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1762年、日本初のエキスポを成功させたあとに転職するとしたら…… 自分と比較 もしも平賀源内が35歳でレジュメを書いたら
目指すものがまだ見つからない中でキャリアアップを図るとしたら、自分をどうアピールすればいいのか?と悩むエンジニアは少なくないはずだ。そんなケースでヒントになりそうなポイントを、歴史的人物の「レジュメ」に見てみよう。
(取材・文/中村光宏 総研スタッフ/山田モーキン)作成日:06.11.01
はじめに もし平賀源内が転職するとしたら……歴史をひもとき、レジュメを代筆
 登録しておけば市場価値を相対的に把握できたり、登録者のレジュメを熟読した企業から、スペックや志向にふさわしいメッセージが届く、エンジニアのキャリア形成に役立つリクナビNEXTスカウト。ところが、いざ登録するためにレジュメを作り始めてみると、自分のことをうまくアピールできずに苦労するエンジニアは多い。そこで、Tech編集部はだれもが知っている超有名エンジニアのレジュメを作成してみることで、何かしらのヒントが得られるのでは?と考えた。
 今回取り上げたのは「平賀源内」。歴史的人物を題材にしたこの架空の「レジュメ」シリーズで、初の日本人の登場である。

 平賀源内、というと多くの人が「エレキテルの発明者」とまず思い浮かべるだろう。しかし、源内はエレキテル以前に、多くの「日本初」を成し遂げている。全国規模のエキスポを成功させたり、歯磨き粉の宣伝コピーを考案したり、「土用の丑の日にはうなぎを食べる」という習慣を生み出したのも、平賀源内である。

 源内の仕事のスタイルは、思い浮かんだアイデアを次から次へと実行に移し、開発案件に携わり、事業を興してはそれを人に任せて、自分は次の企画に取り組むというもの。源内のことを「先生」と慕う者は多かったようだが、一方で、足軽の家に生まれ、武士としては最下級の身分でありながら、藩主や著名な学者、さらには幕府の要人からも目をかけられる源内のことを批判・中傷する者も多かったようだ。彼が、藩を飛び出して江戸に向かったのも、同僚たちのそうした視線に耐えかねたのも一因にあると言われている。つまり、江戸に出た源内には、どうやら「これで身を立てよう」という確固たる信念や志が定まっていたわけではないようである。多くの分野で次々とアイデアを事業化していった彼の仕事のスタイルは、このときから始まっていたわけだ。そういう意味では、発明家・科学者としてだけでなく、平賀源内という人は、プロデューサーや起業家、実業家としての才能も持ち合わせていたことになる。

「自分はこの分野で道を極めたい」といった決定的な目標はもっていなかったであろう平賀源内が、もし自分をアピールするとしたら、どんな「レジュメ」を書くのだろうかというのが今回のテーマ。転職によるキャリアアップを希望しているが、将来の自分の目標はまだ定まっていないというエンジニアの方に、レジュメを書くうえでのヒントにしていただければ幸いである。

