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未来の技術史を創るエンジニアに贈る「日本の技術クロニクル」 世界初のオンラインシステムが日本で動いた:1961〜1970
ベトナム戦争が開戦し、中国では文化大革命が始まり、ミニスカートが世界的に大流行し、アポロ11号が月へ行った1960年代。技術クロニクル(年代記)の第2回は、そんな騒然として華やかな時代の中で始まっていた、日本の「システムエンジニア」の歩みを追います。
(文/佃均 総研スタッフ/根村かやの)作成日:07.08.23
Part1 東京五輪がエンジニアを育てた
機械装置からシステムへ
 1960年を境に、電子計算機は機械装置から「システム」へ大きな一歩を踏み出した。それを加速させたのはレミントン・ランド(RR)社の「UFCモデルU」(1960年)とIBM社の「システム/360」(1964年)だった。UFC(UNIVAC File Computer)モデルUは真空管とワイヤードプログラムの延長線上にあったが、磁気ドラム装置を接続して大容量のデータとプログラムを内蔵することができた。プログラム内蔵型電子計算機理論を実現した最初であり、データベースという新しい概念を生み出していく。
 IBMシステム/360は演算素子にICを採用し、磁気ドラムの代わりに磁気ディスクを装備していた。かつプログラムを入れ替えて事務計算にも技術計算にも適用できる機能を持っていた。「360」という名称が示すように、360度の全方向に使える「汎用」の概念が示された。

 もう一つ、この時期の特徴的な出来事は、「ベンチャー」の登場だった。1950年代後半にウイリアム・ショックレーがショックレー半導体研究所を、RR社からウイリアム・ノリスが独立してコントロール・データ社(CDC)を設立。ソフトウェアを専門とするアプライド・データ・リサーチ(ADR)社、システムコンサルタントを専業とするシステムデベロップメント社(SDC)なども相次いで設立され、1960年代に入って大きく成長していった。
国鉄MARSの衝撃
 一般に、「世界最初のオンラインシステムは1964年の東京オリンピック」とされているが、実はその5年前、世界初のオンラインシステムが日本で動いていた。1959年、日本国有鉄道(現JR)が東京と大阪に設置したUNIVAC機を電話回線で結び、初めてコンピュータ間のデータ送受信に成功した。
 国鉄は翌1960年、米ベンディックス社の「G15」を使って、東京―大阪間で貨物列車編成用のオンラインシステム(当時は「テレプロセッシングシステム」と呼んでいた)を稼働、次いで東海道線に投入した新型特急「こだま」の座席予約システムを開発した。これらが世界で初めてのオンラインシステムとなり、1966年には「MARS(Magnetic Electronic Automatic Seat Reservation System)」と命名された。

 開発に携わったのは、福岡県直方の出身で、日大から伊藤忠商事に入った津崎憲文だ。「最初からプログラマとして採用され、新人研修が終わると子会社の東京電子計算サービスに移籍、そのまま国鉄に出向した。列車のダイヤグラムを作る職人(国鉄職員)さんたちに怒られながら、FORTRANとASSEMBLERでプログラムを組んだ」と言う。

