• はてなブックマークに追加
  • Yahoo!ブックマークに登録
未来の技術史を創るエンジニアに贈る「日本の技術クロニクル」 インターネット前夜の「通信」時代:1981〜1990
情報化の流れは、1980年代に入ると「パラダイムシフト」といっていい大きな転換を迎えます。ITは、社会・経済だけでなく、個人の生活にも欠かせない存在となっていきました。この時代に「パソコン」や「BBS」を初体験したエンジニアも多いことでしょう。 技術クロニクル(年代記)の第4回は、職場や家庭に普及していったコンピュータが、さらに「オンライン」でつながり始めた時代を描きます。
(文/佃均 総研スタッフ/根村かやの)作成日:07.10.18
Part1 解き放たれた通信回線とIT技術
FOSが生み出したOAブーム
 1979年4月15日、前年に開港したばかりの成田空港から日本電子工業振興協会(電子協、現電子情報技術産業協会)の海外視察団が出発した。当時、情報産業界の視察先は米国と相場が決まっていたが、電子協の視察団が向かったのはまず欧州だった。
 英国では「ナショナル・エコノミック・デベロップメント・オフィス(NEDO)」を訪問した。政府機関や地方行政の事務処理にコンピュータを適用して、一層の効率化を図るべきと提案していた官民共同組織である。次に西ドイツの政府系研究機関「ゲゼルシャフト・フールマセティック・ウント・ダーテンフェルアルバイツンク(GMD)」で、研究レポートの作成にワードプロセッシング・システムが実用化されている模様を視察した。
 一行はさらに大西洋を渡って米国に移動し、秘書やタイピストによる文書の作成と整理収納のコストが220億ドルに達し、それが毎年2倍のスピードで膨張していることを知った。

 視察団は同年7月、「フューチャ・オフィス・システム(FOS)に関する調査報告書」を発表、オフコンによるデータ処理とワープロの活用を提言した。オフコンはジャストデスクサイズの「NEACシステム100」(73年8月発表)を皮切りに国産メーカー各社が製品化し、日本語ワープロ機は78年9月に東芝が「JW−10」を発表していた。単品として市場に提供されていた機器を、「FOS」の名で体系化したのである。これがOAブームの原点となった。

 1980年の2月、オフコンと周辺機器の展示会(主催:日本経営協会、日本データ・プロセシング協会)が大阪市で開かれた。OKITACシステム9(沖電気)、NEACシステム50U(日本電気)、FACOMシステム80(富士通)、HITAC L−320(日立)、TOSBACシステム15(東芝)、B90(バロース)、USACシステム7(内田洋行)、WANG(伊藤忠データシステム)、NIXDORF8800(兼松エレクトロニクス)、Sycor 350(東洋オフィスメーション)、キヤノナック(キヤノン)などが出展され、オフコン百花繚乱の様を呈していた。
 コンピュータ・メーカーが企図したのは、オフコン市場の拡大だった。80年代末には年間出荷台数が20万台を超え、狙いどおりに推移したが、日本語ワープロ機やファクシミリ(FAX)、複写機、OCR、POS(販売時点情報管理)システムといった事務系電子機器が主役となっていった。予想外だったのは、ワークステーションとパソコン(PC)が、メインフレームやオフコンの地位を脅かすようになったことだった。
通信回線利用の自由化
 メインフレームはIBM30XXシリーズ、FACOM M380に代表される「超大型機」の時代に突入していた。大型化と並行して、「現場のデータ処理は現場で」という分散処理の考え方が脚光を集めていた。都市銀行や鉄鋼業が次期基幹システムの構築に着手し、企業におけるオンラインシステムの普及が集中処理と分散処理による事務の効率化ニーズを喚起した。

