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未来の技術史を創るエンジニアに贈る「日本の技術クロニクル」 バブルの死、「コミュニティ」の誕生:1991〜2000
日本の1990年代はバブル崩壊に始まり、再生を模索した時期として記録されています。第5回は、産業界全般が「失われた10年」の喪失感に覆われる中、インターネットという新しい起爆剤を獲得したIT産業の、21世紀への胎動をつづります。
(文/佃均 総研スタッフ/根村かやの)作成日:07.11.15
Part1 IT産業の地殻変動
バブル崩壊から誕生したITベンチャー
 NTT株公開に象徴される狂騒的なバブル経済に陰りが見えたのは1991年の秋だった。高騰を続けていた不動産価格が、にわかに急落に転じたのだ。それは最初、不動産取引の頭打ちにすぎなかったが、翌年になると金融機関の過剰融資が表面化し、貸付金の返済や含み資産の評価損で企業業績が低迷、株価の急落というドミノ倒しが始まった。

 情報産業も例外ではなかった。バブルによる見かけ上の膨張が収縮したばかりでなく、コンピュータ・メーカーは「脱メインフレーム」の嵐にさらされることとなった。ダウンサイジングとオープンシステムが本格化し、メーカーはハードウェアからソフト/サービスへ、軸足を移さざるを得なくなった。
 ソフトウェア業が受けた打撃はもっと大きかった。売上高の3割を占める金融機関が一斉に新規システム開発を凍結した結果、大量の余剰人員が出た。人月単価の自転車操業的な受託開発型ソフト会社の経営はたちまち行き詰まり、多くの企業が人員の削減に踏み切った。

 通産省(現経済産業省)の特定サービス産業実態調査によると、1992年に48万8469人だった従業者数は翌1993年に44万5662人に、事業所数は6977から6432に大きく減少している。オイルショックのとき、事業所はIT化による生産性の向上で乗り切ろうとした。このためソフト業は不況にかかわらず高い成長率を維持したが、今度ばかりは逆風を経験することになった。

 ただ、このときのリストラはソフト業界にマイナスとしてのみ作用したわけではなかった。大手の受託開発型ソフト会社からほうせんかの種のように飛び出した“志士”たちが、ひそやかに新しいビジネスモデルへの挑戦に取り掛かっていた。1995年11月のWindows95発売をきっかけとする日本のインターネット時代は、そうしたITベンチャーが切り開いたといっていい。
ITブームは単なるバブルだったのか?
 ビットバレー。
 ITベンチャーが集まる東京・渋谷が業界の中でこう呼ばれるようになったのは1996年の秋ごろからだった。パソコン(Windows)とインターネットに照準を絞り、ホームページやデジタルコンテンツ(コンピュータ・グラフィックス)の作成を受託したり、BBS(電子掲示板)やメールサービスを提供する新興企業が台頭した。
 1950年代から60年代にかけて勃興した情報サービス業は、政策においては「21世紀を担う知識集約型産業」と位置づけられ、育成・振興策が講じられた。「高度化」の名のもとで情報処理技術者試験、プログラム等準備金制度、電子計算機システム安全対策基準、ソフトウェア生産工業化システム(Σシステム)、システムインテグレーション税制などが整備された。

 ITベンチャーが台頭した背景にこうした産業政策があったのはもちろんだが、それまでと決定的に違ったのは投資のトレンドだった。バブル崩壊で金利が限りなくゼロに収斂した結果、投資がITベンチャーに集中することになった。折から株式公開の基準が緩和されたことが、ITベンチャーへの投資に拍車をかけた。
 新興企業向け株式公開市場の開設はそもそも、信用力がない企業にも優れた技術があれば事業資金を調達できる環境を整えることに目的があった。そうした企業の成長を加速することによって新しい雇用需要を生み出し、経済回復の起爆剤にしようという政策的意図を反映したものだが、それによってインターネット・バブルが形成されたことは否定できない。

