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No tech No life 〜この技術とともに在り〜 Vol.5 技術と技術者の革命「Java」の14年史
米サン・マイクロシステムズが開発し、1995年に発表したプログラミング言語、「Java」。インターネットの普及とともにその特性が注目され、今やエンタープライズからコンシューマーまで幅広い分野で活用されるに至った14年史をつづります。
(文/松岡功 総研スタッフ/根村かやの イラスト/岡田丈)作成日:08.05.22
Part1 デファクトスタンダードの地位を得たJava
95年、” Write Once, Run Anywhere”
 Write Once, Run Anywhere――1995年5月23日に発表された「Java」のコンセプトは、この言葉に集約される。「一度プログラミングすれば、どんなプラットフォーム上でも動作する」という意味である。Javaはプラットフォーム上にJava仮想マシン(JVM)を搭載すれば、プラットフォームに依存することなくアプリケーションを稼働させることができる。例えば、サン・マイクロシステムズ(以下、サン)のOSであるSolaris上で開発したJavaアプリケーションに手を加えなくても、マイクロソフトのWindows上で動作させることができるわけだ。このコンセプトが多くのエンジニアに受け入れられたことで、Javaはアプリケーション開発のデファクトスタンダードに成長していったのである。

 サンによると、Javaは現在、10億台の携帯電話、7億台のパソコン、12億5000万枚のスマートカード(ICカード)などに利用され、ライセンスを取得した企業は180社以上に、また95年当時30人程度だったJavaの開発者は今や450万人を超えているという。
 エンジニアの観点からみると、Javaは従来のC++言語と類似しているが、Javaがそうした従来の言語と最も異なるのは、マルチプラットフォームで動かすことを最初から考慮し、実行環境や開発環境などが仕様として存在している点にある。そしてそれらが実際に受け入れられ、多くのプラットフォームで移植性の高いプログラミングを実現していることが、高く評価されている要因となっている。

 こうした特性をもつJavaは、これまでのプログラミング言語の集大成ともいえる。ライブラリ方式、構造化、オブジェクト指向などの思想がすべて盛り込まれており、ファイルI/O、ネットワーク、RDB、多言語、ウィンドウGUIなどがすべて言語仕様そのものに含まれているからだ。プログラミング言語仕様自体にこのような考慮がなされたものは、実はこれまでになかったのである。
Javaのマスコット「Duke」。Javaが発表された当初、さまざまなWebサイトでDukeが手を振るアプレットに多くのエンジニアが興味をもった。写真・画像提供=サン・マイクロシステムズ(株)(Part1すべて)
Javaのマスコット「Duke」。Javaが発表された当初、さまざまなWebサイトでDukeが手を振るアプレットに多くのエンジニアが興味をもった。
写真・画像提供=サン・マイクロシステムズ(株)(Part1すべて)
96年、「JavaOne」に集ったエンジニアたちの熱い思い
 95年当時、Javaに着目したエンジニアの大半は、実はC++の開発者だった。当初のJavaは、Webブラウザにアプレット(ネットワーク上に置かれWebブラウザ上で実行できるJavaプログラム)をダウンロードして、アニメーションを動かす程度のデモしかできなかった。しかしエンジニアたちは、JVMがプラットフォームに依存することなく実装でき、セキュリティやメモリ制御などの機能を備えていたことから、C++よりも安全で記述効率が高いと評価した。C++の欠点を克服し、オブジェクト指向の世界を広げる言語の本命はJavaだと感じたエンジニアたちは、その将来に期待を寄せるようになった。
 一方、Javaの設計者たちもその期待に応えようと奮闘し、Javaは利用者とともに進化する道を歩み始めた。サンは96年から毎年、Javaの開発者会議「JavaOne」を開催してコミュニティを形成し、エンジニアたちとJavaのロードマップや適用領域の広がりを共有することに努めた。JavaOneの、とくに初期のころの盛り上がりようは、新しいネットワークコンピューティング時代の到来を十分に実感させるものだった。

