自分が「マイノリティ」かどうか…って重要? | 寄藤文平さん(アートディレクター・イラストレーター)

さまざまなシーンで活躍しているビジネスパーソンや著名人に、ファミコンにまつわる思い出から今につながる仕事の哲学や人生観についてうかがっていく本連載「思い出のファミコン – The Human Side –(→)」。

今回ご登場いただくのは、JTのマナー広告「大人たばこ養成講座」や「R25」のイラストなどのアートディレクションやブックデザインを中心に活動している寄藤文平さん。ファミコン体験をはじめとした幼少期の思い出から、寄藤さんのクリエイティビティの源流をたどらせていただいた――

プロフィール

寄藤文平(よりふじぶんぺい)さん

1973年生、長野県出身。2000年にデザイン事務所「文平銀座」を設立。アートディレクター・イラストレーターとして、企業広告やロゴデザイン、ブックデザイン、アニメーション制作、執筆活動など、活動領域は幅広い。著書に『ウンココロ』(実業之日本社)、『死にカタログ』(大和書房)、『デザインの仕事』(講談社)ほか多数。
Twitter@yorifujibunpei

夜中に家を抜け出して……

―― 寄藤さんには拙著『ファミコンの思い出』のブックデザインも手掛けていただきましたが、ファミコンの思い出話を伺うのは初めてですね。

ファミコンはわが家にもあったのですが、僕が欲しくて買ってもらったというわけではなくて、父親が『オセロ』をやるために購入したんです。いわば父のオセロ専用機という存在でしたね。『スーパーマリオ』ブームのときは、まだわが家にファミコンはなくて、ずっと友だちの家で遊んでいたんですけど、父が買ってきたときにはもうファミコン熱も冷めた頃でした。

ファミコンに夢中になっていたときは、「今日はこいつの家で、明日はあいつの家で」っていうかんじで、当時の仲間たちと毎日一緒に遊んでいました。順番にゲームオーバーまで、というルールだったので、下手だとそんなに長くやれない。上手いやつがずっと遊んでいました。

当然、「もっとやりたいな」って思うから、夜中に家族が寝る頃合いを見計らって家を抜け出して、近所のファミコンを持っている友だちの家に行って、窓に石つぶを当てて合図をするんです。すると友だちが顔を出して、「入れよ!」って感じで招き入れてくれて。そうやって思う存分ファミコンをやる、なんてこともしていましたね。

 

―― 思い出深いゲームをあげるとしたら何がありますか?

『ゼビウス』はPC版でけっこう遊んでたから、友だちの家でファミコン版を初めてやったときに、「“ナスカの地上絵”が出てこないじゃん!」みたいなことを言ってました。容量の関係でカットされたのでしょうけど、すでにPCで遊んでいた立場からすると、ファミコンはドットも粗いし、「これはおもちゃだなあ」なんて思っていました。

じつはファミコン以前にわが家にはパソコンが先にあったんです。「PC-6001MK2」という機種でした。小学生のときですが、当時は『マイコンBASICマガジン』という雑誌を自分の小遣いで買って、誌面に載っているプログラムを打ち込んで遊んでいました。『倉庫番』とか『アイスパニック』等を、長い時間かけてプレイしていたことをよく覚えています。

最先端のゲーム事情は気になる

―― イラストやデザインの道に進む希望は、子供の頃からあったのですか?

わが家は休日には家族みんなで風景画を描きに出かけたりする家だったので、絵を描くことは好きでしたけど、その時に将来まではイメージしていなかったですね。

どちらかというと、パソコンでプログラミングをしていたことのほうが今の道に近いかもしれません。プログラムを組む時って、論理を作らないといけないじゃないですか。たとえば、「この式がこれを導いて、これを受けてこういうことが起きた時に、それをそこで終わらせて、ここに返す」みたいなものです。プログラム時の頭の使い方や論理性は、デザインするときの考え方にもつながるところがあります。子どもの頃からプログラムを打ち込む習慣があったのは、大きい気がしますね。

―― ゲームやコンピュータとはその後どのように向き合ってこられたのでしょうか?

中学には部活が忙しくなり、高校になるとデッサンや勉強に勤しんでいたので、いつしかゲームもコンピュータもまったく触らなくなりました。

ただ、社会人になって働き始めた頃にプレイステーションが登場して、3Dでレンダリングされた奥行きのあるゲームを見たときは「いつの間にこんなことになってたんだ!」と衝撃を受けました。とくにレースゲームの『ワイプアウト』が出たのは20歳過ぎの時でしたが、ものすごくハマりました。

最近だと、ゲーム実況動画をよく見ています。『デトロイト』は最先端の技術が詰まっている感じがしますし、『ゴーストリコン ワイルドランズ』はグラフィックがずば抜けているなと思います。実際にプレイするわけじゃないのですが、ゲーム界の最先端で何が起きているのかには興味がありますね。

『マリオブラザーズ』や『ロードランナー』の時代から比べると、とんでもない進化ですよね。子ども時代にゲームで遊びながら自らプログラムもしていた時期があるだけに、その凄さがよくわかります。

基本的にアウトロー

―― 寄藤さんの、今の仕事観はどのように形成されたのでしょうか?

僕が子どもの頃にコンピュータなんてやっているやつは、基本的にアウトロー系だったんです。少なくとも“みんなと同じが良い”みたいなカルチャーではなかったんですよね。ましてや小学生でプログラムを組んでいるようなやつは、クラスでみんなと馴染んでるタイプじゃ決してない。当時からもう完全に独立独歩でやってる……みたいな雰囲気を出していたと思います。

だからファミコンが流行った時に、それまでドッチボールや野球に夢中で、コンピュータになんか興味なかった連中が、急にモニターに向かうようになった。正直「なんだこいつら?」みたいな感じはありました。そういう意味で、ファミコンっていうのは、自分たちを排除していた連中が突如自分の土俵に入ってきたみたいな、そういう象徴でもありました。その時から「自分はゲームを遊ぶ側ではなく、作る側の人間でいたい」っていう感情を持ち始めていたと思います。

―― ゲームを遊ぶ側がマジョリティだとすると、作る側はマイノリティですが、それを受け入れるというのも勇気がいることですよね。

マジョリティかマイノリティかっていうことは、すごく情報的なものだと思うんです。つまり、第3者の目から見たデータの世界の中での話です。でも僕自身の世界には、同じ価値観を共有する友人がいて、クリエイティブな仕事をする仲間がいて、それでいてゲーム実況動画を眺めて「プレイする側」の世界にも触れている。そのなかに、マジョリティかマイノリティであるかってことはほとんど関係ないですよね。

社会の中で働きたいとかいろんな他人と関係する時には、マジョリティやマイノリティということは意識せざるを得ないことだと思うんです。ただ、自分がマジョリティであるかマイノリティであるかということ以上に、自分の普段いる世界、自分の手がけている仕事がいかに納得のいくものになっているかが第一だと思うんです。だから、自分が第3者的に見てマジョリティかマイノリティかを考えることって、僕は本質的には必要ないと思っています。

 

取材・文:深田洋介
1975年生まれ、編集者。2003年に開設した投稿型サイト『思い出のファミコン』は、1600本を超える思い出コラムが寄せられる。2012年には同サイトを元にした書籍『ファミコンの思い出』(ナナロク社)を刊行。
http://famicom.memorial/

撮影:向山裕太 編集:鈴木健介

 

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