大学中退、事業失敗…。働くために必要だったのは「経歴」ではなく「経験」だった――株式会社3Backs代表・三浦氏

就職するにあたり「学歴」が一つの判断材料になることは、現在でもよくあることです。その基準ですべてが量れるわけではないとはいえ、当事者本人がコンプレックスを抱え、実社会で自信が持てず、やり直しが効くものではないとあきらめてしまう人は多くいます。

株式会社3Backsでは、学校の中退者や中卒、高卒の若者を中心に、人材再生プロジェクト『リバースラボ 』を展開しています。自身も大学をドロップアウトした経験から、良き理解者として彼らを育てる、代表取締役・三浦氏の生い立ちから、自身のミッションに気づくまでを振り返っていただきました。

プロフィール

三浦 尚記(みうら・なおき)

株式会社3Backs 代表取締役/株式会社ハローワールド 代表取締役CEO 

1981年埼玉県生まれ。大学入学後、1年で中退。その後、オフィス機器製造メーカーでの営業、雑貨メーカーの代理店代表、IT通信ベンチャー企業の取締役などを経て、建設業を営む父の会社に入社。2009年に退職後、株式会社3Backsを設立、代表取締役に就任。ファッション関連事業、ITスクール、求職者支援など数々の事業を展開。2014年に「障がい福祉イノベーション」を掲げた株式会社ハローワールドを設立。同社は準備期間を経て翌年、営業をスタート。2016年に3Backsは、ドロップアウト人材に特化した職業紹介事業『ジョブドリーム』を展開。2017年には人材再生プロジェクト『リバースラボ 』 を始動。現在に至る。

野球も勉強も、すべて中途半端でやりっぱなし。「ぱなし」と呼ばれていた学生時代

―まずは幼少期のころから教えてください。

父は中卒の経営者で、配管工の建設業を営んでいました。生活に不便はなかったのですが、父に学歴コンプレックスがあって、息子を大学まで行かせたかったんですね。中学受験のため、小5からスパルタ教育が始まりました。塾にも行かされたのですが、小3から始めた野球のほうが楽しくて、「塾をどうさぼるか?」ばかり考えてました(笑)

それでも受験に合格し、片道2時間かかる、中間一貫校に通うことになりました。高校からは寮生活。野球部では、ピッチャーとして期待されて入ったのですが、そもそも努力はせず、センスだけでやっているという感じでした。高校1年の時にケガをして絶望し、野球をやめてしまったんですね。野球をなめていました。僕の代は、高1高2と、甲子園も行った位強かったのですが…。

―「悔しさ」はなかったんですか?

悔しさはメチャメチャあったんですが、どうしようもないからとあっさりあきめてしまいました。付属校だったので、そのまま大学にも惰性で進学しました。

大学は、高校以上に縛りがなくなりますよね。「楽しければいい」と、イベントサークルにも入りました。当時「パラパラ」が流行っていたので(笑)

このころもまだなめきった生活をしていたので、単位を取るのに必要なテストに行ってなかったんです。結局1年で7単位しか取れず留年決定してしまい、大学に行く意味もわからなかったので、親に「辞めたい」と頼みました。

▲学生時代の三浦氏(写真右から2番目)

8,568通り、あなたはどのタイプ?

紹介された会社に入社し、社会人に。その後、わずか半年で退職

―スパルタだったお父様に合せる顔がなかったのでは?

もちろん、激怒されましたね。「帰ってくるな!」と勘当され、やむなく一人暮らしを始めました。

当時、親の会社を継ぐという選択肢もあったのですが、中卒出身者ばかりの父の会社の配管工の仕事を継ぎたくなかった。また考えも甘く、建物の高いところで行われる配管作業は、高所恐怖症の自分にとっては、働きたくない仕事でした。

そこで、中学野球のクラブチーム時代の恩師の紹介で、二部上場のオフィス機器メーカーに何とか入ったんです。

最初は頑張ろうと思ったのですが、25歳年上の課長の給与が手取りで26、7万と聞いてこのまま働くことに疑問を感じ、わずか半年でリタイアしてしまいました。

―半年でですか。それは、恩師の想いも浮かばれないのでは…?

