北京オリンピックの開会式。
スタジアムには、子どもたちの笑顔が
プリントされた2008本の傘が広げられた。
世界中を回って、その「笑顔」を撮影したのが、
アートディレクターの水谷氏だ。
10年間で3万人以上の笑顔の写真を撮影
たまたまスタッフの女性が「北京オリンピックの開会式で使う笑顔の写真を、張芸謀(チャン・イーモウ)監督が世界中から募集している」という記事をインターネットで見つけたんです。
世界中の笑顔の写真を持っている人といったら、僕以上の人はいない。それで、張芸謀監督をはじめ、中国側の責任者と何度も何度もやり取りをして、僕が撮影したたくさんの子どもたちの写真が開会式で使われることになりました。
よく聞かれますけど、北京オリンピックに関しては、収入は一切ありません。それどころか渡航費用やデータ作成代など、持ち出しもずいぶんありました。このことを話すと、「じゃあ、何のためにやったの?」と言う人もいる。でも僕は、「子どもたちの笑顔を通じて、世の中を平和にしたい」という目的で始めた「MERRY PROJECT」を多くの人に知ってもらいたかった。それだけで十分だったんです。
僕がこのプロジェクトを始めたのは、1999年のこと。10年間で世界26の国と地域を回り、3万人以上の笑顔の写真を撮影しました。そしてその笑顔の写真をポスターなどにして、世界中で展示しています。それが「MERRY PROJECT」です。
いつか、68億人すべての人々の笑顔を撮影したい。そうすることで、世界中のみんなが本当の笑顔に気付いてくれたらと思っているんです。そしたら地球全体が平和になるでしょう。それが、僕の夢なんです。
がむしゃらに山を登ったら、そこには何もなかった
このプロジェクトを始めるまでは、企業の広告のアートディレクターをしていました。ちょうどバブルの時期だったから、有名なハリウッド俳優をモデルに、一日で数億円も使ってしまうような派手な仕事もたくさんあった。お金もたくさん入ってきたし、ずいぶん賞ももらった。
でも、そこに到達するまでには、時間もかかりました。僕は美大出身でもないし、電通や博報堂など大手広告代理店出身でもない。名古屋からデザイナーを目指して上京して、小さなデザイン会社に就職。そこから多くの人からたくさんのことを教わって、少しずつチャンスをつかんでいったんです。
20代はずっと寝る暇もなく仕事をしていたし、コンペに出す作品制作のために収入のほとんどを使ってしまったから、貯金もない。それでもなかなか賞が取れなくて、ずっと悔しい思いをしていましたね。
そんな生活が続いて、やっと少しずつ世間から認められるようになると、とにかく嬉しくてね。もっともっと頑張った。独立して事務所を構えてからは、後先考えずにとにかくたくさんの仕事を引き受けていた。わき目も振らず、がむしゃらに山を登って行ったんです。
そしてアートディレクターとして頂上に立ったとき、そこに見えたものは何だったのか。何もなかったんです。そしたら急にむなしくなった。自分の仕事は企業のためにはなっているけど、社会のためになっているのだろうか。そう思うようになりました。それが「MERRY PROJECT」を始めたきっかけです。
そもそもデザイナーになろうと思ったのは、「デザインを通じて、世の中を明るくしたい」という思いからでした。実は、僕の父は戦争で耳を悪くしていたんです。そのためにいつも怒りっぽく、家の中が暗かった。その姿を見て、僕は小さいころから「戦争はよくない。僕が世の中変えよう。戦争のない平和な世界にするんだ」と思っていたんです。
それなのに僕は、いつの間にか最初のころの志を忘れ、目の前の成功だけを追い求めるようになっていた。そのせいで頂上に立っても、何も見えなかったんです。
これまで何度も
壁にぶつかってきたという。
しかし、必ず協力者が現れ、
なんとか形になっていった。
何が、人を動かすのか。
事務所のごみを持って帰って、家で研究
みんなあっさりし過ぎなんです。全然しつこくない。「思いは岩を通す」っていうでしょ。仕事にしたって、ちょっとやってすぐに辞めちゃう人が多いけど、どんな仕事でも粘って粘って、結果が出るまで辞めないことが大事なの。動機も薄いし思いも薄い。それじゃあ、人の心を動かすようないい仕事なんてできないよね。