 東京オリンピックを世界最先端のコンピュータ・システムで管理しようと考えていた日本オリンピック委員会(JOC)は、当然のように日本レミントン・ユニバック(現・日本ユニシス)に打診した。ところが同社は労働省・職業安定所のオンラインシステムに手いっぱいだった。このため日本IBMが候補となった。
日本のIT技術史:1961〜70
1961
ソ連の有人人工衛星「ボストーク1号」地球一周に成功
国産電子計算機レンタル会社「日本電子計算機」設立
国鉄がパワーズ式統計機51台を廃棄。パンチカード・システム(PCS)時代の終焉
1962
日立製作所が初のコンピュータ専門学校を開校
キューバ危機が勃発
1963
富士通「FACOM231」を開発
横河電機が米ヒューレット・パッカード社と提携
電電公社、データ伝送サービスを開始。労働省・職業安定所のオンラインシステムを稼働
1964
IBM社が「IBMシステム/360」を発表
日本がOECDに加盟
東海道新幹線開業
第18回オリンピック東京大会開催
1965
米軍が北ベトナム空爆(北爆)を開始
富士通が「かなCOBOL」を実用化
三井銀行が初の銀行オンラインシステムを稼働
テキサス・インスツルメンツ社がICの特許を告示
国鉄が「みどりの窓口」をスタート
朝永振一郎氏にノーベル物理学賞
1966
いざなぎ景気が本格化
国内の電子計算機設置台数が2000台を突破
中国で文化大革命始まる
日産自動車とプリンス自動車が合併
1967
第3次中東戦争が勃発
公害対策基本法を公布・施行
電電公社が「データ通信本部」を設置
電気通信総合研究所が発足
ツイッギー来日、ミニスカートが大流行
1968
米原子力空母「エンタープライズ」が佐世保港に寄港
電電公社による全国地方銀行協会データ通信システムが稼働
通産省に「電子政策課」新設
米ジョンソン大統領が北爆停止を発表
日米政府が小笠原返還協定に調印
鉄鋼連盟が日本製鉄鋼の対米輸出の自主規制を決める
英国策コンピュータ・メーカーICL社設立
郵便番号制度がスタート
全国に学園紛争が広がる
3億円事件が起こる
1969
情報産業振興議員連盟が発足
東大安田講堂事件
米IBM社がハード、ソフトの価格分離を実施
アポロ11号、月面着陸に成功
郵政省が「データ通信回線利用自由化に関する基本方針」を決定
第1回情報処理技術者認定試験
1970
大阪・千里で万国博覧会
八幡製鉄と富士製鉄が合併
「情報処理振興事業協会等に関する法律」公布・施行
ソフトウェア産業振興協会、日本情報センター協会が発足
通産省に「情報処理振興課」新設
IBM社のコンピュータ・アーキテクトのジーン・アムダールがアムダール社設立
 日本IBMが米本社に相談すると、「RR社以外では無理なので、断るように」という返事がきた。このとき米本社社長だったトーマス・ワトソン・ジュニアが、「いつからIBM社は“挑戦”という言葉を忘れたのか」と激怒し、それが逆転受注につながったという逸話がある。
東京オリンピック育ちのエンジニアたち
 東京オリンピックの成績集計システムの開発が始まったのは1963年からだった。パンチカードの機械式計算装置「IBM1401」と「同1410」を千駄ヶ谷の日本青年館に設置し、国立競技場、代々木競技場など計13カ所を600〜2400bpsの電話回線で結ぶ。パンチカードに選手の情報を記録して一覧表を作り、競技の結果を入力していく。 IBM1401と同1410で集計した結果を報道機関に配信する。ちなみにIBM1401の処理結果を印字する電子印字装置「EP(Electric Printer)」は諏訪精工舎が開発した。現社名のEPSONには、「EPの息子たち」の意味が込められている。

