったら、必ずそいつの分も払います。それが当たり前の文化で育っているので、野球部の後輩が『肉山』に来ても代金をもらいづらくて。だから「もう来んでええよ」ってなるわけです。それと、例えば、同じカウンターに昔からの知り合いと初めてのお客さんがいたら、僕は努めて初めてのお客さんと喋るようにしてるんですよ。知り合いとばっかり付き合うとどっちにも甘えが生じるし、初めてのお客さんに不平等感を感じさせたくないからです。そうすると昔からの知り合いは「おいおい、せっかく来てるのになんやねん」ってなる。「だから来んでええって言ってるやろ」と言うんです。そこは結構大事にしてるとこなんですよ。だからこんなこと言うと怒られるかもしれませんが、最初はお客さんだったけど、仲良くなって一緒に外で食事する人は僕の中ではお客さんじゃなくて友達なんですよ。そうなるともう店に来んでもいいんですよ。

──ちなみにお客さんのままの人と、外で遊ぶようになる人の違いは?

ないです。一緒に遊ぶのは僕が好きになった人というわけじゃなくて、外に飲みに行きましょうよと誘ってくれる人と友達になるんです。逆にそういうことを求めていない人、あくまでもオーナーと客の関係のままでいたいという人はそのままということです。

8,568通り、あなたはどのタイプ?

退職からわずか5ヵ月で『わ』を開店

──なるほど。では東京でどんな飲食店をやってみたいと思ったのですか?

ホルモン焼き屋です。理由は、ホルモン焼きは小さい頃から食べてて身近だったし、極端なこと言うたら焼肉屋は肉屋から肉を仕入れることさえできれば、あとは客が焼いてくれるので誰でもできる商売なんです。逆に言うと、飲食店の経験がゼロで、飲食業界に何の伝手もない僕はホルモン屋しかでけへんなと思ってました。当時、東京のホルモン焼きは豚モツが中心で、関西のような牛のホルモンを出す店はほとんどありませんでした。だから牛ホルモンをメインに、当時流行っていた焼酎を手頃な価格で出せばいけるんちゃうかと。それで、2002年6月、10年勤めた酒屋を退職して、7月15日に土地勘のあった東京・吉祥寺で部屋を借りて、11月15日にホルモン焼きと焼酎の店『わ』を開店したわけです。

──飲食店の経験がゼロで、何の伝手もないにもかかわらず、退職から開店までが5ヶ月ってめちゃくちゃ早いですね。まず上京後、何からしたかのですか?

6月に酒屋を辞めてから、最初は吉祥寺に住んでる大学時代の友達の家に泊めてもらって、東京と大阪を行ったり来たりしつつ、ホルモンと酒の仕入れ先を探していました。そしたら両方ともすごくいい仕入先が見つかったんです。

偶然見つけた肉屋と酒屋で「イケる!」

──素材で勝負する飲食店の場合、仕入先が一番重要だと思うんですが、どうやって見つけたんですか?

たまたまです。肉屋は泊めてもらってた友達の家のすぐ目の前にあったんです。一般の人に売ってなくて飲食店専門に卸している店だったのですが、看板といいなんかええ店の匂いがするから1回行ってみようと思って、「すいませーん」って入ってって、店主に「ホルモン屋やりたいから肉を見せてください」って言ったんですよ。そしたら「お兄ちゃん、今、どんな状況かわかってる? 俺、今首吊って死のうかなと思ってるくらいなんだけど」って言ったんです。なんでかいうと、当時は9.11のアメリカ同時多発テロと狂牛病騒ぎが重なって、日本国民が牛肉を食べなくなっていたからです。大阪の酒屋で働いていた時も、焼肉屋さんの売り上げがズドーンと下がりました。それまで僕らが毎月100万円くらい酒代をもらってた焼肉屋さんが、10~15万円くらいにまで落ち込んでいたんです。そのくらいお客さんが来ていなかったんです。しかも、元々東京はそんなに牛ホルモンを食べないですしね。

「それでもいいから見せてください」ってお願いしてホルモンを見せてもらったら、めちゃめちゃおいしそうやったんですよ。売れないけど、牛は潰しているからええ肉がゴロゴロしてたんです。その瞬間、「これはめっちゃええホルモンや、これはイケる!」と確信しました。しかも今だとキロ2300円のホルモンが300円くらいにまで値段が暴落してたんです。「今、このホルモンで店やったらビル立つんちゃうかな」と思いましたよ(笑)。

──見ただけでわかるものなんですね。

僕が生まれ育った大阪の生野区というところはコリアンタウンで、小さい頃から焼肉は死ぬほど食べてますから見ただけでモノの良し悪しはわかるんです。

──お酒の仕入先の方は?

