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我ら“クレイジー☆エンジニア”主義 vol.26 三次元テレビを目指す電子ホログラフィ 研究の伊藤智義は、あの「GRAPE」開発者
三次元テレビの実現に向けた電子ホログラフィ技術で知られる計算機学者の伊藤智義氏。実は89年にスーパーコンピュータ並みの性能を持つ天文学の専用計算機を開発、世界をアッと言わせた人物だ。そして漫画「栄光なき天才たち」の原作者でもある。
(取材・文/上阪徹 総研スタッフ/宮みゆき 撮影/栗原克己)作成日:07.11.27
クレイジー☆エンジニア
千葉大学教授
伊藤智義氏
三次元テレビの実現を目指す電子ホログラフィ技術で賞を受賞するなど、ここ数年よく見かけるこの研究者の経歴に、驚きの声を上げる人は少なくない。「あの伊藤さん、ですか?」と。天文学や分子動力学の世界で用いられ、高速コンピュータ分野で科学計算のオリンピックとされるゴードン・ベル賞を過去7度も受賞している「GRAPE」プロジェクトの初期のメンバーであり、世界を驚かせた伝説の1号機、2号機のハードウェア開発者がこの伊藤氏なのだ。その開発は、「ネイチャー」で取りあげられるなど、世界にセンセーションを巻き起こした。驚愕は、スーパーコンピュータの1カ月のリースが約1億円だったその時代、同レベルの演算速度を持つコンピュータを、わずか20万円ほどで自作してしまったこと。そしてこの伊藤氏、80年代の東京大学在学中、ヤングジャンプに連載され大ヒットした「栄光なき天才たち」の原作者でもあるのである。
東大に年1人入るか入らないかの高校から
 小中学校は、本当に普通の子どもでした。成績も普通。理系の科目が好きで、天文学に興味を持って、科学者に憧れて。転機になったのは、高校1年生で結核を患ったことです。半年間の療養が必要で、学校を休まなければならなくなった。先生からは、休学しなくてもギリギリ進級は可能だと言われたんですが、どういうわけだがもう一度1年生をやるという選択を自分でしまして。それで半年間、これもどういうわけだが勉強しようと思って、数学など高校1年の範囲を全部独学してしまったんです。結果として、翌年はびっくりするくらい成績が良くなった。それで自信が付くようになりました。もしかしたら、東大でも入れるんじゃないか、と。

 出身は武蔵高校ですが、東大に毎年100人以上も入るのは私立の武蔵高校です。私が出たのは、東大に年1人入るか入らないかの、公立の武蔵高校。そもそも両親は大学を出ていませんし、塾に通ったこともない。驚いたのは、小学校や中学校の昔の友人たちでした。入学してからキャンパスで顔を合わせた小学校時代の友人は、当時から進学塾にバリバリに通っていました。「なんでお前がここにいるの?」なんて、顔をされたことを覚えていますね(笑)。

 漫画の原作を書くようになったきっかけも、この休学にありました。一人だけ年上になって、年下のクラスメイトにちょっと違ったところを見せないと、という気負いがどこかにあったんです。そんなとき、学習雑誌に投稿した文章が読者ページに掲載されて。さらに国語の時間に書いた作文が先生に褒められたりして、自分に文才があると思いこんでしまったんです。それこそ高校生作家にでもなれば、クラスメイトも驚くだろう、と。

 この年、たまたまヤングジャンプが創刊されて、漫画大賞の募集広告を目にしまして。原作部門もありましたから、これに応募してみようと。でも、もちろん簡単に入賞できるはずもない。結局、17歳から6年間にわたって10回ほど応募を続けることになります。
年収1400万円の仕事をいとも簡単に捨てた
 1000通の応募があって、入選は1人か2人。今から考えれば、超難関の賞でしたが、当時は絶対に自分が取れるものだと思いこんでいました。楽観主義者というわけではありませんが、続けるのはそれほど苦でもなくて。落選すると2、3日は落ち込むんですが、次の応募締め切りが近づくとまたやる気が出てきて。ダメなら次、という感じで(笑)。原稿用紙40枚、50枚というのは、高校生には大変でしたが、時期が来ると反応しちゃうんです(笑)。