 オンラインシステム開発チーム(総員262人)の陣頭指揮に立ったのは、のちに富士通に移ってプログラマの育成に尽力した安藤馨だった。日本IBMがマシンの保守要員として採用した小林厚二、今村茂雄、岡崎司、田部雄三といった人々が、このプロジェクトを通じてプログラマとなっていった。
 ちなみに、この開発中に小林厚二が「システムエンジニア」という言葉を創出したとされる。統括者の安藤の「こういう仕事を専門にする技術者を何と呼べばいいか」という質問への答えだったという。
 またオンライン処理については米IBM社採用の村井勝が担当した。村井はこれを機に三井銀行、東海銀行のシステムを担当、1960年代後半から70年代前半に活発に構築された金融オンラインシステムの第一人者となっていく。
 東京オリンピックがプログラマを世に輩出するきっかけだったことは間違いない。
代々木の水泳競技場
通信回線で結ばれた電子印字装置の出力結果が記者団に提供されたが、全文がアルファベットだったので記事にするのに苦労した逸話も残っている。写真は代々木の水泳競技場(写真提供=日本アイ・ビー・エム株式会社)
60年代日本の「ソフトウェアことはじめ」
プログラミング教育なんてなかった
下條武男氏
日本コンピュータ・ダイナミクス(株)会長
下條武男
1967年、日本で3番目の独立系ソフト会社として同社(NCD)を創業。日本人システムエンジニアの第1期生のひとり。
 下條武男は1931年、大阪・天王寺で菓子製造を営む家に生まれ、1958年、大阪大学理学部数学科を出た。計算機の仕事を選んだのは「大学で学んだ数学理論を生かせる」と考えたからだった。「試験を受けたのは吉澤会計機、入社したのは日本レミントン・ユニバックでした」と下條は話す。
「入社当時、日本レミントン・ユニバックの社員は250人ほど、新入社員は15人か16人で、その半分がソフト部隊に配属されました」

 採用は大阪支店だったが、下條は研修のため上京し、そのまま東京で勤務することになった。
「プログラミング教育なんてなかった。ドン、と英文のテキストを渡されるんです。あとは独学で習得するしかなかった」
 そこで下條は先輩が教えてくれたことを手がかりに、ほかの部分に自分なりの理論を当てはめ、テキストの図表を参照しながら電子計算機の構造やプログラムの原理を理解していった。英語の文章を翻訳するより、理論で理解したほうが早いし正確だった。

 翌59年、山一證券のシステム開発チームに配属された。山一證券はこの年、磁気ドラムを装備したトランジスタ式電子計算機「UFC」にレベルアップしたばかりだった。機械語で記述したコードをカードにパンチして読み取らせ、内蔵メモリに蓄える新しい方式だった。このため下條は、機械語の文法と、頻繁に使用するコードを覚えなければならなくなった。
「よく使うコードは手引書を参照すればいい。そう考えたら楽になりました。そしてより重要なのは、どのようなプログラムを作ればいいか、ロジックの組み立てだということに気がついたわけです」

 ほかの技術者が1本のプログラムを完成させるのに、例えば4週間かかるとする。ユーザーの業務を調べ、要望を理解するのに1週間、プログラムを組むのに1週間、マシンにかけて不具合を調整するのに2週間。下條の場合は、ユーザーの業務や要望を理解するのにほかの人の1.5倍をかけた。またプログラムを組むのに1週間半かかる。ここまでで既に3週間。周りから見ると、ひどく遅れているように思えるが、修正がほとんどなかった。
「私が作るプログラムには、論理的な矛盾やコーディングのミスが皆無でした。初期の設計さえ正確であれば、早く仕上げることができるんです。自分はプログラマよりシステム設計のほうが向いている、という自信がつきました」と言う。
SEからコンサルタントへ
 入社4年目の1961年、30歳の下條に転機が訪れた。社団法人日本能率協会から「電算機の講師になってほしい」と誘いの声がかかったのである。
「日本能率協会の新居崎邦宜という常務理事は、たいへんな勉強家でした。それに先見性があった」
 先見性とは、すなわち電子計算機だった。新居崎は1961年、協会にスペリーランド社の最新鋭機「USSC」を導入すると、EDP(Electronic data processing)研究所を設立。電子計算機の導入を考えている企業の担当者に、業務の電算化によってどれほどの生産性、効率性、省力化が実現するかを実証することを目指した。

 下條はそこでシステム設計の「先生」として仕事をすることになった。情報システムの基礎知識を教える傍ら、アメリカでの電算機利用動向や最新の技術動向を伝えるシンポジウムなどのイベントの進行役も務めた。協会の職員や協会所属のコンサルタントでは、専門的な話に対応できなかったのだ。小野田セメントの南沢宣郎、東京海上火災の山口大二、野村證券の大野達男といった人々が講演や討論会を行い、受講者は常に500人を超えた。