恩師には頭を丸めて謝りました。まだ若かったのでそれで許してもらえた…と思います。今思えばありえませんが。

その後、人づてに日用雑貨メーカーの代理店権利を取得し、個人事業主になりました。単純に、「社長」みたいなものに憧れていたんです。人も雇って20人弱まで増えました。

当時は、まだ若く意気がっていたこともあり、自分だけ「成り上がろう」とか、私利私欲で人を使おうという気持ちでいたんです。それが、原因で組織崩壊が起こってしまいました。部下が一度にやめてしまい、自分だけ残され、立ち行かなくなってきたころ、「日用品よりこれからはITの時代だ」と22歳の時、仲間たちとベンチャー企業を起ち上げ、取締役として参加しました。それで何とか食いつなぎましたね。業務内容はHP作成・電話加入権や通信商材の販売で、時代の波に乗り上手くいっていました。

8,568通り、あなたはどのタイプ?

父との約束を守り、会社を継ぐために職人見習いからスタート

―その後、お父さまの会社に再び就職されますが、なぜ波に乗っていた事業を手放したのでしょうか。

父との約束があったんです。

「大学を卒業する年齢までは自由にさせてやった。そろそろ会社を継ぐために戻って来ないか?」と言われて。父には後ろめたい気持ちがあったのと、以前の事業失敗の教訓から自分本位になってはいけないという考えもあり、泣く泣く埼玉に戻りました。2005年、24歳の時です。

父には、「これからの時代は大変だから、規模を縮小してもいいから自分のやりたいようにやりなさい」と言われていました。でも、そもそも敷かれたレールは好きじゃない。自分が好きじゃないことで会社を経営する自信もなく、仕事を続けるうちに「無理だな」と思いました。結局、3年後に辞めさせてほしいと懇願しに行きました。

―それを聞いて、お父さまは…?

父はキレて、本気で勘当されました。

この時、出ていくからには「やりたいことをやらなくては!」と強く思い、「自分の興味あること・好きなことは何だろう?」と自分を見つめ直したんです。

そして株式会社3Backsを設立しました。当時、「好きなこと」として思いついたのが「ファッション」だったんです。今思えば、だいぶ安直だったと思うのですが、もともと自分が好きなブランドの服を販売したいと、セレクトショップを始めました。27歳の時です。

出直して、新規事業をスタートさせる

―新しく始めたファッションの事業はうまくいったのでしょうか?

最初は、今は営業本部長の木村と2人だけで始めました。ところが、僕自身、事業をスタートさせるノウハウはあったのですが、父の会社を辞めてからすぐのことだったのと、ファッションは事業としてスタートさせる初めての業界だったので、準備を何もしてなかったんです。販路もないのに、服のデザインをし、仕入れ代などもかさんだことなどで、半年で借金が2,000万になってしまいました。

経営は任せてほしいと言っていたので、木村には財務がキツイとは言えず、一人で抱え込んでしまい、消費者金融にお金を借りたりして何とか凌いでいました。でも、ギリギリの生活に耐えられず、自殺も考えたくらいです。毎日寝るのがこわい状態で、暗闇がこわくて光がないと寝られない。でも、当時のこのことは、従業員や家族も知りません。人生で一番辛かった時期でしたね。

―その後に「ITスクール」を立ち上げられたんですか。

「どうせ死ぬつもりだったら何かやろう!」とITスクールを立ち上げました。ITに関するノウハウは、友達と会社を立ち上げた当時のものがあったので、何とか運営できると思ったのです。背水の陣で始めた事業でしたが、軌道に乗り半年で借金を返すことができたんです。

好きで始めたファッション関連事業と、ノウハウがあって始めたITスクール事業。両輪で事業展開していました。しかし、事業をスタートさせて4年後、2013年事業の一部で職員の不正が発生してから、少しずつ会社経営が傾き始めます。

当時、すでにファッション関連事業は、新たなプロジェクトのためにかなりの額を投資しており、全体で赤字が出たことは大きな打撃でした。他社からの出資の話もありましたが、結局、人から預かったお金で失敗する訳にはいかないと、赤字部門の清算のため、苦渋の決断でほとんどの事業を撤退しました。

