“阪神ファン”と同じくらい「宇宙ファン」が辞められない――あふれる宇宙愛はここまで努力を可能にする~NASAエンジニア小野雅裕さん~

「このままでいいのだろうか」「自分が本当にやりたいことはこれなのか」――社会人になって数年、そつなく仕事をこなしてはいるけれど、何かが心にひっかかっている……そんな思いはないだろうか?

子どもの頃に抱いた夢を押し曲げることなく、困難と思える道をあえて選び、現在、NASAのジェット推進研究所で活躍するエンジニアの小野雅裕さん。その夢の実現に向けてどう道を選択し、何が小野さんをまい進させているのか――。

プロフィール

小野 雅裕(おの まさひろ)

1982年、大阪生まれ。2005年東京大学工学部航空宇宙工学科を卒業し、同年よりマサチューセッツ工科大学(MIT)航空宇宙工学科修士課程に留学。2011年結婚。2012年に同博士課程及びMIT技術政策プログラム修士課程修了。慶應義塾大学理工学部の助教授を経て、2013年5月よりアメリカ航空宇宙局(NASA)のジェット推進研究所(Jet Propulsion Laboratory、以下JPL)に単身赴任勤務。主に宇宙探査機の自動化技術の研究の傍ら、日本のメディアで執筆や講演活動をしている。2016年よりミーちゃんのパパ。阪神ファン。好物はたくあん。

選んだのは“現実的な夢を持つ”ことでなく、“夢を実現する”こと

▲JPLのビジターセンターに展示されているボイジャーの実物大模型。

http://toyokeizai.net/articles/-/12662 より

「夢は渇望。そして、飲み込んではいけないもの」――そう語る小野さんの夢を形づけたものは、6歳の1989年、テレビで放映された宇宙船・ボイジャーが海王星に着陸する様子だった。

天文好きな父親と、一緒になってその映像を食い入るようにして見たボイジャーを、後に小野さんは、「モルフォ蝶の青い羽のように神秘的で、青の時代のピカソの絵ように孤独だった」(引用*①)と語っている。その美しくも不思議な青い星「海王星」を目にした衝撃と、父親からボイジャーや宇宙の話を聞くうちに、自然と宇宙に対して憧れ、それに夢を抱いたのだ。

*引用①宇宙兄弟 Official webより

《第1回》宇宙人生ーーNASAで働く日本人技術者の挑戦より

https://koyamachuya.com/column/uchu_jinsei/4527/

「将来は、宇宙開発に名を残したい」と思うようになった小野さんが、最初に選んだ道は、東京大学の航空宇宙工学科だった。進学後、20歳の頃には研究室で人工衛星プロジェクトに関わる機会を得たが、就職活動のころには、大半の理系学生のように、大学院まで出て大手企業に就職するという進路選択を考えるようになった。同時に、「夢を実現すること」がいつの間にか「現実的な夢を持つこと」にすりかえられていること(引用*②)に、小野さんは小石を飲み込んでいるような違和感を持っていた。

そんな時、出会ったのが同じ研究室の卒業生で、マサチューセッツ工科大学(MIT)に留学していた先輩。先輩の話すMITでの様子は、まさに自分が憧れていた生き方であり、夢への実現の道だった。話を聞いた後、小野さんは渇望するがごとくMITへ留学することを選び、受験に挑むと見事合格!ただ、条件付きの合格。そこには越えるべきハードルがいくつもあったのだった。

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プライドをかなぐり捨てたMIT時代――結果は努力に比例する

第1のハードルは、「研究室に雇用される」ことだった。アメリカの理系大学院生のほとんどは、RA(research assistantship)という制度を使って研究をしている。RAとはスポンサーから研究費を得た先生が、研究のアシスタントをしてもらう大学院生を雇い、研究成果の代償として、学生の学費や給料を支払う仕組み。別な言い方をすれば学生は、まず研究室の雇用口を見つけ、採用されたところの先生が指導教員となり、研究ができる環境が整うということになる。(指導教官が決まらない場合、年間600万もの学費を自ら支払う)