 何かの本で、ワールドカップの得点王になる選手は、得点王になれないことなんて考えないんじゃないか、というのを読んだことがあります。そういう感覚があったのかもしれない。私に強みがあるとすれば、昔からダメなときでもダメだと思わないことかもしれません(笑)。あきらめるという感覚がないんです。そして大学2年で初めて佳作を受賞します。これが、後の「栄光なき天才たち」につながっていくんです。

 その後、連載は好評をいただいて単行本になりました。大学院1年生のとき、単行本が売れたことで、私の年収は印税収入などで1400万円もありました。そのまま続けていれば、かなり収入を得られたかもしれません。でも、それで食っていこうと思ったことはありませんでした。むしろ大学院の1年目で、もう漫画のシナリオライターには一旦終止符を打っていました。一番大きな理由は、やはり科学者になりたいのだ、という思い。だから、大学院の研究に専念したかったんです。

 中学や高校の頃、世の中を変えているのは誰なのか、とよく考えていました。歴史の本には政治家の名前が出ています。でも、実際に変えているのは、科学者なんです。産業革命しかり、原子力やロケットしかり。指示をした政治家が表に出ているけれど、実際に作り、人類を変えるような発見をしたのは誰なのか。これが、私の科学者への動機でした。経済的な成功がほしいわけではなかったんです。してみたかったのは、歴史を変えるようなこと。誰かを驚かせ、誰かに褒められること。名誉を得て、それこそ教科書に太字で名前が書かれる。そういうことこそ、いやそういうことだけが、自分の中ではカッコイイことでした。その美学を貫きたかったんです。

 実際のところは、大学院を出て、初めて大学の助手になったときの年収は310万円。世間は厳しいと思いましたね(笑)。
大切なことは「形式よりも実を取る」こと
 実は私は大学を出るとき、普通の人よりも4年遅れています。高校で休学、大学入学時に浪人、それから大学2年のときと、4年のときに留年したからです。長い人生を歩むのに、多少、余計な時間がかかってもいい。高校の休学で、そのことに気づくことができたのは、人生でとても大きかったと思っています。

 大学2年のときの留年は、希望する学科に進めなかったからでした。留年せずに、そのまま別の学科に進めば4年で卒業ができた。でも、私は天文学が学びたかった。好きなことをやらないと、進級する意味がないと思ったんです。「形式よりも実を取る」ということ。考えてみれば、いつもそういう選択をしていました。ちなみに大学4年の留年は、高校の教員になることを一時は真剣に考えたから。この夢は、後に非常勤講師として実現します。そして4年で留年したことが、後のGRAPE開発にも大いに関係してくるんです。

 ただ、もちろんやりたいことがすべてやりたいようにできてきたわけではありません。留年までして進んだのは基礎科学科第一というところで、天文学科ではありません。天文学科の定員枠は数名ほどしかなく、私の成績ではとても入れませんでした。留年は、天文の基礎となる物理を学べる学科に進学するためで、憧れの天文学はさらにそのずっと先にありました。残された唯一の細い道が、大学院の受験で、ようやく理論天文学の研究室に合格できました。そして、ここで思いもよらずコンピュータと出会うことになります。

 当時の私はコンピュータについて、ほとんど知りませんでした。そんな自分がどうしてGRAPEプロジェクトに出会うことができ、また世界をアッと驚かせるような開発に携われたのか。そこには本当にたくさんの偶然があったと思っています。実は私は大学院に正式に入学する前からすでにプロジェクトに関わっていましたが、当時の研究室には人が足りなかったんです。しかも、このプロジェクトが後にビッグプロジェクトにつながっていくなどということは、誰も認識していませんでした。だから、コンピュータをまったく知らない私に、いきなり「やってみないか」という声がかかった。もし、これが後に世界に知られるような研究になるとわかっていたら、大学院入学前の学生に開発のチャンスがくるはずがありません。

