JR東日本から東工大の研究者へ―さらに「農業」に転身した中島靖紀のキャリア論

「心の中にずっと田舎の風景があった」ーー。今回お話をうかがった中島靖紀さんは、JR東日本に就職後、放射線物理研究者を経て、現在は徳島県つるぎ町にて農業を生業とするに至りました。今回の記事では、中島さんが現在の生き方を選ぶまでの背景を追います。

プロフィール

中島靖紀(なかじまやすのり)

東京工業大学 大学院修士課程を卒業後、東日本旅客鉄道(JR東日本)に就職。その後再び東京工業大学 大学院に戻り博士課程を満期退学。千葉県に所在する放射線医学総合研究所の研究員を経て、2015年に徳島県つるぎ町に移住し、現在は農業に携わるとともに、民宿「天空間88」を夫婦で営む。

自分の専門性を高めるために、大学院に戻ることを決意

――中島さんが最初に就職されたのはJR東日本とのことですが、仕事内容を教えてください。

もともとエネルギー開発に興味があったことから、大学では電気系工学部、大学院では原子核工学専攻に所属しており、その延長でJR東日本に就職したんです。入社後は、電車線のメンテナンスをしたり、変電所の工事設計、あるいはシステム会社に出向して電気設備のシステム設計に関わったりという仕事を与えられていました。結局、私が退職する9年目までは、そうしたエンジニア的な仕事をしていましたね。

――退職のきっかけは何だったのでしょう?

鉄道や電力とは違う分野に転換しようと考えたのが転職のそもそもの動機です。それに、今はどうなっているのかわかりませんが、私がJR東日本に在職していた頃は、勤続8年目の社内試験に合格すれば、「助役」という、いわゆる管理職的な立場になるタイミングだったこともあり、その前に退職することにしました。このまま自分が望まない分野に居続けると、他の人にも迷惑になるだろうと思ったんです

当時、私は仕事をしながらも、友達とスポーツをしたり、英会話教室に行ったりと、心の赴くままに動いていて、社外にも目が向いていたことも影響したと思います。特に、英会話を通じて知り合った外国の先生たちとのコミュニケーションは、私の世界観を外に向けて広げてくれました

――そして、再び大学院に戻られたと。

そうですね。他の企業に転職することはあまり考えられず、「まずは何か専門性を身につけよう」と考えたんです。そこで、修士課程でお世話になった方を通じて大学院に戻ることになり、博士課程に進むことになりました。

博士課程では、放射線物理や医療装置開発に関する研究をすることになりましたが、研究の目標やまとめ方、結論の付け方については苦慮しました。そんな時も、量子論や相対性理論など、興味のある理論を勉強したり、学外の行事に参加したりして、異分野の人との交流に時間を割いていました。

その後、学位は未取得のままで5年の満期を迎えたため大学院は退学し、実験でお世話になっていた千葉県の放射線医学総合研究所に研究員として所属しました。

私はがんの治療に関する装置開発の研究を行っていたので、医療にも関わることになったのですが、このときに、農業を始めるに当たって最初のきっかけがあったような気もします。

がん治療装置の研究が、徳島で農業を始めるきっかけに

――それは、どんなきっかけだったのでしょうか?

研究を通じて、「そもそも人はなぜ病気になるんだろう」という疑問がわいたんです。たとえば、「生活習慣病」という言葉があるように、病気になるにはそもそもの原因があるわけですよね。そうした根本的な原因を無視して、膨大なエネルギーを投じて対処療法で済ませるのは、本当に正しいのか? そういう根本的な疑問がありました。

徳島に来て強く感じますが、田舎の人は、都会の人と寿命はさほど違わなくとも、元気でいられる期間が長いんです。今の私の住まいは祖父が生前住んでいた場所なのですが、祖父も余命3カ月と言われながら、この家で3年生きました。

まだ確かなことは言えませんが、放射線のような大量のエネルギーを使って治療するよりも、暮らしの中にこそ、人間が元気になるヒントがあるような気がするんです

――たしかに、空気も食べ物も美味しいですし、ここは都会の暮らしとはまったく違いますよね。ところで、もともと農業の経験はあったんですか?