1996年に開催された第1回「JavaOne」。以来、毎年行われている同イベントがJavaによる技術革新の“羅針盤”となっている。
1996年に開催された第1回「JavaOne」。以来、毎年行われている同イベントがJavaによる技術革新の“羅針盤”となっている。
 Javaの生みの親といわれるジェームズ・ゴスリング氏(当時サンのフェロー)は、Javaを開発した最大の理由について、96年7月のインタビューでこう語っている。
「分散コンピューティングにおけるソフトウェアの開発・実行環境を、ネットワーク上で実現したいと考えたのが発端だ。当初はC++をベースにしようとしたが、より高い移植性や信頼性、そしてどんなプラットフォームでも動く新しい言語環境が不可欠になった。Javaによって、エンジニアはすべてのプラットフォームに向けて共通したソフトウェア開発ができるようになる」
 ゴスリング氏のこうした思いは、JavaOneに参加したエンジニアたちにもまたたく間に浸透した。Javaのその後の普及は、そうしたエンジニアたちの熱い思いに支えられてきたのである。
Javaの生みの親といわれるジェームズ・ゴスリング氏(写真はJavaOne2007の基調講演より)。今もJavaのエンジニアたちの教祖的存在となっている。
Javaの生みの親といわれるジェームズ・ゴスリング氏(写真はJavaOne2007の基調講演より)。今もJavaのエンジニアたちの教祖的存在となっている。
Java技術史:(1)1995〜99
Java技術史 IT技術史
1995
サン・マイクロシステムズ(以下サン)がJavaテクノロジーを発表(5月23日)
ネットスケープがサンとライセンス契約(9月)
阪神・淡路大震災
CALS推進協議会(CIF)が発足
1996
最初のJavaとなるJDK(Java Development Kit)1.0を公開(1月)
IBMとマイクロソフトが技術ライセンスを取得(3月)
クラスライブラリを拡張した JDK 1.0.2を公開(5月)
第1回JavaOne開催(5月)
HP、富士通、NECなど38社が技術ライセンスを取得(5月)
サンがJavaStationを発表(10月)
100%Pure Javaイニシアティブ発足(12月)
電子ネットワーク協議会、「パソコン通信の利用をめぐる倫理問題に関するガイドライン」を発表
文部省とNTT、全国の小中学校計1000校のパソコンに通信機能を持たせる共同計画を発表
三菱銀行・東京銀行が合併(都市銀行の再編開始)
通産省、「不正アクセス対策基準」を告示
1997
JDK 1.1を公開(2月)
このバージョンで日本語を含む国際化対応をはじめ、ソフトウェアコンポーネント技術のJavaBeans、データベース接続APIのJDBC、分散オブジェクト技術のJava RMIなどの重要な機能が追加された。
IBMのメインフレームOS/390向けJavaを出荷(10月)
サンがマイクロソフトをライセンス契約違反で提訴(10月)
政府、高度情報通信社会推進本部に「電子商取引等検討部会」を設置
動燃原子力再処理施設が爆発事故
建設省、光ファイバー網整備計画(CCC構想)を発表
米政府、インターネット自由貿易構想を発表
1998
Personal Java 1.0を公開(1月)
EJB(Enterprise JavaBeans)1.0、JFC(Java Foundation Class)1.0を公開(3月)
JDK 1.2を公開、JavaからJava2へのブランド名変更を発表(12月)
Javaの開発者コミュニティであるJCP(Java Community Process)が発足(12月)
明石海峡大橋開通
政府、総合経済対策を発表(総事業費16兆6500億円。情報通信関連は総額7500億円を計上)
1999
分散システムを構築するネットワークアーキテクチャのJiniを公開(1月)
Java 2のプラットフォーム仕様を3つに区別(6月) J2SE (Java 2 Platform, Standard Edition)、J2EE(Java 2 Platform, Enterprise Edition)、J2ME(Java 2 Platform, Micro Editionに区別され、JDK 1.2はJ2SE 1.2と位置付けられた。
世界の有力な携帯電話事業者がJ2MEを採用表明(10月)
J2EE 1.2とLinux向けJ2SEを公開(12月)
郵政省、「日本インターネット決済推進協議会」を設立
EU単一通貨「ユーロ」がスタート
情報公開法が成立
不正アクセス禁止法が成立
携帯電話の普及4割を超える(普及累積台数5411万台)
97年〜、企業システム開発の標準技術へ
 とはいえ、一般の目からすると、当初のJavaは前述したように「Webブラウザ上で動くアニメーションを作る言語」というイメージが先行した。そのためJavaは、企業システムの開発には無縁の技術と思われていた。しかし、97年にオブジェクト・コンポーネント・ソフトウェアであるEJB(Enterprise JavaBeans)が発表され(最初の公開は98年3月)、さらに99年12月にはEJBをはじめとする企業システム開発向けの機能が体系化されたJ2EE(Java 2 Platform, Enterprise Edition)が公開されたことで状況が一変した。アプリケーションサーバーベンダー各社がJ2EE仕様を一斉に採用したことで、J2EEはその後、企業システム開発の標準技術に成長していったのである。
2005年に開催されたJavaOne Tokyo。Java誕生10周年を祝って、日本をはじめ世界中からJavaのエンジニアが集まった。
2005年に開催されたJavaOne Tokyo。Java誕生10周年を祝って、日本をはじめ世界中からJavaのエンジニアが集まった。

