大きな「挫折」を乗り越えられる人は、何が違うのか?~スポーツシッター・落合陽のキャリアの築き方~

思い描いた夢が叶わなかったという挫折。だれでも、一度は味わったことがあるのではないでしょうか?それでも、やりたいことへの情熱を傾け、あきらめずに続けることで、当初とはまた違った道筋で自分の夢をかなえた人もいます。今回は、逆境にめげず、続けてきた野球からヒントを得て起業、「スポーツシッター®」という新しい取組みへの挑戦と自身の夢とキャリアを進化させ続けている落合陽さんにお話をうかがいました。

人物紹介

落合 陽(おちあい よう)

株式会社スポーツシッター・ジャパン代表取締役

幼少期より野球や水泳、体操などさまざまなスポーツ教室に通い、親子3代甲子園出場を目指す。高校では甲子園出場は叶わなかったものの、大学時代に新たな夢を求めて単身渡米。プロ野球独立リーグ4球団に投手として在籍する。自身のケガをきっかけに、スポーツの楽しさや、ケガの予防法を伝えるため指導者としてキャリアを積む。現在は、日米のスポーツ文化とホームステイの経験を活かし、株式会社スポーツシッター・ジャパン代表取締役に就任。専門家として、テレビ番組の制作をサポートするなど、幅広く活躍中。

親子3代で甲子園出場の夢を追いかけて

幼少期の落合さん。水泳、サッカーなど多種多様なスポーツを経験させるのが落合家流。野球だけでは備わらない運動能力をそこで補っていた。

―親子3代、生粋の“野球一家”にお生まれなのですね。やはり物心ついたときから、バットを握っていたのでしょうか。

父も祖父も甲子園に出場した経験があり、野球を始めることは必然でした。ただ、小学生のときは、運動能力向上やケガ防止のために、野球以外にも水泳やサッカー、フィギュアスケートなど、幅広いスポーツに挑戦していましたね。

当時から日本の家庭は、何かひとつのスポーツに絞り、それを子どもに継続させる傾向が強いかと思います。ただ、わが家は父の転勤で、2歳から4歳までアメリカにいたことがあり、「大人になるまで一つの種目に絞らない」という、ワールドワイドな考え方をベースにしていたんです。

中学校に入ると、強いチームに入りたくて、自ら当時日本一とうたわれた野球チームに入団。学校を早退して、海老名から都内まで電車で練習に向かう生活していました。もちろん土日も都内のチームで練習し、当時は「日本初、親子3代で甲子園に出場した家族になるぞ」と、意気込んで練習していましたね。

―朝から晩まで野球漬けの生活。 “甲子園出場”に対する、落合さんの情熱が伝わってきます。

その所属の野球チームには、甲子園強豪校からのスカウトが毎年きていました。中学3年間は、厳しい練習に耐え抜き、私も希望の高校に推薦してもらえたので、甲子園出場常連高校への道が開かれるとばかり思っていました。

でも、事務処理上の手違いにより直前になって、その高校に入学ができないという事態が起こったのです。同じ野球チームの仲間が、スカウトや特待生で希望の高校に入学していくなか、自分は野球では無名の地元の高校に、入学が決まりました。

その後、高校でも野球はやり続けましたが、“親子3代甲子園出場”という夢は破れ、野球への情熱は行き場を失っていました。坊主頭なのに髪を金髪に染めたり(笑)、どんどん投げやりになっていきましたね。「もう野球を選ぶことができない人生」になってしまったと絶望の日々でした。

―すべてを野球に懸けてきただけに、目標を失う辛さや選択肢のない絶望感は、高校生に厳しいものだったのではないでしょうか。そこからどのように、次の目標を見つけられたのでしょうか?