 むろん、すべてがバブルだったわけではない。自らがよって立つ技術基盤や目指す方向を見失わなかった企業は、その後も着実な歩みを続けている。彼らにとってマネーゲームに走った自称「ITベンチャー」は迷惑な存在だったかもしれない。実際、そうした企業の中には、大手ソフト会社が成し得なかったソフトウェア工学の実践によって、システム構築の上流工程を専門に手掛けているケースもある。
日本のIT技術史:1991〜2000
1991
NTT、異種コンピュータ接続インタフェース統一仕様「MIA」を発表
EC閣僚理事会、「コンピュータプログラムの保護に関する指令」を最終採択
雲仙・普賢岳で火砕流
ゴルバチョフ大統領辞任表明、ソ連消滅
総務省、「政府におけるOSI導入・利用に関する基準」を公表
1992
PKO法成立
OECD「情報システムセキュリティガイドライン」を採択
国公立学校で週休2日制
産業構造審議会・情報化人材対策小委員会、「2000年のソフトウェア人材」を発表
雇用調整助成金制度/中小企業信用保険法でソフトウェア業を対象業種に指定
1993
政府、新総合経済政策で5つの情報化関連施策を公表
国内パソコンメーカーとソフト会社約70社、「OS/2コンソーシアム」を設立
産業構造審議会、ソフトウェアの適正取引についてのガイドラインを作成
細川連立内閣成立
冷夏で米を緊急輸入
米政府、「NII(全米情報通信基盤)アクションプラン」を決定
1994
通産省、アウトソーシングに関する認定制度を創設
電気通信審議会、「21世紀の知的社会への改革に向けて」を答申
村山富市内閣成立
日本電子工業振興協会、「ソフトウェア開発モデル契約」を作成
政府、「高度情報通信社会推進本部」(本部長:内閣総理大臣)を設置
1995
阪神・淡路大震災
オウム真理教・麻原教祖を逮捕
CALS推進協議会(CIF)が発足
製造物責任法(PL法)が施行
Windows95発売、ウィンドウズ・フィーバー
中小企業庁、「情報化促進アドバイザー事業」を開始
1996
電子ネットワーク協議会、「パソコン通信の利用をめぐる倫理問題に関するガイドライン」を発表
文部省とNTT、全国の小中学校計1000校のパソコンに通信機能を持たせる共同計画を発表
三菱銀行・東京銀行が合併(都市銀行の再編開始)
「O157」食中毒
通産省、「不正アクセス対策基準」を告示
1997
政府、高度情報通信社会推進本部に「電子商取引等検討部会」を設置
動燃原子力再処理施設が爆発事故
建設省、光ファイバー網整備計画(CCC構想)を発表
ニューメディア開発協会、電子公証実験を開始
「コンピュータ西暦2000年問題関係者省庁連絡会議」を設置
NTT、国内通信網の100%デジタル化を完了
米政府、インターネット自由貿易構想を発表
1998
明石海峡大橋開通
政府、総合経済対策を発表(総事業費16兆6500億円。情報通信関連は総額7500億円を計上)
行政情報化推進基本計画(1998〜2002)がスタート
民間金融機関と郵便貯金、日本デビットカード推進協議会を設立
和歌山毒物カレー事件起こる
ERP/CRMなどニューアプリケーション市場が広がる
名目経済成長率がマイナスに転じる
1999
EU単一通貨「ユーロ」がスタート
郵政省、「日本インターネット決済推進協議会」を設立
情報公開法が成立
経団連、「デジタル・ニューディール構想」推進5カ年計画に関する提言を発表
不正アクセス禁止法が成立
携帯電話の普及4割を超える(普及累積台数5411万台)
2000
コンピュータ西暦2000年問題、世界的にクリア
情報家電インターネット推進協議会が発足
政府、「申請・届け出手続きの電子化推進のための基本的枠組み」を策定
電子署名および認証業務に関する法律が成立
IT戦略本部とIT戦略会議、「IT基本戦略」を策定
九州・沖縄サミット開催
「ソフト業を変革していくのは、旧来の受託開発業やパッケージベンダーではなく、1995年以後に誕生したITベンチャーかもしれない」(SRAホールディングスの丸森隆吾会長)という指摘は、ソフト業の地殻変動を予見させる。

