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明日に向かってプログラめ!!PARTU vol.8/10 吉岡弘隆@ミラクル・リナックスは、ハッカーを目指す
プログラマなら、ある程度は時代に影響されるのではないでしょうか。裏返せば、ソフトウェアの技術進化が激しく、時代のトピックが頻出している証拠でもあります。吉岡弘隆さんも、ソフトウェア史に残る仕事をしてきたプログラマのひとり。ここで足りないと感じた方は、彼のブログへどうぞ。
(取材・文/総研スタッフ 高橋マサシ 撮影/関本陽介)作成日:08.04.18
プログラミングとは、社会を変える力である
吉岡弘隆さん
吉岡氏のブログ「ユメのチカラ」
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ミラクル・リナックス社のトップページ
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プログラムを書きまくって、DECからオラクルへ
吉岡さんのご経歴はコンピュータ業界の歴史と重なる部分が多いので、まずはここからお願いします。
大学院を出て、1984年に日本DEC研究開発センターに入りました。ここは米国DEC(その後コンパックにより買収、現在はHP社)開発部門の100%子会社で、入社早々日本語COBOLの開発を担当しました。コンパイラには手を加えず、独自拡張などもせず、私を含めた3人で仕様どおりに実装を続けました。エディタでプログラムを修正し、コンパイルし、ビルドして、バグを取る、といったことの繰り返しです。入社前はもっとカッコイイ研究ができると思ったら勘違いで、結局は数百ページあるCOBOL仕様書を何度も何度も読みました(笑)。
 当時はCOBOLもFORTRANもLispでさえも、プログラミング言語は「会議室」でつくるものでした。まつもとゆきひろさんのRubyのような「俺さま言語」などは考えつきもしなかったし、やろうとする発想すらありませんでした。ただ、この時期にプログラミング言語のイロハを覚えたことは、後々のエンジニア人生にとって収穫でした。
米国DECにも1年間行かれたとか。
その当時はVAX Rdb(VAXというミニコンをプラットフォームにするRDBMS)の日本語化作業を朝から晩までやっていまして、Rdbの日本語版をつくりました。これを基に香港の開発チームが中国語版、台湾版、韓国語版を完成させたのですが、その後にこれらを一本化した「アジア版ソースコード」をつくりました。しかしバイナリは4つあるわけで、これらをひとつの製品にした「国際化Rdb」をつくるために赴いたのです。
 米国で初めて本場のプログラマに接しました。プログラマの能力を生かす環境の違いは強く感じましたが、そうした差分だけでなく、「君も僕もプログラマ」という同胞意識もありました。向こうが私を、「コードが書ける国際化のプロ」として見てくれたこともあるのでしょう。とても楽しい1年を過ごせました。
 しかし、DECの業績が徐々に悪くなり、私のいたRdb部門は競合のオラクルに売却されてしまいます。希望退職制度が始まり、私は迷った揚げ句に、2回目の制度のときに退職しました。
1994年にオラクルに転職されたと。
吉岡弘隆さん
はい。オラクルの友人と飲んでいて相談したら紹介され、面接を受けました。入社が決まると、関係者の方々にごあいさつメールを送りますよね。そうしたら、オラクルのバイスプレジデントになっていた米国時代の上司から返事があり、「Oracle8(Linux上で稼働するRDBMS)の開発者を探している」というのです。
 そんな事情から、最初は日本DECから日本オラクルへのRdbの引き継ぎをしていたのですが、その後で彼の推薦を受けて、米国オラクルのOracle8開発チームに入りました。36歳で、部下のいない一介の開発エンジニアとしての再スタートです。そのためか、今でも「35歳限界説」などと聞くと異常に反応してしまいます。「そんなことあるわけないだろ!」ってね(笑)。私の存在価値はプログラミングしかないと、とにかくコードを書きまくった3年半でした
趣味はカーネル読書会やインテルのマニュアル読み
その後、ミラクル・リナックスの創業メンバーとなるわけですが、きっかけは1998年のNetscapeのソースコード公開とか。 吉岡弘隆さんのキーボード
プロプラエタリなソースコードを公開するなんて、地殻変動というかコペルニクス的転回というか、ものすごいショックを受けました。LinuxもGNUもemacsも知っていましたが、まさかメインストリームに躍り出るとは思わなかった。
 そんな中で、日本オラクルの血気盛んな連中がLinuxを使った起業を計画し、彼らがMLやネットの日記などから私を知って、創業に誘ってくれたのです。設立が2000年でLinuxの成長期と重なったこともあり、現在まで売り上げ増を続けています。
オープンソースのよさを、どういうときに実感されますか?
