サッカーを通じた
共生社会を目指したい

大手印刷会社を退職して2013年から障がい者サッカーを支える山本さん。
リスクも伴うその決断をするに至った背景をお聞きしました。

——この2月から、日本障がい者サッカー連盟(JIFF)事務総長に就任されましたが、そもそもJIFFとはどのような組織なのでしょうか。

「JIFFは、2016年4月に設立されてから間もなく3年という新しい組織で、日本サッカー協会(JFA)の関連団体です。2014年に出された『JFAグラスルーツ宣言』――“誰もが・いつでも・どこでも”サッカーを身近に心から楽しめる環境を提供し、その質の向上に努めることを目指すこの宣言が契機となり、設立へとつながっていきました。

JIFFは、日本アンプティサッカー協会(切断障がい)、日本CPサッカー協会(脳性麻痺)、日本ソーシャルフットボール協会(精神障がい)、日本知的障がい者サッカー連盟、日本電動車椅子サッカー協会、日本ブラインドサッカー協会(視覚障がい)、日本ろう者サッカー協会(聴覚障がい)という7競技の団体と、JFAとの連携窓口になっています」

——実際の活動、また山本さんの業務内容は?

「JIFFが目指すのは、サッカーを通じた共生社会です。7つの競技団体、つまり複数の障がい者サッカー同士で、そして健常者とどう混ざりあっていけるのか、という課題を念頭に置いたコンテンツの開発を行なっています。たとえば、健常者とさまざまな障がい者が一緒に楽しめる『インクルーシブフットボール』、『まぜこぜスマイルサッカー』といった取り組み、その他には、全国で障がい児・者がサッカーの指導を受けプレーできる環境の実現を目的に、JFAと連携して『インクルーシブフットボールコーチ』、『JIFF普及リーダー』といった指導者登録制度を設けるなど架け橋をつくっています。

また、その7団体の組織基盤の強化も必要です。企業にパートナーになっていただくため、JIFFとしての共通のセールスパッケージをつくり、各団体がJIFFを経由して資金調達ができるようなスキームをつくっています。事務総長としては、こうした“持続可能な組織づくり”が、大きな役割ですね」

サッカーを通じて障がい者の「見方」を変えたい。

サッカーを通じて障がい者の「見方」を変えたい。

——JIFFに移るまでは、2013年から日本ブラインドサッカー協会に勤務し事業戦略部長を務めていらっしゃいましたね。

「はい、資金調達や広報、コンテンツ開発とそれに伴うマーケティング、クリエイティブを手がけていました」

——2014年、渋谷区で行なわれたブラインドサッカーの世界選手権では、チケットを有料化しました。障がい者スポーツにおける画期的な試みとして注目されましたね。

「障がい者と健常者が共生する社会を目指すために、サッカーを通じて障がい者の『見方』を変えていこう、という取り組みでした。日本で4年に1度の世界の強豪国が集まる世界選手権を開催できるというのは大きなチャンスでしたし、面白いものだという自信はあったんです。勝負するにはここしかない、と」

——時計の針を巻き戻すと、山本さんはサッカー少年だったのでしょうか?

「4歳から始めて、中高はサッカー部。大学ではフットサルのチームをつくってプレーしたり、社会人リーグでプレーしていました。転機は、大学2年時にアジアの子どもたちとサッカーをする国際交流イベントに参加した時で、サッカーにはいろんな楽しみ方があることを知りました。その後、仲間とサッカーを文化として根づかせる活動を行なうようになり、自分たちもフットサルをやりながら大会を企画・運営したり、サッカー日本代表の試合ではゴール裏でサポーターとして応援したりするようになりました。

プレーする楽しさ、見る楽しさ、サッカーを通じて人と交流する楽しさ……多様な楽しさを知る中で、『じゃあ、サッカー自体にはどれほどの形があって、どんな楽しさの種類があるのだろう』と思い、調べた結果見つけたのが電動車椅子サッカーでした。体験をさせてもらい、人手が足りないというので仲間と手伝って、そうした日々の中でブラインドサッカーとも出会ったのです。音でボールや周囲の状況を判断するとはいえ、なぜこんなすごい動きができるのか、と衝撃を受けたことを覚えています」

——とはいえ、すぐにスポーツを仕事にはされませんでしたね。大学卒業後は凸版印刷に入社されます。

「サッカーを仕事にしたい、とは思っていませんでした。当時はまだプレーヤーとして活躍した人がスポーツにかかわっていることがほとんどで、今のようにビジネス分野から入っていく人は少なかったですから。

学生時代、サッカー日本代表の試合でのゴール裏で、ユニフォーム型の応援旗『ジャイアントジャージ』を掲げていました。実はスポーツブランドの広告なのですが、あれは手にとって掲げた時、そしてそれを現場で目の当たりにしてこそ、人の感情に訴えかけるもの。そうしたものづくりという観点から広告に携わってみたくて、印刷会社の商業印刷部門に入りました」

——どのような業務内容だったのでしょうか。

「スーパーマーケットのような流通企業のキャンペーン、プロモーション、マーケティングに関して、営業と企画を行なっていました。チラシや店頭のツールをつくったり、そもそものキャンペーンのコンセプトを考えたり。

スポーツにも広告面から携わっていて、全般的に仕事は面白かったのですが、ある時、このままだとどうしても、コンテンツ開発という面では、外から、しかもその最後のプロセスしか関われない。限界があるな、と気づいたんです。価値のあるものを自分たちでつくりあげていって発信したいな、と」

——そこで転職を考えだした、と。

「一生をかけてやりたいことがクリアにならず、環境を変えなければと思い、当時注目を集めるようになっていたベンチャーのIT企業も数社受けました。そうやって考えていても結論が出ない。今見ている視界、思考のレイヤーそのものを変えなければと思い、MBAを取得する大学院に入りました。働きながら、経営学を学んだり、自分と向き合う時間をつくったりする中で、パーソナルミッションが何かを自問自答していったんです。

そこでたどり着いたのが、サッカーを通じて人と可能性を広げたい、それによってサッカーに貢献し、恩返ししたい、という結論でした。参加していたブラインドサッカーのチームに協会の方がいて、ちょうど人手が足らず、『働かないか』と声をかけてもらい、決心したんです」

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