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超こだわりの“一筋メーカー”探訪記 この分野なら任せなさい!

梅ジャム

梅ジャム一筋66年!
    家族を支えてきた「命」です

駄菓子の「梅ジャム」を知っていますか? 1袋10円、そのままチューチュー吸ったり、ミルクせんべいに塗って食べたり。実はこれ、高林博文さんが戦後すぐにひとりで開発し、製造し続けてきたものです。その秘話を紹介します。

(取材・文・撮影 総研スタッフ/高橋マサシ) 作成日:13.01.16

戦後の混乱期、少年は乾物屋で「くず梅」を見つけた

何でもやった。鑑札なしでイワシを売り、テキヤに蹴られた

梅ジャム

1箱に40袋。パッケージのデザインは高林氏が手掛けた

「14歳で終戦を迎えて、疎開先の富山から東京の荒川区に戻りました。とにかく食わなければいけないわけです。15歳で千葉の浦安まで自転車で行って魚を仕入れ、みかん箱の上に置いて売りました」

梅の花本舗社長の高林博文氏は当時を振り返る。ただ、鑑札(営業の許可証)はなかったので、地元のテキヤがやってきた。「ショバ代払ったのか?」と睨まれ、木箱を蹴られ、革靴で額を割られた。高林少年は散らばったイワシを拾い集めて帰宅。水道水で傷口を洗っていると、父親が心配そうに声を掛けてきたが、理由は言わなかった。
「心配は掛けたくなかった。言えないですよ」

その後、イワシは「訪問販売」にして、雷魚やさつまいも売るようになる。そんな中、父親の友人から「リンゴの粉がある」との言葉。高林氏はこの粉末を「麦こがし」(はったい粉)のように売れないかと考えた。売り先は紙芝居屋だ。
「当時はヒマができると、自転車に乗って周囲を探っていました。復興しつつある日本には新しい店が出始めていたので、商売のタネを探していたのです。紙芝居屋の場所も知っていました」

乾物屋の梅肉を加工して、せんべいに塗る「食品」に

梅の花本舗

梅の花本舗
社長
高林博文氏

リンゴの粉を紙で包んで、麦わらのストローを付けて、紙芝居屋に持ち込むと……これが当たった。取引が始まり、紙芝居屋と親しくなると、「ほかに何かできないか?」と相談を受けた。高林氏は乾物屋で見かけた梅肉を思いつく。
当時、紙芝居屋は子供たちにソースを塗った花丸せんべい(ミルクせんべい)を1円で売り、紙芝居を見せていた。ソースの代わりとなる商品を発想したのだ。
「梅肉といっても、種を抜いた梅干しのくずです。当時はかなり塩辛くて、乾燥すると塩を噴いていました。これをサンプルとして買ってきて、どう加工したら食べられるようになるかを考えました」

梅肉に水を加えて、小麦粉や甘味料を混ぜ、電気コンロで煮詰める。初めての経験でもあり、レシピを調整して何度も繰り返した。当時の砂糖は高級品だったので、甘味料はズルチンとサッカリンの併用。煮詰めたらしょうゆの木樽に入れ、1晩かき回し、2〜3日置いて冷ました。こうして完成したのが「梅ジャム」である。昭和22年の秋、高林氏は16歳だった。

紙芝居屋に梅ジャムは売れ、5貫目(18.75kg)のしょうゆ樽で収めるようになった。評判は口コミで広がり、ダットサンのトラックで横浜まで運ぶようにもなった。
「当時の子供たちは、学校から帰ると外に飛び出して遊んでいました。体を動かすので塩分を欲したでしょうし、梅干しは食べなれた味。このさっぱりした味にせんべいの香ばしさがマッチしたのだと思います」

