「何の役にも立たないから、今のあなたはいらない」 元・都市銀行員が“やりたいこと”に出会うまでの10年間と“それから”

大手都市銀行へ新卒で入行し、国際交流基金へ出向。“ソーシャルビジネス(※)”に魅了されながらも、銀行員としてのキャリアを積んだのちはベンチャー企業、外資証券へ転職と約2年ずつで職場を変わってきた酒井里奈さん。

「本当にやりたいことは、どこにあるのだろう。」

悶々としていたころに、たまたま見たテレビ番組で、彼女の人生が新たな方向へ動き始めます。

「やりたいことを見つけるのに10年。そこまで長く時間をかける必要はないと思うけれど、私にはこの時間が必要だった」と語る酒井さんが“未利用資源”に出会い、事業化に至るまでの軌跡をおうかがいしました。

(※)…環境・貧困などの社会的課題の解決を図るための取り組みを持続可能な事業して展開すること

プロフィール

酒井里奈(さかい・りな)

1973年生まれ。国際基督教大学(ICU)卒業。1995年、富士銀行(現:みずほ銀行)入社、国際交流基金への出向、プロジェクトファイナンスやM&Aなどの業務に従事する。その後、ベンチャー企業やドイツ証券での勤務を経て、東京農業大学応用生物科学部醸造科学科に入学。2009年3月に卒業、株式会社ファーメンステーションを設立し、代表取締役に就任。「発酵で楽しい社会を!」をコンセプトに、休耕田で栽培したお米からエタノールや飼料を作り、化粧品や石鹸などの商品開発を行う、地域循環型事業を展開している。

”やりたいこと”を見つけるために、大手銀行へ

―大学卒業後、富士銀行に入社を決めた理由は何でしたか?

具体的にやりたいことが見つかっていなかったんです。

国際色豊かな国際基督教大学で学生時代を送り、海外でも働きたいという漠然とした憧れや、日本のものがもっと海外で知られたらいいのに、といった貿易振興への関心はありました。最初は、「大使館職員になればいいのでは」と思っていましたが、当時のリクルーター制度で、銀行で働く先輩に相談したら「それは銀行の仕事だよ」と言われたんです。

銀行に行けば、いろんな業界を見られるから、自分の「これっ!」っていうものが、きっとそのうち見つかるんじゃないか?と思って、入社を決めました。

ソーシャルビジネスとの出会いと自分の限界

▲就職活動時期に銀行へのOB訪問で国際交流基金に出向できると聞き、都市銀行への意欲も高まったと話す酒井さん

−入社後、2年間の支店勤務を経て、3年目で念願の国際交流基金に出向されたそうですね。出向先では、どんな業務をされていたのですか?

日米センターで、日本とアメリカのNPO交流事業や、助成対象団体の審査を行うプログラム・オフィサーの業務に関わりました。当時(20年前)の日本では、自分の身を粉にして働くだけのボランティア団体やNPOが多かったんですが、アメリカのNPOは、事業化するのに長けているように感じました。同じ環境問題に取り組むにしても、日本のNPOでは、なけなしのお金でイベントを開催して「伝わらない」と嘆いていたんですが、アメリカでは、おしゃれなTシャツを作って1枚3,000円で売り、それを元手にイベントを開催していたんです。社会的意義とビジネスとの両立している活動に魅力を感じましたね。

―ソーシャルビジネスのイメージがガラッと変わったのですね。

はい。そこで仕事を続けたくなり、銀行を辞めようと思って、相談しました。しかし「今辞められても、酒井さん何の役にも立たないです。せっかく銀行から出向しているのだから、ビジネスのことがわかった上で戻ってくるならいいけど、今のあなたはいらない」ときっぱり言われました。

