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ソフトウェアベンチャーでありながら、手書き入力のタブレットPCを世に送り出したことで話題の「enchantMOON」清水亮氏。天才プログラマと呼ばれた清水氏は、なぜハードウェアに挑んだのか?
(取材・文/上阪徹 総研スタッフ/馬場美由紀 撮影/栗原克己)作成日:13.09.17
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株式会社ユビキタスエンターテインメント
代表取締役社長兼CEO
清水 亮氏
一時間弱で、1000台の予約枠が埋まった。従業員(非正規含む)130人のソフトウェアベンチャーがタブレットPCを作ったという、まさにクレイジーな取り組みに、多くのユーザーが反応したのだ。それが手書きタブレット「enchantMOON」。このプロジェクトを主導したのが、ユビキタスエンターテインメントの清水氏だ。
2005年、経済産業省による未踏ソフトウェア創造事業で、「天才プログラマー/スーパークリエイタ」として認定された人物。大学在学中の90年代後半から、マイクロソフトの次世代ゲーム機向けOS開発に米国で関わったり、ドワンゴで携帯電話事業を起ち上げるなど、その名は知られていた。その破天荒な生き方は、まさに“クレイジーエンジニア”である。
コンピュータとの出合いは3歳くらいです。NHKの番組で機械が丸や三角、四角を認識していたんですよね。しかも、「丸です」とか話し出す。今から思えば音声合成ではなくて、録音をつなげて、それっぽいものにしていただけだと思いますが、これは結構な衝撃で。機械にカタチが認識できるのか、と。 僕の父はエンジニアで、日本で最初に作られたマイコンNECのTK-80を持っていたような人でした。それを買ったのは僕が生まれた年で、そんなこともあって、僕をコンピュータをやる人間にさせたかったようです。地元にできた長岡技術科学大学など、子供の頃から、あちこち連れて行ってもらっていました。 初めて自分のコンピュータを買ってもらったのは、タミヤのマイコン。でも、何ができるものでもなかった。おかげで、どうすれば自分でコンピュータを作れるか、考え始めるわけです。小学校の一年のときでした。頭の中はそれだけ。なので、授業もまったく聞かず、一人学級崩壊の超問題児でした。 それで一年生の終わり頃に、父がNECの9801を買ってくれたんです。当時、40万円以上しましたが、父も使うということで。以来、コンピュータとしか会話していないような状態で(笑)。エンピツの握り方がしっかりしてくる前に、キーボードの使い方を覚えてた。 BASICをひたすら触っていたわけですが、何か尋ねると何でもOKしてくれるんですよ(笑)。これが、うれしくて。本当に会話しているみたいでした。当時、ファミコンが出始めますが、父の意向で買ってもらえなかった。おかげでゲームを自分で作り始めたり。 とにかくやりたいことをやるために勉強しましたね。父はそのための支援を惜しまなかった。当時の僕が特にやりたかったのが、スターウォーズのCGに出てくるワイヤーフレームです。でも、当時のPCでは死ぬほど難しいわけです。それでも簡単な立方体くらいはできるようになったりして。遅い動作をどうすれば速くするか、なんてことも考えたり。これが、3Dに関心を持つきっかけでした。 |
以降、小学校も中学校も完全にコンピュータ漬けです。小学校のときに、家庭科の授業で使うプログラムを先生に頼まれたこともありました。このときは何人かの仲間が集まって。これがチーム開発をした初めての経験ですね。起動するとドラクエのオープンニングテーマが流れる、なんてことをやりたいと仲間が言い出したりして、実際にやってみたり。 中学に入ると、パソコン雑誌を買って、ハイパーテキストに関心を持ったりするわけですが、手元にMacなんてあるわけがない。だから、学校の自由研究で、裁判記録をハイパーテキストで閲覧できるようにしたことがありました。ただ、実はこの頃には父の意向が変わり始めていました。コンピュータの世界は30歳が限界だからその後が食えないし、そっちに行ってはいけないなんて言い出して。だからなのか「コンピュータ技術を使う刑事とか面白いな」なんて思ったりしていました。 高校に入ると、ちょっと目線が上がっていくんです。世の中にはプログラムを書く人はたくさんいる。では、自分の位置はその中でどのあたりなのか、なんてことを考え始めるんです。大きなところで挑戦したい、と思ったんですね。ところが、コンピュータの世界にはインターハイもなければ、コンテストもなかった。