小野さんは、1年間を期限に両親から学費を出してもらう約束を取り付け、片道切符でMITへ乗り込んだのだった。アメリカの留学生活をのんびり楽しんでいる時間はない。そこで、興味のある分野の教授の授業には、自分が既に知っていることでも質問し、鋭い質問を投げかけ、自分の名前を知ってもらおうと何度もアピールした。また、日本で学んだ英語力では通じないと痛いほど感じた小野さんは、プレゼン力の高い欧米人が得意なチームディスカッション課題ではなく、個人に割り振られた研究レポートに比重を置き、必死で小さな成果を積み重ねていった。

さらには、既にRAの枠はないと断われている教授にも、「無給で研究に取り組みたい」と申し込んだこともあった――「とにかく、格好だのプライドだのかまっている場合ではなかった」と小野さんは振り返る。

こうしたひた向きな努力と比例するように結果は出、半年後、思うところの研究室でのRA枠を得ることができ、その後も小野さんは、一歩一歩実績を上げ、自分のポジションを築いていった。

しかし、卒業後の進路を考え始めた時、最後の「ハードル」が置かれ、立ち止まってしまった。宇宙開発には巨額な費用(税金)がかかり、研究の成果もすぐには答えが出ない。自身が代表を務めた留学サポート事業で多くの人と出会い、必要性を感じたこともあり、「その分のお金を医療や福祉、教育に回したほうが人々の幸せにつながるのではないか?もっと現実的な仕事をするべきではないか?」と、自分の夢に対しての疑問による「迷い」が出てきたのだ。

そして迷走する中、小野さんは、スペースシャトルの打ち上げを見に行くことを思い立つ。機械のトラブルや悪天候にさいなまれ、フロリダ州のケネディ宇宙センターに飛ぶこと3度。ようやく打ち上がったスペースシャトルの軌跡を目の前に、小野さんは感涙し、「やはり、宇宙をやろう」と決心したと言う――また夢へと走り出したのだ。

*引用②『宇宙を目指して海を渡る MITで得た学び、NASA転職を決めた理由』2014年 東洋経済新報社発刊 小野さんが宇宙に魅了されNASAでの仕事をスタートさせるまでの自叙伝。

8,568通り、あなたはどのタイプ?

好きなものは譲れない――チャンスを生かして全力で夢に向かう、行き先はJPL!

「宇宙」の仕事――NASAを目指すことに迷いがなくなり、ジェット推進研究所(JPL)への就職活動を開始。しかし、JPLへの就職は日本の採用基準とは異なり一筋縄ではいかない。アメリカの就職活動は、自分の持っているスキルを信頼できる人に認められ、推薦してくれるコネクションが物を言うからだ。小野さんは、MITの先輩の尽力でようやく推薦をしてもらい、JPLの書類審査は通過した。そして、面接を受けることがかなうと、1日で約10人の研究者やエンジニアの前にプレゼンテーションを行うスゴワザをやってのけ、自分の研究の成果やスキルをアピールした。しかし、いい感触は得たものの、待たされたあげく結果は、あえなく不採用。

そのまま仕事に就かないわけにもいかず、大学での研究職にも興味があった小野さんは、学生時代にお世話になった先生の推薦もあり、運よく慶応義塾大学理工学部の教員として働く場を得、その道を選択した。MIT在学時代に仕事で留学していた奥さんと出会い、結婚していた小野さんにとって、それは職場での待遇や人間関係にも恵まれ、仕事も将来を約束されたようなものだった。

しかし、必死の努力でも進めなかったJPLへ道=宇宙開発への夢は破れても、捨てられるものではなかった。その気持ちを、プロ野球の阪神タイガースの大ファンである小野さんは「阪神がどんなに負けようが、どんなに理不尽なことがあってもファンを辞められないのと同じ。好きな物はどうしようもなく湧き上がってくるもの」と話す。