 その最大の要因もまた、プラットフォームに依存しないJavaならではの特性にあった。つまり、既存のシステムから全く新しいシステムへ急激に変化させるのでなく、既存のシステムをうまく取り込みながらJavaの世界へと移行することができたからである。もちろん、そうはいっても新しい言語環境だけに、実際にさまざまな開発に携わったエンジニアたちの苦労は少なくなかったようだが、そうしたエンジニアたちの努力によって、Javaは今やミッションクリティカルな領域までも含めた企業システム構築基盤となったのである。
携帯電話サービスにも活用
 そうした企業システム向けとは別な領域で、Javaがアプリケーション開発のデファクトスタンダードになったもうひとつのきっかけがある。J2ME(Java 2 Platform, Micro Edition)の登場だ。このJ2MEによって、一般ユーザーへのJavaのプレゼンスが大幅に向上した。とくにNTTドコモのiモードの成功は、その大きな要因となった。

 90年代後半、NTTドコモではメールとWeb閲覧の機能が付いた初期のiモードの成功に続き、アプリケーションを取り込めるようにしようと考えていた。その後のiアプリである。だが、アプリケーションを動かすためにはセキュアな基盤が必要となる。そこでNTTドコモが、これしかないとばかりに選んだのがJavaだった。
JavaOne2007ではGUI作成スクリプト言語「Java FX」のモバイル仕様が発表され、携帯デバイスでのJava活用のさらなる広がりを感じさせた。
JavaOne2007ではGUI作成スクリプト言語「Java FX」のモバイル仕様が発表され、携帯デバイスでのJava活用のさらなる広がりを感じさせた。
 携帯電話サービスはネットワークにつながることが前提のため、同時に悪意のある攻撃を受ける可能性がある。そこで攻撃を防御しながら最適なサービスを提供できる仕組みが必要となる。そのセキュリティの高さが、Java採用の決め手になったのである。さらにこれをきっかけに、携帯電話サービスにおけるJavaの有効性が評価され、今では国内外の数多くのキャリアがJavaを採用している。

 さて最後に強調しておきたいのは、インターネットとJavaの関係である。Javaが登場した95年は、インターネットが本格的に普及し始めたときでもあり、インターネットとの相乗効果によってJavaも急成長を遂げた。逆にそのタイミングでJavaが登場していなかったら、インターネット技術が今日のように大きく花開くことはなかったかもしれない。その意味では、Javaはベストタイミングで登場した。まさに必然の技術だったのだろう。
Java技術史:(2)2000〜2008
Java技術史 IT技術史
2000
Java API for XMLを公開(2月)
J2SE 1.3を公開(5月)
このバージョンでHotSpot Java仮想マシンが導入され、ジャストインタイムコンパイラに加えて動的再コンパイル技術、世代別ガベージコレクションを備えた高速なJava仮想マシンを使えるようになった。
コンピュータ西暦2000年問題、世界的にクリア
電子署名および認証業務に関する法律が成立
2001
J2EE 1.3を公開(9月)
最初のJavaOne Japanが横浜で開催(11月)
米グーグル社日本法人設立
国内初のBSE感染牛を確認
2002
J2SE 1.4を公開(2月)
このバージョンが、JCPのもとで開発された最初のプラットフォームとなった。
欧州統一通貨「ユーロ」の貨幣流通開始
みずほ銀行、システム統合でシステムトラブル
2003
Javaの新ロゴを採用(6月)
J2EE 1.4を公開(11月)
政府が電子政府構築計画を策定
日中韓連携の「OSS推進協議会」発足
2004
サンとマイクロソフトが和解し、今後の技術協力を発表(4月)
J2SE 5.0を公開(9月)
このバージョンで言語仕様に大きく拡張が加えられ、多くの言語機能が追加された。もともとはJ2SE 1.5という名称だったが、マーケティング上の理由などからJ2SE 5.0と命名された。
知的財産基本法施行
新潟県中越地震発生
ICカードと電子マネーの利用が本格化(Suica、ETC、キャッシュカード、住基カードなど)
2005
Java誕生10周年を迎えたJavaOne 2005で、次期JavaプラットフォームをJava SE、Java EE、Java MEに名称変更することを表明(6月)
個人情報の保護に関する法律(個人情報保護法)全面施行
2006
Java EE 5を公開(5月)
JavaがGPLでオープンソース化(11月)
Java SE 6を公開(12月)
ライブドア事件
産学連携「情報大航海プロジェクト」スタート
安倍内閣が発足
2007
日本Javaユーザグループ(JJUG)が発足(4月)
サンがGUI作成スクリプト言語のJava FXを発表(5月)
Windows Vista発売
経産省がグリーンITのコンセプト打ち出す
2008
Java SE 7を公開予定
 