 そして折しも私自身にも当時、研究できるだけの環境がありました。大学4年で留年した私の最終年度は、ほとんど単位を取り終えていた状態だったからです。所属することになる研究室の杉本大一郎教授の指示で、まさに言われたまま、よくわからないGRAPEの開発を始めることになったんです。

 一方で何か面白いものが待っている予感も持っていました。新しい出会いに、何かが見出せる気がしていました。実際、もし普通に天文学者になっていたら、私がコンピュータ開発に携わることはありませんでした。天文学者はコンピュータを作ろうなんて思わないし、それが面白いテーマだとはとても考えないからです。結果的に、天文学からちょっと別のところに入った学問に関わったからこそ、私はコンピュータの世界に入ることになった。おかげで、計算機科学をベースとした今の研究テーマにも出会うことができたんです。
ヤングジャンプへの投稿
 
17歳から始めた、青年漫画大賞への応募。大学2年のとき、11回目の応募で佳作を受賞。12回目も最終選考に残って、13回目は1068編の応募の中で最高の評価を受けて準入選を果たした。「ところが、賞を取っても何も変わらなくて(笑)。すぐ連載が始まるわけでもなく、作家になれるわけでもない」。ただ、3度も最終選考に残っていたことに編集部が関心を持ち、読み切り用の話を書いてみたら、と声をかけられた。それが「栄光なき天才たち」になる。「題材はノンフィクションにしました。作家としての展望がいっこうに開けてこない自分の怒りを、おこがましい話ですが、主人公の生き様に重ねて」。
栄光なき天才たち
 
「栄光なき天才たち」は好評を得て、1986年、伊藤氏が大学3年の春から、連載としてスタートすることになる。夢を持ち、夢を追い続けた天才ながら、これまであまり陽の当たらなかった人物に焦点を当てた。ノンフィクション漫画に新しい境地を拓いた作品と評価され、宝島社の『別冊宝島257 このマンガがすごい!』で「感動の涙を流したい時に読むマンガ」で見事ベスト1に輝いている。この後、日本テレビ『知ってるつもり?!』、NHK『プロジェクトX-挑戦者たち』の放映が始まり、そのジャンルの種火になったと評されることもあった。全17巻刊行されているが、定期的な漫画製作を大学院1年で辞めてしまった伊藤氏の原作は、第1〜4巻、6巻、8巻、14巻の7冊のみ。
著書「スーパーコンピュータを20万円で〜
 
天文学者のためだけの専門計算機「GRAPE」はいかにして生まれたのか。世界をアッと言わせた手作りスーパーコンピュータに、たった4人の素人開発チームが挑む物語を、伊藤氏自らが書き上げたのが、GRAPEの開発経緯を綴った著書『スーパーコンピューターを20万円で創る』。自らを第三者視点から書くノンフィクションの形で展開。臨場感あふれる構成で、驚きのストーリーが走っていく。インパクトの強いタイトルに惹かれ、理系読者はもちろん、そのわかりやすい表現から、文系の読者からも支持が高い。今なお続き、世界から高く評価されているGRAPEプロジェクトだが、伊藤氏が開発を手がけたのは、銀河の成り立ちについて計算を行う低精度型のGRAPE-1、太陽系の計算を行う高精度型のGRAPE-2、そして天文学以外に応用した分子動力学用のGRAPE-2Aの3つだった。伊藤氏の開発魂の一端がうかがえる一冊。
伊藤氏が大学院で進んだ理論天文学の研究室では、宇宙の物理現象をコンピュータによって数値シミュレーションしようとしていた。しかし、当時のコンピュータでは能力が不足、扱える星の数に限りがあった。そこで発想されたのが、世界最高速の宇宙シミュレーションを実現する専用コンピュータの開発だった。重力の計算が主体となる、天文学のためだけに作られたコンピュータ=専用計算機だ。自らの解きたい問題を解くために必要なものが世の中に存在しないのなら、自分たちで作るしかないのではないか。それこそが開発目的。しかし、コンピュータ専門の研究室ではない。電子回路の製作に必要な実験装置などまったくない研究室で開発は始まる。これをほとんど一人で任されたのが、伊藤氏だった。そして驚くべきことに、わずか1年ほどで、当時のスーパーコンピュータ並みの性能を持ったGRAPE-1は世に出たのだ。そして後に世界に大きく注目されるプロジェクトになるが、携わってわずか4年、伊藤氏は驚くほどあっさりと、このGRAPEプロジェクトから離れている。
 