そこで思い浮かんだのが、雑誌への投稿だったんです。試しに、3Dプログラミングについて投稿してみたら、これがいきなり10Pの特集になった。自信につながりました。 コンピュータのグローバルでやるなら、やっぱり世界一になりたい、と思っていました。それで、学校の進路指導で「MITに行きたい」と言ったら、先生に大目玉をくらいまして。なぜなら成績はひどいものだったから。でも、目指すことすら許してくれないわけです。これがショックで、家出のようなことをしました。学校を休んで。向かったのは東京。でも、知り合いもいない。それで、出版社に行ってみたら、ここで次の連載が決まってしまいました(笑)。 大学で東京に出てきましたが、結局、出版社に出入りしたり、ゲーム会社に出入りしたりで、学校には行けず。僕は一年生を4回やっているんです。ただ、この間に、専門学校で教えることになり、本も書いたりするようになりました。 |
雑誌に書くようなことをネット上でも書いたら役に立てるのでは、と3Dについて自由に書いていた時期があったんですが、それに目を留めてくれたのが、マイクロソフトの方でした。イベントに顔を出したり、マニュアルやスライドの翻訳のお手伝いをするようになりました。そのうち、もっと大きな仕事があるよと言われて。 当時はマイクロソフトの社員になるには大学を卒業している必要があって、それにはまだ何年もかかる。それで、知り合いの会社からアメリカに派遣されている形にしよう、と言われて紹介されたのがドワンゴだったんです。僕はドワンゴから派遣される形で、アメリカの新しいゲーム機向けのOS作りに携わることになりました。ゲームとOSの両方がわかる人間がいないと言われ、いきなりシニアエンジニア待遇でした。実際、3Dのプログラムを書ける人はまだ少なかった。 次はAPIの機能策定を、ということになって、僕は思ったんです。これはむしろ社員になったら、こんなことはできない、と。それで、大学を辞めることにしたんですね。大学卒業資格なんて、関係ないじゃないかと。ただ、この仕事はつらかった。何がつらいのかというと、人に言えないことだらけなんです。ちょうど専門学校の教え子を何人も入れていたので、彼らに仕事を任せて、僕は離れることにしたんです。 ただ、することがなくなると、何か作りたくなるんですね。僕をドワンゴに引っ張ってくれた人も、それがよくわかっていたのかもしれない。目の前に差し出されたのが、常時ネットにつなげられるという新しい携帯電話の機能でした。これが、iモードだったんです。 |
300万ポリゴンの世界から、小さなモノクロ液晶の世界に。でも、実際には解像度が上がることでゲームはつまらなくなっていたんです。一方、当時すでにあった携帯ゲームをやっていると本当につまらない。このとき、ゲームに対する考えが僕の中で完全に変わりました。面白いゲームは環境にあるわけではない、と。 それでとりあえず自分が楽しめる野球ゲームを作ったら、すぐに8000ユーザーが獲得できた。まだiモードのユーザーが20万人くらいの時代です。これはすごいと思いましたよね。一方で、ある日、経理に呼ばれて叱られたんです。携帯電話代にいくら使っているのか、と。 気づきました。面白いゲームを作ってユーザーが集まると、携帯キャリアが儲かるんだ、と。それで、NTTドコモに営業に行ったんです。今から振り返れば、場違いでしたよね。22歳の若造が売り込みに来るわけです。 最初に自動車電話の部門に行くと、そういう話は榎という人間が扱っているから、ということになり。当時、役員だった榎(啓一)さんに話をすると、なるほどそういう話は夏野という人間に会うといい、ということになり。夏野(剛)さんに会いに行くと、ものすごいテンションでお話をされて(笑)。 後にドワンゴの利益の多くを稼ぎ出す事業になるんですが、そのときは四面楚歌状態でした。そんなものが本当にうまくいくのか、と。それまで最先端の3Dゲームを作っていた人間でもあるわけです。ゲーム開発の予算も、当初予定より大きくなりました。でも、1カ月で回収しちゃったんですけどね。ただ、このときも一年半ほどで事業を離れてしまいました。みんなに理解され始めたら、つまんなくなっちゃったんです。これが本当に自分のいる場所なのか、ということも含めて。 |
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ドワンゴの携帯電話事業の先鞭をつけた人物として、清水氏は雑誌の取材を受けたり、テレビ出演をしたり、と時の人になる。だが、そんな立場を彼は、いともあっさりと捨ててしまった。何か新しいことがやりたい、とマイクロソフト本社勤務以来、二度目の渡米となる米国ドワンゴ勤務をする。
