「ゴミはお金になる」小学生から商売をはじめた起業家の原点は、“理不尽な”母の病にあった

「自分の頭を使って稼ぐ――」。家族の予期せぬ病をきっかけにして、小学生にして自分で生き抜くために商売を始めた起業家がいます。それが、今回お話をうかがった並木将央さんです。
並木さんは、「まるで山の峠道をノーブレーキで下っていくような感覚だった」と語る子供時代の複雑な環境を生き抜き、やがて出会った一人の恩師によって、人生の方向性を見出します。今回の記事は、全3回にわたる記事の最終回として、並木さんが辿った数奇な道のりを追います。

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株式会社ロードフロンティア代表取締役 並木将央さん

東京理科大学大学院の電気工学専攻修士課程を修了後、日本テキサス・インスツルメンツの筑波研究開発センターに入所。2011年に法政大学専門職大学院イノベーション・マネジメント研究科を修了し、中小企業診断士資格およびMBAを取得。
同年に設立したロードフロンティアでは、コンサルティングやマーケティング支援など、経営を総合的にサポートする事業を手掛けている。2014年にはThe Japan Timesが選出する「100 Next-Era Leaders IN ASIA(次世代のアジアの経営者100)」に選出され、早稲田大学エクステンションセンターなど、国内外での教育事業も行っている。

母の予期せぬ病を引き起こした、病院の“誤診”

――並木さんは大学時代からすでに起業されていたとのことですが、若くしてそうしたマインドを持てていたのは、なぜなのでしょう。

それは、私の幼少期の体験が影響しているのかもしれません。少し暗い話になりますが……。最初の大きなきっかけは、私が小学校に上がってすぐの頃、母親が倒れたときに遡ります。

母が運ばれた病院で出された診断結果は、「くも膜下出血」でした。その病院には当時はCTスキャナがなかったので、症状などから診断されたのでしょう。その後、母は入院することになり、治療のために強い薬を投与され続けることになります。

ところが、1カ月ほど入院した結果、誤診だったことが判明したんです。違う病院に転院して精密検査で診てもらったところ、ただの偏頭痛だった。でも、この1カ月という入院期間は母にとっては肉体や精神を脅かすには十分な時間で、退院したときに母は「統合失調症」を発症していました。

精神を病んでしまった母は家事ができなくなっていて、一時的に私は親戚の家をたらい回しにされることに……。そのため6カ月近く小学校には通えませんでした。記憶しているのは、祖母の家で毎日卵かけご飯ばかりを食べていたこと。当時、祖母は祖父を亡くしたばかりで、私のご飯を作れる状態ではなかったんです。

――お母様の症状は改善しなかったんですか?

そうですね。母は普段、寝ていることが多かったのですが、起きているときには窓際でぼーっとタバコを吸っているか、辛そうに動いているか、おかしくなっているかでした。私の父はフリーランスの仕事をしていて、帰りが遅かったり帰ってこなかったりなので、母が退院して家に戻ってからは、母子だけの生活が結構続きました。

夜中になると泣く、押し黙る、怒鳴る、喜ぶ――。そんな母を見て、私は泣き笑いながら、頭の中で「人間って面白いな」と思っていました。そしてずっと考えていたのは、「どうすればここから抜け出せるのか」ということです。

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商売の“種”を拾い続けた学生時代

――それでは、学生時代はどのように過ごしていたんですか?

当時の私は、見た目には普通の小学生と変わらなかったと思います。うまく周りに馴染めていた。でも、身の周りにあることの“裏側”をしきりに気にするような子供でした。「商店街のお店では、どんなものが売れているのか」、「金持ちが捨てるゴミはどんなものなのか」――。そういうことが気になっていたんです。

私が住んでいたのは公団団地だったのですが、そこは、持ち家に引っ越す前にワンクッションで住むお金持ちと、夜逃げしてくるような人たちが共生する奇妙な空間でした。同じ小学校に通っている同級生も身なりはバラバラでしたし。

たとえば、ゴルフごっこをするときにも、私は木を削ってゴルフクラブを作っていたんですが、ある友達はゴミ捨て場をあさり、別の友人は小学3年生にして親からゴルフクラブを買ってもらっていました。

そんな環境で過ごしていた私は、小学6年生の頃には「自転車と自分の頭だけでお金を稼ぐ」方法をいつも考えるようになっていました。

最初に目をつけたのは資源ごみです。当時は保護者の承諾もいらなかったので、拾った漫画を古本屋に持っていったり、金属を処理工場に売ったりしていたんです。私のような、ちょっと変わった子供を可愛がってくれる大人もいましたから。

だから資源ごみの回収日の前日は、売れるものが一番集まっているタイミングだったので、友達とも遊ばないようにしていました。

――小学生にして、すでに商売をされていたんですね。その後も、商売は続けられていたんでしょうか。

はい。高校生になると、自転車のパンク修理をしたり、試験の予想問題集を作って売ったり、いろいろなことをやっていましたね。なかでも一番儲かったのが、ゴミとして捨てられている電化製品を高値で売ることでした。