ノートに書き始めた設計図が1メートル大に
 開発がうまくいった要因として大きかったのは、まずプロジェクトを進めた私たちが素人集団だったことだったと思っています。だからこそ先入観にとらわれることなく、既存の常識に阻まれることなく、自由な発想でこれまでにないコンピュータの開発に取り組むことができた。ちょっとでもコンピュータをかじっていれば、「そんなことは無理に決まってる」「常識ではありえない」と一喝されてしまうようなことも、私たちにはわかりませんでした。まったくのゼロからの手探りのスタートだったんです。

 専用計算機の開発のきっかけは、天文学者のレポートでした。研究室の杉本先生がその天文学者に会いに行ったとき、私も同行していたんです。大学院に入る前の年の秋のことです。そこで初めて見たのが、コンピュータのブロック図。これを作ればいい、と。専門家が見れば、やれ制御回路はどうする、出し入れのタイミングはどうすると考え込んでしまうような図でしたが、当時の私には妙に簡単なものに見えました。図の意味がほとんどわからなかったからです(笑)。このブロック図から詳細な回路図を2年間で作ることで修士論文を書きなさいとアドバイスを受けたときも、こんなものを作るのに2年もかかるのか、と思ってしまったほど(笑)。もちろん、実際には大変なことだらけでしたが。

 私は完全に独学でコンピュータを学びました。そして回路図を書き始めたのは大学院に入った4月から。最初はA4のノートに書き始めましたが、みるみるスペースが足りなくなって。方眼紙を買ってきて足して、鉛筆で書いては消し、足りなくなれば方眼紙を足し…。そんなことをしているうちに、1メートル四方ほどの大きさになってしまいましたが、5月には書き上がっていました。

 杉本先生が、知り合いの専門家に見てもらったらどうだと慶應義塾大学の先生に持っていくと、驚かれましてね。今は手書きなんてしない、コンピュータの設計図はCADで書くんだ、と(笑)。でも中身は、ちゃんと見てくれて、まあ、いいんじゃないかと言ってもらえました。
自分ができることからやっていく
 もともと「形式よりも実」という性格です。手書きの回路図もそうですが、研究を自分のスタイルで貫けることができたのが大きかった。普通は研究室の先輩の研究を引き継いだりするものですが、そういうものもない。前例がないことを、ゼロから自分で計画立ててやる。これが合っていたんですね。コンピュータ雑誌を見ても、心おきなく一番新しい便利なものを使えましたし。

 さらに、意外な経験が生きました。漫画の経験です。商業漫画の世界では締め切りは絶対のもの。GRAPEの開発のデッドラインに設定された期日は、大学院に入った年の10月。学生だからどうせ守れないだろう、くらいに決められた厳しいものでした。ところが、商業漫画で締め切りに揉まれた私は、律儀にそれを守って開発を進めたんです。結果として、驚くほど短期間で開発ができてしまった。デバッグが短期間で済んだことも、とても幸運でした。

 さすがにGRAPE-1が完成したときは嬉しかったですね。深夜、誰もいなくなった研究室で、一人、最終のチェックを行いました。正常動作を示す信号を確認した瞬間、鳥肌が立ちました。開発者の醍醐味ですね。生涯忘れることのない一瞬だったと思います。

