NHK女子アナから伝統工芸の「職人」に。彼女を突き動かしたのは、ある職人の涙だった――根付職人・梶浦明日香の仕事論(1)

NHKの女子アナから、根付職人に“転職”した女性がいる。梶浦明日香、37歳。梶浦さんはなぜ多くの人がうらやむ花形の職業を捨て、地方の伝統工芸の職人の道を選んだのか。その理由や伝統工芸に懸ける想いに迫ります。第1回は夢だったアナウンサーになったにも関わらず退職するまでの経緯について語っていただきました。

プロフィール

梶浦明日香(かじうら・あすか)

1981年岐阜県生まれ。小学生の頃からアナウンサーに憧れ、立教大学在学中からフリーアナウンサーとして民放を中心に活動。大学卒業後、NHKに入局、アナウンサーとなる。2010年、「東海の技」の取材を通じて出会った伊勢根付の名人・中川忠峰氏に弟子入りし、根付職人に。次世代の若手職人の活動の幅を広げるべく、三重の若手職人のグループ「常若」や、東海の若手女性職人のグループ「凛九」を結成。リーダーとして各地で展示会やワークショップを開くなど、新たな担い手の育成にも力を注いでいる。

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小学生の頃、「女子アナ」に憧れて

──現在の活動について教えてください。

伊勢根付(ねつけ)という伝統工芸の職人として、日々根付を彫っています。根付とは、江戸時代に流行した、さまざまな物をモチーフとした小さな彫刻のことです。着物の必需品でもあり、巾着や印籠などの提げ物の紐にこの根付を取り付けて帯に挟み、落ちてしまうのを防ぐ留め具として使われます。ひと昔前に携帯ストラップが大流行しましたが、その起源とも言われている物です。現在では彫刻の繊細さや美しさ、からくり、粋な遊び心などが高く評価され、日本だけでなく海外からも人気の高い伝統工芸なんです。

▲男性向けの根付の使い方

根付の修行を始めて約10年ですが、その前はNHKのアナウンサーをしていました。

──なぜNHKのアナウンサーという多くの人が羨むような職業から業界も職種も全く違う伝統工芸の職人になったのか、その経緯を教えてください。まず、アナウンサーになりたいと思ったきっかけは?

小学校の卒業文集にアナウンサーになりたいと書いたくらい、小さい頃からアナウンサーにすごく憧れていました。大勢の人前で話す機会が多くて、いろんな人から「話すの上手だね」って褒められたことで話すことが好きになり、アナウンサーになりたいと思うようになったのだと思います。でも卒業文集に書くまで、アナウンサーになりたいとは誰にも言えなくて。私は岐阜県の田舎で生まれ育ったのですが、テレビの中のアナウンサーなんて遠い存在すぎて、アナウンサーになりたいなんて言おうものなら「絶対無理だよ、なれるはずないよ」ってみんなから否定されてしまうんです。それが嫌だったので、将来は学校の先生になりたいと書いていました。その方が親や先生の受けがいいですからね。

人に直接言えたのは、高校の最後、進路相談の時。案の定、親にも先生にも反対されて。でもどうしてもアナウンサーになりたかったので、多くの卒業生がアナウンサーになっている立教大学を受験して合格しました。合格してからも高校の先生からは「お前は地元の国公立大学に入って福祉の職に就く方が向いている」とコンコンと説教される日々でした。それでもアナウンサーになりたくてなりたくて。初めて周りの反対を押し切って自分の想いを貫いた瞬間だったと思います。

大学時代に女子アナデビュー

──大学進学後は? やはりアナウンサーになるためのサークルとか専門学校に通ったのですか?

はい。絶対にアナウンサーになると決めていたので、大学のほかに3校ほど専門学校に通っていました。もちろん大学の授業もあるので、すごく忙しかったですね。毎日5分刻みで動かなければ全部こなせないほどだったので、過労で倒れて救急車で運ばれたこともありました(笑)。

──憧れのアナウンサーになるための勉強は楽しかったですか?

あまり楽しくなかった……というか、ついていくのが精一杯で楽しいと感じる余裕すらなかったという感じですね。スクールに通い始めたばかりの頃、アナウンサーやナレーターが多く所属する事務所に声をかけてもらって、19歳からアナウンサーとして仕事を始めました。大学3年生の終わりからは某地方局で学生キャスターとして、平日の昼1時間、夕方2時間半の情報帯番組に出演していました。リポーターとして外ロケにもよく行っていました。

──憧れのアナウンサーに大学に入ってすぐなれたわけですね。仕事は楽しかったですか?