当時は電化製品を買い替えるのが全盛期で、動いているものでも平気で捨てられていたんです。もちろん、壊れているものもありましたが、それも修理して売っていました。今では信じられないかもしれませんが、当時の電化製品の多くは、分解して洗剤で部品を洗い流して組み立てれば動くものが多かった。

今のようにプログラムが組み込まれた電化製品だと洗って修理するなんて無理ですが、昔のビデオデッキなどは歯車が汚れで動かなくなっていることが多く、いろんな方法を試したところ、洗剤で洗うのが一番だったんです。メガネに使う超音波洗浄機で直るものもありました。

もちろん、部品自体が壊れているものもありましたが、それは秋葉原でパーツを買って修理すれば売れる。私は電気関係やパソコンが得意なんですが、学生の頃の経験があったからなんですよ。つまり、商売になったから。

――10代にして、すごいご経験ですね……。

当時を振り返ると、峠道をノーブレーキで下るような感覚でした。一歩間違えるとコースアウトで吹っ飛ぶ状況。ハンドルさばきはうまかったと思いますけどね(笑)。

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人生の方向性を与えてくれた恩師との出会い

――並木さんが起業家になったルーツが見えた気がします。

もう一つ大きな影響を受けたのは、高校を卒業した後に出会った、ある先生でした。その出会いによって、私の人生は大きく変わったと思っています。

大学受験の際、私は私立大学への推薦は受けられたのですが、国立大学には落ちたんです。当然、家庭状況から私立に行くようなお金はなかったので、浪人して予備校に通うことにして、何とか予備校の授業料半額免除は勝ち取ったんですが、そのお金すらなかった。

そこで、何か仕事をしようと考えアルバイトの求人広告を見ていたら、公文の教室でスタッフを募集しているのが目に入り、早速電話をかけてみたんです。すると、女性の先生から「浪人生は勉強するのが仕事でしょう」と断られてしまって……。

ところが、その日のうちにまた公文の先生から電話がかかってきて、「勉強に支障がないならあなたを雇いたい」とのことで、働かせてもらうことになったんです。

アルバイトを始めると、すぐにその教室が“変わっている”ことに気付きました。名門の開成高校を受験するような、めちゃくちゃ成績優秀な生徒がいる一方、中学3年生で足し算もできないような生徒が一緒に勉強しているんです。引きこもりや不登校の子もいて、不思議な空間でした。

――普通の塾であれば、成績別に分けられそうですね。

そうなんです。私は商売的に考えてしまうので、あるとき先生に、「頭のいい子だけを集めて進学塾にして、もっと単価を上げればいいじゃないですか」と言ったことがあって。すると、先生から、「あなたは馬鹿だ」と叱られたんです。

できない子をできるようにしてあげて、これから来る格差社会でどう生きていくのかを教えてあげるのが教育でしょう」と……。当時はまだ「格差社会」なんて言葉は一般的ではなかったと思いますが、先生は社会の先行きを読んでいたんでしょうね。しかも、その先生は入塾してくる生徒がどの高校に行くか入ってきた時点で当ててしまうんです。エスパーかと思いましたね(笑)。

その後も、大学や大学院の進学、さらには就職するときまで、先生は迷う私に対して、未来を読んでアドバイスを与えてくれました。先生と出会えていなかったら、人生はまったく違っていたはずです。

――並木さんは、事業を通じて教育にも携わられていますが、その先生との出会いが影響しているのでしょうか。

そうです。私は、母の受けた誤診のこともあり、「知識や技術は人を幸せにするものではないの?」という疑問をずっと抱えて子供時代を生きてきました。

先生との出会いで学んだのは、「知識や技術だけでは人は幸せになれない」ということ。そして「人が幸せになるためには心に火を灯さなくてはいけない」ということです。

私自身、やはり先生の言葉に救われたことが何度もありました。とくに印象に残っているのは、ふと思い立ち、「なんで一度断った僕を雇ったんですか?」と聞いたときのことです。先生の答えは、「そんなの簡単よ!声を聞いた瞬間、あなたなら大丈夫だと思ったから」と――。そのときは、もがきながらずっと生きてきた私を認めてもらえたような気がして、嬉しかった。さすがに泣いてしまいましたね。

人を教育することは簡単なことではありません。できない人を切り捨てて事業をする方がずっと楽でしょう。でも、私は先生からの教えを受けた人間なので、そうしたくはありません。私が経営するロードフロンティアは、人を幸せにする“インフラ”でありたいと考えていて、関わってくださる方々のために、これからも泥臭く力を尽くすつもりでいます。

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文・小林 義崇 写真・刑部友康
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