見つけられるのは探し続ける人だけ
一生続ける仕事を探すことが図々しいかって? 情けないこと言うなよ。これからずっと、一生探しながら生きていくんだよ。それでも最終的には見つからないかもしれない。でも、探そうとしない人には、見つからないんだよ。学歴なんてまったく関係ない。
最初の入り口は、何でもいいんです。あなたはプログラマから始まったわけで、そこからワンステップ上に行きたい気持ちが出てきたのなら、それに向かって突き進めばいい。追いかけたい夢があるなんて、素晴らしいことじゃないか。先のことは誰にもわからない。ゴールの見えている人生なんて、面白くないと思いませんか? 若いうちから秤にかけていたら、何もできませんよ。
僕は、49歳になってテレビの世界に飛び込んだから、あなたは23歳でこの気持ちを持っているだけ、ずっとましだよ。僕にとっての入り口は、新聞記者だったけれど、決してジャーナリストになろうとしたわけではなくて、大学に7年もいたから、普通の企業に入社できなかったんですよ。
たまたま、新聞社なら採用人数が多くて、「成績証明書は不要、作文だけ」という、僕にとってラッキーな条件と知って選んだんだ。今のようにフリーターなんていないし、皆どこかの企業に入社しないと、落伍者のレッテルを貼られるような時代だったからね。とりあえず入った。そんなレベルだったんだよ。
でも、入社して言われるまま右往左往しているうちにね、自分の強い好奇心を、これほど毎日満たしてくれる仕事は、そうないかもしれないと感じるようになってね。同業他社と、取った取られたの「特ダネ合戦」をしながら一喜一憂していたし、それが、仕事のやり甲斐だと思っていたんだね。
決めたことをやるかやらないかで違う人生に
ところが、35歳の頃、漠然とこのままでいいのかって思いが芽生えてきたんだ。ある日、定年まで数えてみたら、「俺の人生、あとこれだけで終わりかよ!?」って驚いた。そこで、自分の人生をもう一度切り開いてみようと決意して、生きた英語を身に付けるため、インターンシップでアメリカの地方新聞社へ行ったんです。
だけど、実現したのは42歳の時。その間、ひたすら仕事を頑張った。周囲や会社から文句を言われない準備のためにね(笑)。7年近くもかかったわけです。そのかいあって、1年間、有給の休職扱いでアメリカ行きが実現した。女房と娘2人を日本に置いて、生活費はきつかったけど、それでも僕は新たな一歩を踏み出した。初めて、自分の人生をセルフコントロールしたんです。
帰国後、外信部のテヘラン特派員から週刊誌の編集長になり、湾岸戦争やソ連、ベルリンの壁の崩壊と、大激動の時代に突入した。そして、アメリカのジャーナリズムもイスラムの現地も知っているという僕ならではの強みが、キャスターへの転身で活かされたわけです。しかも、僕ね、農業に詳しいんですよ(笑)。農業だけじゃない、芸能からスポーツ、教育、労働って「何でこんなことを」と思いながら、記者時代に担当してきたすべてのことが、自分の武器となったんです。
だからあの時、一歩を踏み出さなかったら、今の僕はなかったと思ってる。自分で決めたことをやるとやらないとでは、まったく違う人生になるわけです。大事なことは、自分で自分の人生をコントロールできるかどうか。簡単にできることじゃありません。