 企業のオンラインシステムは専用回線で構築されていた。また、企業間データ交換サービスはDRESS、TSSサービスはDEMOS−Eとして、電電公社が独占的に提供していた。受託計算センターは、専用回線によるオンラインサービスの拡張として、メーカーと卸売業、卸売業と小売業など企業間を結ぶ新しいサービスを志向していたが、そのために必要な公衆回線と専用回線の接続(公―専接続)は民間には許可されない。通信回線は公共企業体である電電公社の専管事項であったからだ。受託計算センターから見れば、国による民業圧迫であり、ユーザー企業からすると利用料金やサービスの内容、使いやすさなどに不満があった。
 1982年、郵政省(現総務省)は中小企業向けサービスに限定して民間事業者による公―専接続を認めることとし、「中小企業VAN」がスタートした。ただし、大容量高速回線を分割して提供する回線サービスは電電公社の独占のまま残された。

 VANを巡る法制度の改革は、しばしば情報処理サービス業の立場に立つ通産省と、電気通信の国家管理にこだわる郵政省の激烈な“綱引き”で語られるが、当の郵政省も実は独占禁止法の観点や国際的なすう勢から、「自由化やむなし」の腹を固めていた。米国でAT&T社が事業分割する代償として、データ交換サービスと情報処理サービスへの参入が認可されたのが、郵政省の方針を後押しした。
 1984年、電気通信事業法、日本電信電話公社民営化法が国会に提出され、可決成立した。施行は85年4月である。このときから電電公社は「日本電信電話(NTT)」となり、民間によるVANは完全に自由化された。
ソフトウェアが起こしたITの「民主化」
 OAブームと通信回線利用の自由化は、70年代に顕在化した「ハードウェアから情報処理・ソフトウェアへ」の動きを決定的にした。
 オフコンは「ターンキー」(キーを回して電源をONにするだけでアプリケーションが起動する)システムと呼ばれたように、組み込まれた業務アプリケーションが決め手だった。大手コンピュータ・メーカーは競争力のある業務アプリケーションを求めてサードパーティのソフト会社と協業した。

