【与えられた運命を愛せよ】全壊の自宅を被災地ファンドで再興!楽園民宿にした女将の本気‐前編

 東日本大震災から3年半。津波や大火災で壊滅的な被害を受けた宮城県気仙沼市で被災地ファンドを利用した民宿が今、人気を博している。その名も「唐桑御殿つなかん」。震災が起きる以前は「話し相手といえばカキかホタテ」だったという女性が、どのようにして全国各地からの訪問者と地元民が自然に集まる場を築き上げていったのか――。祭りの夜に訪ねた。

「今日、唐桑でお祭りがあるの。よかったら見ていって」

 8月21日の猛暑日。宮城県気仙沼市を訪れていると、子どもの頃から唐桑半島で暮らしているという女性が声をかけてきた。震災で亡くなった人たちの霊を慰めるために、ペットボトルの中にワックスボールをつめこんだ灯篭で、海岸沿いをライトアップするイベント「みなとの灯」(唐桑地区・鮪立灯流会主催)が行われるという。昔から遠洋マグロ漁がさかんな土地柄で、中でも大型のものは「しび」と呼ばれることから、鮪立(しびたち)という地名がついた。

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▲花火やステージが催される宮城県気仙沼市唐桑町鮪立の灯篭イベント「みなとの灯」

 戦後しばらく、GHQに遠洋を禁止されていたが、解禁後、遠洋漁業とともに半島の随所にある入り組んだ湾は定置網や養殖の適地として繁栄。唐桑の漁師たちは、家族団らんの中で疲れた体を癒すため、豪壮な家を競い合うように建てた。それが自分に贈る最高の勲章「唐桑御殿」だ。ところが、高台にある家を除き、その多くが東日本大震災の際に起きた津波で流されてしまったという。

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▲震災で全壊した菅野家邸を再現して建てなおされた「唐桑御殿つなかん」

 今年で2年目を迎える漁師民宿「唐桑御殿つなかん」の女将、菅野一代さん(以下、いちよさん)の自宅も例外ではなかった。津波により全壊した家を見て、一時は取り壊しを考えたそう。けれど、震災直後にがれき処理のためにやってきた学生ボランティアたちの励ましを受け、「人が喜ぶ顔が見たい」と一念発起。「嫁に来てからの25年間、話し相手といえばカキかホタテか」の生活から一変、ミュージックセキュリティーズ株式会社の「被災地応援ファンド」にインターネットを介して寄せられた1000万円の資金を元手に、漁師民宿つなかんを築き上げた。

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▲「唐桑御殿 つなかん」女将、菅野一代さん. 51歳とは思えない若々しさ!

 いちよさんの満面の笑顔と突き抜けた明るさを目前にすると、自然と誰もが笑顔になる。都会からやってきた学生ボランティアもビジネスパーソンも家族連れも、携帯やスマートフォンを開く間もないほど、「ハイ、これやって!」とお手伝いに駆り出され、それを面白がっているようだ。一瞬にして人の心をとらえ、笑いの渦に巻き込んでいく“肝っ玉かあちゃん”の仕事観や人生観とは?

■東日本大震災で家が全壊、40台あったイカダがすべて流される

 嫁に来てから震災が来るまでの25年間は養殖業一筋だった。カキ、ホタテ、ワカメを一生懸命に育ててさ。毎朝2時に起きて夕方6時まで、睡眠時間は4時間。それをずーっとだよ。だから、近所の人たちからしたら、今の私は「いちよちゃん、何があったの」という感じかもしれない。「いやいや、震災があったの」みたいなさ(笑)。
 2011年3月11日。津波に遭って家が全壊して、商売道具のイカダもすべて流された。その1年前にチリ沖地震がきて、10センチしか水位の変動はなかったのだけど海の中はもうグチャグチャで。養殖していたカキやホタテの半分を廃棄処分しなければならなかった。それで、どうしようもなくなって、借金して手に入れた40台のイカダをやっとこさ設置し終えたのが2011年3月10日。よりにもよって東日本大震災が起きる1日前だよ。笑っちゃうよね。「これから海の恩恵を受けて、がんばって借金を返していきましょう」なんて、声高らかに宣言していた次の日さ。

 たかだか10分か15分で、それまで築き上げた生活のすべてが目の前で流されていった。うちは100年続いた養殖業者の3代目で、先々代から引き継いだ機械も全部、潮に飲み込まれてさ。本当にどうしようかと思ったよ。なのに、イカダがなくなっても、何億という借金だけは残る。
 理不尽だけども、これはもう、海とともに生きる人間の宿命だよね。