確かに、当時銀行には2年しか勤めていなくて、銀行のことを何も知らなかったので「そうだよなぁ」と納得しましたね。何もできず、出向を終えて、銀行に戻りました。

“ビジネス”をするために必要なもの

―国際交流基金から銀行に戻った後、仕事の内容や働き方に、変化はありましたか。

プロジェクトファイナンスやM&Aの部署に配属されて、ものすごく忙しくなりました。土日も出社して、出張も多い日々でしたね。当時最先端の花形の業務で、知らないことばかり、勉強しなければできない仕事だったので、とにかくおもしろかったです。

―出向先で興味があったソーシャルビジネスのことは、ひとまず脇において、ということでしょうか。

そうですね。ただ、事業の採算性を考えるというのは、NPOでも銀行のプロジェクトファイナンスでも同じです。プロジェクトファイナンスは、事業計画そのものが担保となる融資なので、計画自体に価値が必要で、インフラの整備や発電所の建設・資源開発といった公共性の高いものが多いんですね。

目の前の仕事に夢中で取り組みながらも、「こういうことに興味があります」というのをずっと話し続けていたので、少しずつ自分の興味のある、エネルギー分野の案件と出会う機会も出てきました。当時の日本にはありませんでしたが、ドイツでは風力発電や代替エネルギーの案件もあって、そういう仕事があるのは面白いなと思っていましたね。

―その後、ベンチャー企業に転職されたのですね。

はい。ビジネスで、もっと自分を試したいと思ったんです。転職先のベンチャー企業では、経営企画やM&Aに携わる部署で、全国各地に点在する同じ業種の会社を買収して、一社に集約させる業務に関わりました。

香港系ファンドの外国人株主を相手に、アメリカ人の上司と一緒に交渉しましたね。普通は、20代そこそこの社員には任せない仕事ですが、ベンチャー企業で人手も多くはなく、株主が日本語を話せなかったこともあり、全部任されたんです。

銀行にいた時は、銀行員の肩書を失うことへの不安を感じていましたが、誰も社名を知らないその会社で、ダイナミックな事業に関われたことで、会社の肩書きを失っても大丈夫なんだなと思いました。

―仕事の内容に会社の肩書は関係ないと実感されたのですね。ほかに得られたものはありましたか?

ビジネスをするなら、技術もわかった上でしなきゃいけないと学びました。

当時「この商品がどのような仕組みで動くのか?」をわからずにやっていたので、現場の技術者なら誰でも知っているようなコストや設備を見落としてしまい、後になって、トラブルになることがあったんです。私の勉強不足ですね。扱っていた商品の技術的な面に、興味が持てなかったんです。

だから「次に転職する時は、本当に興味の持てるものをやるべきだ」と思いましたし、最低限、現場で何が起きているか理解できるよう、まずは扱っているものの技術を知る必要があるなと感じました。

▲「ビジネスをするには、技術の知識が必要」と、実体験を振り返って語る

“未利用資源”を活かしたい!−自分の価値観への気づきと決断

―現在の事業につながる発酵技術とは、どういうきっかけで出会ったのでしょうか。

ベンチャー企業から転職して、ドイツ証券に勤めている時に、テレビで生ゴミをエタノールにする技術を見たのがきっかけでした。たまたまその番組を見る2週間前に、出張先でボストンに行ったんです。レストランやルームサービスで、食べ切れない量の料理が出されることが多く、生ゴミとして捨ててしまうことを前提にした外食産業があることに、違和感を覚えていたこととつながったんですよね。番組を通して、捨てられる生ゴミからバイオ燃料が作れることを知り、「これだ!」って直観的に思いました。

―テレビを見てすぐに、退職・大学進学を決意されたのですか?

いえ、まずは、発酵に関する本を数冊読み漁り、東京農大のオープンキャンパスに足を運んで、に話を聞きました。

「ビジネスをする上で、技術の理解が必要」という前職での教訓を踏まえてというのと、2年おきに異動・転職していたこれまでのキャリアを振り返って「2年以上、続けられることをしたい」と思ったんです。また、ある程度卒業後の落とし所を考えていましたね。「発酵技術を学んで技術コンサルタントになる」、「味噌や醤油など日本の発酵文化を英語で発信する」など、大学進学後の働き方も念頭に置いて、退職しました。

―そこまで発酵技術に魅了された理由は、何でしょうか?

