【墨田区の町工場から世界へ!】 リーマン危機で窮地に追い込まれたバネ工場が「コラボ」に活路。 「てのひらトング」誕生秘話

東京都墨田区。町工場が密集するこの町で、バネ製造を手がけて80年以上の歴史を持つのが「笠原スプリング製作所」だ。リーマンショック後、主力製品だった板バネの売上げが激減。廃業も脳裏をよぎるなか、デザイナーとのコラボによる自社商品の開発に活路を見出した。結果生まれた「てのひらトング」は、新たな主力商品に成長している。同社の笠原克之代表に開発秘話を聞いた。

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■リーマンショックで取引先が倒産。「いよいよか」と覚悟した

笠原スプリング製作所は、私の曾祖父と祖父がつくった会社です。昭和4年に創業した当時、作っていたものは「巻きバネ」。鋼線を渦巻き状に巻いて、ビヨーンと伸び縮みするアレですね。戦時中は軍関係のお客さんが多かったようですが、戦後は自動車、印刷機、農機具、飛行機と、さまざまな業界にバネを納めるようになりました。

最盛期は昭和30年代、住み込みも含めて従業員30名ぐらいの会社になっていたと聞いています。その頃には「板バネ」という板の反発を利用したバネが主力商品になっていました。私は昭和40年生まれです。住み込みの社員さんに遊んでもらったのをよく覚えていますよ。工場のすみで山になっていたスクラップの部品で遊ぶのも楽しかったな。バレると親に叱られるから、足に部品が刺さってケガしても痛いのを我慢していた(笑)。

順番でいくとこの会社は兄が継ぐと思っていたんですが、彼は大学で違う業界の勉強を始めた。それに、どういうわけか小さい頃から私は周りから「次期社長」と刷り込まれていたんです。結局、高校卒業後に別の町工場で修業して、平成2年からここで働いています。

私が経験した最初の荒波はバブル崩壊です。顧客だった企業が海外に生産拠点を移したことが大きかった。ただこの時は、従業員を減らし家族経営に切り替えたりして、何とか乗り越えることができたんです。致命的だったのはリーマンショックです。取引先の倒産、廃業が続いて、健在だった大口のお客さんも離れていきました。あるお客は規格にない材料の調達を求めてきて、しかも「10年分以上使用する材料在庫を持ちなさい」と言ってきた。そんなこと言われても……それだけの在庫を置くスペースなんて、うちにはなかった。

追い詰められましたね。一緒に経営していた父は病気がちで、入退院を繰り返していた状態。母は「もう辞めよう」と口に出すようなりました。その数年前には、私に仕事を教えてくれた職人さんもリストラしていたんです。それでも売上げは減少する一方で、こじんまりした家族経営を続けることすら難しくなっていた。だから、いよいよか、と。

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■デザイナーからの提案で「トング」開発がスタート

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お金はなくなった。ただ、幸いにも時間というチャンスができたんです。それを利用して墨田区が運営するビジネススクールに通い始めました。それから2009年の春に区が始めた「ものづくりコラボレーション事業」にも応募した。これは、大企業の下請けが多い墨田区の町工場と、デザイナーやプロデューサーを引き合わせて、コラボで自社商品を開発しようというプロジェクトでした。

正直言うと、私にしてみたら自社商品の開発うんぬんよりも、目の前に新しいものが現れたから飛びついたというだけなんです。リーマンショック後は、どこのお客さんに営業をかけても「何しにきやがった」「仕事なんてあるわけないだろう」という感じ。それまでの下請け工場の仕事のやり方が通用しなくなったのは明らかでした。それに、普段の私は工場に閉じこもって1人で作業するのが生活の中心。そんな状態で悩み続けても答えは見つかりそうにない。だったら過去とは全く違うことをしてみよう。何をしたらいいかわからないけど「コラボ」に賭けてみよう。そんな、おっかなびっくりのスタートでした。

具体的な商品開発のプロセスですが、まず、プロデューサーだった紫牟田伸子さんとの打ち合わせで、桜の名所が多い墨田にちなんだ「花見やピクニック」というコンセプトが決定。そこから「花見やピクニックに持っていける、携帯性に優れたグッズ開発」というテーマが絞り込まれました。「てのひらトング」のアイデアは著名デザイナーの廣田尚子さんからの提案です。みなさんお花見の席に料理を持ち寄って、取り分けますよね。そういうときにあったら嬉しい、カスタネットぐらいのサイズで女性の手にもつかみやすく、料理を簡単に取り分けられるトング。しかもデザインが可愛くて、当社の板バネの技術も確かに応用できる。とても私には思いつかない、ありそうでなかった発想でした。