日本のIT技術史:1981〜90
1981
「日本語ワープロの利用実態と意識に関する調査」報告書(日本経営協会)
米インテル社が「iAPX432」を発表(同社初の32ビットMPU)
米IBM社がパソコン(PC)市場参入を表明
富士通が超大型メインフレーム「FACOM M380」「同382」を発表
情報処理サービス業電子計算機システム安全対策実施認定事業所制度がスタート(通産省)
日本オフィスオートメーション協会(JIOA)が発足
台湾・台北市郊外の山に航空機が墜落。搭乗していた作家・向田邦子が死去
福井謙一にノーベル化学賞
田中康夫の文藝賞受賞作『なんとなくクリスタル』をきっかけにクリスタルブーム
1982
ホテルニュージャパン火災
羽田空港沖に日航機墜落
日本電気、ジョセフソン素子理論回路を開発
東北新幹線が開通
日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会(JPSA)が発足(86年2月社団法人化)
公衆電気通信法改正(中小企業VAN自由化)
日本電気、16ビットPC「PC−9800」シリーズを発売
三越ニセ秘宝展をきっかけに岡田社長突然の解任。「なぜだ」が流行語に
音楽CDが登場(レコード、カセットテープ時代に変化)
1983
アップル社が「AppleUe」を発表
ロータス・ディベロップメント社のPC用表計算ソフト「ロータス1−2−3」が全米PCソフト市場でトップに
臨時行政調査会(土光敏夫会長)が最終答申
日本海中部地震が発生
国産PCメーカーがPC用統一規格として「MSX」採用を表明
任天堂が家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」を発売
後天性免疫不全症候群(AIDS)が米欧で社会問題に
1984
AT&T社、22の地域電話会社に分割
電気通信審議会が「21世紀に至る電気通信の長期構想」を発表
日本電気が16ビットPC用UNIX「PC−UX」を発売
世界情報処理産業会議を東京で開催
モトローラ社、32ビットMPU「68020」を発表
ロサンゼルスオリンピック(初の完全民営化オリンピック)
電電公社、INSモデル実験を東京・三鷹、武蔵野地区で開始
新日本銀行券(1万円札、5000円札、1000円札)発行
東京・世田谷で通信ケーブル火災事故。金融機関などのオンラインシステムに障害
1985
通産省がシステム監査基準を策定
欧州の主要コンピュータ・メーカーがUNIX採用で合意
科学万博つくば'85開催
富士通が大規模VAN「FENICS」を開始
電気通信事業法、日本電信電話公社民営化法施行
東芝が世界初のラップトップ型PC「T1100」(ダイナブック)を発売(ノートブックPCの原型)
日航ジャンボ機が群馬県御巣鷹山に墜落。搭乗していた歌手・坂本九死去
IBM社とマイクロソフト社がPC用次期OS開発で提携
日米半導体摩擦が表面化
インテル社がPC用32ビットMPU「i80386」を発売
ソフトウェア生産工業化システム(シグマシステム)プロジェクトがスタート
1986
UNIXワークステーションが相次いで製品化(パナファコム、カシオ計算機、ソニー、オムロンなど)
マイクロソフト社がアスキーとの提携関係を解消
男女雇用機会均等法施行
労働者派遣事業法施行
日本社会党首に土井たか子(初の女性党首)
NTT株の一般入札開始。財テクブーム起こる
国鉄分割・民営化法(日本国有鉄道改革法)成立
1987
日米政府が国際VAN自由化で合意
石原裕次郎死去
ニューヨーク証券取引所で株価暴落(ブラックマンデー)
利根川進にノーベル医学・生理学賞
1988
青函トンネルが開業し青函連絡船廃止
トロン協会が発足
瀬戸大橋が開業
日本電子機械工業会がEDI標準規約を作成
UNIX標準化の国際団体「OSF」が発足
ソウルオリンピック
情報処理技術者試験に「オンライン情報処理技術者試験」を追加
1989
昭和天皇が崩御。「平成」に改元
日米政府、半導体関税撤廃で合意(日米半導体摩擦が終結)
消費税を導入
中国で天安門事件
宇野宗佑首相、組閣後2カ月で辞任
美空ひばり死去
コンピュータウイルス「13日の金曜日」で被害が多発
サンフランシスコ大地震
ベルリンの壁崩壊(東西冷戦の終わり)
1990
大学入試に初のセンター試験
パソコンの89年度国内出荷額が初めて1兆円を突破
日米スーパーコンピュータ協議が決着
通産省が「コンピュータウイルス対策基準」を発表
韓国・金大中大統領が北朝鮮を訪問。半島分断後初の首脳会談開催
東西ドイツ統一
 PCの世界はソフト主導がもっと顕著だった。インテル社のMPUを搭載し、OSはデジタル・リサーチ社のCP/M−86かマイクロソフト社のMS−DOSで、FDDやディスプレーはサードパーティの専門メーカーが供給。日本電気や富士通といったコンピュータ・メーカーは、それらをPCに組み立て、大量に販売する役割を果たすようになっていった。
 決め手になったのはやはりソフトウェアだった。初期はソフトウェア・アーツ社の「ビジカルク」、ロータス・ディベロップメント社(のちロータス社、IBM社が買収)の「ロータス1−2−3」が主導権を握った。80年代の中ごろには、ソードの簡易言語「PIPS」、ジャストシステムの日本語ワープロ「一太郎」、管理工学研究所のDBMS「桐」など、PC系ソフトの国内ベンチャー企業によるソフトウェアが相次いで登場した。

ビジネスシヨウ

コンピュータがマシンルームからオフィスへの進出を始めた80年代。ビジネスシヨウ(写真は85年)のテーマにも「OA」という言葉が頻出した
(写真提供=社団法人日本経営協会)

 通信回線利用の自由化によって実現したVANサービスも、センターシステムのアプリケーションのウエートが大きかった。日用雑貨VAN、玩具VAN、眼鏡VAN、物流VAN、海運VANなどの全国規模のシステムが構築・運用され、のちのEDI(Electronic Data Interchange:電子データ交換)の基盤となった。

  第二電電(のち国際電信電話と合併しKDDI)、日本テレコム(のちソフトバンクが買収)など、純民間の電話サービスが登場し、さらに無線回線を使った移動電話(自動車電話、携帯電話)を実現した。回線サービスはデータ通信の基盤に位置づけられ、競争によって通信料金は急速に低価格化し、その上にどのようなアプリケーション(付加価値)を載せるかの争いになっていく。