■学生たちとの交流で心救われた震災直後

 震災後、この辺の養殖業者は半分くらい辞めてしまって、後継者のいる家もあったけど、若い人たちは違う仕事へ就くために町を出て行った。うちの旦那は当時56歳。違う仕事や就職口を探すこともできなくて、「自分には養殖業しかない」っていうものだから、私は「旦那がそう決めたんだもの。しゃあ、しょうがないね」とついていくしかないじゃない。でも、避難所生活のストレスも相まって「どうしよう」ってずっと頭抱えていた。旦那は人と一緒じゃ嫌だって、ずっとトラックに寝泊まりしていたし。
 この家も3階までずぶぬれになって壁も天井も床もない状態。あるのは柱だけだった。国が無料で壊してくれると聞いて、じゃあ、そうしてもらおうかと思っていた。
 そんな時に学生ボランティアの子たちが来てくれて気が変わった。がれき撤去作業のために学生たちがここで寝泊まりするようになってから、自分の気持ちがどんどん前向きになった。

「今時の若者は」なんていうけど、とんでもない。学生たちって本当にすごくて、とにかく明るいし、どんなところでも生活できる。最初にここを訪ねてきた子たちは、当初キャンプをするつもりだったらしいのだけど、屋根と柱だけ残っている唐桑御殿があると聞いて「屋根があるだけでも全然違う」と、壁にその辺の泥の中から拾ってきたべニアやブルーシートや新聞紙を自分たちで張って寝泊まりしていた。
 そうこうしているうち、しばらくここで生活していた子たちが帰り際、次にやってくる子らへ向けて「第●陣のみんなへ」と、ここで暮らすアドバイスをダンボールに書いて引き継ぐようになった。「夜は寒いから、その辺のシートにくるまって寝ろよ」「みんな流されてしまって夜は真っ暗だけど、唐桑の星はめっちゃきれいだぜ」って、夢のあることがたくさん書かれてあってね。どれだけそれに救われたことか。

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▲学生たちがダンボールに書いたメッセージは夢も希望もいっぱい

 今ここがこうして民宿になって、いろんな人を受け入れられるようになったのも、この学生たちのメッセージのおかげ。学生たちが行ったり来たりしているのを見て、ここをきちんと皆が戻ってこれる宿にしたいと強く思うようになった。3月に震災があって、それから3ヵ月くらいは、まだどうしようかとグチグチ悩んでいた時期だったのだけど、すっかり元気になっちゃった。若返る秘訣はこれかなって。周りが若いと「負けてられない」と、年齢不詳になっていくものだね。

■支援物資からこぎれいな服を引っ張り出して、いざ丸ビルへ

 とはいえ、民宿をつくりたいと思っても、お金もないし、イカダもない。じゃあ、どうしようと考えあぐねている時に、ピンときたのが、ミュージックセキュリティーズさんがやっていた被災地復興ファンド。もとは音楽をやりたい人たちを応援するファンドなのだけど、大震災を機に、震災ファンドへと切り替えたファンドがいくつかあって、そのうちのひとつ。
 藁をもすがる思いで、2011年11月に丸の内ビルディングまで行ったんだ。持ち服はすべて泥だらけで、着るものもないっちゃ。だから、支援物資の中から一番こぎれいなのを選んで着てったっちゃ。丸ビルへ行くのに上から下まで支援物資ファッション。オシャレでしょ。

 「こういう状況だけども、みんなが集まれる場所にしたいから、どうか皆さん助けてください。ほかに為す術もありません。とにかく今は助けてください」と正直に伝えてね。取り柄といえば、カキむきの速さくらい。25年間、毎朝2時に起きて、誰よりも速く、ひたすらカキむきしてきたから信じてくださいって。人が喜ぶ顔が見たい。人が好き。もっと何かしてあげたい。その一心で頭を下げた。

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▲ハイ、みんなで朝ご飯!

 インターネットを介して多くの人から一口1万円ずつもらって、全部で1000万円。皆さんに応援してもらったファンドを元手に復興した暁には、5000円分のカキとホタテをお返ししますと約束をした。そうやって口にすると、自分でも中途半端なことはできないぞという思いが強くなった。
 それまで私の話し相手といえば、本当にカキとホタテくらいなもので、人前でまともに話したこともなかった。震災が起きるまであまりにも黙っていたから、その反動が出てうまくいったんじゃないかって、今となってはそんなふうに言う人もいる。おっかしいよね。