原稿を読むこともレポーターとして伝えることもまだ全然うまくできず、何をやっても怒られるので、毎日現場に行くのが恐くてしょうがなかったです。だから仕事は楽しくはなかったですね。歴戦のプロたちの中に、突然ぽっと入ってきた何も知らない女子大生の私は毎日のように厳しくされて、泣かずに帰らなかった日はなかったですね。もちろん人前では泣きませんが、帰り道にいつも1人で泣いてました。当時は指導だと思って耐えていましたが、今思えばあれは軽いいじめだったんだと思います。

──しょっちゅう怒られて、これといって仕事の楽しみややりがいもなく、いじめにもあったことで、もうアナウンサーになるのはあきらめようかなと思ったことはないんですか?

ないですね。とにかくアナウンサーになることは子供の頃からの夢であり目標だったので、自分から辞めるとは言いたくなかったんです。

──それだけで耐えられるものなんですか? その時の梶浦さんを支えていたものってほかになかったのですか?

わからないです。確かにどうしてなんでしょうね。理屈じゃなくて、もう何が何でもアナウンサーになるんだという気持ちしかなかった。とにかく毎日必死でした。だから事務所から紹介される番組オーディションもたくさん受けました。複数の専門学校にも通っていたので、その学費を稼ぐためにアルバイトもしなきゃいけないんですが、突発的なオーディションや仕事が入っても休めたり、誰かに代わってもらえるような自由度の高いバイトしかしていませんでした。

念願叶ってNHKのアナウンサーに

──すごい根性ですよね。4年生の時はキー局から地方局まで全部受けたのですか? 

地方局の仕事が大学3年生の終わりから1年半続いたため就職活動の時期と完全に重なってしまい、あまりたくさんは受けられなかったんです。受けたところは全部落ちました。本格的に就職活動をしたのは同級生より1年遅れ。しかも、アナウンサーとしてうまくいっておらず私でできるんだろうかと弱気になっていたので、受けたのは地元に近い中部地方の放送局くらい。NHK津放送局から内定をいただけたので、2005年にキャスターとして入局しました。

──念願のアナウンサーになれた時はどのような気持ちでしたか?

それはもうめちゃくちゃうれしかったですよ! 小学生の頃からの夢がついに叶ったわけですから。しかも憧れのNHKですからね。

──入社後はどんな仕事を?

まずは、18時台のニュースを読む仕事からスタートしました。いろんな現場に出掛けていって、中継、リポートの仕事もやりました。単に記者さんが書いた原稿を読むよりも、外に出て、現場で自分が感じたことを伝える方が楽しかったので、リポートの仕事の方が好きでしたね。

──ではアナウンサーの仕事は楽しかったわけですね。

すごく楽しくてやりがいもあって、アナウンサーは私の天職だと思ってました。だって20歳そこそこの私が普通なら絶対会えないようないろんなすごい人に会って話を聞けるわけですから。しかも一所懸命話してくれるんです。その空気感に触れられるなんて、こんな幸せな仕事があるのかとすら思っていました。

▲NHKの女子アナ時代の梶浦さん。確かに楽しそう

──中でも印象的な仕事は?

入社3年目に、東海3県の伝統工芸の職人さんを紹介する「東海の技」というコーナーの立ち上げメンバーとしてリポートを担当することになりました。この仕事がとても楽しくて。さらに後に私の人生を大きく変えた最初のきっかけでもあるんです。

ある職人の涙が、人生を変えた

──そのきっかけとなった出来事について詳しく教えてください。

担当する前までは伝統工芸にもその職人にもそこまで興味があるわけではなかったのですが、毎回いろんな職人さんを取材していく中で、職人さんが作り出す工芸品の素晴らしさ、伝統工芸が代々受け継いできている日本人が大切にしている思い、職人さんの生き方や覚悟のようなものに魅了されて、この仕事にどんどんのめり込んでいきました。

一方で、取材させていただいたほとんどの伝統工芸には後継者がおらず、近い将来、確実に消え去っていく運命にあるということを知りました。「伝統工芸は資源の少ない日本で世界に誇れる未来への大きな財産なのに、なんてもったいない」と強く思い、なんとか後継者が出てこないものか、どうしたらこの伝統工芸を守り、後世まで残していけるのだろうかと、マスメディアに携わる人間として、そして伝統工芸に魅了された一人のファンとして日々考えるようになりました。

そんなある日、ある鈴職人さんを取材した時のことです。その内容が放送された後、彼は「ありがとう。50年以上今の仕事をしてきて、今回初めて、親戚の人や近所の人から『素晴らしい仕事をしていたんだね』と、声をかけてもらったんだ。やっと自分の仕事が日の目を見た。ありがとう、本当にありがとう」と、まだ社会に出て間もない25歳の私の手を握りしめ、涙を流しながら言ってくれたんです。この職人さんの姿に胸が熱くなり、私も思わず一緒に涙を流しました。涙のわけはうれしさだけではありません。「どうしてこんなに仕事一筋で頑張って、素晴らしい工芸品を作っている職人さんが、50年以上も日の目を見ることなく、まだ出会って数回の私に対して涙を流さなければならないんだろう」と、やるせなく、切なく、悔しかったのです。

