サッカー選手を引退…挫折をバネに僕が選んだセカンドキャリア

子どものころから横浜マリノスサッカースクールの選抜クラスに所属し、かつてはプロのサッカー選手を目指していた田中和寿さん。選手引退後はチーム所属のコーチ兼メディカルスタッフを長く務め、40代を前に独立開業を決断。現在は、治療家、プロアスリートのパフォーマンスをあげるアドバイザー、オーガニック農業と福祉を連携させる社会起業家という三足のわらじを履いて活躍中です。これらのキャリアを築くターニングポイントには、度重なるケガと難治性の特定疾患という挫折、そして次のステージへと導いてくれる出会いがありました。

田中 和寿(たなか かずひさ)

元 横浜マリノストレーナー/パフォーマンスアドバイザー
栄養コンシェルジュ協会2ツ星
Athlete Lab代表
アスリートラボスポーツ整骨院 代表
株式会社Frozen Capsule 代表

繰り返すケガによってサッカー選手の夢を断念

——サッカーを始めたのは、いつごろですか?

小学2年ですね。実は小学1年までは、両親が水泳のコーチをしていた影響でスイミングスクールに通っていました。6歳で大学生や社会人の競技選手と一緒のレーンで泳ぐレベルになっていて、出場する大会すべてで金メダルをとっていました。正直、水泳のほうが向いていたと思います。でも水泳が嫌で嫌でしょうがなくて(笑)。両親に「サッカー選手になるからスイミングを辞めさせてくれ」と懇願して、やっと辞めることができました。

地元のサッカーチームから始めて、小学3〜4年くらいの時に横浜マリノス(当時は日産自動車)のサッカースクールに入りました。その後、スクールの中学生選抜で横浜マリノスのジュニアユースチームに入団。高校時代も選抜メンバーとなってユースチームで過ごしましたが、何度もケガをして選手を続けられなくなってしまいました。

——それでメディカルスタッフの道を選んだのですか?

周りのチームメイトはプロ選手とか大学のサッカー推薦という進路をチームから提示されている中で、僕だけサッカーとは全く関係のないガテン系の会社を紹介されたんです。そんな就職斡旋は、マリノスの歴史上、未だかつて僕だけしかいません(笑)。後で聞くと、監督の知り合いの会社からの求人で上下関係がしっかりできているスポーツマンを雇いたいということだったようです(笑)

「それなら就職先は自分で探します」と即答すると、監督は「では、マリノスでコーチをやりながら、ケガをした選手のケアをできるような治療家になったらどうだ?」と提案してくれて、二つ返事で承諾しました。

選手、コーチ、治療家。すべてを経験したからこそ、気づいたこと

——コーチをしながら、治療家の勉強をされたのですか?

マリノスのスクールでコーチをしながら、まずはカイロプラクターのカリキュラムを受講し、勉強のためにトップチームのリハビリも手伝いました。僕が正式にメディカルスタッフとして迎えいれられたのは26歳の時だったと思います。柔道整復師の学校に通い始めたころでした。午前中は学業、午後はコーチ業、加えてリハビリの手伝いというスケジュールをこなして3年。さらに鍼灸按摩マッサージ師の学校へ3年通い、複数の国家資格を取得しました。

選手もコーチも経験した上で、治療がメインの仕事になって感じたことは、治療は「あくまでも“選手の痛みをとる”だけで、筋肉が膨らむわけでも、運動機能が上がるわけでもない」ということでした。ケガの程度にもよりますが、治療には1週間から長ければ1年もの日数がかかります。当然、復帰させるために選手の痛みをとることは重要ですが、休んでいてもケガする前と同等、いやそれ以上にパフォーマンスのバージョンアップができたら、どんなにいいかと強く思うようになったのです。

そしてアメリカへ行き、本格的にトレーニングの勉強をするようになりました。長期休暇をもらって自費で行くことも、マリノスから研修で行かせてもらったこともありました。そうして35歳の時、すべての選手のパフォーマンスに関わる責任者として“パフォーマンスアドバイザー”の肩書きをもらいました。リハビリだけではなく、積極的に選手の能力をあげるための助言ができる立場になったのです。

——希望通りのポジションを得たのに、なぜ独立を決めたのですか?

パフォーマンスアドバイザーになって2年が過ぎ、自分の中でやりきった感が出てきました。このままずっとマリノスで続けていくのか、それとも違った人生を歩んでいくのか。変えるなら勢いとタイミングも重要だし、50歳近くなってから仕事の環境を変えるのは正直キツい気もする。将来を悩むようになりました。そんな時、前々からお世話になっていた方のひと言が僕の背中を押してくれました。
順天堂大学で自律神経や腸内環境を専門にしている小林教授から「そろそろ一般の人も診て、健康という大きな枠組みを得るのも将来的に必要なのでは?」と言われたのです。それをきっかけにチームを離れる決意をしました。独立後は、プロ・アマ問わずスポーツ選手のケガの治療から復帰後のパフォーマンスアップのサポート、そして一般の方の日ごろのケアまで一手に引き受けられる新しいスタイルの治療院「アスリートラボスポーツ整骨院」を立ち上げました。

農業と福祉の連携、社会貢献する起業家に

——さらに食の分野までフィールドを広げたのには、理由がありますか?