紙芝居、駄菓子屋、縁日……現在はディスカウントショップへ

昭和20年代は紙芝居、30年代は駄菓子屋、40年代は縁日

紙芝居が流行した背景には、供給側の事情もあるようだ。戦後に戦地から戻った人たちには働く場が少なかったため、手軽に始められるという理由から「にわか紙芝居屋」が増えたのだ。
「昭和20年代は紙芝居屋の全盛期で、関東に約1万2000人、全国で約5万人がいたと聞いたことがあります。ただ、勤め人が増えるとともに紙芝居は衰退し、30年代は駄菓子屋が主な納入先になりました」
ここから始まるのが現在の梅ジャムだ。樽ではなく小さな袋に詰めて、1個5円で売り出した。袋や箱のデザインは高林氏が考えたもので、当時から変わっていないという。

一方、花丸せんべいの製造元も紙芝居屋から駄菓子屋へと販路を変えつつあり、この2つが駄菓子屋に並ぶと、セットで買う人が増えていった。梅ジャムと花丸せんべいはタッグの組むような形で、互いの売り上げを伸ばしていった。
高林氏は充填機を購入して、手作業での袋詰めから足踏み式の機械で封をするようにし、夫婦2人で梅ジャムをつくり続けた。

昭和40年代は縁日の時代だったという。花丸せんべいとのセットで縁日でよく売られるようになり、スモモや杏あめなどとともに「縁日の定番」になっていく。多くは一斗缶(18リットル)で納入したが、少ない量を望む顧客のために300gの「業務用」も用意した。
「彼らに喜ばれた理由は『常温保存で1年』という梅ジャムの賞味期限にもあったと思います。夏祭りで売れ残っても秋祭りで使えるわけですから」

梅ジャム

梅ジャムは定価10円!

梅ジャム

左は300gの「業務用」梅ジャム

「荒川ネットワーク」で動き続ける、梅ジャムの自動充填機

梅ジャム

梅ジャムの自動充填機

このころ、約40年前には自動充填機を購入。それまでは充填機を使っても袋詰めは手作業で、1日で6000個、頑張っても7000個弱しかつくれなかったという。機械による生産効率化は以前から考えていたものの、袋をビニールからフィルムに替える必要があった。
「ビニールの仕入れ価格は1個40銭で、フィルムは倍の80銭でした。2年ほど迷いましたが、量産化によるコストダウンを期待して導入し、最大で1日2万個弱ができるようになりました」

自動充填機を購入した機械メーカーは、高林氏の自宅兼工場から自転車で1分の場所。調子が悪いとすぐに来てくれるので業務を止めずに済むという。以来、部品は交換しながらも自動充填機は現役で働き、今も梅ジャムをつくり続けている。ちなみに、フィルムと箱の仕入れ先も自転車で数分の近さにあり、この「荒川ネットワーク」が梅ジャムを支えている。

その後、徐々に縁日というイベント自体が減っていく。それでも梅ジャムは一定数は出荷され続けたが、バブル崩壊から3〜4年後から売り上げが落ちてきたという。現在の梅ジャムの主たる納入先は大手ディスカウントショップ。子供たちというより、昔を懐かしむ大人たちが「箱買い」しているようだ。

時代とともに変化してきた梅ジャム、つくり方は変わらない

微妙に異なる樽ごとの味覚、季節の変化も影響

では、改めて梅ジャムのつくり方を。まず、大釜に梅肉、砂糖、小麦粉、食塩、小麦でんぷん、酸味料、香料などを入れ、1釜分(約80キロ)を煮詰める。その後、樽に移してかき混ぜ、冷ます。材料の割合は同じでも、樽によって固さや味に微妙な差が出るという。
「仕入れる梅肉も毎回同じものではないですから、味にむらが出ます。また、寒いと『閉まる』ので冬は固くなります。濃度が違ってくるので、固くなると濃厚な味になり、柔らかいと大人しい味になりますね。」
このため、味の調整は高林氏が毎日行っている。