とにかく“未利用資源”が好きなんです。生ゴミや穀物を精白した際に出るぬかなど、本来捨てられてしまうものや、使われていないものが活用され、利用価値のある良いものに生まれ変わる――。この一連の過程に感動しましたし、技術を知れば知るほど「やはり、これだ」と思いました。2年ごとにフィールドをかえていた私ですが、自分がこの先ずっと向き合っていきたい対象に出会えたのです。大学で技術に関する知識を蓄えながら、未利用資源を利用し、ビジネスとして立ち上げたいと、心底思いましたね。

▲“未利用資源”の活用は、商品開発において徹底されており、お米からエタノールを製造する過程で出る米もろみかすは、石鹸として商品化されている。ヒアルロン酸保持効果、抗酸化作用が高く、老若男女に支持されている

「誰もやらないなら、私がやる!」コンサル業から製造業へ

―大学卒業後、すぐに起業されたんですね。

はい。大学で、岩手県奥州市から委託を受けた、お米からエタノールを製造する実証実験に携わっていて、卒業後に起業し、会社としてアドバイザリー業務を引き受けました。金融業界で、事業計画の策定や事務手続きは経験していたので、起業自体はハードルを感じませんでした。3年間の実証実験を経て、2013年4月から、この事業を会社で引き継ぎました。

−その後、コンサルタントから製造業者へと、立場を転換されていますが、これはどのような経緯だったのでしょうか。

誰もやる人がいなかったんです。実証実験は、元々は地元の農家さんの発案で、当初地域のNPOで事業化する話もありましたが、途中で立ち消えになってしまって。何回も実験を繰り返して、お米からエタノールの製造・品質改良ができることは、実証済み。また、化粧品の原料として、エタノールが使われており、お米から作ったエタノールにその需要がありそうだということも、オーガニック化粧品の展示会に参加して、見通しが立っていました。ここまでビジネスの道筋が見えているのに、「誰もやる人がいないのは、もったいない!絶対ビジネスチャンスがある。ほかの人がやったら、悔しくて死ぬ」と思って、事業を引き継いだんです。農家さんも「酒井さんがやるんだったら、どこまでも付き合うから」と協力してくれて、現在に至ります。

▲お米から製造したエタノールを利用したアウトドアスプレーやピロースプレー。ほのかにレモングラスやシナモンなどの、ナチュラルな香りが漂う

つないだ縁は切らない。酒井さんを支えた人とのつながり

―銀行を退職したいと思ったとき、退職を止められてよかったと思いますか?

ほかの選択肢はないですよね。「ああすればよかった」という想いはありません。今の若い人だったら、私みたいにそこまで長く時間をかける必要はないけれど、私にはこれが必要でした。今ならもっとスピード感持ってできるのかもしれませんね。

−やりたいことを見つけるまでの10年間、大学生活の4年間、実証実験の3年間を経て、現在の酒井さんがいらっしゃるんですね。社会に出て働き始めてから23年、大切にしてきたものは何ですか?

今は子どもがいるので難しいですが、飲み会が好きで、前はどんなに忙しくても、12時過ぎでも、絶対断らずに参加していました(笑)。銀行時代の上司、出向先やNPOの人たち、ベンチャー起業やドイツ証券の元同僚など、つないだ縁は切らずに、つながり続けています。

人脈やネットワークという言葉は好きじゃないんですが、下心なく人と関わり、自分のやりたいことを発信し続ける中で、必要なタイミングで必要なものが降ってくるようになりました。20年近く、電話やメールでつながり続けている人たちと、一緒に仕事をしたり助け合ったりしています。

―時代が変わる中で、キャリアの選択肢は増えていますが、本当にやりたいことと出会えているかどうかは、経験してこそわかるものなのかもしれません。

文:Loco共感編集部 原田真里

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