いえいえ、まったくです(笑)。祖父母はこの土地で農業を営んでいましたが、私の両親は継ぐことはなく、長野で住んでいましたから。家庭菜園くらいはやっていましたが、本格的な農業をすることはありませんでしたね。

ですから、徳島に移住して農業をするという話を家族にすると、やはり驚かれました。私自身も、研究員から農家に転身するまでにかなりの葛藤がありましたから。

――研究者としての生活を続けながら、迷われていたということですか?

そうです。博士課程に入り3年目の冬になって、独自のアイデアが生まれ研究論文にまとめる素地が整ったこともあり、研究者としてのキャリアが開けてきていたのですが。その一方で「自分の活かし方は研究の世界にはないのではないか?」という疑問を拭えなかったんです……。

今思えば、当時は気持ち的にもどん底でした。せっかく進もうとしていた研究の道に違和感を感じてしまったわけですから。ビジネスや自己啓発のセミナーに通ってみたり、読書をしたりして、答えを探すためにあがく日々が続きました。

研究員の勤務を減らし、知的障害者のグループホームのボランティアをしたり、ファミレスの厨房で仕事をしたりもしました。「答えは自分の内面にある」という直感はあったので、心の赴くままにあれこれと動いていました。

あるときは、知人がアメリカでビジネスを始めようとしていて、「一緒にやろう」と誘われたこともあり数日間アメリカに行ったこともあるのですが、「自分は流されているだけだ」と気付き、結局帰国しました。なかなか答えは見つかりませんでしたね……。

――かなり迷いが深かったようですね。

そういうときは、いくら考えても答えは出ないものなんです。頭だけで考えると、どちらも正しく見えたり、どちらも間違えて見えたりします。

そのとき、ある知人から教わった言葉が私を導いてくれました。それは、「自らの心が磨かれる場所はどこか?」という言葉なのですが、この言葉を頭に置き、心の方向に素直になったときに見えたのが、今住んでいる徳島のつるぎ町だったんです。

徳島のつるぎ町で未経験の農業と農家民宿にチャレンジ

――答えを見つけたとき、自分でも意外に思われましたか?

いえ、自分の中では自然な結論だったように思います。お話したとおり、この土地は祖父母のものですが、母方の実家のため、子供の頃から毎年夏休みになると必ず数週間滞在してました。その当時から、この場所の居心地の良さは感じていて、大人になってからも心の中にはずっと田舎の風景があったんです。

――まったくの未経験で農業を始めるのは大変だったのではないですか?

そうですね。2015年に移住してから、農業に関する本を読んだり、この家で暮らす祖母に聞いたりしながら、手探りで始めましたが、失敗もたくさんしました。せっかく育てた作物が動物に食べられたり、思うように育たなかったりして……。

しかも、私がやりたいのは無農薬の有機農法なので、よけいに難易度が高いんですよね。祖父母はずっと普通の農業をやっていたので、私のやり方を見ていて、「こんなやり方じゃ育たないよ」なんて言われることもあります(笑)。

それでも、有機農法にはこだわりたいんです。こちらで出会い結婚した妻は長年有機農法で農業をしているので、今は彼女からも教わりながら、煎茶やたかきび、銀杏など、いろいろな作物にチャレンジしています。

―こちらでは民宿もされているとのことですが、どういう思いから始められたのでしょう?

2017年の末から「天空間88」と名付け、この家で農家民宿を始めました。まだ始まったばかりなのですが、家から見える山々の稜線の景色や、山菜など地のものを使った料理を楽しんでもらいたいと思っています。私自身も、来てくれた人が喜んでくれると、「この場所はやっぱりいい場所なんだ」と再確認できて嬉しいですしね。

私は、「この土地を絶対に良い場所にしたい」という思いを持っています。集落では空き家も増えてきていて、40代の私が圧倒的に若いくらいなのですが、このままなくしてしまうのは、とてももったいない。ですから、ここを良い場所として保っていく意味でも、たくさんの人に楽しんでいただきたいです。

――ありがとうございます。最後に、これまでの中島さんのキャリアの変遷を振り返ってのご感想をお聞かせください。

こうして振り返ると、「いつも最善に」と心がけ、自ら納得する選択をしてきた結果として今があることを感じます。ですから、転職をしたことも、大学院に行ったことも、ただのステップのひとつであり、それぞれの選択には後悔していません。

きっとこれからも、いろいろな経験を積むことになると思いますが、そうしたなかで見方や感じ方もより洗練されていくのではないでしょうか。その結果、生き方が変わっていく。そういうものが人生だと思っています。

文・写真 小林 義崇

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