




イタリア人以外で
初めてフェラーリをデザインした。
日本の美術大学を卒業後、アメリカで学び、
ゼネラルモータース(GM)、
ポルシェで研鑽を積んだ。

海外旅行の経験もないのに、いきなり海を渡った
車だけじゃなくて、家具やロボット、眼鏡や腕時計、テーマパークのデザインもしています。最近ではプロデューサーのような動きをすることもありますが、「こんなふうになりたい」と考えて今のようなポジションにいるわけではありません。そもそも、独立した個人が車のデザインをするなんて、昔は考えられませんでしたし。偶然がたくさん積み重なって今があるんです。ただ、いろんな分かれ道に遭遇したとき、自分なりに決断してきたことは、間違いありません。
もともと、最後の最後になると、それまでのものを全部ひっくり返してでも、イヤなものはイヤだ、という行動を取るところがありましてね。大学受験のときもそう。僕は東北の進学校に通っていたんですが、幼稚園、小学校、中学校、高校とずっと受験を経験してきたのでもうイヤになっていて、大学だけは好きなところに行くと宣言したんです。当時、興味を持っていたのが、広告のアートディレクション。それで美術大学に進みました。
でも、大学に入ってグラフィックデザインの勉強を始めると、広告の仕事はイメージと違うことに気づいて。卒業後の進路には、広告代理店や自動車のデザイナーなど、いろんな選択肢があったんですが、どれもピンとこなかった。それで就職せずにアメリカに行くと決めたんです。
実は海外旅行をしたこともなかったんです。それなのに、いきなりアメリカに渡ってしばらく住んでみようと。無茶ですよね。でも、自分なりに何かが起こるのでは、という計算があったんだと思う。
渡米してカーデザインを学びにアートセンター・カレッジ・オブ・デザインに行ったのですが、このことが大きな転機になりました。何より厳しい学校だったんです。40人のクラスで、卒業できたのは11人。勝たないと食べていけない、という世界。でも、みんな人を蹴落とすのではなく、切磋琢磨し合うんです。よくクラスの仲間と定期的に週末合宿をして、朝5時までスケッチセッションをしたり、ディスカッションをしたりしていました。もう必死です。すごい仲間に囲まれて、カーデザインの世界に魅了されて。このときの経験と人脈が、後の自分を作ってくれたと思えるほどです。
自分によって、会社はどれだけのものを得ているか
その後、奨学金をもらっていたGMに入りました。カーデザインというコンセプトを作り出した会社です。中央研究所には5万人くらいいて。僕には、見るもの聞くもの楽しくて。ただ、ずっとGMにいるつもりはありませんでした。就社ではなく就職。その意識は当初から強かった。GMで20年選手になって部長になる選択もある。でも、外に出て経験を積んで、自分に価値を付ければ2、3ステップ飛び越えることができる。これは、欧米では当たり前のキャリアアップの考え方です。だから、就職して4年目にポルシェから誘われたとき、迷ったけれど受けることにしたんです。チャンスだ、と。実際、僕はその後再びGMに戻って、管理職になったんですよ。
GMでは退職を会社に告げると、すぐさま両脇をガードマンに抱えられて玄関まで連れて行かれる人もいました。機密保持がありますから、そういう光景はアメリカでは珍しくない。でも、僕はそんな退職の仕方はしたくなかった。個人と会社の関係は、どれだけ会社が自分に報いてくれるか、だけでなく、自分によって会社がどれだけのものを得るのか、を常に考えるべきだと思っていました。だから、GMを最初に辞めるときも、当時の副社長に言われたんです。また、戻ってこい、と。



だがGMに復職後、35歳にして、
奥山氏は再び新しい決断をする。
管理職のポストを捨て、
一人のデザイナーとしてイタリアの名門スタジオ、
ピニンファリーナ社に入るのだ。
ここでフェラーリのデザインを手がける。

給料は3分の1になる。それでも行くべきだ、と
そのままGMにいても、それなりのポジションは得られると思いました。でも、それだけでいいのか、と。僕には「自分の作品はこれだ」と思えるものがなかった。だから、もう一度自己投資をしようと思いました。給料は3分の1になる。肩書もなくなる。職場環境も変わる。それでも作品を残そうと。
ピニンファリーナ社には、自己紹介文を何度も送りました。でも、返事なんて全く来ない。それは後に採用する側になってわかりましたが、とんでもない量の自己紹介文が送られてくるんです。だから、目立たなきゃダメ。僕は自分の経歴を漫画にして送りました。そしてようやく会ってもらって。
面接の感触は悪くありませんでした。でも、自分の上司になる人はイタリア人で全く英語ができない。僕はすぐに気づきました。中途半端じゃダメだ、と。それですぐにイタリア語の学校に通い出しました。もちろん会社も辞めましたよ。フルタイムの学校でしたから。やるときはそれくらい気合いを入れなくちゃダメなんですよ。そして3カ月後、イタリア語で自分の宣伝文句も考えて、再度面接。もちろん採用が決まりました。
今、最高の状態の会社には行かないという選択
この転職には、僕なりの計算がありました。実は当時のピニンファリーナ社は、名声はあったものの、今ひとつ突き抜けられていなかったんです。いるのはイタリア人だけで、外国人は採用していない。だからここに来れば、名声をあげることができるかもしれないと。フェラーリのデザインもできるかもしれないと。
僕は、これまでもそうですが、最高の状態の会社に行こうと思ったことはありません。それより、これから芽が出そうな会社に行く。野球だって、人気球団に入ったら1軍に入るのも難しいでしょ。それより最初から1軍の3番、4番を狙えるところに入ったほうが力をつけることができるんです。
そして、決め手となるのが、新しい会社での自分の価値を発揮できるかということです。自分が入ったら、どういうプラスを会社に与えられるのか。例えば当時のピニンファリーナ社においては、外からの目が加えられることが会社にとって非常に有益だった。実は外国人のほうが、イタリア人らしいものをよく理解しているんです。僕には、イタリア人よりも、イタリア人らしいデザインができると思ったんです。
当時の僕は、転職に際して3つの条件を持っていました。自分が気に入るところであること。新しいことが学べること。求められていること。忘れられがちですが、特に大事なのは3つ目です。全員に求められていなくてもいい。キーメンバーからは絶対に求められていないと。これが、仕事の意欲にも、自分の成長にも、結果にも大きく影響してくるんです。
常に迷いも不安もありましたよ。それは当然です。何かを決断するとき、振り子は必ず振れる。だから僕は、毎晩寝るときに今日の結論をノートに書くことにしていました。それを繰り返していくと、自分にとって自然な方向が見えてくるんですよ。


奥山清行著
あのエンツォ・フェラーリのデザイン画は実は15分で描き上げられていた…。世界的に名を知られるデザインがいかにして生まれたのか。また世界的なデザイナーたる彼の仕事観とはどんなものなのか。なぜ彼は華麗なキャリアを築けたのか。自筆のスケッチも初公開。「僕には特別な才能などない」「恥をかいただけ人間は成長する」など、世界を相手に戦ってきた奥山氏の言葉に勇気づけられる一冊だ。(ランダムハウス講談社刊)
- EDIT
- 高嶋千帆子
- WRITING
- 上阪徹
- DESIGN
- マグスター
- PHOTO
- 栗原克己


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