こうして材料が完成すると、樽の中身を自動充填機の缶に入れる。すると、管を通って一度上方に流れ、下に落とし、自動で袋詰めされる。折り返した細長いフィルムの中に梅ジャムが入ると、上方、下方、片側の3辺を熱で蒸着させ、上下をカッターで切断する。次に、開封のための切り込みを入れる。こうして完成した梅ジャムが自動充填機から次々と出てくるのだ。
しかし、機械に材料をセットして終わりではない。高林氏は袋詰めされる梅ジャムをひとつひとつ見つめ、中に空気が入っていないかなどのチェックをする。これも大切な仕事である。

梅ジャム

材料を煮詰める大釜

梅ジャム

煮詰めた材料を移した樽

塩分や人工甘味料など「時代の風」が梅ジャムにも影響

梅ジャム

充填機を操作する高林氏

梅ジャム

出荷を待つ梅ジャム

梅ジャムの味は時代とともに少しずつ変化している。例えば原料となる梅肉だが、社会全体で「塩分ひかえめ」の傾向が強まってので、梅肉は昔より塩味が薄れてきたという。
また、安全性の問題から人工甘味料への反対意識が高まった時代もある。ズルチンはすでに添加が全面禁止されていたが、高林氏は「隠し味」としてサッカリンを少量加えていた。しかし、消費者の反発を考えて思い切って使用を止め、あえて「全糖」と表記するようにした。現在でもこの文字が大きく載っているのはこのためである。

類似品をつくるメーカーも現れた。安い価格で問屋に攻勢をかけ、「本家」や「元祖」などを名乗るようになった。
「私の梅ジャムにも『元祖』とありますから、『どっちが元祖なんですか?』なんて電話がかかってきたこともありますよ(笑)」
勝負を決めたのは消費者だった。類似メーカーの商品に対して「味が悪い」と言い始めたのだ。古くは紙芝居の時代から知る人たちからの声が高まり、駄菓子屋や問屋を動かすこととなったようだ。

後継者はいないけれど、これからも梅ジャムはつくり続ける

今でも1個10円! 「オレンジジャム」は知っていますか?

変わらないのが価格だ。昭和40年代に5円から10円に値上げしたが、それ以降は10円のまま。他人事ながら利益を心配してしまうが、ほんの少しだけ工夫をしている。1箱(40個入り)の重さは現在600gだが、以前は620gだった。各梅ジャムの量をわずかに減らしたのだ。
「箱の重さが20gなので、30箱をつくると、以前より1箱が増えるんです(笑)」

梅ジャム同様、「オレンジジャム」という似た商品を覚えている人もいるだろう。実はこちらも、高林氏が梅ジャムのすぐ後につくり始めたものだ。やはり紙芝居屋に樽で納入し、後に駄菓子屋で売られるようになった。ただ、梅ジャムと違って果肉は使わず、でんぷん、水あめ、甘味料、香料などが材料だった。

「オレンジジャムの賞味期限は半年程度で、暖房が入っている家庭ではそこまで持たない場合もありました。たまに頼まれてつくることがありますが、基本的には生産をしていません」

梅ジャム

1箱ぴったり600g!

オレンジジャム

オレンジジャムの箱

家族の生活を支え続けてきた梅ジャムは、「命」だと思う

梅ジャム
梅ジャム

高林氏は82歳。まだまだ壮健だが、梅ジャムづくりの後継者はいない。というより、高林氏がつくらなかった。
「私は国民学校の出身ですが、戦時中は勤労奉仕があり、小学校6年までしか勉強していません。そんな私でも梅ジャムを世に広めて、地域社会にも貢献してきました。ですから、息子たちが中学生のころに、『そんな父以下にはなるな。自分で道を切り開け』と言ったのです」
そのため、フル稼動の時代でも、子どもたちに手伝いを頼まなかった。

梅ジャムのファンからは「やめないでほしい」「続けてくれ」などの手紙が今でも届く。高林氏も当面、梅ジャムづくりを止めるつもりはない。そんな梅ジャムとは、高林氏にとって何なのだろうか。
「つくって売ることで家族が生活できてきたわけですから、『命』だろうと思います。梅ジャムはこれからもつくり続けますよ。やめるとボケそうですしね(笑)」

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