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未来の技術史を創るエンジニアに贈る「日本の技術クロニクル」 兜町にアメリカの電算機がやってきた:1945〜1960
今、触れている技術は、いつどのように生まれ、育ってきたのだろう。今、生み出されつつある技術は、どのように育っていくのだろう。エンジニア自身が築いてきた、そしてつくっていく技術クロニクル(年代記)の第1回は、「IT」という言葉は存在せず、「プログラマ」「コンピュータ」さえ一般的ではなかった約60年前から始まります。
(文/佃均 総研スタッフ/根村かやの)作成日:07.07.19
ユビキタス――いつでも・どこでも・誰でも――のIT時代。まだ見ぬ地平線の向こうを切り開いてきたエンジニアたちの軌跡を追ってみた。
Part1 真空管から始まった
情報処理技術開発を加速した「戦争」
 現在のコンピュータの原理が確立したのは1940年代、技術開発を加速させたのは第2次世界大戦である。米国は北アフリカでの戦車戦で砲撃精度を上げることを命題とし、イギリスはドイツの暗号を解読するという戦略的な狙いがあった。

 ただし第2次世界大戦中に前線配備されたのは機械仕掛けの電動パンチカード・システム(PCS)、手回し式計算機、電動計算尺だった。あまり知られていないが、日本海軍が世界に誇った戦艦大和の主砲塔には、砲弾の発射角度を算出する電動計算尺が装備されていたという。

 電子計算機の研究を大きく進めたのは、真空管の精度が向上したことだった。それには、相対性理論で知られるアインシュタインもかかわっていた。開発チームは衝撃耐度を格段に改善したVT信管を生み出し、米海軍はそれを砲弾に組み込んだ。
 太平洋戦線で日本軍の航空機を無力化したのは、真空管であるとさえいえる。またオーストラリアのメルボルンに設置されていたPCSセンターは、零戦をはじめとする日本の軍用機生産数を、ほぼ正確に把握することができた。
「PG」でも「SE」でもなく、「WS」だった!?
 米陸軍が主導した電子計算機「ENIAC」の開発が完了したのは1945年の末だった。1万7500本の真空管を使い、0と1の電気信号で10進法の演算処理を実行する。ドイツから亡命していたフォン・ノイマンがプログラム記憶方式の概念を発表していたが、コアメモリもプログラミング言語もまだ存在していなかった。
 では演算機構に命令を送るにはどうしていたのだろうか。実は、配電盤を処理プロセスごとに人手で取り換えていたのである。パンチカードでデータを入力し、配電盤で演算処理を指令、その結果をパンチカードに記録する。

 この作業を専門に行うエンジニアは「ワイヤリング・スペシャリスト」と称された。ただしワイヤリングは第2次世界大戦前のPCSでも一般的に行われていて、水品浩(のち日本IBM社長)、北川宗助(日本ビジネスコンサルタント、エヌアイデイ創業者)、安藤馨(のち富士通常務)といった人々が第2次世界大戦前から活躍している。
1955年、「日本のプログラマの歴史」が幕開け
 ENIACの新基軸は、0と1で計算を行うデジタル式という一点にあった。演算素子としては真空管のほか、リレー、パラメトロン、トランジスタの試行錯誤が繰り返されていた。それぞれに一長一短があったが、真空管が電子計算機の主流となった背景には、通電の安定性と保守性、生産の容易さなどがあった。

 電子計算機時代の幕開けを告げたのは、レミントン・ランド社(現ユニシス社)が1954年1月に発表した世界初の商用(量産)電子計算機「UNIVAC120」だった。吉澤会計機を通じて日本に輸入されたのは翌年2月である。船便で横浜港に陸揚げされた2台のUNIVAC120は、その2カ月後、東京証券取引所と野村證券に納入された。
「灰色の大きな金属箱(UNIVAC120)がゆらゆら揺れながら、クレーンに吊り上げられていく。私たちはその下で、手に汗を握って成り行きを見続けていた。灰色の箱が窓枠を外したビルの中に納まったとき、ワッと歓声が上がった」
 当時、立教大学4年生で、吉澤会計機に入社が内定していた佐藤雄二朗(のち日本ユニバック取締役を経てアルゴ21を創業。情報サービス産業協会元会長)は懐かしそうに語る。それは日本における電子計算機利用が始まったときであり、プログラマの歴史の始まりでもあった。

