「雨の日も、風の日も、雪の日も、ずっとここでこうやって焼いているんです。ブワァと雪が舞っている日も、変わらずにやっています」
京都市北区紫野にある今宮神社。その脇の参道にあるあぶり餅屋「一文字和助(いちもんじわすけ)」こと「一和(いちわ)」の創業は、長保2年(西暦1000年)。平安時代から続く日本最古の和菓子を、昔と変わらぬ製法で作り続けている老舗中の老舗だ。世界最古となる金剛組同様、日本に7社ある創業1000年を超える会社のうちのひとつである。
▲「一和」25代目女将の長谷川奈生さん
平安時代、一条天皇が国内で流行り病を鎮めようと今宮神社を建立したのと同時期に、「一和」の先祖は移り住んだと言い伝えられており、ここで提供されるあぶり餅は、無病息災を願う縁起物の和菓子として知られてきた。
店頭で焼かれる餅は、「家を守る」という古来の風習から、すべて女性の手によって作られている。つきたてのやわらかい餅を次々と親指サイズにちぎったら、ゴザの上できな粉をまぶし、竹串にひとつひとつ刺していく。それを開放的な間口に置かれた大きな火鉢のうえで焼き、プーッと膨らんできたら、すばやく皿の上に移す。焼いた餅ときな粉の香ばしさ、白味噌のほんのりとした甘さが口に入れた瞬間に広がり、共に淹れてもらうおぶ(緑茶)も、よりいっそうおいしく感じられる。1人前13本で500円。お土産にする場合は、これを竹の皮で包み、竹の紐で結ぶ。
戦前までは田畑を持ち、戦や飢饉がある度に、人々にご奉仕を続けてきたという一和。応仁の乱の際は、人々に餅をふるまったといういわれがある。
2020年、東京五輪の開催が決まって以来、至るところで「おもてなし」という言葉をよく耳にするようになったが、果たして私たちは、その言葉の意味を正しく理解しているのだろうか。日本最古の和菓子を提供し続ける「一和」25代目女将の長谷川奈生さんに、伝統を継承することや京都のおもてなしについて伺った。
▲プーッと膨らむお餅
■保存料は一切なし、「本日限り」にこだわる一和のあぶり餅
家の者は8時過ぎから店に出てきて、毎日洗い物を済ませ、餅米を蒸すところから始めます。今は従業員さんに手伝ってもらっていますが、昔は身内だけでした。ここは本家ですので、おじいちゃん、おばあちゃんが住んでいて、その家業を嫁や娘や姪っ子が手伝うというのが、風習です。
お正月、今宮神社の神様に奉納する竹の間にしめ縄が張られるんですが、その竹のお下がりをもらって、昔は竹串を作っていました。今はそれでは竹が足らないので、買うてますが、自分らで割って串を作る作業は昔から変わりません。備長炭は上土佐備長炭か日向備長炭、餅米は近江の羽生、きな粉は深入りの京きな粉、お味噌は本田味噌本店さんの特上の西京白味噌を使っています。保存料は一切使わずに、素材の味だけを楽しんでいただけます。
▲平安時代から変わらない手法できな粉をまぶす
今のご時世で、ゴザの上にお餅をそのまま置いて、きな粉をつけるところなんて、ないでしょう。一度、保健所が、このやり方について「だめだ」と言わはったことがあったのですが、マスクして、手袋をはめてということをやるような店ではないので、「それはできないです」とお伝えしたことがありました。今は届け出をして、特例で認めてもらっています。
先代がちぎっている餅を計量したことがあるのですが、どれだけやっても3グラムでした。修行するときは、手の感触で覚えます。大きかったり、小さかったりすると、「大きい」「小さい」と言うて、女将にポンとほられる。それのくり返しです。いちいち何グラムと量っていても、手が覚えてくれなかったら意味がありません。機械に頼るような商売じゃないので、本当に手の感覚だけが頼りです。
お餅はほんまもんの餅米100パーセントですので、3時間もしたら硬くなります。自分のところでお正月についたお餅はすぐ硬くなるでしょう。それがほんまもんのお餅。いつまでも、いつまでもやわらかいお餅は、混ぜ物が入っているせい。混ぜ物の入ってないお餅を知らない方は「なんで、持ち帰ると、あんなに硬いの」って言わはります。いや、ほんまもんのお餅やさかいに。