 もう一つ、見逃せないのはPC通信の登場だった。ニフティサーブ(富士通系のNIF、現ニフティ)、PC−VAN(日本電気)、アスキーネット(アスキー)などの大手サービスが相次いで登場し、電子メール、電子掲示板(BBS)、チャットといった、それまでにない「個人参加型のIT」の世界を切り開いた。

 特定企業における特殊な技術者集団が独占してきたITは、80年代の10年間で一挙に民主化が進んだ。その背景に法制度の改革と社会資源の蓄積、技術の高度化と標準化があったのは確かだが、それは一面的な理解にすぎない。ITのフレーム(価値観や競争原理)を転換する地殻変動を、ソフトウェアが起こしたのだ。
80年代、オンラインの追い風を受けて
 1984年、PC系ソフトの開発・販売会社が雨後の筍のごとく設立されていた中で、群を抜いて目立つ会社があった。PC用通信エミュレータ専門の「インターコム」である。
 同社は創業2年目、社長の高橋啓介氏は36歳。ソフトウェアエンジニアとして脂が乗り切ったときだ。PC用通信ソフトの構造や将来性を熱っぽく語る姿が印象的だった。
高橋啓介氏
株式会社 インターコム 代表取締役
高橋啓介
商社勤務、ASR創業メンバーを経て、1982年に株式会社インターコムを設立。パソコンパッケージソフト「まいと〜く」シリーズで有名。
文字どおりのガレージカンパニー
 高橋がコンピュータと関係をもったのは1969年。勤めていた商社が小型コンピュータを導入することになり、「プログラムの勉強をしろ」と白羽の矢が立った。
「昼間は会社の仕事をして、夜になると電算機学校に通いました。給料をもらいながら、新しい技術を勉強できるんだから、夢中になりました。2年もすると、そこそこのプログラムを書けるようになっていました」
 このとき、岡田聡という講師が、「会社を作るので、一緒にやらないか」と誘ってくれた。商社で業務プログラムを作るより面白そうだ――これが転機になった。

 岡田が創業したオートメーションシステムリサーチ(ASR)の本社は、コンクリート床の吹きさらしの、東京・新橋のビルの1階だった。アメリカ大使館や駐留軍が近かったために戦後、自動車修理工場が乱立した一帯だが、1964年の東京オリンピックを境に廃業が相次いだ。その1つを借りたのだ。
「まさにガレージカンパニーだった。その工場でプログラムを作り、マイコンボードを組み立てた。社長の岡田さんはDEC日本支社(のち日本ディジタルイクイップメント)に勤めていたエンジニアで、私たちもDECのミニコンでプログラムを作ったんです」

 高橋はDEC社のミニコンのユーザーに出向して、プログラムを作ることがあった。ユーザーの中には、NHKもあった。
 選挙速報システム(ホストはIBMシステム/370)のデータをテレビ画面用に編集加工するプログラムを開発するうち、ASRはDEC PDP−11互換のデスクトップ型ミニコンの開発に傾いた。

「ASRはどんどんハード志向に傾いていく。私はソフトウェアをやりたい。どうもしっくりしないな、と考えていた1981年の秋、東京の晴海で行われていたビジネスショウに行ったんです。あるブースに人だかりができていて、何だろう、と思って見に行くと、パソコンでした」
 そのとき高橋が目にしたのはZ−80とCP/Mを搭載した8ビットPCだった。8インチのFDDを2基装備し、ブラウン管ディスプレーとキーボードを一体化したオールイン・ワン型のif800(沖電気)だった。
「驚きでした。それまでコンピュータといえば、数億円から数千万円する、大型汎用機かオフコン、ミニコンだと思っていました。それがパソコンは150万円ぐらいで手に入って、プログラムも組めるし、計算処理もする。これがいずれコンピュータの主流になると思いました」
それは海外では「エミュレータ」と呼ばれていた
 高橋が並のソフトウェアエンジニアでなかったのは、忙しい仕事の合間を縫って海外の情報を仕入れていたことだ。パソコン専門紙もなかった当時、高橋は取引先に聞いた話をもとに、米国の技術誌や製品カタログから情報を集めていた。
「その中にウィンタヘルタという会社が、8ビットPC用の通信エミュレータを開発した、という情報がありました。調べてみると、自分がNHKで作っているシステムと同じだったんです。エミュレーションという概念がなかっただけで同じものを作っていたということに、自分でも驚きました」