だが、最終的に選択したのは、ドワンゴの退職だった。もっと面白いことをやろう、と考え、独立する。ところが、ここから、それまで経験したことのない大きな苦難の道が始まってしまう。脱出するヒントを与えてくれたのは、「自分は何をすべきなのか」を改めて問い正された衝撃の出会いだった。
独立したときに決めたのは、僕自身はプログラムを書かない、ということでした。それをやったら、会社は大きくなっていかないから。ただ、もともと独立したかったわけでもないし、何をやるかが決まっていたわけではありませんでした。 それで、いろんな紹介を受けてやってみるんですが、どうにもうまくいかない。初めて、お金に困る事態になるんです。結婚もしていましたし、子供もいた。これはピンチでしたね。マンガ本を駅で買うことすらためらいましたから。おかげで、よく立ち読みしていました。 振り返ってみると、要はうまくいっていない人たちとばかり付き合っていたんです。そうすると、仕事をしたのに会社が倒産してしまったり、報酬が払えないと言われてしまったり、担当者がコロコロ変わってしまうようなことになる。わかったのは、仕事のできない人と仕事をしてしまうと仕事にならない、ということでした。 当時、27歳。それまでのことを考えれば、落ちぶれた、と思った人もいたでしょうね。実際、よくメディアに登場していたときは、ほとんどしゃべったことのない人までもが寄ってきたりしていましたが、このときは、さっといなくなりました(笑)。逆に、僕を心配して声をかけてくれる人もいました。その一人が、ドワンゴに中学生の頃、アルバイトしていた安達真くんだったんです。彼がいろんな友達を紹介してくれて。みんな、僕と同世代でした。そこで初めて、同世代の社長に会って、僕は衝撃を受けたんです。 それまでベンチャーの社長は、株式公開してお金持ちになることだけを目指している人だと思っていました。ところが彼らの発想はまるで違っていたんです。上場などまったく話題にならない。朝から晩までプログラムを書くことが幸せだという。彼らの中でプログラムを書く仕事は、つまり「何かの役に立つから」。だから、こう言う。「結局俺たちの人生って、人類の未来にどれだけ貢献できるかってことなんだ」と。 |
それで、彼らが聞いてくるわけです。「ところで、清水さんは今、人類の未来にどんな貢献をしようとしているんですか」と。衝撃的な言葉でした。当時の僕の頭の中は、食うことに精一杯だった。やっている仕事に、胸を張れなかった。反省させられました。でも、お金が手元にない。すると、彼らが言ったんです。未踏の「天才プログラマー/スーパークリエータ」認定してもらえばいいじゃないか、と。 幸いにも僕自身、「こんなことができたら」ということは、いつも考えてきた人間でした。未踏の材料はいっぱいあった。それを二カ月くらいで一気にまとめて、提出したんです。「これがわかんないようじゃ、審査もたいしたことないな」くらいに思うことにして(笑)。 実際、認定してもらえて、僕の人件費が確保できました。事業化していい、ということでしたから、採択されたデータベースエンジン「ZEKE(ジーク)」を応用した携帯向けコンテンツ管理システム事業などを展開していきました。 独立してひとつ良かったことは、事業とは何か、ということがわかったことです。未踏認定の後、たくさんの経営者に話を聞きに行った時期があるんですが、いいアドバイスをもらったんです。例えば、2000万円を投資したら、3000万円が確実に儲かる。そんな仕事をしてはいけない、と。 2000万円投資したら、2億円儲かるかもしれないけれど、3000万円は確実に儲かる。あるいは、2000万円投資して3000万円確実に儲かって、これが2000億円の投資なら3000億円儲かる。こういうものが仕事だ、と。やったら対価がもらえる、なんてのは、アルバイトと同じだ、と言われたんです。 平たくいえば、利益逓増型のビジネス。人数が少数のままで売り上げが上がっていく。営業しなくても勝手に仕事が来る。そういう事業をやらないといけない、ということ。例えば、ホスティング事業を始めるにも、クライアントが自分たちにお願いする理由がないといけない。そこで、自分たちがよく理解している、携帯コンテンツのマネジメントシステムに向かうことにしたんです。 |
