大手生保の総合職からミャンマーのベンチャーへ―海外経験なし・英語は苦手でもアジアで活躍できた理由とは?

海外で仕事をしたいと思っても、英語力や海外経験のなさから踏み出せないという方もいるのではないでしょうか。しかし、今回お話をうかがった桂川融己さんは、まったく海外経験がなく、英語に苦手意識を抱えながらもミャンマーに移住します。今回の記事では、桂川さんがミャンマーでどのようにキャリアを築いていったのかをお伝えします。

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プロフィール

桂川融己(かつらがわゆうき)

大学卒業後、2006年に日本生命保険に総合職入社し、金沢支社勤務を経て東京本部で勤務した後、2013年末に退社。翌月からミャンマーに移住し、現地企業に転職。現在はミャンマーでフリーランスとなり、ビジネス誌作成などのライター業に加え、日本からアジア進出する企業への支援事業を手がける。

「語学力不問」のはずが、いきなり英語で面接

――ミャンマーでは、どのような仕事をされていたのですか?

就職した企業で募集していたのが人材採用業務だったため、担当することになりました。日系企業がミャンマーに進出するために現地の人を採用する際にサポートを行い、条件に合致する人材を紹介したり、面接の設定をしたりするという仕事です。

入社した初日、いきなりミャンマーの方を面接することになり……しかも英語で(笑)。もともと「語学力不問」という条件で入社したところもあったので、かなり戸惑いました。おそらく、「どれくらい英語ができるのか」ということを試されたのだと思います。

ただ、こちらは面接する側だったので、必死に「What your name?」などの質問テンプレートをつくり、その通り話をして、なんとか切り抜けました。年齢を聞くだけでも大変でしたが(笑)。通常業務は会社に日本語ペラペラのミャンマー人の方がいたので、通訳として手伝ってもらったりしながら仕事をこなしていきました。

――移住する前に英会話は学んでいなかったのですか?

そうですね。最初は勉強するつもりでいたのですが、入社する前に社長に「移住する前に勉強しておくことはありますか?」と聞いたときに、「今のうちに日本を満喫しておきなさい」と言われたので、その言葉に甘えました。ミャンマー語は多少勉強しましたが。

私はもともと英語が苦手科目で、大学受験でも苦労しましたが、それでも現地で毎日話しているうちに、自然と会話ができるようになりました。やはり、日本の義務教育のレベルが高いんでしょうね。ある程度の下地は身についていたようです。英語はもちろんできるにこしたことはないけれど、あとからでも、なんとかなります。

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ミャンマーで突然、耳が聞こえなくなる

――その後、現地の企業を退職されて一時帰国されたとのことですが、何かあったのですか?

ミャンマーには少なくとも3年以上はいるつもりで移住していたのですが、現地で就職した会社で働くうちに、少しずつ新たなビジネスチャンスも見えてきたので、「自分でも何かやってみたい」という気持ちになっていました。

そうした私の気持ちを社長も察してくれたようで、新たに日本人の社員を採用していたこともあり、私は2015年12月末に退職させてもらうことになりました。採用されてから、ちょうど2年が経ったときです。

「今後のことは旅をしながら考えよう」と思い、ブルネイやベトナムなどアジアの国々を旅していましたが、タイのチェンマイにいたときに身体に異変を感じました。高熱が続き、「自力ではミャンマーに戻れないかも」と思うくらい体調が悪くなったんです。

それでもなんとかミャンマーに戻ることはできたのですが、まったく動けなくなってしまい、1週間くらい飲まず食わずの状態で過ごしました。そのうち、だんだん耳まで聞こえなくなってしまって……。

そんなときに訪ねてくれた知人に促され病院に行ったところ、診断として出されたのが、「突発性難聴」です。その後も症状はさらに悪化していき、「耳が聞こえなくなるかもしれない」という不安がつのりました。そこで再度診察を受けたところ、「すぐに日本に帰りなさい」と言われたんです。

その辺りの記憶は途切れているんですよね……。気付いたら飛行機の中にいて、日本に着いたら空港には姉が迎えに来ていて……。どうやら友人が家族への連絡から、飛行機のチケットまで手配してくれ、空港に送り届けてくれたとのことですが、私はまったく覚えていません。実家に戻ると、家族は本当に心配していたようです。

それから1カ月ほど静養して、幸い症状は治まり元気になりました。急に時間ができたので、それから数カ月は、セミナーを聞いたり、ライターの養成講座に通ったりしました。思いつきで四国のお遍路さんも車で巡りましたね。貴重な自己投資の期間でした。

久しぶりに家族とゆっくり過ごせたので、あらためて家族の大切さも感じました。それまではあまり帰省もできていなかったのですが、今はフリーランスなので、1年のうち2カ月くらいは実家で過ごすようにしています。

――帰国してから、再びミャンマーに行かれたきっかけは何だったのでしょうか?

日本にいたときに、ミャンマーの知人から連絡があったんです。「雑誌を作るから、手伝ってほしい」とのことでした。

彼は私がミャンマーの生活をブログにしていたり、ライターの養成講座に通ったりしていたことを知っていたので、声をかけてくれたようです。そこで8月に再び日本を出国しました。それからは流されるように、いろいろな仕事に関わらせてもらっています。

最初に声のかかった雑誌づくりでは、30本くらいのインタビューを一気にやり、写真撮影や記事の執筆をしています。今や英語でインタビューしてるんだから驚きです。あとは、日本の広告代理店からの依頼で、Facebookページの運用支援や、インフルエンサーマーケティング、動画制作もしました。

現地にいるだけで、いろいろな人からお声がけをいただいていて、私の地元である岐阜県の下呂市にある建設業の社長さんから、現地進出でのご相談があったのには驚きました。

今後は、学校や塾などの教育系の情報をまとめるポータルサイトの運用や、ミャンマーと日本を結ぶ輸出入のお手伝いもしようと考えて準備を進めています。いろんな縁を繋いでいくことが自分の使命だと考えています。

――幅広いお仕事ぶりですね。ミャンマーへの移住もそうですが、なぜそんなにフットワークが軽いのでしょう?

もともと、外の世界に積極的に関わることが好きなことが影響していると思います。日本生命に勤めていた頃、あえて土日開催のセミナーに参加するなどして、社外にも目を向けていました。

そうして知らない人とつながると、自然に自分の世界が広がるんですよね。アイデアも浮かびますし、仕事につながる話をいただく機会も増えます。私の場合は好奇心旺盛で、いろんなことに興味を持ち、機会にも恵まれたため、結果として範囲が広がっていったのかもしれません。

知らない世界に飛び込むと、価値観も変わります。たとえばミャンマーでは、皆さん家族をとても大切にしています。その姿を見て、私ももっと家族との時間を増やしたいと思いました。こういうことは、日本の中にいるとなかなか気づけないことです。日本だけの“当たり前”に影響されてしまいますからね。

自分の知っている世界から一歩外に踏み出せば、そこにはたくさんの新たな可能性が広がっているのです。これからも、私自身、どんな人や仕事と出会うのか予想できませんが、変化が楽しみです。

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文・小林 義崇 写真・中 惠美子
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