これもたまたまで、友達の家の近所にあった酒屋さんがなんかええ感じやなと思って、ふらっと入ったんです。そしたらええ酒がぶわーっと並んでたんですよ。今はご主人が三代目なんですが、最初に顔を出した17年前は初代の方もいらっしゃって、「こんな店をやりたいんです」と夢物語的に喋ってたら、「とりあえず座れ。味見しろ。何飲みたい?」って奥からすごくいい焼酎を持ってきてくれたんです。それで毎日その酒屋へ通うようになりました。焼酎の勉強というか暇でやることないからですよ。またこの初代の方が“宵越しの金は持たねえ”みたいな、きっぷのいい典型的な江戸っ子のおじいさんでね。昔話をしながら「飲め飲め」ってどんどん飲ませてくれました。それでこの店にお酒をお願いできることになったんです。「魔王」などの普通の酒屋さんには置いていないレアな焼酎も普通に扱えるすごい酒屋さんで、「こういうすごい酒も仕入れられるんや、イケる」と思いました(笑)。

それで、仕入先と部屋が決まって、7月に吉祥寺に引っ越して、初めての一人暮らしが始まりました。ちなみに、学生の頃によく飲みに行ってた居酒屋さんに10年ぶりに行ったら、「有言実行やな」と言われたんです。なんでやろと思ったら、僕が大学を卒業して大阪に帰る時に「また10年後に東京に戻ってきます」と言ってたらしいんです。本当にたまたまで、しかも自分ではよく覚えてないけど、そういうことにしとこかと(笑)。

バイトに応募するも不採用で「自分でやるしかない」


──飲食店で働いた経験がなかったんですよね? どこかのお店でアルバイトしようとは考えなかったのですか?

これまで飲食店でアルバイトをしたことすらなかったので、何からしたらええんやろと考えて、取りあえず元々学生時代に好きで通っていた居酒屋に開店と同時に行ってみたんです。別の店に変わっていたんですが、翌日その店に電話して「アルバイトできませんか?」と聞きました。めちゃ失礼やけど、店がめちゃショボかったので、ここやったら飲食店でバイトしたことない俺でも働けるんちゃうかなと(笑)。そしたらアルバイトを募集してないんだけど、せっかく電話くれたことだしいっぺん店に来てくださいって言われたので、人生で初めて履歴書と、言われてないのに昨日食べた料理の感想も書いて持って行きました。そしたら不採用やったんですよ。そもそも募集してないんですけど(笑)。

で、どうしたらええんやろと。飲食店のことを何もわかっていなかったし収入もないので、どっかの店で働くべきなのかなと思って『アルバイトニュース』を見たんです。そしたら、手羽先で有名な某チェーン店が吉祥寺に新規開店する店のオープニングスタッフを募集してたので、大手で働いてみて勉強しようかなと応募したんです。でもまた落ちたんですよ。32歳で飲食店で働いた経験が全然なかったからだと思うんですが、これはアカンと(笑)。いやこれね、今でこそ笑いながら話してますけど、当時は真剣にやばいと思ったんですよ。それでもうどこも雇ってくれへんのやったら何ができるかわからんけど、自分でやらんといかんのかなと覚悟を決めたわけです。

──応募したのって2軒だけなんですか?

そうです。今まで何かに負けた経験がそんなになかったので、たぶん2回落ちたのがめちゃめちゃショックやったんですよ(笑)。だからいきなり自分で店をやろうというのも全然前向きではないですよ。もうそれしかないんちゃうんみたいな切羽詰まった思い、危機感からでした。

──1人でやろうと覚悟を決めて、まず何をしたんですか?

まだ物件借りてもないし、働いてもないし、やることなくてめちゃめちゃ暇やったので、どんな店を作るか、妄想してノートに書きまくってました(笑)。例えば東京の人は大阪に比べて牛肉のホルモンに対する意識が低いからイケるんちゃうかとか、吉祥寺で2、3店舗やりたいとか。今見たらたまたま書いた通りになっているので、皆さんすごいねって言ってくれるし、自分でもお~って思いますが、こういうのを書いて自分で気持ちよくなってただけなんですよ。食べ手の発想で好き勝手書いてるだけで何の根拠もないですもん。それがほんまにできるかどうかなんて全然わからんかったし。

▲開店までの間、構想などを書いてファイルにまとめていた

──でもイメージしてアウトプットすることは大事ですよね。物件はどうやって決めたのですか?