 偶然の符合かどうか、時代の空気をガラッと変えた出来事が、その前後に起こっている。1995年1月17日未明に発生した阪神・淡路大震災、3月の東京・地下鉄サリン事件などオウム真理教によるテロがそれだ。
 阪神・淡路大震災は自然災害に見えるが、被害を広げたのは地下に埋設さ
れていたガス管だったといわれている。ガス管を伝って炎が際限なく神戸の街を覆っていった。
 一方のオウム真理教によるテロは、オカルト的なカルト集団が起こした反社会的行為として糾弾されているが、大都市の空疎な人間関係を直撃したということもできそうだ。その後、酒鬼薔薇(サカキバラ)事件(1997年5月)、和歌山毒物カレー事件(1998年7月)、附属池田小事件(2001年6月)と、常軌を逸した殺人事件が日常的に発生するようになった。

 これらの事故・事件は、図らずもインターネットが社会インフラのひとつとなっていく過程を示すものともなった。阪神・淡路大震災ではBBSを通じて被害情報が交換された。悲惨な事件が起こるたびに、ネット上で「犯人探し」やさまざまな論評が展開され、しだいに新聞・テレビなどのメディアにも影響を与えるようになっていった。
ウィンドウズ95日本版発売
1995年11月23日、ウィンドウズ95日本語版の発売日には、いち早く入手しようと多くの人がパソコンソフト店などの店頭に詰めかけた(写真提供=読売新聞社)
 そんなインターネットが、IT産業の地殻変動を起こしていった。実際、それまでの情報化はコンピュータとソフトウェア、ネットワークの3つを指していた。ところが1995年を境に「IT」という呼称が広まり始め、コンピュータはICに、ネットワークはインターネットに置き換わっていく。戦後レジームからの脱却は、既に始まっていたのだ。
「オブジェクト指向」と「エンベデッド・プログラム」
 では、1995年以後、ソフトウェアの世界はどのように変わったのだろうか。テクノロジーにおいては、プログラミング言語の主力がCOBOLに代表される手続き記述型から、C++、Java、Perlなどオブジェクト指向型に転換した。さらにこれまでコンピュータの付属物のように扱われていた通信プロトコルがTCP/IPに標準化され、Webのアーキテクチャが主役の座に就いた。
 情報システムの構築手法も変化した。企業の基幹系アプリケーションにERP/CRM/SCMの概念が取り込まれ、受託開発業務の中心はパッケージをベースにユーザーの要望を実現していくカスタマイズにシフトした。モジュール・エンジニアリングばかりでなく、プロダクト・ベースド・エンジニアリングの技術・ノウハウが求められるようになっていく。

 もう一つの変化は、携帯電話や情報家電の登場だった。そこに組み込まれるプログラムは、初めは機器の動きをコントロールするだけだったが、メモリーの集積度とアクセス速度が格段に向上し、インターネットとの連携利用が実現したことによって、さまざまなサービス機能が追加されるようになった。「エンベデッド・プログラム」の市場が確実に広がり、ビジネス・アプリケーションとは異なる開発手法が必要になった。
 1990年代の後半は、このような変化が顕在化し、市場の構造を質的に変えていった時代だった。そうした現象が統合化されていくのは、情報システムの西暦2000年(Y2K)問題を乗り越えてからのことである。
Part2 OSS――ソフトウェアの文化論
青木淳氏
株式会社SRA先端技術研究所
執行役員オブジェクト指向技術担当
青木淳
1957年生まれ。近畿大学大学院化学研究科博士前期課程修了(理学修士)。専攻は物理化学。(株)富士通ビー・エス・シー在籍中にSmalltalkに出合い、富士ゼロックス情報システム(株)に転じてSmalltalkによるソフトウェア開発を手掛ける。1991年、(株)SRAに入社。
オープンソース・ソフトウェアへのこだわり
「オープンソース・ソフトウェア(OSS)にこだわるのは、ソフトウェアの文化論を打ち立てたいから」――SRA先端技術研究所の青木淳は言う。
 1957年生まれの50歳。OSSを研究開発する傍ら、京都産業大学をはじめ、いくつかの大学で非常勤講座をもつ。著書も多い。「生涯一プログラマ」を自認し、現在も毎日2〜3時間を「プログラムを読むこと」に充てる。
「テレビを見たり新聞を読んだりするのと同じように、私にとってはそれが日課」
 と笑う。