よく僕は「思ったら飛べ」って言うんだけど、僕自身、昔から「いいな」と思ったらすぐやってしまうほうなんです。迷ったらやる。それが僕の信条です。
デザイナーになろうと思ったのもそう。大学でフォークソングを歌っていて、「音楽で社会を変えよう」というコンセプトでコンサートをよく開いていました。そのときのポスター作りが楽しくてね。とにかくやっていてウキウキしてたまらなかったんですよ。
それで「よし、デザイナーになろう」と決意して、大学4年のとき、大学とかけ持ちで夜間のデザイン学校に通い出した。大学は電子工学科だったから、大手企業からいろいろと誘いもあったんだけど、全部断った。気持ちに正直に進んだのです。
どうしても上京したかったから、通っていたデザインの学校に無理言って小さなデザイン会社を紹介してもらったんだけど、とても最先端と呼べる仕事ではなくてね。その後、働きながら桑沢デザイン研究所に通って、そこで知り合った人に第一線で活躍していたデザイナーの田中一光先生を紹介してもらいました。田中先生はとても厳しい人で、最初はけんもほろろに断られたけど、しつこく頼みこんで事務所に入れてもらったんです。
僕は不器用で、全然使い物にならなかったけど、そこでいろんなことを吸収させてもらいました。僕は事務所の掃除係だったから、ごみを持って帰って家で田中先生のデザインを研究したりね。事務所では気の利かないダメなヤツだったけど、そんなあざとさはあったんですよ。
田中先生からしてみると、僕のことは邪魔だったんじゃないかと思うけど、物を作る上で、非常に大切なことを教えてくれました。今でも覚えているのは、「君は品性がないから、いいものをたくさん見なさい。いい人にたくさん会いなさい。いい本を読みなさい」という言葉。それからは、美術書やデザインに関する本をはじめとして、いろんな本をむさぼり読んだし、美術館にもくまなく足を運びました。著名なデザイナーにも、臆面もなく面会を申し込んで会いに行きましたよ。
夢に向かって前進している人は、必ず誰かが助けてくれる
若い人に言いたいのは、「気持ちがすべてだ」っていうことです。一に気持ち、二に気持ち。三も四も気持ち。強い思いがあれば、何とかなるんです。チャンスなんていくらでも落ちてるし、夢に向かって前進しようとしている人には、周りの人が必ず助けてくれる。
だから、うまくいかないときには、何かやること。前進すること。まさに攻撃は最大の防御なんです。心配はいりません。とことん頑張ると、運が舞い込んできます。これまでもなんとか踏ん張っていたら、ギリギリのところで助けがやってきた、なんてことが何度もあった。やっぱり神さまはどこかで見ていてくれるんですよ。
それから、もうひとつ言いたいのは、「マイナスはいつかプラスに変わる」ということ。僕も若いころは苦しかった。頑張っても頑張っても成果が出なくてね。コンペに落ちるたびに、自分には才能がないんじゃないかと思いました。20代はいつも、暗闇にいたような気がします。でもその時期が長かったからこそ、その後、強い光が当たるようになったんです。何でも帳尻が合うんだということ。だから今、暗闇にいる人も、あきらめちゃいけない。頑張っていれば、いつか強い光で照らされる日がくるんですから。
水谷孝次著
世間をあっと言わす広告を次々と発表してきたアートディレクターの水谷氏。名もない小さなデザイン会社から出発した彼が、どうやって一流デザイナーとして認められるようになったのか。そして99年に始めた、笑顔で世界を平和にする「MERRY PROJECT」の誕生秘話も書かれている。仕事で悩んでいる人、壁にぶつかっている人、トップを極めたい人、必読の書だ。PHP研究所刊。
- EDIT/WRITING
- 高嶋千帆子
- DESIGN
- マグスター
- PHOTO
- 栗原克己
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