Part2 3社4人のエンジニアが語る「Javaへの思い」
昔も今も光る“オブジェクト指向”
 まず登場していただくのは、サン・マイクロシステムズでJavaのエバンジェリストとして活躍されている山口浩氏。まず、Javaのどんなところが多くのエンジニアの技術者魂をかき立てたのか、語ってもらった。

「やはりキーワードは“オブジェクト指向”でしょう。昔からある言葉ですが、エンジニアにとっては今も光っている技術です。
 加えてJavaがネットワークコンピューティングを実現する技術であったことも、多くのエンジニアを魅了したのではないでしょうか。ネットワークプログラミングは、当時は難しい分野だと見られていただけに、プラットフォームに依存することなくネットワークを自在に操れるというのは、それこそ技術者魂をかき立てられたと思います」
山口浩氏
山口浩
サン・マイクロシステムズ株式会社
ソフトウェア・ビジネス統括本部
チーフ・テクノロジスト

 また山口氏は、多くのベンダーがJavaのライセンスを取得している状況について、こんな見方を示した。
「サンのJavaに対する取り組み方が、ほかのベンダーからは中立的に見えたのでしょう。実際、サンがJavaを世に出した当初は、まずこの技術をオープンなコミュニティのもとで多くのエンジニアに使ってもらい、スタンダードな技術になっていくことが望ましいと考えていました。一方でサンは、当時からインターネットの世界では確固たる地位を築いていたので、ライセンサーとしても信頼されたのだと思います」
“日本発”の技術を期待
 そして、Javaのエンジニアへはこんなメッセージを贈ってくれた。
「Javaはこれまでも活用領域をどんどん広げてきましたが、プラットフォームに依存しないという特性を考えると、もっと自由な発想で新しい応用技術を生み出せるのではないかと思っています。例えば最新のJava SE 6では、新機能のひとつとしてJVMでほかの言語を扱うことができるようになり、Rubyなどの最近話題のプログラミング言語とも連携を図れるようになりました。そうした中から、ぜひ“日本発”の技術を期待したいですね」
Javaが企業システム開発に「使える」と認知されるまで
 次に登場していただくのは、富士通の薮田和夫氏と田坂澄生氏。薮田氏は顧客サイドに立ったフィールドSIのエンジニア、田坂氏は製品開発のエンジニアとして、Javaの活用に取り組んできた。

 富士通のJava活用におけるアプローチは、まさしくJavaによる企業システム開発の道を切り開いた歴史の縮図といえる。とはいえ、両氏によると当初は社内でもまったく認知されず、肩身が狭かったという。そんな空気が変わったのは、当初動きが鈍かったアプレットを高速に動かす技術を、田坂氏が担当する部隊で開発したのが発端だという。
 薮田氏によると、「大手銀行のお客様がその技術に着目され、全国の営業店端末システムに採用していただいたことで、俄然Javaは使えるぞ、という機運が社内にも広がりました」。銀行の営業店端末システムといえば、基幹業務を担うシステムである。そのシステムが稼働開始したのは97年。Javaによる企業システム開発の最も早期の事例といえる。
 その後、富士通はサーブレット(Webページを動的に作るJavaプログラム)の活用にも積極的に取り組み、J2EEが登場してからは本格的にJavaによる企業システム開発を手がけるようになっていったという。
薮田和夫氏
薮田和夫
富士通株式会社 生産革新本部 プロジェクト統括部長
田坂澄生氏
田坂澄生
富士通株式会社 ソフトウェア事業本部 アプリケーションマネジメント・ミドルウェア事業部第二開発部
COBOLに代わる第2世代言語
 サンとのライセンス交渉にも臨み、Javaの日本語化にもかかわってきた田坂氏。一方、早い段階から社内でJavaの推進グループを立ち上げ、日本でのEJBコンポーネントコンソーシアム発足時には中心的な役割を果たした薮田氏。そんな両氏にあらためて、ソフトウェア開発分野にJavaがもたらしたインパクトについて語ってもらった。