高校3年生になって、周りが受験勉強を始めたんですね。今まで練習ばかりだったので、勉強できる人たちがすごく格好よく見えたんです。僕もずっと投げやりになっているわけにもいかず、みんなにすごいなと思われることをやってみたいなと思い立ち、大学受験を目標におきました。

「やっぱり野球から離れたくない」活躍の場を求めてアメリカへ

―野球一筋の生活だったのに、急に受験勉強することは、つらくありませんでしたか。

それが、意外にも辛くなかったんです。野球一筋で生きてきたので、これまで勉強を全くやってこなかったこともあり、勉強すること自体は面白く、新鮮な気持ちでした。二浪しましたが、青山学院大学の法学部へ進学しました。

ところが、必死で受験勉強して入った大学なのに、周囲にはエスカレーター式に入学した学生が多く、ギャップを感じましたね。彼らは受験という大きなハードルを越えず、軽い身のこなしで学生生活を謳歌していたんです。初めは一緒に遊んでみたのですが、だんだん違和感が大きくなりました。

ある意味、ここでも挫折したのです。長く野球に身を置いていた自分とは全く生き方が違うんだと。そう考えたら、「今まで頑張ってきた野球からなぜ離れてしまったんだろう。やっぱりこのままでいるのはもったいない」という思いがフツフツと湧いてきました。

―なるほど。大学生活での挫折経験が、一度は離れてしまった野球への情熱を呼び起こすきっかけになったのですね。

そうですね。それが、大学2年生のときです。とはいえ、二浪して大学生になってしまった当時、日本でのプロ野球への道は、だいぶ難しいとわかっていました。

なので、裾野が広いアメリカで挑戦してみようと思ったんです。たまたま「マイナーリーグの入団テストがテキサス州で開かれる」という情報をもらい、たったそれだけを頼りに単身で渡米しました。4年間も体を動かしていなかったので、急遽2週間で体づくりをして…準備という準備もできていませんでしたが、「また野球をやりたい」と思う気持ちを、それくらい抑えきれなくなっていたんです(笑)

―すごいスピードですね(笑) 結果はどうだったんでしょう?

本当にタイミングよく優秀なスカウトマンの目にとまり、4年間で15州をまわりプレイするという、野球生活をスタートさせることができました。今でもスカウトマンの彼との奇跡的な出会いがなければ、私のアメリカ生活はなかったと思います。

―まさに「思い立ったが吉日」と動いた結果が運命につながりましたね。4年間、ずっとアメリカで野球に没頭していたんですか?

いえ、大学前期は休学し、アメリカで野球、後期は日本で大学に通うという生活をしました。秋冬は野球がシーズンオフになり、そもそも活動できなくなるんです。大学は卒業したかったので、中退はせず8年かけて通いました。というのも、物心ついたときから、「野球は引退してからが大事」という父の教えがあり、引退後のセカンドキャリアは何をするのかと、常に考えていたんです。当時は漠然としていましたが、セカンドキャリアのためにも、やはり大学を卒業した方がいいと思っていました。

マイナーリーグでは給料も出ますが、休学も移動もなにかとお金がかかるので、親に借金をしてなんとかやりくりしていましたね。

マイナーリーグで活躍していたころの貴重な写真。再度野球という舞台に立ち、練習に試合にとアメリカ内を飛び回っていた。

突然の大ケガ。リハビリ中にセカンドキャリアを考え起業

―学生とマイナーリーグの選手、二足のわらじをはいた生活を終えるきっかけは何でしたか。

試合中に肩の靭帯が切れるほどの大ケガを負ってしまって…。緊急で帰国し、手術を受けなければならなくなりました。メジャーリーグで1試合でも投げたいという夢も捨てきれず、チームに籍を置きながら、日本で4年間リハビリに取り組みましましたが、結局完治はせず、現役引退を決めました。

―それはつらい経験でしたね…。大変なケガだったと思いますが、リハビリ中は、夢のため、とにかく復帰したいという気持ちだけだったのでしょうか。

実際は、そのまま現役引退という厳しい現実がありましたが、4年間取り組んだリハビリは、達成感がありました。

ケガをするまで、忙しく過ごしていましたが、長いリハビリ生活は、「自分の現役生活を支えているものは何だったのか」など、自身を見つめ返す時間にもなりました。当時、父が監督していた野球チームの子どもたちと交流があり、応援メールや手紙が届いたこともとても嬉しくて。ふと、「子どもたちに恩返しができるとこはないかな」と思ったんです。