 青木が開発した3次元グラフィックライブラリ「じゅん」はGNU一般公有使用許諾(GPL)によるOSSとして1997年に公開され、全世界から累計6万件を超すダウンロードのアクセスがある。3次元CAD、ソリッドモデリング、シミュレーション、ゲーム、歴史的出土品の分析、遺伝子工学など適用範囲は限りがない。
 [自由に仕事をする]とは
 青木の本来はITエンジニアではない。大学で量子化学と生物物理化学を専攻、薬品メーカーや化学メーカーを目指していたが、たまたま研究用として8ビットのマイコンキット「TK80」用の機械語プログラムを組んだり、固有値計算のFORTRANプログラムを組んだりしたのが、プログラマの道に進むきっかけだった。
「どうせなら」と入社したベーシックソフトウェアの専門会社でカスタム・プログラムの開発に従事、そのとき出合ったSmalltalkを探求したくて1984年、UNIXを得意とするメーカー系ソフト会社に出向した。

「最初の会社では受託開発チームの一員でした。発注者が言うままにプログラムを作っていました。それはそれで面白かったし、チームリーダーにもなりましたが、どうも自分がやりたいこととしっくりしない。そんなときSmalltalkがひとつの答えのように思えたんです」
 80年代後半、UNIXの標準化をめぐってAT&T系のシステムVとBSD版の陣営争いが激化した。移籍したメーカー系ソフト会社も親会社の“縛り”があった。
「OSは私にとって単なるバスにすぎないんです。それがたまたまUNIXだった。だからUNIXの標準化争いに巻き込まれたくなかった。それで、Smalltalkの本家に行って、もっと自由にプログラムを作りたくなった」

 本家というのはゼロックス社だ。ゼロックス社パロアルト研究所の研究員だったアラン・ケイがDYNABOOK(“未来のコンピュータ”のコンセプト)を実現するためのプログラミング言語として開発したのがSmalltalk。「Smalltalk−80」の名で商品化されたのは1983年である。
 とりあえず日本の合弁会社である富士ゼロックス情報システムに入社、オブジェクト指向によるソフトウェアの分散開発手法研究プロジェクト「Bizzard−90」を立ち上げた。1990年のことだった。
「日本の多くの企業は、ピラミッド型の階層構造でできています。最近はやや崩れつつありますが、基本的には終身雇用の年功序列。ですがソフトウェアを協調型で分散開発するには、旧来の階層構造は適していない。一定の方向にチーム全体のベクトルを保ちつつ、ソフト技術者が個々の個性を発揮するには、各自の裁量で就業する環境を作らなければならない。ですからBizzard−90プロジェクトでは、まず自分たちが仕事をするオフィスのレイアウトから始めたわけです」
フリーソフトウェア・ファウンデーションとの出合い
 Bizzard−90プロジェクトはマルチクライアント型(複数の企業が費用を負担、かつ研究に参加し、成果を共有する方式)で進められ、協調分散型のソフトウェア開発手法に関する組織のあり方、プロジェクト管理の進め方などについて、多くの成果を得た。それだけでなく、このプロジェクトによって青木の名はソフトウェア工学の分野で高まっていった。

 プロジェクトが終了した1991年、青木はアメリカでソフトウェア工学をもっと研究したいと強く思うようになっていた。それを知って、「うちに来ないか」と声をかけてきたのがソフトウェア・リサーチ・アソシエイツ(SRA:現SRAホールディングス)の専務・岸田孝一だった。SRAは米コロラド州ボルダーにソフトウェア工学の研究所を開設していたのだ。青木はUNIXユーザ会やソフトウェア技術者協会の活動を通じて岸田と親交があった。