その理由は「職人の地位が低い」ということだと気づきました。私が取材をした職人さんの中には、母子が自分の家の前を通った時、母親が息子に「ちゃんと勉強しないとあんな風になっちゃうよ」と、自分を指さしながら言っているのを見たという人がいました。また、「俺たちのやっている仕事はそんなに嫌な仕事なのか? 別に東大を出た人が職人に憧れて弟子入りしてもいいだろう?」と訴える職人さんも。特に多くの人がお金を追い求め、お金を稼げる人が偉いという風潮が強かったバブルの頃は、とてもみじめな思いをしたという職人さんが多かった。その社会的な地位の低さが、後継者を生まない大きな理由にもなっていたのです。

その背景には、職人のPR不足があると思いました。世間の人たちが職人や伝統工芸の素晴らしさをなかなか知る機会をもてないということが問題だと。であれば、職人さん自身が「職人って、ものづくりって、こんなに素晴らしく素敵な仕事なんだ」と、発信することが必要なのではないか。その言葉が次世代を担う若者の目に触れたら、伝統工芸の未来は変わるのではないかと思いました。なので、人間国宝に指定されている影響力のある職人さんに、「勇気を出してもっと前に出て、どんどん発信してくださいよ」と話したんです。でも、皆さん、「確かにそれはやらなければならないと思うけど、自分は昔から前に出るのは苦手だから誰かにやってもらって」と言うんですよ。やっぱりほとんどの職人は自分の宣伝やPRをよしとせず、多くを語らず、完成した製品の素晴らしさで周囲を納得させるというタイプが多いんです。

“誰か”じゃなくて、みんなが自分事として動かないと伝統工芸の火は消えてしまうのに……と思っていた時、はたとあることに気づきました。待てよ、「誰かに」って言ってるのは私も同じだと。私が当事者になってやればいいんだ、何ができるかわからないけれど取りあえずやってみようと、2008年頃、特に尊敬していた今の根付の師匠である中川忠峰さんの工房へ通って根付の作り方を学ぶようになったというわけです。

師匠の人柄に惚れ込み、根付職人に

──なぜ数ある伝統工芸の中で根付を選んだのですか? 

私、からくり細工がすごく好きなんですよ。隠してある秘密を解き明かすというのが大好きで。だから「東海の技」の取材で初めて師匠の根付のからくりを見た時、なんておもしろいんだろうって感動しちゃって。師匠の根付は彫刻の細かい美しさももちろん素晴らしいのですが、それだけじゃなくてからくりに粋なおもしろさや洒落、ストーリーや言葉遊びの妙などが込められていて、すごく惹かれたんです。

さらに、師匠は人柄も素晴らしいんです。師匠の工房には弟子だけではなく、常に近所の老若男女が特に用事があるわけでもないのに遊びに来て、賑わっているんです。畑で取れた作物を持ってくる人も多くて、みんなで助け合って暮らしているという感じがすごくいいなあと。このような、師匠の生き方そのものにすごく憧れて、私もこの職人さんの元で、先人たちが守り現在まで繋いでくれた根付の技や粋なおもしろさや暮らしぶりなどを学びながら生きていきたい、それができればなんて幸せなんだろうと思ったんです。

──根付って手先が相当器用じゃないと作れないと思うのですが、元々手先が器用だったのですか?

いえいえ、器用どころか、向いてる要素が何もないです(笑)。子どもの頃、自分で何かを作るのが好きだったというわけでも、芸術的な物に興味があったというわけでもありませんでした。大人になっても外に出ていろんな人に会って取材することが好きで、何かをコツコツやるのがあまり好きじゃなかったですしね。

──それでよく手先の器用さや根気さが求められる根付職人になろうなんて思いましたね。最初に根付の世界に飛び込む時、本当に根付職人になれるのかなという不安や葛藤はなかったのですか?

ありました!だってそういうタイプじゃないとみんなから言われましたから(笑)。でもそこは伝統工芸の火を消してはならない、後継者問題を何とかせねばという使命感が勝ったんです。できる・できないじゃない。とにかくやってみようという気持ちですね。一生懸命挑戦してみてどうしてもダメだったら、その時考えようと思っていました。

結婚を機に、NHKを退職

──ではそのタイミングで根付職人になろうと決意してNHKを退職したのですか?