2004年から中国と韓国のLinuxベンダーと一緒に、Asianux(アジアナックス)という共同プロジェクトを進めています。アジア標準のLinuxを開発し、またサポートするものですが、これが非常にうまくいっています。
 例えば中国ですとすぐに「オフショア先」と連想しそうですが、あくまで対等に付き合い、皆でワイワイやってます。企業同士なら普通は腹の探り合いがあったり、相手を困らせても利益を奪おうとするものでしょう。加えて各国の歴史的背景なども考慮すると、奇跡に近いのではないかと思うほどです。それはお金が掛からず、世界にコミュニティが広がっている、オープンソースだからこそだと感じます。
吉岡弘隆さん ところで、吉岡さん主宰の「カーネル読書会」は長く続いていますね。ソースコードを読む会ですよね。
帰国していた1999年、YLUG(横浜Linuxユーザグループ)のMLに、Linuxカーネルのシステムコールの実装について質問したんですね。そこからいろいろな話になって、「ソースコードを読む会ってどう?」となったのですが、読みたい人なんていないと思うじゃないですか。それが、溝の口の公民館が安く借りられたので部屋を取ったら、20人くらい集まってきた。私はシステムコールのプリントをもっていきました(笑)。
 初対面同士だけどその後の飲み会もメチャクチャ楽しくて、自然と次回開催となり、場所は横浜、保土ヶ谷、新橋、恵比寿などと変えていますが80回以上続いています。ただ、最近では読書会というよりネタをもった発表者が出てきて、その方を中心にいろいろな話をする形に変わっています。
そのほかのご趣味は、インテルのマニュアルを読むことだとか。
中身を読んだり図版を見たり、パラパラ見ているだけで面白い(トップの写真の下)し、その度に新しい発見があるんですよ。私の頭が揮発性に富んでいることも理由だろうけど(笑)。サーチエンジンでは探せないものを見つけられる、紙の辞書のような存在ですね。そうそう、数年前に未踏ソフトで「hardmeter」というメモリプロファイリングツールをつくったのですが、実装のときには役立ちましたね。
吉岡さんのプログラミング好きがひしひしと伝わってきますが(笑)、最初のきっかけとは何でしょうか? 吉岡弘隆さん
中学から慶應なんですが、慶應に情報科学研究所というのがあって、そこで中学の夏に1週間のコンピュータ講習があったんです。プログラミング実習もあり、何だかわからなかったのですが、とても不思議でエキサイティングな経験をしました。これが私の「遊びとしてのコンピュータ」の原点で、現在まで続いています。
日本にひとりくらいは、CTO兼ハッカーがいてもいい
吉岡さんは会社の取締役CTOでもあります。企業人として今後のソフトウェアをどう思いますか?
コンピュータのアーキテクチャが変化しつつあると思います。以前のプロセッサはムーアの法則(クロック数を上げて性能を向上させる)でよかったけれど、それでは消費電力が上がり、データセンターの空調などさまざまなコストも掛かれば、環境問題まで発展してしまう。性能を上げればよいという時代ではありません。
 そもそも今のアーキテクチャは、各地点で分岐させながら仕事をさせるのではなく、いくつかの方向に先へ先へと仕事をさせて、最終的な段階で正しいものを選ぶ(投機的実行)という手法です。これでは電気を無駄に使っているようなもの。
 ここでプログラミングのノウハウを駆使すれば、電力やメモリの消費を半減させられるかもしれない。そうなれば実行時間を短くしたり、リッチな機能を搭載したり、電池の容量を半分にして携帯電話などのサイズを小さくできるかもしれない。ソフトウェアには未踏の地がまだまだあるということです。
その担い手がプログラマだと?
そうです。コンピュータはよくも悪くも社会を変え、今も変化させています。その直接的な担い手がプログラマであり、彼らは「社会を変える力」をもっているわけです。ですから若手のプログラマには、「興味をもったひとつのことを続けよ」と言いたいですね。ニッチを極めて専門性をもつと、また新しい地平線が見えてきますから。
吉岡さんご自身は、最近プログラミングをしていますか? 吉岡弘隆さん
お恥ずかしい話ですが、この2〜3年コードを書いていません。私はね、代表作がないのがとても悲しいんです。まつもとさんならRuby、前回この連載に出た戀塚さんならニコニコ動画という作品があります。うらやましくて仕方ない。
 ヘンだと思われるかもしれませんが、私はハッカーになりたいんです。自分のコードで社会を変える魔法使いにね。シリコンバレーならコードを書くCTOなんていくらでもいるから、日本にひとりいてもいいかなと。
吉岡弘隆さん 吉岡弘隆さん(49歳)
1958年生まれ。慶應義塾大学工学部修士課程修了後、日本DEC研究開発センターに入社。日本語COBOLの開発、VAX Rdbの日本語化や国際化などに携わる。1994年に日本オラクルに転職し、Rdb業務のほか、米国オラクルでOracle8を開発する。1998年のネットスケープ社のソースコード公開に強い刺激を受け、2000年にミラクル・リナックスの創業に参加。現在は同社の取締役CTOを務める傍ら、日本OSS推進フォーラム ステアリングコミッティ委員、U-20プログラミング・コンテスト審査員などを兼務。カーネル読書会の主宰者。
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高橋マサシ(総研スタッフ)からのメッセージ 高橋マサシ(総研スタッフ)からのメッセージ
吉岡さんから「私は本当はハッカーになりたいんです」と聞いたとき、ちょっと驚きました。それまでの話から、十分にハッカーしていたからです。しかし、「作品がない」とおっしゃる。なるほど。簡単ではないですが、お忙しいとは思いますが、ぜひお願いしたいと思いました。CTOになってから著名な作品を発表した人などまずいません。世界初の栄冠を!

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