そのとき、アメリカ滞在中のホームステイ先で、ベビーシッターが活躍する光景を目にしていたことを思い出し、「自分がやってきた“野球”と“ベビーシッター”という文化を、うまくミックスできないかな」と考えるようになっていました。

―あきらめきれずに続けた“野球”とアメリカ滞在中に目にした“ベビーシッター”という仕事。自分がやり続けたいことと、仕事がひとつに重なり始めたのですね。

そうですね。ただ、実際に起業に踏み切るまでのきっかけは、リハビリを終えてからでした。

当時知り合いに頼まれて、心臓病の手術をした男の子をシッターとして預かる機会があったんです。その家庭は、前年に父親をガンで亡くし、母親も子どもを養うために仕事をしていました。男の子は同年代の子より、ひと回り体が小さかったため、スポーツスクールに入れても全くついていけなかったそうです。

その子の母親が「子どもを預かってくれて、その間にスポーツを教えてくれる人がいたらいいなあ」というひと言で、「ああ、これだ!」とひらめきました。これまで別々のものだと思っていたことがひとつになり「スポーツシッター®」という言葉が浮かんだんです。そこから起業してみようと奮起しましたね。

「好きなこと」をやり続けた結果、社会問題に対するソリューションに


度重なる苦難を乗り越え、スポーツシッター®という新たなフィールドへ。目標は変わっても、一つひとつの物事に真摯に取り組む姿勢は変わらない。

―「スポーツシッター®」という発想には、アメリカでの経験が活かされていると思いますが、日本に浸透するイメージはありましたか?

日本は、週末になれば学校で野球やサッカーができ、街のあちこちにスポーツクラブもたくさんあります。一方で、最近は大人が一緒じゃないと外で遊べないという事情や、保育所が少なく、預け先が足りないなどといった社会問題も抱えていると思っていました。そういう点で「スポーツシッター®」の活躍の場は増えていくと考えていましたね。

ただ、実際に開業してみると、想像していた以上にさまざまな依頼が来たんです。

定番のサッカー、かけっこ、縄跳び以外にも自転車の乗り方や、木登りを教えてほしいなど、こんなにもたくさんのニーズがあるのだと気がついたのは、事業をスタートさせてからでしたね。

東京都中小企業振興公社実施の「世界発信コンペティション2017革新的サービス部門 特別賞」を受賞。保育×体育を融合させ、スポーツシッター®という仕事を確立。開業当時は赤字だったが、状況が一変。問い合わせも一気に増え、今では年間1200名ほどのお子さんを預かっているとのこと。

―物心つく前から野球一筋。その中でさまざまな困難乗り越え、一時は野球から離れたものの、最後には「自分がやりたいこと」を貫いたことが、今の仕事につながっているのですね。その原動力と落合さんが今後チャレンジしてみたいことについてお聞かせください。

「親子3代甲子園出場」がかなわないとわかったときから、大学入学まで野球から離れていましたが、経験や価値観の違いに気づいたこと、そこから「やっぱりもう一度野球がしたい」と思ったこと。そこで野球という「好きなもの」への情熱が簡単に捨てられないものだったのだと気が付きました。もちろん、そのあとも挫折を経験しましたが、やっぱり野球への情熱が削がれることはありませんでした。「野球が好き、スポーツが好き」と一つの気持ちを貫き、やり遂げようと姿勢を崩さず努力してきたことで、今の仕事にも巡り合えたのだと思います。

今ちょうど36歳ですが、実は40歳まではメジャーリーグで1試合投げることをあきらめたくないと思っています。マイナーリーグから日本に戻ってシッターの会社の社長になったのは自分くらいだと思います。今度は社長がメジャーリーガーになるという、「みんなとは違うプロフィール」を持てたらいいなと思っています。

文:Loco共感編集部 前田加奈

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