 スケジュール通りにGRAPE-1が完成したときは、杉本先生をはじめ、みんなが本当に喜んでくれましてね。まわりの喜びように驚いたことを覚えています。「ネイチャー」に掲載されたり、取材も殺到していました。

 これは自分の天職かもしれないな、と思うようになったのは、引き続き、GRAPE-2の開発をしていたとき。デバッグがなかなかうまくいかず、どうしてもノイズが消えない。当時、大学から5キロくらい離れたところに一人暮らしをして自転車で通っていたんですが、夜中の帰り道でアイディアが浮かぶと引き返したり、さぁ寝ようと思うとアイディアが浮かんで着替えて学校にすぐに行ったり。そんなことをよくしていましたね。もう四六時中、そのことばっかり考えている。本当にいろんなことを試しました。

 このときは、最終的に電圧を下げるという、いわばコンピュータの世界での禁じ手が解決の糸口になりました。専門家からすれば、ありえない選択肢だと言われました。でも、重要なことは結果を出すことです。それで結果が出たんです。仕様を守ることが目的なのではなく、結果を出すことが目的。「形式より実」。このときも、それを貫くことで、開発を成功へと導くことができました。

 正直、まわりからの私への期待は小さかったと思っています。まさに素人だったわけですから。うまくいかなくても仕方がないという空気もあった。でも、自分の中ではあきらめる感覚はまったくありませんでした。どうやったらできるか、だけを考えていました。自分ができることから、自分にわかることからやっていく。今もそうです。だから、「絶対できません」とは学生には言わせたくないですね。思わぬ常識や固定概念が邪魔をするケースはよくありますから。
世界一の研究をするには2つ方法がある
 GRAPEプロジェクトは4年ほどで実質的に離れました。もったいない、という声もありました。あのままプロジェクトにとどまっていれば、世界的なプロジェクトの主要メンバーとして過ごせたかもしれない。きっかけは、他の大学から助手の話をいただけたこと。お金を払って学生として研究するより、お金をもらって研究する方が得かな、と思って。そして何より、3つの計算機を手がけて、最初の興奮がだんだんなくなっていることに気づいたことです。そんなとき、声がかかって、面白そうなテーマに出会えた。それが、ホログラフィであり、三次元テレビだったんです。

 専門の世界を離れ、一人で飛び出すといろんな手間も増えてきます。予算を取ってくれたり、守ってくれたりする人もいきなり失います。でも、焦る必要はないと思っていました。じっくり取り組めばいい。それは、高校の休学以来の私の考え方でした。日本は新参者には冷たい、よそ者の言うことは聞いてくれない、という声もよく聞かれます。であれば、聞いてもらえるようになるまで、コツコツと頑張ればいいんです。実際、余計なことは気にせずにコツコツやっていると、必ず認めてくれる人が出てきます。最近では、賞をいただいたり、講演に呼ばれたりもするようにもなりました。時間がかかっても、あまり気にしない。そもそも急ぐことではなく、結果を出すことが、「実」ですから。

 GRAPEを離れた理由が、実はもうひとつあります。名前が有名になり、チームが大きくなって、優秀な人がたくさん集まるようになったことです。正直、私がいなくてもできると思いました。それが、科学者としての「実」だと私は思いました。ホットなテーマで激しい競争をしている分野もありますが、何もそういうところに自分が行く必要はないと私は思っています。誰もやっていないから、誰もいないからやる。それが私の科学者のイメージなんです。誰かができることなら、誰かにやってもらえばいい。誰もやっていないからこそ、やる意義があると思う。競争相手がいないというのは、寂しいことなのかもしれませんけどね(笑)。

 恩師の杉本先生にかつて聞いた言葉を今もよく覚えています。世界一の研究をするには2つ方法がある。それは、世界一頭をよくするか、世界で誰もやったことがないことをやるかだ、と。私は1から10を作るよりも、0から1を作るほうが好きなんです。ちょっと大げさですけど、それが人類への貢献になると思っているから。たとえ、それが地味なことであっても。小さな一歩でも。先がなかなか見えなくても。もしかすると、評価も得られないかもしれない。でも、それでいいんです。きっといつか、花開くときが来ると、自分の中では思っていますから。
 