「Javaのインパクトは、おそらく皆さんが思っておられるよりはるかに大きいと思います。今、サーバー用アプリケーションの大半はJavaでつくられていますが、振り返ってみるとつい最近までおよそ30年間、サーバー用アプリケーションの開発言語はCOBOLだったんですよ。つまり、COBOLからJavaへサーバー用アプリケーション開発言語が歴史上、初めて変わったわけです。
 これは何を意味するかというと、言語だけが変わったのではなく、これまで培ってきた設計や性能検証、見積もりの方式や、レビューのノウハウなどがすべて変わってしまうわけです。それらはあらためて培っていくしかありませんが、このインパクトは本当に大きなものがあると実感しています」(薮田氏)
「Javaは当初、言語自体の魅力から多くのエンジニアが扱うようになりましたが、最近ではJavaをベースにしたさまざまなオープンソースソフトウェアが続々と登場してきて、それがまたJavaの適用範囲を大きく広げています。私はそうした相乗効果が、ソフトウェア開発分野全体に及ぼすインパクトも非常に大きいと思っています」(田坂氏)

 今後Javaに期待することは何か。薮田氏がこう語った。
「Javaにとってこれからいちばん大事なのは、今後50年、安心して使える言語であり続けることです。既に資産も大量にできつつありますから、短命に終わってもらっては困ります。COBOLに続く第2世代のサーバー用アプリケーション開発言語としてこれから半世紀、進化し続けてほしいですね」
Javaは“技術屋にとっての革命”
 最後に登場していただくのは、Javaベースのソフトウェア開発を行う構築屋社長の大山弘樹氏。インターネット協会のJava研究部会(通称:Javaカンファレンス)部会長や、日本Javaユーザグループ幹事も務める同氏が語るJava革命とはどのようなものか。

 「Javaが登場して何がいちばん変わったかというと、アプリケーション開発において技術屋が本当に主役になったことだと思います。
 どういうことかというと、これまでのアプリケーション開発のスタイルは、営業サイドがお客様からいただいたご要望や、マーケティングサイドの指示に基づいて、技術屋があらかじめ決められた仕様にのっとって作業するパターンがほとんどでした。アプリケーションですから内容におけるユーザーニーズは当然ありますが、Javaが主流になったことによって、どんな技術を使って開発するかという主導権は完全に技術屋にゆだねられるようになりました。EJBやオープンソースソフトウェアなど技術の選択肢は豊富にあります。それらをどう組み合わせるかは、技術屋の腕次第。当然、モチベーションもグッと上がります。
 つまり、Javaがもたらしたのは、技術の革命だけでなく、“技術屋にとっての革命”だった。私はそう確信しています」
大山弘樹氏
大山弘樹
有限会社構築屋 代表取締役社長
財団法人インターネット協会Java部会 部会長
2001年、ついに訪れた「女子高生がJavaを知っている日」
 大山氏がそうしたエンジニアの“復権”を痛感したのは、第1回のJavaOneだったという。そのときに出会ったエンジニア仲間との感動の共有がもとになり、その後のJavaカンファレンスというエンジニアコミュニティに発展した。そのJavaカンファレンス発足時にメンバーと交わした言葉が、あとに驚くべきエピソードを生んだという。

「Javaカンファレンスはエンジニア仲間でJavaを普及させようと始めたコミュニティですが、発足時に、将来どんな状況になったらJavaが普及したと判断してこのコミュニティを発展的に解消するかを、定義しておこうということになりました。そこで象徴的なシーンとして出たのが、街を歩いている女子高生から自然にJavaという言葉が聞かれるようになったら、もう普及活動をする必要はないだろうと。
 その後、携帯電話にまでJavaが使われるようになり、ついにその日が来たんです。2001年のある日、私がJavaロゴの入ったポロシャツを着て街を歩いていたところ、すれ違った女子高生のグループから指さされてこう言われたんです。『あっ私の携帯電話のJavaロゴと一緒だ!』。想定していたシーンとまったく同じ。コミュニティで話していたことが検証されたんです。とっても感動したのを今もよく覚えています」

 そして大山氏はひと言、こうつぶやいた。
「Javaはもう空気と同じようなものですよ」
次回の掲載は6月19日、「日本のインターネット普及の14年史」(仮題)です。
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根村かやの(総研スタッフ)からのメッセージ 根村かやの(総研スタッフ)からのメッセージ
現在のJavaは、開発エンジニアにとって仕事に不可欠な「道具」。しかし、これほど多くの人が、こんなにも熱くその魅力を語る仕事道具がほかにあるでしょうか。COBOL、VB、CやC++は、どんなに求められ使われても「道具」以上の存在ではないのに。それは、Javaが誕生期に「いじって楽しいオモチャ」だった記憶が、エンジニアコミュニティの中に焼きついているからなのでしょうか。

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