本当に自分のやりたいことを見つけ、再出発。人材再生プロジェクト「リバースラボ」スタート

―ここまで、だいぶ紆余曲折を経てますね。それでも再び事業を始めることになると思ううのですが…不安はなかったのでしょうか。

そうですね。でもここでもう一度、「本当に自分がやりたいことは何か?」突き詰めたんです。

父の会社を辞めた当時、「ファッション」は自分の好きをスケールさせ、事業を始めるまでだったのか?ただ単に「ファッションってかっこいいよね」という上辺だけの気持ちでやってたのではないかと。

そこで初めて「ないものねだりや、かっこつけはやめよう」と気づきました。

33歳の時です。学生の時と比べ、自分のことを守ってくれる人がどんどん減り、経営者としての孤独を痛感してようやくです。すでに従業員もいるし、会社を存続させなければいけない、満足すると成長が止まってしまう。では、何がいいのか?

改めて過去を振り返ると、僕も含めて自分の周りは学校の中退者や、中卒・高卒の人ばかりだったんです。こういった人の気持ちが理解できるということは、自分にとっての得意領域はここにあるのでは?と思いました。また、好きで始めたファッション関連事業よりも、ノウハウや知見のある教育事業のほうがうまくいっていたこともヒントになり、次の事業の構想を思い描くようになります。

―こうしたご自身の原体験から「自分にしかできないこと」気づき、人材再生プロジェクト「リバースラボ」に行きつくわけですね。

中退者や中卒・高卒の彼らが、「なぜそうなってしまったのか?」「どうしてやさぐれてしまったのか?」「なぜ頑張れないのか?」限りなく感覚的なこともありますが、自分もそうだったから気持ちがわかるんですよね。

同時に、僕は彼らの可能性も知っている。それを奮起させて一緒に課題に取り組むことにより、成長できれば、絶対社会で活躍できる人材になれると思ったのです。

こうしてドロップアウトからの脱却を目指す人に対して、キャリア形成を支援する機会を作りあげようと「リバースラボ」をスタートさせました。ようやく、自分のやりたいことと、できることがひとつになった瞬間です。僕もだいぶ遠回りしましたが(笑)

▲社内のミーティングスペース。仕事以外にも使え、飲み会を開催することもある

―中退者のようないわゆる「ドロップアウトした人」に対して、リバースラボではどんなことを指導されてるのですか?

学生の時の受験勉強でもスポーツでも何でも、ある程度努力が必要ですよね。

でもドロップアウトした人材って、努力をする習慣がついてない。学生の時からです。僕もそうでした。結果、学校や先生のせい、上司のせい、社会のせい…など、すべて「他責の考え方」になってしまうんです。なので、まずは、自責に思考を転換することが大切だと伝えます。

僕は、以前の事業で借金を背負うことで、自分の考え方の間違いに気づくことができましたが、全員に同じ経験をさせるわけにもいかないので、少しでも気づいてもらえるように、彼らにわかる言葉で伝えるようにしています。

―ドロップアウトした人以外にも、学歴や経歴が気になるビジネスパーソンは、多くいますよね。とくに経験の乏しい若手社員は、コンプレックスなどからキャリアを狭まることもあるような気がします。そんな方に、今後どういったことを伝えていきたいですか?

学歴がなくても、採用された企業で突き抜けた結果を出していれば、評価されるはずなんです。でも、うまくいかないことを他責にしていると、それに気がつかない。自分が置かれている環境のせいにしてしまいます。

そこで「学歴がなくても腐らずに、圧倒的な成果を出すことでキャリアを大きく向上させることができるんだよ」と、職業訓練校のような技術や知識を教えるだけでは足りない「あり方」を教えるんです。忍耐力や自責の精神、人として、ビジネスパーソンとしてのあり方です。

そして、実践教育を通して「実績と自信」をフィードバックして、その子が行きたい方向に支援する。「リバースラボ」から実社会で活躍できる人材を増やしていきたいと思っています。

やっぱり人生って困難のほうが多いじゃないですか。うまくいっている人は、その「乗り越え方を経験」しています。何かしらにつまづき、うまくいかなくなっている人たちは、そこを逃げてしまったから大変なんです。

ただ、例え逃げてしまっても社会に出てからでも「やり直せるよ」ということを証明したいし、そのルートを作ってあげたい。

日本の将来を担う若い人たちが、イキイキと自分らしく輝いて働く社会の実現に携わっていきたいと思います。

インタビュー・文:倉島 麻帆  撮影:中 惠美子
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