 エミュレータというのは、ターゲットマシンと同じ動作を異なるアーキテクチャのコンピュータで擬似的に実現するためのソフトウェアのこと。IBM社のメインフレームにはIBM社の端末、富士通のメインフレームには富士通の端末と決まっていたのは、各社が独自の通信プロトコルを定めていたからだった。エミュレータをインストールすると、日立のメインフレームにNECの端末を接続することができるようになるというわけだった。
 ソフトウェアで食べていくには、自分ができる通信エミュレータで、と考えた高橋は、82年の6月、ASRを辞してインターコムを設立した。社名はDEC社のマニュアルにあった「Inter Communication」から取った。資本金は300万円、従業員は高橋を含めて3人だった。

「赤坂の、TBSの斜め前のビルを借りました。保証金が600万円と言われたけれど、出世払いということになった。某コンピュータ・メーカーから、エミュレータの発注があったんです。正式な発注じゃなくて、ちゃんと動くエミュレータができたら買ってやる、という約束手形のようなものでした。それを担保にしました」
 その某コンピュータ・メーカーは、IBMのメインフレームに接続する端末として、8ビットPCを金融機関に売り込む計画を立てていた。高橋は六本木の日本IBM本社に出向き、英文のマニュアルを熟読した。IBM社は全世界でハード、ソフトのアンバンドルを実施していたので、技術情報を有料で公開していたのだ。
「完成させなければ、設立した会社がつぶれる。徹夜の連続でしたが、自分で選んだことだし、面白かった」
 こうして82年11月、IBMホストコンピュータに接続することができる端末エミュレータが完成した。データベース用「CICS」、リモート・ジョブ用の「RJE」などだ。次いで83年4月には、IBM社の標準通信プロトコルに対応した「3270端末エミュレータ」が完成した。
オンライン化の時代を追い風に
 初期に開発したエミュレータは、コンピュータ・メーカーの買い上げだった。一つにはインターコムの資金を調達するためだったが、もう一つの理由は、当時のPCがメーカーごとに少しずつスペックが異なっていたことだった。つまりソフト製品ではあっても、パッケージとして流通させることができなかった。しかし、転機はすぐ訪れた。
「83年ごろから、全銀協(全国銀行協会)のデータ交換用標準手順の仕様作成に関与するようになりました。銀行に製品を納品するのはコンピュータ・メーカーですが、そのメーカーに納める通信ソフトの仕様を当社が作ったわけです」
 全銀協の標準プロトコルは「Z手順」と称された。コンピュータ・メーカーは何としてもZ手順対応の通信エミュレータを手に入れたかった。独自に開発することもできたが、インターコムという会社が完成させつつあると知って、各社が契約を申し入れてきた。

 84年4月、インターコムは全銀協手順エミュレータ「ZTERM」をリリース、国内メーカー15社と契約を結ぶことに成功した。都市銀行、地方銀行の大半がZTERMのユーザーになった。
 以後、インターコムはDEC社のVT−100用、富士通のF6650用、日立のT560用、BSC手順、JCA手順などに対応した通信ソフトを開発していく。1985年4月に始まった通信回線利用の自由化とPCの普及――VAN、PC通信、PC−FAX、EDI――が追い風になったことはいうまでもない。
エンジニアとしての直感と経験値
 同社は、80年代前半の技術研究開発期、80年代後半からの製品多角化と流通拡大期、90年代半ば以降のインターネット対応期を経て現在、サービスモデルへの転換期にある。