ホログラフィは、三次元像をそのまま記録・再生できる唯一知られた技術。ホログラフィによる動画像システムは、究極の立体テレビになるものと考えられている。しかし、情報量が膨大で、実用化は困難な状況にある。その解決を目指し、最速のパソコンに比べて1000倍以上高速な専用計算機システムの開発を実施。小さな像サイズながらも、リアルタイム(30フレーム/秒)の動画像再生に成功している。「GRAPEプロジェクトは、杉本先生のプロジェクトでした。自分のテーマで勝負したいという意識も芽生え始めた頃、出会ったのが、これだったんです。三次元テレビはまだまだ課題もあるし、難易度が高い。これを自分のプロジェクトに、と思いました」。
手書きの回路図
 
専用計算機を作った天文学者に最初に教わったのが、回路図の作成。独学でコンピュータを勉強し、自ら手書きの回路図に取り組んだ。A4ノートに書き始めた図は、枠内に収まりきらずにどんどん拡大。いつしか1mほどの大きさになっていた。CADで設計するのが“常識”のコンピュータ専門家に初めて見てもらったときは、「なんだ、これは?」と驚かれたが、中身には問題なし。むしろ、専門家には思いつかない発想があったという。「形式的にICを使うところも、一番いい方法で自分なりに書きました。難しいんじゃないかとか身構えていたら、できなかったかも。知らなかったからこそ、思い切ったことができたんです」
ホログラムの基板
 
伊藤研究室では、専用計算機HORN(Holographic Reconstruction)によるホログラフィ計算の高速化に挑んできた。「ホログラムの計算式は、天文とよく似ていると思った。同じシステムで動くのではないかという感触を得ました」。2004年には、HORN-5システムを開発。パソコンの1000倍以上の計算速度を実現し、リアルタイムの電子ホログラフィ再生に成功できたのは、このシステムがあるから。HORN-5ボードは、ホログラムの計算式を回路化し、1ボード上に1408回路を実装。一度にホログラム面上の1408画素分の計算ができる高並列計算システムだ。市販パソコンのPCIスロットに差し込んで動作することができ、1台のパソコンに複数枚接続することで、さらに計算の高速化が可能だ。
profile
伊藤智義
千葉大学 大学院 教授
工学研究科 人工システム科学専攻 電気電子系コース

1962年、札幌に生まれ、東京都で育つ。東京大学教養学部基礎科学科第一卒業。同大学院総合文化研究科広域科学専攻博士課程中退。同大学教養学部宇宙物理学教授杉本大一郎研究室で、天文学の重力多体問題専用計算機「GRAPE」のハードウェアの開発を担当。89年からの3年間で3つの「GRAPE」の開発者となる。92年、群馬大学助手。94年、助教授。99年から千葉大学で教鞭を執っている。研究室を「LSIデザインコンテスト」優勝、「Cellスピードチャレンジ」最優秀賞に導くなど、計算機科学を基礎とした幅広い分野で活躍。日本天文学会研究奨励賞、ホログラフィック・ディスプレイ研究会鈴木岡田賞受賞。学生時代に集英社ヤングジャンプ「青年漫画大賞原作部門」準入選。
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宮みゆき(総研スタッフ)からのメッセージ 宮みゆき(総研スタッフ)からのメッセージ
形式よりも実、お金よりも実と語ってくれた伊藤さん。そのポリシーは研究だけではなく、マンガの原作を書く上でも貫かれていました。私自身がマンガ好きということもあり、マンガにおける原作の役割、大変さなどもお話を伺うことができ、個人的にも楽しい取材でした。お忙しい中、取材にお付き合いいただいたのは、およそ7時間近く。クレイジーエンジニア取材でおそらく過去最高記録。本当にありがとうございました!

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