▲漆の器で提供されるアツアツのあぶり餅
お味噌にしても、レシピはありません。春夏秋冬の気候によって、天候も違うし、暑さも違う。季節によってお味噌の味を変えています。うちは保存料を一切入れないので、悪くしないためには、炊くしかありません。なので、気温変化が激しく、悪くなりやすい夏や冬は必ず炊きます。一方、春や秋は本当に短い間ですが、そのまま生味噌で食べていただける時期があります。生味噌の風味は格別です。
地方発送やウエブ販売は行っていません。保存料も入れたくないですし、2、3日経って品質の変わった、おいしくないようなお餅を出すということは、考えたこともありません。なので、うちは本日限りの、手渡しのみでの販売です。竹の皮で包んで、竹の紐で縛っただけのお餅ですから。
▲「本日中に召し上がれ」お土産用のあぶり餅
■京都の老舗に生まれるということ
「どうぞ、おこしやす」
「おぶをどうぞ」
「おおきに。気をつけておくれやす」
声がけは、うちで脈々と受け継がれている習慣であるような気がします。神社仏閣、氏子さんを大切と思う気持ちが、そのまま地域密着に繋がっています。
ここは小学校がちょっと遠くて、下校途中の子どもたちは家まで帰るのに喉も渇くし、くたびれてしまいます。それで「お茶ください」とやってくるんですね。その子らにお茶を出したら、「はい、気ぃつけて帰りや」と、また送り出す。これが、先々代からの伝統です。地域のためにお茶を出すのが当たり前。
うちは茶店ですので、いわゆる伝統というものを、ものすごく難しいように考えてはいません。今宮神社さんの氏子さんや、ここに来てくれる人たちのお休み処であって、とりわけすごいものを作っているわけでもありませんから。心の拠り所としてのお休み処。それが私たちの役目です。
▲ご友人同士ではんなりと
私は、生まれたときからここの娘です。子どもの頃から、家に縛り付けられて育ちました。代々、女は下働き。洗い物に手が届かなかったら、台を置かれて洗っていたのを覚えています。その次が、おくどさん(竈の火で煮炊きをすること)。小学1、2年生ではできないので、3、4年生になったらやらされます。時々、我慢できずに遊びに出かけると、「何してんねん。日曜日で店、忙しいのに」とものすごく叱られました。
それが、高校生になってバイトへ行ける年齢になると、反抗するようになりました。「あそこの娘」と皆に言われるのが、ものすごく嫌やった時期があったんです。私は、はねっかえりの強い娘で、誰が何を言おうと聞きませんでした。学校を卒業したあと、家を継ぐことなく、デパートへ就職。その後、嫁に行き、苗字が変わったので、ここへはたまに遊びに来るくらいだったんです。
一方、わたしの再従姉にあたる先代は、結婚もせずに家を継ぎ、ここから出たことがないひとでした。誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで店にいる。商人というより、職人でした。その先代が、10年ほど前に病気を患い、「誰かが継がなあかん」ということになった。先代が病気になったと知ったとき、まだ私はデパートで働いていたんですが、ふらっと立ち寄ってみると、店に家の者が誰もおらず、従業員たちだけでやっていました。「店に誰もいない。老舗の看板が守れない」と、そのときにじんわりと感じたんです。先々代のおばあちゃんも早くに亡くなり、先代も亡くなってしまった。5年ほど悩みに悩んだ末、父の思いの強さもあり、戻ってくることにしたんです。
▲春の祭りの時期と、秋の紅葉の時期の風物詩・野立て傘
■人の上に立つということは、背中を見せるということ
人の上に立つには、お客様の思いを汲めて、気がまわって、手が早くて、そして、負けず嫌いでなくてはなりません。人の上に立とうとすると、周りのこともほかの人のことも、否応なしに見るやないですか。そして、何より、自分が一番、ちゃんとしなければならないと感じます。