結局、誰かの役に立つものでなければいけない、ということです。その道具を作っているのが、自分たちの仕事なんですよね。独自ハードウェアの「enchantMOON」も、実はタブレットPCを作ろうと思って作ったわけではないんです。誰かの役に立つには、ハードウェアがあったほうがいい、ということなんですよ。 携帯については、コンテンツ管理システムを提供していますから、OSについて研究を早くからやっていました。携帯向けZEKEは2006年くらいから考えていて、独自のサービスを提供するためのフレームワークをmicroZEKEという形で提供していたんです。 ところがiPhoneがあって、やがてアンドロイドが出てきて、次の段階が必要になりました。2つを分けたままでは効率が悪い。そこで、共通化ができて、かつプログラムを書くことを簡単にするシステムを作りました。それが、「enchant.js」でした。 これは、マイクロソフトでたたき込まれたことでもあったんですが、BtoBのビジネスでも、ソフトウェアではそのままBtoBをやったらダメなんです。なぜかというと、実際に自分たちの技術を取り入れてくれるのは、開発者だから。 窓口となっている人たちやトップをいくら説得しても、技術を使ってくれるのは、開発者なんです。逆にいえば、開発者が味方になれば、トップがなんと言おうと採用される。その意味で、BtoBではなく、BtoDであるべきなんです。その開発者「D」を意識したとき、今のタブレットやスマホは本当に理想的な環境にあるのか、ということを思ったわけです。あまりに制約が多すぎる。 だから、もっと「D」の力が発揮できるエコシステムが作りたかった。そうすることが、「B」にも「C」にもプラスになる。役に立つ。そのためには、既存とは違うハードウェアが必要だったんです。ソフトだけじゃダメなんです。UIだって20年以上変わっていない現実がある。何か新しいムーブメントが作りたかったんです。 |
たしかに相当、無茶ですね。だから社内でも、ギリギリまで誰にも言いませんでした。そしてやってみたら、何もかもが大変でした。素人だけが集まって、作って売っちゃったんですから、当然だと思います。そのかわり、もし一人でもハードの専門家がいたら、「絶対にやめたほうがいい」といの一番に言い出すことも実現させてしまった。持ち手のハンドルはそのひとつです。実際、僕自身も「これはやめたほうがいい」と言いますけどね、今誰かに問われたら(笑)。 驚いたのは、これほど話題にしてもらった、ということです。それだけ期待してもらった、ということかもしれません。しかし、本当のレボリューションはこれから起きていくんです。開発者といかにコミュニケーションを深めて、面白いものにしていくか。それが、ほかのハードとの違いなんですから。 なんでこんなに大変なことをしたのか。結局、今自分がやらないと、誰もやってくれない、と思ったからでしょうね。馬鹿げたことだというのは、わかっているんです。でも、それを誰かにやって欲しかった。そのリスクを取る立場にいる人は多くないでしょう。それこそ今回は、過去10年会社で貯めてきたお金を全部使っていますから。 このプロジェクトを宇宙旅行に例えるとすれば、周回軌道に乗っていて、そこから月に向かうロケットを打ち放ちたかったんです。それこそ、安定した生活をする選択はいくらでもあったんです。でも、僕には欲がありました。人間の欲って深いんです。僕の場合は、死んだ後のことまで考えてしまった。 端的に言えば、こういうことをした人がいたんだ、と思ってもらいたかったということ。そのためには、ソフトだけでは難しいと思ったんです。MS-DOSの開発者も、Windowsの開発者も、誰も名前を覚えていないでしょう。やっぱり形がないものは残らないんですよ。もっといえば、買った人は少なくていいんです。知っている人が多い、ということが必要。そういうモノを作ってみたかったんです。 |
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清水 亮氏 株式会社ユビキタスエンターテインメント 代表取締役社長兼CEO
1976年、新潟県生まれ。電気通信大学在学中に米マイクロソフトの次世代ゲーム機向けのOSの開発に関わり、1998年にドワンゴ入社。1999年、携帯電話事業を起ち上げ、2002年に退社。2003年より現職。2005年、IPA(情報処理推進機構)より「天才プログラマー/スーパークリエイタ」として認定。ベストセラーとなった携帯向けコンテンツマネジメントシステム「ZEKE CMS」や大手通信キャリアに採用されたミドルウェアの「microzZEKE」、HTML5ベースの「enchant.js」などを世に送り出した。
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