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■「そんなことやってる場合か!」と叱られながら

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でも……技術的に見ると、これがドン引きするぐらい難しいんです。金属加工を知っている人が見たら、一瞬で「無理じゃない?」と言うぐらいに。

ごく簡単に説明すると、モノを挟む部分の形状が問題なんです。普通のトングはモノを挟む先端部が接点で、点と点でモノを挟むことになる。ところが「てのひらトング」は先端部が丸くなっていて、例えるなら、二枚貝みたいに線と線でモノを挟むんです。だから力が入りやすく、モノをつかみやすい。そこに「てのひらトング」の最大の価値と機能があるわけですが、最大の難しさもそこにあった。これを既存の技術で作ろうとすると、金型で成型するときにトングの表面がシワだらけになってしまい、商品にならないんですね。

じゃあ、どうするか。新しい技術を身に付けるしかないんです。日本の5本の指に入る有名な金型工場に、知り合いの紹介で製作の相談に行きました。迎賓館で使われるような食器を作っている工場にも教えを乞いました。基本的には誰に聞いても「無理だよ」「絶対やらないほうがいいよ」と言われたんです。彼らは皆その筋のスペシャリストたち。やればやるほど「自分はとんでもないものを作ろうとしてるんだな」と実感していきました。

もともと2009年内に開発を終わらせる予定のものが、年を越え、夏が過ぎ。「ものづくりコラボレーション事業」のコラボレーターの人にも「このまま続けても笠原さんが大変だから、開発期限を決めませんか」と言われてしまいました。

そりゃあもちろん開発は大変でしたよ。開発に打ち込んでいる間、本業の板バネ加工の立て直しもできませんでした。そうやって既存の売上げが落ちていく最中に、いつお金になるかわからないことに時間を費やすなんて、我ながらバカみたいだと思ってました。周りにも「そんなことやってる場合じゃないだろう!」と叱られて、へんな話、いつもコメカミの部分が冷や冷やとしていた(笑)。でも、私にも意地があったんです。それに、何か新しいことをしなければ、「てのひらトング」を形にしないことには、うちには未来がない。それだけはわかっていたこと。だから他のことに見向きもせず開発に没頭する覚悟が決まったんだと思います。私は「次の12月までに何とかします!」と宣言して、試作と改良を重ねました。完成したときには、開発開始から1年半も経っていました。

■発売3年で板バネをしのぐ主力商品に成長

いま「てのひらトング」は、墨田区の産業観光プラザ「まち処」や、いくつかのWEBショップ、カタログギフトなどでお求めいただけます。はじめて売りに出すときは「売り切れたらどうしよう!」なんてソワソワして100個ぐらいお店に持っていってね。もちろん売れたのは数個ですけど、それでも本当、嬉しかった。以前は、墨田区の海外販売支援の対象製品に選ばれて、パリのセレクトショップにも置いてもらったことがあるんですよ。

発売開始から3年が経って、売上げは十分に「わが社の主力商品」と言える規模になりました。テレビに紹介された時は「この勢いで売れたら、ほかのことが何もできない」というぐらいになる。それで作り過ぎちゃうこともあるんですけど(笑)。いろんな企業さんから開発の依頼が来るようになったことも新しい動きです。やっぱり見る人が見たら「てのひらトング」をつくる難しさがわかって、技術を評価してくださるみたい。

「てのひらトング」は、コラボなくしては生まれなかった商品でもあります。普段は1人でモノ作りをしていますから、コラボには正直、ストレスがありましたよ。デザイナーの廣田さんが提案してくれたアイデアに対して「技術的に難しい、できない」というと、どうしても言い訳がましくなるんですよね。そうすると廣田さんに「もっと使命感をもって!」とか叱られたりして。会社や家族を背負っている身ですから、使命感は当然あるのに。「苦労するのは私なのに……」という気分になったりもした。でもそれで開発に燃えたわけですから、結果オーライ。素晴らしいコラボだったと思っています。

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取材・文 東雄介

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