先々代も、先代も、私の5倍は厳しい人でした。今残っている子たちというのは、「いつか認めてもらおう」と感じることのできた、負けず嫌いの子らばかりです。先代の女将が一言言わはったら、みんな、ピリピリピリピリって、電気が走るような緊張感がありました。「ねえちゃん、いいかげんにせえや」と身内の私は言えましたが、他の子は何も言葉を発することができず、「はい」としか言えへん。
▲「いつか認めてもらおう」から10年
とはいえ、先々代も、先代も、誰よりも朝早く出てきて、洗い物をして、用事を済ませていました。夜は夜で、従業員たちが帰ってから、全部片付けをして帰ります。だから、私も同じようにしています。そうやって背中を見せて、一番長く働いて、すべてに目を配れていないと、人なんてついてきません。そうじゃないと、従業員らに厳しいことも言えませんから。
先々代や先代があまりに厳しかったから「絶対にあんな女にはならんとこう」と思っていたんですけど、今、同じことをしているときがあるんです。あれだけ嫌だったのに、同じことをしているということは、そういう風にしていかなきゃ、やっぱり店は守れへんねんな、と思います。
とはいえ、私の代から変えたこともあります。引き継ぎのために先代と一緒に働いた一年間は、ものすごくもめました。先代はとにかく何でもいいものを買おうとする、どんぶり勘定の人でした。「お姉ちゃん、それは違う。ちゃんとしたことせえへんと、従業員たちがかわいそうやし」というと、「しょせん、あんたは会社員や」と言い返されました(笑)。それでも、やるべきことはしないといけないので、タイムカードを導入しました。外で働いた経験があったからこそ、そういう発想もできたんですね。
その一方で、ご奉仕の気持ちとか、茶店の気持ちとか、手で全部やるとか、機械を一切いれないとかは、お姉ちゃんの言うとおりにしました。「竹がまともに割れるまで、表に出てくるな」と言われてから3ヵ月間、表には出ませんでした。今振り返ると、それは当然ですよね。自分ひとりで、店のことができないようでは、女将として、人の上に立つなんてことはできませんから。
▲ひとつひとつ、手仕事で割っている竹串
■京都のプライド――「ほんまもんのおもてなし」とは
ほんまもんのおもてなしというのは「疲れてはったら一服してください」「何かあったらお力になれませんか」ということだと思うんです。利害関係がまったくないような気持ちが、ほんまもんやと思います。
以前、外国人さんがお茶だけ飲んで、1時間くらい居はったことがあるんですよ。「すごく幸せやった。楽しい時間をありがとう」と言ってもらいました。「Tea only, please」と言われたときに、「飲んで帰っておくれやす」とお茶だけを出す。お餅が苦手な人もいるでしょう。そこでお金を払おうとする方がいるのですが、「いつもお茶代は頂いてませんから」とお伝えして、お代は取りません。これが、「一和」のおもてなし。茶店の意義やと思います。
▲熱いうちにどうぞ
京都の人間は、「京都は日本で一番や」というプライドがあります。なんでかというと、都があったところだから。そのプライドがあるからこそ、京都をすばらしいと思って欲しいという気持ちが、人一倍強い。気位が高いとか、とっつきにくいとか、テレビ番組などでよく言われていますが、それだけ真剣に、京文化を守っているとも言えます。
私自身、ここへ「働きに来ている」という感覚はありません。だって、家業ですから。ここは私の家で、私の先祖がずっと守ってきている場所なわけですから、家を守ると考えたら、嫌なことも我慢できます。それは人間ですから、もう嫌やと思うことも時にはありますよ。でも、絶やすわけにはいきません。
この先も、私どもは今宮神社さんがある限り、ここに居てると思います。今宮神社さんがあっての、参道の茶店ですから。ずっと家業は続けるつもりです。
▲古い京都の町家に残る守り神のしょうきさま
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取材・文・撮影:山葵夕子