 また、大手企業の電子計算機導入に関する調査や指導を担当した。東洋ベアリング、日本電装、汽車製造、住友機械工業、日本放送協会(NHK)といった企業に対して、事務の機械化の相談に乗った。
「EDP研究所でテスト用に作ったプログラムは、そのまま本番で使うこともできました。受講生が勤める会社の実務を分析して、実際に動くシステムを作ったんです」

 ただし、テスト用に処理するデータは実際よりはるかに少なかった。データ処理の時間は極端に短く、あっという間に終わってしまうのだが、その前に、長大なプログラムをパンチし、それを電子計算機に読み取らせる間、テストを見にきたクライアントを延々と待たせることになる。
「そこで、プログラムを磁気テープに格納することを思いついたんです」
 当時、磁気テープはデータと処理結果を記録するもので、プログラムの格納には用いられていなかった。のちにこの方式は「プログラム・ライブラリ」として一般的になる。また、アプリケーション・プログラムと処理データを分け、相互に同期させながら一貫処理を行っていく手法は、米スペリーランド社に紹介され、やがてUNIVAC機のOS「OS/11」の一部に組み込まれていった。
DBMSの基礎理論に
 日本能率協会時代の下條が作ったプログラムでは、「バイナリー・サーチ」が最も名高い。もっともこの名称は、のちに米国の学会が名付けたもので、当時、下條は「区間縮小法」とか「二分サーチ法」と呼んでいた。
「例えば辞書から特定の単語を探し出す場合、おおよその見当をつけて辞書を開くでしょう? パッと開いたところが目的の言葉の前か後かを見る。そこで不要な部分を捨てる。残った部分をまた大ざっぱに見当をつけて開く。その前か後か、さらに前か後か。そうすることで3回か4回で目的の言葉を見つけることができる。そういう理屈です」

 システムに格納されているデータには、辞書のような並び順のルールはない。格納されているデータを一つひとつチェックしていくので、データの件数分だけ計算機は動き続け、必要なデータを探し出すだけで時間がかかってしまう。
 そこで下條は、人間の「見当をつける」という行為を観察し分析して、システムにも同じプロセスを実行させる方法を考案したのだった。データにキーとなるコードを付け、コード順に並べておく。探したいデータのキー・コードと、並べたデータの真ん中のコードとの大小を比較すれば、次に探すべきなのが前半分か後ろ半分かがわかる。次はわかった半分の真ん中にあるコードと照合、というふうに合致するまで二分・照合を繰り返す。「半日以上かかっていたデータ検索の作業が15分で終わった」という記録が残されている。

 1964年の秋、米コンピュータ学会で全く同じ手法が「バイナリー・サーチ理論」として発表され、データベース管理システム(DBMS)の基礎理論となった。それを知った中嶋朋夫(当時日本能率協会、のち情報処理振興事業協会開発振興部長、青山学院大学講師)が、アメリカの学会誌に発表するよう勧めたのにと下條の論文嫌いに腹を立てる一方で、そのおおらかな人柄に苦笑したと伝えられる。

 たった二人で創業したNCDは、40年後の今、グループ従業員600人に拡大した。2000年9月にはJASDAQに上場もしている。下條は現在76歳だが、口癖は「生涯現役」だ。
次回予告 次回の掲載は9月20日、「国産メインフレーム『DIPS』誕生へ:1971〜80」です。
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根村かやの(総研スタッフ)からのメッセージ 根村かやの(総研スタッフ)からのメッセージ
「若いころは、新しいプログラミング言語が出てくれば次々勉強した」と言う下條氏。でも「若いころ」は40代で「新しい言語」は「C」だったり、「60代でJava」だったりします。「つい最近も、社員が作ったC言語のプログラムを一から作り直した。会社ではマズいかなと思って、自宅でこっそりね」と目を輝かせるのですから、まさに生涯現役です。

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