■泥の中から棒1本で欄間(ランマ)を探し当て、修復工事

 ファンド決定後はとにかく慌ただしかったね。2ヵ月間の避難所生活には限界があって、途中で裏の母屋の2階を購入して暮らしながら、ここを民宿にするために、復興作業に取り掛かった。
 にしても、ありんこのような、本当に地道な作業だったよ、これって何千年かかるのかなっていう。だってさ、拭いても掃いても、細かい砂が出てくる。電気もないから掃除機もかけられないし、雑巾がけするにしたって、山水を汲んでくるしかない。「もううう、江戸時代かよっ!」って何度もブチ切れた。
 それでも運よく建築デザイナーの人が見つかって、とにかく前のようにしてほしいと頼んだ。柱と屋根しか残っていないところで「天井はこういう格子で」と口頭で説明してさ。それでも、分からなかったら「もう、しゃべっても駄目だ。泥の中から探してくる!絶対にあるはず!」と海岸に長くつで駆けていく。事実、棒一本持って、泥と泥水とがれきの中をかき分けて、欄間(らんま/天井と鴨居の間に設けられた開口部分の室内装飾)を探し当ててきたもんね。大体、毎日泥やがれきを眺めていると、うちのものがあの辺にあるなと分かってくる。潮の流れってやっぱりあるから。

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▲いちよさんが執念で泥の中から掘り当て、以前あったものを忠実に再現した現在の欄間

 でも、大工さんに言わせると、津波に遭った家は正直、いつまで保持できるかわからないらしい。釘は使わなくても、多少の金具は使っているから、錆びる可能性があるし、どのくらい持つかは保証できないって。それでもいいからなおしてほしいとお願いした。こんな田舎だけど、皆が集まれる場所をつくるという夢をあきらめるわけにはいかなかった。
 ただ、いざ自分の家が流されて、潮の入ってしまったあとの様子を目前にすると、多くの人が目を伏せてあきらめてしまうんだ。「絶対になおるわけがない」って。
 うちのじいちゃん(舅)も例外ではなかった。うちのじいちゃんが亡くなったのは、2011年の8月。地震直後、家の外観はこうだけど、中は泥だらけでひどいから、全壊するしかないとすべて見せながら言ったら、すごく悲しそうな顔をしていた。亡くなったのも地震のショックが大きかったと思う。
 でも、私は違っていてさ、「チキショー、絶対になおしてやる。ここで私はがんばってきたんだ」って、よくわからない力が湧いてきた。じいちゃんが亡くなったら余計に「やってやろうじゃないの」みたいな感じになってね。じいちゃんが死んだことは、私の中でとても大きな出来事だった。

■“与えられた運命を愛せよ”――じいちゃんの遺した言葉

 旦那に出会ったのは22歳。それまでは銀行員をしていたんだけど、出会って5回目くらいのデートで唐桑へ連れてきてもらって、この景色に魅了された。
「自然っていいな。こんなところで住んでみたい」と思った。今から思えば本当に安易な考え。若気の至りってやつよね。

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▲25年の夫婦愛―夫の盛屋水産社長やすたかさんと.

 そ の頃、旦那は漁師をしていて、そこに嫁へくるとなると浜仕事をやることになるでしょう。親戚や家族からは当然のように反対された。「浜仕事っていうのは、 いちよが考えているような生易しいものじゃない。考え直すなら今だぞ。何考えているんだ」って。でも、若さってやっぱりすごいよね。私もその時は勢いで来ちゃった。
ところが、いざ来てみると親の言うとおり本当に大変で。男並みの力仕事は当たり前だし、船に乗ったら具合悪くても何しても仕事しなくちゃいけないし。これが生きるってことなんだろうなあって思いながら、まぁ、がんばったよね。

  舅からは、嫁に来てからずっと「与えられた運命は愛せよ」と言われ続けてきてね。若い時は理解できなくて、ずっと反抗していた。だって、朝2時に起きてさ、雪だるまのように毛布を被って、寒さに耐えながらカキむいてさ。それをいつまでやらなきゃいけないんだ。死ぬまでやらなきゃいけないのか。これが私に与えられた運命なのかって思うと、悔しくて、むなしくて、切なくもなるじゃない。
 でも、不思議なもんでね。嫁に来てから25年。今の私は、死んだじいちゃんの言葉が日々身に沁みている。言霊ってすごいよね。

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▲唐桑町鮪立の海

 後編では、濃厚なコミュニケーションや意見交換が活発に行われる民宿「唐桑御殿つなかん」でのいちよさん流おもてなしや人生哲学についてお伝えします。

後編へ続く

取材協力:有限会社盛屋水産

取材・文・撮影:山葵夕子 写真提供:今井竜介(唐桑御殿つなかん)

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