いえ、この時点ではまだ職人になろうなんて決断はできませんでした。後継者問題を何とかしなきゃと考えつつも、職人だけでは私自身がとても生きていけないと思っていたので、しばらくNHKのアナウンサーとしての仕事を続けながら、師匠の元に通っていました。でもその後、「東海の技」が好評だったので、名古屋放送局で働くことになりました。いわゆる栄転ですね。でも、そのために三重県伊勢市にある師匠の元に通えなくなってしまったんです。

──ではNHKを退職したのはいつで、その理由は?

2009年、結婚したのを機に退職したんです。

──なぜ結婚を機に? 結婚してもアナウンサーを続けることは可能ですよね?

理由はいくつかあります。まず当時、NHKでは3年ごとに転勤があったんですね。これだと私は結婚や出産のことが考えられず、将来設計が全然できないと思いました。実際に夫はニューヨーク、自分は東京、子供は自分の親に預けているという先輩がいて、そんな家族バラバラの生活は私にとっては幸せとは言えないなと。私は自分なりの幸せを追求したいという思いが大前提にあって、仕事もそのためにするという考え方なんですね。幸せな生活は結婚していなければ問題なく成り立っていたんですが、結婚した時に成り立たないので、このままNHKで働くのは無理だと思ったんです。

──でも先ほど語っていたとおり、アナウンサーは天職だと思うくらい、やりがいを感じていたんですよね?

はい。小学生の頃からの夢で、人前に出て喋ることも伝えることも大好きだったし、何よりいろんな人から声をかけてもらって評価してもらえる仕事なんて他にないので、アナウンサーという仕事自体には何一つとして不満はなく、天職だと思っていました。ですので毎日忙しかったですがとても幸せでした。ただ、女性アナウンサーという職業に関しては「私にとっての幸せ」という意味で疑問を感じていました。このままずっとアナウンサーを続けることで私は幸せになれるだろうかと。

──どういうことですか?

これはあくまでも私の個人的な印象なのですが、実際にアナウンサーになってみて実感したのは、女性アナウンサーは若さが価値だという観念が強い職業だということです。そういう世界に疑問を感じて、実は結構初期の頃から、アナウンサーは私の一生の仕事ではないなと心のどこかで感じていたんです。

──でも40代、50代でもテレビに出続けている女性アナウンサーはいますよね? そういう人たちには憧れなかったんですか?

もちろんそういう方々もいらっしゃいますが少ないですし、しかも表舞台に立つためにかなりの努力をしています。私は競争社会の中で、自分の可能性がどんどん少なくなっていくことに向き合って生きるのは嫌でした。年齢を重ねれば重ねるほど必要とされる場所が減っていくアナウンサーの世界よりも、歳を取るほどにどんどん成長でき、必要とされ、自分自身も楽しめる職人の世界の方が絶対に幸せになれると思いました。私の師匠なんて今72歳ですが、まだご自身で謙遜を込めて若手とおっしゃってる世界ですからね。若いことが価値なのではなく未熟だということ。若いという言葉のもつ意味があの頃とは違うんです。

──とはいえテレビのアナウンサーといえば、なりたい人がものすごく多いですがなれる人はごくわずかという超狭き門で、多くの人が羨む職業ですよね。そういったものに未練や執着はなかったのですか?

不安はありましたが、執着はなかったですね。まあ辞めても何とかなるかなと。アナウンサーって局アナを辞めてフリーになっても、イベントや結婚式の司会など仕事は多いし、報酬もそれなりにいいので、最初は職人と並行してやっていけばいいかな、と思っていました。

根付職人として生きていくと決意したタイミング

──NHKを退職する時はまだ根付職人になると決意していたわけではなくて、しばらくフリーのアナウンサーと根付職人を並行してやっていたということですが、根付職人一本で生きていくと決めたのはどのようなタイミングだったのですか?

両方やっていた頃は「他の人からアナウンサーとしての収入があるから根付をやっていけると思われたら、何のために職人になったのかわからない」「伝統工芸を目指す若い人に伝統工芸一本で生きていけるという背中を見せなきゃいけない」というジレンマを感じていました。

その頃の修行のやり方は、まず丸い根付を10個作って師匠から合格をいただけたら、次に栗の根付、それに合格したら茄子の根付というふうに難易度が上がっていくんですね。合格した物は売ってもいいのですが、やっていくうちにいくつか売れる物も出てきたんですよ。そこで少しずつ収入を得られるようになり、根付職人として何とかやっていけるかも、というより何とかしなきゃいけないと思い、2012年に一切アナウンサーとしての仕事は断って、根付職人一本で生きていこうと決意したんです。

 

女子アナになるという子供の頃からの夢を叶えたにも関わらず、自分の幸福観・人生観に従ってその職を手放し、根付職人として生きていく道を選んだ梶浦さん。次回は現在の根付職人という仕事のやりがい、根付を作る上で大切にしていることなどについて語っていただきます。乞うご期待!

取材・文・撮影:山下久猛

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