「1953年12月に渡米し、フィールド・エンジニアリングのパイロットコースを受講しました。プログラムは2面の配電盤で行い、ひとつは入出力のフォーマットを決めるもの、もうひとつは演算の内容を指定するものでした。プログラム内蔵型という新しい概念が新鮮でした」――日本人として最初のプログラマとなった富田和夫(日本ユニシス社友)は語っている。
 富田を先駆として、多田誠澄、米口肇(日本レミントン・ユニバック)、岡本彬(有隣電機精機)、中村洋四郎(富士通信機製造)といったプログラマの足跡が続いている。だがこうした人々は、いまだに電気技師と同類に扱われていた。「プログラマ」がエンジニアとして認知されるには、高級言語(プログラミング言語)が登場する1960年まで待たなければならなかった。
日本のIT技術史:1945〜60
1945
フォン・ノイマンが電子計算機のプログラム記憶方式概念を発表(6月)
日本がポツダム宣言を無条件受諾(8月)
連合国軍総司令部(GHQ)の戦略爆撃調査団がパンチカード・システムを活用
1946
世界初の電子計算機「ENIAC」発表(2月)
1947
国際標準化機構(ISO)が発足
マサチューセッツ工科大学(MIT)でWHIRLWINDプロジェクトがスタート
1948
吉澤機器(後の吉澤会計機)がレミントン・ランド社と代理店契約
J.バーディン、J.プラッテーン、W.ショックレーがトランジスタを発明
1949
1ドル=360円体制
世界初のプログラム内蔵型電子計算機「EDSAC」完成(5月)
通商産業省が発足(5月)
1950
日本インターナショナル・ビジネス・マシーンズ(日本IBM)業務開始
東京通信工業がテープレコーダを開発
朝鮮半島で南北政治勢力が戦争状態に
MITが磁気コアメモリを開発
1951
NHKがテレビ実験放送
1952
日本IBMがキーパンチ・トレーニング・スクールを開設
高千穂交易がバロースと代理店契約
東京大学、TAC(Todai Automatic Computer)プロジェクトを開始
富士通信機製造が株価計算用リレー式電子計算機の開発に着手
日本電信電話公社が発足
1953
早川電機工業がテレビ受像機を発売
電気試験所、国産電子計算機「MARK I」を開発
パンチカード・システムの輸入関税免除
1954
富士通信機製造、初の国産商用電子計算機「FACOM100」を完成
東大の後藤英一がパラメトロン素子を発明
1955
トヨタ自販が高級車「トヨペットクラウン」発売
東大の山下英男が電子計算機調査委員会を組織
東京証券取引所と野村證券が真空管式電子計算機「UNIVAC120」を導入
1956
富士写真フイルムがレンズ設計用真空管式電子計算機「FUJIC」を開発
電気試験所がトランジスタ式電子計算機「MARKT」を開発
日興證券がUNIVAC60を導入
東京瓦斯がUNIVAC120を導入
有隣電機精機が国内初の計算センターを開設
1957
電気通信研究所がリレー式電子計算機「MUSASHINO 1」を開発
日立製作所が技術計算用にパラメトロン式電子計算機「HIPAC 1」を開発
ソ連、初の人工衛星「スプートニク1」の打ち上げに成功
技術計算用プログラミング言語「FORTRAN」完成
1958
日本電気がトランジスタ式電子計算機「NEAC2201」を完成
東京タワーが完成
伊藤忠商事が東京電子計算センターを開設
1959
東京芝浦電気がトランジスタ式電子計算機「TOSBAC2100」を完成
キューバ革命
伊勢湾台風
国鉄が世界初のオンラインシステム「MARS」を完成
1960
情報処理学会が発足
事務用プログラミング言語「COBOL」を標準化
通産省とIBM社、電子計算機基本特許問題で合意
野村證券に搬入されるUNIVAC120
横浜港に荷揚げされたUNIVAC120は再び船に載せられ運河で運ばれた。ゆらゆらと上がっていくマシンが窓の内に納まったとき、ワッと歓声が上がった。(写真提供=日本ユニシス株式会社)
Part2 19世紀「プログラマの母」から、20世紀「COBOLの母」へ
プログラム2人の母
 コンピュータ・プログラムには2人の「母」が存在する。オーガスタ・エイダ・ラブレス(1815〜1852)とグレース・ホッパー(1906〜1992)だ。エイダは制御システム向けプログラミング言語「Ada」にその名を残し、ホッパーはビジネス向け言語「COBOL」を考案したことで知られる。