 2007年9月、60歳になった高橋はこう振り返る。
「1990年代前半のピーク時は、売上高が約34億円、純利益は15%以上あった。現在の売上高は当時には届かないが、通信ソフトのほかにも情報セキュリティやASPサービスが大きな利益の源泉になっている」
「ピーク時」というのは1995年のことだ。PC用OSとしてWindows95が登場した年である。
「インターネットの普及は決定的だった。それまで当社が軸足を置いていた通信プロトコルの世界が雲散霧消してしまった。しかしネットワーク、データ通信は社会・経済の基盤。よく観察すれば、次から次に新しい需要が見えてくる」
次回予告 次回の掲載は11月15日、「バブルの終わり、コミュニティの始まり:1991〜2000」です。
  • はてなブックマークに追加
  • Yahoo!ブックマークに登録
あなたを求める企業がある!
まずはリクナビNEXTの「スカウト」でチャンスを掴もう!
スカウトに登録する
根村かやの(総研スタッフ)からのメッセージ 根村かやの(総研スタッフ)からのメッセージ
82年のJPSA(年表参照)設立時には、アスキーの西和彦氏やソフトバンクの孫正義氏の顔もありました。当時、西氏26歳、孫氏24歳。35歳の高橋氏は年長組だったとか。当時の「ソフトハウス」には、現在の「ネットベンチャー」に相当する若さのきらめきがあったのです。それもまた時代の象徴といえそうです。

このレポートの連載バックナンバー

日本の技術クロニクル

今の技術は、いつ生まれどのように育ってきたのだろう。エンジニア自身が築き、そしてこれからつくっていく技術クロニクル(年代記)を、年代ごとに紐解きます。

日本の技術クロニクル

このレポートを読んだあなたにオススメします

No tech No life 企業博物館に行ってみた

ASIMOの祖先・兄弟10体が休息する空間

No tech No life 企業博物館に行ってみた日本を代表する2足歩行ロボットとして、ASIMOを知らない人はいないだろう。そのASIMOに至るまでのHondaのロボット開発の…

ASIMOの祖先・兄弟10体が休息する空間

No tech No life 企業博物館に行ってみた

HDDは洗濯機大の7.25MBから手の上の1TBへ

No tech No life 企業博物館に行ってみた企業のロビーや展示ホールに飾られた、歴史的な逸品の数々!会社の歴史でありながら、その分野の「発達史」も追える展示を紹介する、シリ…

HDDは洗濯機大の7.25MBから手の上の1TBへ

No tech No life 〜この技術とともに在り〜

世界をつないだ「商用インターネット」技術16年史

No tech No life この技術とともに在り最新の「通信利用動向調査」(総務省)によれば、日本のインターネット利用者数は2007年末で推計8811万人。この広範な普及を可能…

世界をつないだ「商用インターネット」技術16年史

No tech No life 〜この技術とともに在り〜

技術と技術者の革命「Java」の14年史

No tech No life この技術とともに在り米サン・マイクロシステムズが開発し、1995年に発表したプログラミング言語、「Java」。インターネットの普及とともにその特性が…

技術と技術者の革命「Java」の14年史

No tech No life 〜この技術とともに在り〜

クルマのIT化の最先端「カーナビ技術」の27年史

No tech No life この技術とともに在り世界初のカーナビから27年、GPSカーナビの登場から18年。新車だけをとると、「カーナビ付き」は、現在約7割にも達するという。日…

クルマのIT化の最先端「カーナビ技術」の27年史

スキルや経験はよさそうなのに…(涙)

人事が激白!悩んだ挙句、オファーを出さなかった理由

オファーが来る人、来ない人の差って何だろう?過去にスカウトを利用したことがある企業の採用担当者55人の声をもとに、「惜しいレジュメ」の特徴を…

人事が激白!悩んだ挙句、オファーを出さなかった理由

この記事どうだった?

あなたのメッセージがTech総研に載るかも

あなたの評価は?をクリック!(必須)

あなたのご意見お待ちしております

こちらもお答えください!(必須)

歳(半角数字)
(全角6文字まで)
  • RSS配信
  • twitter Tech総研公式アカウント
  • スカウト登録でオファーを待とう!
スマートグリッド、EV/HV、半導体、太陽電池、環境・エネルギー…電気・電子技術者向け特設サイト

PAGE TOP