夢への熱い思いが心にくすぶりながら時が過ぎた半年後、JPLに再チャレンジする機会が訪れた。それは、慶応大学の採用のオファーを受け4月からは勤務開始と決まり、MITの卒業を2月に控えていた頃。小野さんの研究テーマを応用できるプロジェクトのインターン募集の話があったのだ。そこで迷うことなくすぐに応募! 「何が何でもこのワンチャンスをものにしてやろう思った」――小野さんの夢への執念だった。(引用*②)

それから約1カ月間、一度不採用になった悔しさをバネに、昼夜も土日もなく働き、全ての力を論文にぶつけた。すると、プレゼンテーションをする機会にも恵まれ、自分のやってきたことをセクションのマネージャーの前で披露し、確かな手応えをつかむことができたのだった。しかし、物事全て都合よくはいかないもので、すぐに採用とはならなかった。

無念さをかみしめながら小野さんは帰国し、保留にしていた慶応大学での教員生活を送ることに。それは充実した日々を送りながらも、今後の生き方にさまざまな思いが入り乱れるものだった。

ところが、半年後、JPLからの採用オファーのメールが舞い込んできた。望んでいたことがかなう!……しかし、小野さんはあれだけ渇望していたことなのに、家族のことや今ある仕事、生活のことを想い、迷いが出できてしまったのだった。

だが、考え抜いた小野さんの、出した選択は――夢への実現に向け、JPLで働くこと。そこには奥さんの「行ってきなさい」という強い後押しの言葉があった。

適度なプレッシャーは成長の糧――大きな夢だからこそ積み上げるものも大きくなる

JPLオフィスで仕事をする小野さん

https://koyamachuya.com/column/uchu_jinsei/9878/より

現在、小野さんはJPLに勤務し、主に宇宙探査機の自動化技術の研究を行っている。子どもの頃に抱いた夢に向かって、今も進んではいるが、現実は生易しいものではない。仕事はプロジェクト単位で動くし、それ毎に給料が支払われる。一つ一つのプロジェクトはMIT時代と同じように、人脈やコネクションで決まっていくので常に「就職活動」のような状態。でも、小野さんは「人間は基本怠け者。ある程度のプレッシャーは、あるといいんじゃないかな」と言ってのける。

そして、仕事は待っていても来ないので、周りでどんなプロジェクトが動いているか? 自分の仕事が関連づけられないか? といつもアンテナを張り巡らせている。「組織にはいろんな特技が持っている人の集まり。プログラムが得意な人を見ると、とてもかなわないと思う。でも、自分は器用貧乏だから、自分よりできる人には合わせ技で戦う。行動力でカバーですよ」――そう話す小野さからは、負けん気な一面が顔をのぞかせる。

『宇宙に命はあるのか 人類が旅した一千億文の八』 2018年 SBクリエイティブ発刊

宇宙への圧倒的な愛情が伝わり、小野さんの表現力の高さを堪能できる小説のようなノンフィクション。

98%の不自由や理不尽なことは飲み込んでも、2%の違和感に耳を済まし、本当に自分が進みたい道、やりたいことを飲み込んではいけない、諦めてはいけないと、考えている小野さん。「呑み込んでしまってはいけないものが分かったら、早めに道を変えるといい。思い立ったら吉日ですよ」とも言って笑う。

でも、大きな夢をかなえるにはそれだけの時間はかかり、ショートカットや裏技、必勝法もない。レンガを積むように努力を重ねることで自信も重なっていく――小野さんの今までの体験から出た言葉だ。

やりたいことだから努力ができ、努力するから結果がついてくる。だから、結果を見た人に能力を認めもらえるし、それが自信となり先へと進んでいけ、次へのチャンスと続く。そこで、自分の能力を認めてくれる人ができれば自信となり、そのつながりによって次のチャンスへと続く。夢が何であれ、そうやって「自らの努力と自信、そして人からの縁」を積み重ねていくことが、夢への最良の道なのだろう。

飲み込んではいけない、渇望するように追い求めたくなるあなたの夢とは? そして、選びたい道とは……。

文:Loco共感編集部 野嶋敦子
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