 しかし、青木が魅力を感じたのはそれだけではなかった。
「会社を移ると、それまでに自分が作ったプログラムが使えなくなる。社員が作ったものは、設計図でもプログラムでも、みんな会社のもの、というわけでした。私が特許や著作権を持っていても、移籍先で自由に使えない。これって、ちょっとおかしいんじゃないか、と考えていました」
 そのころSRAはリチャード・ストールマンが創設したフリーソフトウェア・ファウンデーション(FSF)を支援していた。ストールマンはマサチューセッツ工科大学の人工知能研究所でUNIXに親しみ、自作のプログラム・エディタ「GNU Emacs」のソースコードを公開した。自分が作ったプログラムなのに、組織を離れたら許可なく使えないのはおかしい、という発想だった。
 同じことを考えて、実践している人がいる。それをSRAは支援している。移籍するのに躊躇はなかった。1993年、青木はSRAボルダー研究所に赴任、ここでOSSのかなめともいうべきライセンス方式「GPL」を知った。併せて2次元ウィンドウの限界を超えるソフト技術の必要性を認識し、3次元グラフィックライブラリ「じゅん」をGPLで公開する原点となった。
ソフトウェアを可視化する
「じゅん」を開発した経緯を、青木はWebサイト「フリーソフトウェア『じゅん』」(http://www.srainc.com/Jun/GSletterJunPublic/)で詳述している。要約すると、動機は「タンパク質のアロステリック構造を見極め、その構造が形成される進化の過程、すなわち情報交換の歴史を考察できる環境」を作ることだった、という。生物化学の研究者という立ち位置を、青木はいまだに失っていない。
 その発想を持ったのは1989年だったが、当時はコンピュータ(ワークステーション)の性能に限度があり、高度なレンダリングライブラリを扱うことができなかった。「時期尚早で、失敗といえば失敗だった」と青木は言う。1995年、OpenGLがWindows95/NTに実装されたことが、「じゅん」の開発再開につながった。

 ボルダー研究所から日本に帰国して以後、SRAのソフトウェア工学研究員の協力を得てVisualWorksとOpenGLの結合に着手、次いでOpenGLを介して高速レンダリングや曲面計算などが可能になった。テクスチャマッピング、3次元アニメーション、立体の回転、輪郭線の追跡といった機能が次々に追加され、GPLで公開したのは1997年だった。

 90年代は、バブル崩壊後の緊縮傾向やインターネットの本格的商用化などによって、システム開発が自由な雰囲気を失っていった時代であると見ることもできる。しかし、青木にとってはOSSという理念を現実にしようと試みた時代であり、「同士」たちのコミュニティがインターネットというツールを得て活発化した時代であった。

「ソフトウェアの工学的アプローチには、要求仕様をいかに明確にするか、形式的な手法やオブジェクト指向的な手法が試みられている。しかし私は別のアプローチを取ろうと思っている」
 と青木は言う。
 形式的な手法というのはVDM(Vienna Development Method)に代表されるフォーマル・メソッド論、オブジェクト指向的手法とはUML(Unified Modeling Language)を指す。そのいずれでもない独自のアプローチとは、「モジュールを3次元の形状で可視化すること」だ。
「プログラムを3次元形状で可視化することで、ロジックの欠陥や発展経過が的確に把握できるようになる」と言うのだ。

「コンピュータ・プログラムが工業的に生産されることを、私は否定しない。だがそれはコンピュータ・プログラムであって、ソフトウェアではない。ソフトウェアとは、人間が形成する社会、組織、思想と同一の座標軸になければならない。それにはソフトウェアを読むことが欠かせない。コードリーディング法を確立する。それも私の仕事かもしれない」
次回予告 次回の掲載は12月13日、「インターネット社会の未来:2001〜」です。
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根村かやの(総研スタッフ)からのメッセージ 根村かやの(総研スタッフ)からのメッセージ
「バブル経済」に彩られた80年代は、“誰もが好景気の恩恵を受け、たいして働きもせず踊って浮かれていられた時代”として描かれるのが普通です。一方、その後に訪れた90年代の「ITバブル」は、そんなちゃらちゃらしたものではなかったように思います。少なくとも、「膨らむお金」ではなく「広がる仕事」を手にしたITエンジニアにとって、“仕事がどんどん面白くなっていった時代”だったのではないでしょうか。

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