 初期の電子計算機に採用されていた配電盤(ワイヤード・プログラム)は、イギリスの数学者チャールズ・バベッジ(1791〜1871)が考案したとされる。彼は三角関数や対数を正確に記述する「階差機関」(Difference Engine、1822年)、「解析機関」(Analytical Engine、1842年)を構想し、パンチカードとワイヤード・プログラムの組み合わせを考案した。
 オーガスタ・エイダは詩人ジョージ・バイロンの一人娘で、ラブレス伯爵夫人という恵まれた環境にあった。数学に興味があった彼女はバベッジの研究室に勤めていて、1942年から43年にかけて、解析機関の解説書に注釈を付けた。その中でワイヤード・プログラムを記述したことから、「世界で最初のプログラマ」「プログラマの母」と称される。ただし、彼女はバベッジが作ったプログラムを清書(コーディング)しただけという説が強い。
「バグ」=虫を捕獲
 グレース・ホッパーは、イェール大学大学院で最初に数学の博士号を取った女性でもある。第2次世界大戦で米国が反攻に転じた1943年、海軍に予備役として応召し、ハーバード大学の船舶計算研究室で電子計算機の開発に従事することになった。

 ハーバード大学では、ハワード・エイケン(1900〜1973)がリレー式の「MARK I」(プログラム内蔵型計算機の原型)の開発を進めていて、ホッパーはそのプログラムを担当した。配電盤に入り込んで誤動作させた蛾を作業日誌に張り付け、「実際にバグ(虫)が発見された最初の例」というコメントを付けた。
 彼女は1949年、海軍中尉のままエッカート・モークリー社(1950年レミントン・ランド社)に移ってENIAC後継機の開発に従事したが、しばしばこの逸話を話した。これがプログラマの間で広まって、プログラムの不具合を「バグ」と呼ぶようになった。蛾を張り付けた日誌は現在もワシントンD.C.のスミソニアン博物館に保存されている。
COBOLの母グレース・ホッパー女史
COBOLの母グレース・ホッパー女史は海軍少将で退役してもなお、IT産業の基礎技術研究の毎日を送った。(写真提供=日本ユニシス株式会社)
コンパイラを考案
 1954年1月にレミントン・ランド社が発表した「UNIVAC120」は、産業界に電子計算機が普及するきっかけとなった。しかしワイヤード・プログラムでは専門技能者が不足した。そこでホッパーは、共通プログラム(サブルーチン)を集約すれば、技能者不足を補うことができると考えた。
 また1950年にマサチューセッツ工科大学が開発した磁気コアメモリが、フォン・ノイマンのプログラム記憶方式概念を実現可能にした。プログラムを0と1の機械語で記録しておくのだが、ホッパーは機械語を記号に置き換えることを思いついた。機械語よりもわかりやすく短い記号で一連の機械語(サブルーチン)を呼び出し、繰り返し利用するやり方である。この方式は現在、「コンパイル」と呼ばれ、そのツールは「コンパイラ」と総称されている。
1960年、「COBOL」誕生
 1952年、自動プログラミング開発部長として記号を機械語に変換する「A0」というコンパイラを考案し、その5年後(1957年)、英語に近いコードから機械語を生成する「Flow-Matic」が完成した。UNIVAC120やその後継機は金融、証券、保険といった分野の業務処理に利用されたので、Flow-Maticはおのずから事務計算用プログラム向けだった。
 A0に刺激を受けたのは、当時の電子計算機市場でレミントン・ランド社を追撃していたIBM社だった。IBM社でコンパイラの開発に取り組んでいたジョン・バッカス(1924〜2007)は1957年、技術計算用のIBM704向けに「FORTRAN(FORmula TRANsration)」を発表、くしくも同じ年に事務処理用と技術計算用の高級言語が出そろった。

 1959年、ペンシルベニア大学で開催された米国政府のプログラミング言語標準化委員会(CODASYL)でFlow-Maticは「COBOL(Common Business Oriented Language)」と命名され、1960年に「COBOL60」として発表されて今日に至っている。
 ホッパーはその後も海軍にとどまり85年少将に昇進、86年退役後はディジタル・イクイップメント(DEC)社の顧問となっている。
次回予告 次回の掲載は8月23日、「東京五輪がエンジニアを育てた:1961〜70」です。
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根村かやの(総研スタッフ)からのメッセージ 根村かやの(総研スタッフ)からのメッセージ
ほんの数年前を振り返って「前のプロジェクトのときはこんなツールはなかったなあ」などと思ったことはないでしょうか。数年前の自分と現在の自分でさえ、まったく違う技術の中にいることがある。過去のエンジニアたちの成果が現代の私たちに手渡され、形を変えて次の時代に受け継がれていく。そうして歴史は流れていくのでしょう。 「技術者自身が、どんな技術の中で、どんな仕事をしてきたか」を中心にしたTech総研版技術史、6回シリーズで連載します。

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