毎日吉祥寺を自転車でウロチョロ走り回ってたのですが、ある日、毎日通っている五日市街道沿いの建物にテナント募集の張り紙が貼られているのに気づきました。いつも通ってたけどこんなんなかったでと思いつつ、すぐ隣にあった不動産屋に入って、その物件を見せてもらったら、元々飲食店で、「狭くてええやん」って思ったんです。吉祥寺駅から徒歩10分くらい。7坪で家賃が10万5000円。相場もわからんから、その立地、広さでその家賃が高いか安いかもわからんわけですよ。今だとみんな安いというんですけど、当時は誰に聞いても高いと言ってました(笑)。吉祥寺駅から北にずっと歩いて五日市街道を渡らなあかんという立地も、店をやるとしたらけっこうなリスクがあると。でもそんなん言うてる場合ちゃうしなと思って、「契約したいんですが」と不動産のおっちゃんに話しました。この人がすごくやさしくてええ人で、「何屋さんしたいの?」と聞かれたので「ホルモン屋です」と答えたら、「煙とかどう考えてるの?」と。「塩ホルモンでやるから煙はそんな出ません」と答えたら、「いやいや、そんなことないでしょ。試しにその肉を食べさせてよ」と言うので、さっき話した仕入先からハラミとギアラを少しと、ホームセンターで七輪と炭を買って、その不動産屋でハラミとギアラに塩ピピピって降って焼いたんです。そしたら不動産の中がたちまち真っ白になってもうたんですよ(笑)。ええ! こんな真っ白になるんや!とびっくりしました。いつも焼肉をやる時は実家の屋上でやってて、煙がこもったことがなかったから、煙は出ないもんだと思っていたんです。

──その時焼いた肉の味は? やっぱりうまかったんですか?

2切れしか焼いてなくて、不動産屋の人が食べて僕は食べてないんですよね。食べなくてもうまいというのはわかってるから。

開店に必要なことはすべて『焼肉』から学んだ

この一件で、初めて煙を吸うダクトをちゃんとせなあかんということがわかったんです。それくらい当時は何にもわかっていなかったわけです。でもお金もないし、どうしたらええんやろと。ダクト問題だけやなくて、そもそもホルモン屋ってどうやって作ればええんやろと悩みました。そんなある日、たまたまスポーツ新聞を読んでる時、旭屋出版から1年に1回しか出ない『焼肉』という本の広告を見つけたんです。焼肉屋を経営するためのノウハウが載ってそうな本だったからこれええやん、この本で勉強しよと思ったのですが、2800円だったんですよ。本でその値段てまあまあ高いじゃないですか。しかもその時お金がないし。それで、取りあえず立ち読みしに行こうと思って、サンロードにあった書店に行ったんです。1冊だけ置いてあった『焼肉』を読んだら、やっぱり焼肉屋を開くために必要な情報が全部載っててめちゃくちゃ参考になったんですよ。例えばダクトを含む設備や道具、それが買える業者の連絡先などが全部載っててやっぱめっちゃええやん!と。

この本すごいほしいけど値段が高いな、かといってさすがにガラケーで中身の写真を撮ったら怒られるしなと思って、書店で一所懸命読んで暗記して、出てからばーっとメモしてたんですよ。僕、元々メモ魔なんですわ(笑)。でも結局その本が分厚すぎて、とても全部は暗記しきれなかったから思い切って買いました。その本を元に道具や設備を全部買ったんです。めちゃくちゃ役に立ちました。例えばダクトは、僕が知っているのは傘みたいな横に膨らんだダクトで、それだと顔が隠れるからいちいち顔を横にずらさないとまともに会話ができません。でもあの店を借りたら、全席カウンターだから店主といちいちそんなんして喋られへんなと思っていたのですが、その本に細長いダクトが載ってて、こんなんがあるんや、めっちゃええやんと思って買ったんです。それが今、『わ』にあるダクトなんです。この『焼肉』という本でホルモン屋を作ることができると思いました。

──それで本格的にイケると?

経営的にうまくいくかはわかりませんが、物理的に店を作ることはできると思いました。経営的にイケると思ったのは、ある焼酎バーに行った時のことです。

 

何のアテもなく上京したが、直感と行動力でどんどん道を切り開いていった光山さん。次回は『わ』が成功すると確信した出来事や忘れられない失敗について語っていただきます。乞うご期待!

取材・文:山下久猛 撮影:守谷美峰
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