小林教授から「スランプやきっかけがないのにおこる痛みなど原因不明の不調は、自律神経や腸内環境が関与している可能性があり、身体の内側からコンディションを整えることも大切」だとも教えていただいたことに加え、自分の経験からも食べ物からの治療アプローチの重要さを感じていました。

マリノス時代の若いころはお腹も空くしお金もなかったから、とにかく満腹にすることしか考えていませんでした。価格が手頃なカップラーメンやファストフードばかり、栄養バランスなんて気にせずに食べていたんです。すると乾癬という難治性の特定疾患にかかってしまいました。医師からは「患者さんが集まる会に参加しますか?」と言われましたが、それでは解決しないと思いました。まずは食生活の改善が必要だと自覚して、野菜や果物など身体にいいものを意識して食べるようにして、少しずつ病状が良くなると同時に安全な食への興味も膨らんでいきました。

身体にいいものを求め、オーガニックの野菜果物を買うようになると、日本では流通も生産も少ないこと、オーガニック農業を実践することが難しい環境であることも知りました。そこで、消費が増えれば生産も増えるのではないかとも思いました。僕の周りにはトップクラスのアスリートがいます。海外のアスリートたちは積極的に社会に貢献する活動を行なっています。日本では契約の制限などもあり海外に比べると活動の機会は少ないですが、きっかけさえ提供できればそのムーブメントに参加してくれるはずだと思ったのです。

——“農業と福祉の連携”をコンセプトに起業されたのはなぜですか?

かつてジュビロ磐田で活躍していた高原直泰が、サッカーチーム沖縄SVの選手兼監督でありながら沖縄で農業改革をしていると知って会いに行きました。彼が言うには「農業は日本にとって非常に重要で価値がある。地域ごとにいいものがあって、それは残していきたい。でも高齢化で人手不足を感じているので、スポーツ選手のセカンドキャリアに農業をやれるという見本をつくりたい。その中に障害者もいて、ともに活動して生きていきたい」とのこと。これからの農業の活性化だけではなく、障害者の雇用と社会的地位向上まで見据えていました。僕も“農業と福祉の連携”はぼんやりと構想にあったので、彼に会ってパッと視界が開けた感じがしました。

——会社の業態はどのように決めたのですか?

農業の活性化と障害者雇用がベースにあったので、野菜果物をつかった商品にするのが大前提でした。しかし青果物は傷みやすいため、食品ロスが出てしまいます。その問題をどう解決しようかと悩んでいた時、ご縁をいただいたのが、“凍眠”という特許技術を持つ株式会社テクニカンの社長でした。その技術は、液体窒素よりも8倍早く凍るため細胞の破損も少なくドリップも出ない素晴らしいものでした。傷みやすい青果物をジュースにして冷凍してしまえば保存がきくためロスが出ません。また、トレーニングの勉強でアメリカに行ったときに“コールドプレスジュース”と出会い、野菜果物の栄養素を手軽に摂取できるドリンクであることはすでに知っていました。パズルのピースがカチッとはまるように、「凍眠コールドプレスジュース」の製造販売という業態が浮かびました。

凍眠コールドプレスジュースの原材料はこだわって栽培した野菜果物のみですから、アスリートがトレーニングやプレイ中の栄養補給に飲んでも、ドーピングに抵触する心配はありません。おいしさにもこだわって材料をブレンドしているので、美意識が高い女性たちからも好評です。商品を販売してまだ1年程度ですが、販売店や顧客も徐々に増えてきました。

当社の工場でも契約農園でも、身体に障害がある従業員を雇用しています。著名なアスリートやモデルさんが自ら購入してSNSで紹介してくださる様子をみて、最も喜んでいるのはその従業員の親御さんたちでした。「憧れの○○さんが、息子がつくった商品を飲んでいる!」と周りに自慢しているという声も聞き、この業態の新たな価値を見いだせた気がしました。

持続させなければ、なかったことと同じ

——今後の展望をお聞かせください。

その業態がどんなによかったとしても、続かなければなかったことと同じ。人を巻き込んだ分だけ、ただの迷惑になってしまいます。医療人として治療で人を助けることを根底におきながら、出会いを大切に、常に学び、事業を持続させていこうと思っています。

取材・文:タナカ トウコ 撮影:瀬尾 泰章

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