 それでは早速、平賀源内35歳の「職務経歴」「自己PR」「キャリアプラン」をご覧いただきたい。
profile
1728年、現在の香川県志度町に生まれる。1740年、藩医の久保桑閑、漢学者の菊池黄山、本草学(薬草学)と陶芸に詳しい三好官兵衛らに師事して、本草学、医学、陶器製造を学ぶ。1752年、25歳で、久保桑閑に伴われて長崎へ遊学。世界情勢、西欧の科学技術、日本の海外貿易の実態などを目の当たりにする。
【職務経歴編】Tech総研編集部の仮説 さまざまな分野で旺盛な活動を重ね、誰もが未体験のことを成し遂げたことなど、多彩な実績をアピールするはず
1753年(26歳) 広島で陶土を発見し、陶器製造を指導
長崎遊学からの帰路、鞆之津(現在の広島県福山市鞆)付近で良質の陶土を発見し、そこで地主である溝川家に陶器製造を勧め、製造法を指導しました。
1754年(27歳) 高松藩の薬坊主並・三人扶持に昇格……(ポイント1)
栗林公園内の薬草園で、朝鮮人参の栽培に成功。また、甘薯栽培や砂糖の精製に関する知識と技術を藩主・松平頼恭公に評価され、薬坊主並・三人扶持という異例の俸禄を得ました。
1755年(28歳) 量程器、磁針器を制作
長崎遊学で得た知識をもとに、距離を測るための装置「量程器」(現在の万歩計)と、方位を知るための装置「磁針器」(現在の羅針盤)を独力で制作することに成功しました。
1757年(30歳) 日本初の薬品会を開催……(ポイント2)
田村先生に勧めて、先生はじめ著名な本草学者の方々が所有する薬草・薬品を集めて展示する、日本で初めての薬品会を江戸・湯島で開催しました。出品点数は総計180種ほどで、出品物や会場の手配、開催の案内、運営など、一切を私が取り仕切りました。
1759年(32歳) 第3回薬品会(物産会)を主催
田村先生に代わって私自身が主催となり、第3回薬品会を開催しました。この回から、薬草・薬品に限らず、鉱石やオランダの物産なども出品するようにして、物産会に規模を広げ、多くの参観者から評判を得ました。
1760年(33歳) 薬坊主格・四人扶持・銀十枚に登用
高松藩主・松平頼恭公の命を受けて、京都に随行。その後、頼恭公の要請で、相模湾での貝類の調査、紀伊半島での物産の調査、高松藩領内での本草の調査などに従事し、調査結果のまとめを指揮しました。
また、この間に、薬坊主格・四人扶持・銀十枚に昇格しました。
1761年(34歳) 伊豆で芒硝(硝石)の採集に従事
高松藩を正式に辞職し、国内外の物産研究に役立つ『禽獣譜』『生植本草』『貝譜』『紅毛花譜』などのオランダの本を入手。
その後、幕府から伊豆芒硝御用を申し付けられ、伊豆の上船原温泉近くで芒硝(硝石)の採集に取り組み、芒硝のほか、黄ミョウバンやコバルトなども発見しました。
1762年(35歳) 出品数1300種を超える第5回物産会を主催……(ポイント3)
第5回物産会を主催。出品物を、草木・鉱石・鳥獣・魚介・その他珍品など大幅に拡大し、出品希望者も全国から募集しました。出品者に便宜を図るため、全国に25カ所の諸国物産取次所を設けて、取次所から江戸までの出品物の輸送は主催者負担としました。こうした輸送には、日本一の飛脚問屋である京屋弥兵衛の協力を得てその結果、全国から実に1300種を超える出品物が集まり、全国規模の物産会となりました。
【職務経歴】 Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 平賀源内は、ただ好き放題に興味の赴くまま、いくつものプロジェクトを立ち上げていたわけではない。そこには、産業を興して国を豊かにすることが、人々を幸福にすることにつながるという思いがあった。当時の日本は、薬草や生糸、西洋陶器などを海外から輸入し、その代金として法外な額を金や銀、銅などで支払っていた。いわば、貿易赤字を垂れ流している状況だったのである。その現状を長崎で知った源内は、わざわざ海外から輸入しなくても、国内で調達できるものが数多くあるはずだと確信する。そうした考え方は、実は社会の支配者層の中にもあった。源内が異例の俸禄を得たのは、藩主・松平頼恭が、藩の財政再建に貢献する産業の育成を源内に期待したからである(ポイント1)。若くして実力者(=藩主)の期待を担った実績は、おおいにアピールポイントとなる。

 江戸へ出た源内は、著名な本草学者である田村藍水に入門し、わずか1年足らずで、それまで日本ではまったく行われたことのない薬品会、つまりは薬草・薬品に関する見本市を、自らが企画・演出・運営して実現してしまう(ポイント2)。本草学の研究のため、ひいては、病に苦しむ人々に効く薬(薬草)を国内で調達・栽培するための薬品会であったが、源内のプロデューサーとしてのたぐいまれな資質をうかがわせる実績でもある。

 そして、平賀源内は、ついに日本初のエキスポを実現してしまう(ポイント3)。日本全国、それも一般の人から出品物を募集するという源内の企画力は、当時の日本にあって突出している。しかも、その募集を実効のあるものとするために、全国各地に出品物の取次所を設けている。これは、現在でいう宅配便のシステムであり、責任ある品物の輸送と、送料着払いの集荷体制をつくり上げたことは、物産展の開催以上に驚きに値する仕事である。
傑出したアイデアマンとしてだけでなく、現実に人を動かしてアイデアを実現することができる源内の才覚が、よくわかる職務経歴書である。
職務経歴作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 職務経歴編
【自己PR編】Tech総研編集部の仮説 現状の社会認識、国や人々の暮らしを思う気持ち、それらを改善するために取り組むのだという思いを強くアピールするはず
自己PR 「私は、長崎で見聞きしたわが国の海外貿易の実態や、全国の小藩が抱える財政窮乏の現状から、国内産業の育成が急務だと考えています。そのためには、さまざまな分野で新しい取り組みが必要です。幼少のころから私は、本草学・医学・鉱物学などを学んできました。また、機械工作にもよく通じています。陶芸や絵画・戯作など、工芸品や芸術面にも少なからぬ知識があります。そうした経験と知識を生かして、全国各地で、その土地に合った新しい産業を興すためのプロジェクトを立ち上げていきたいと思っています。これまで5回の物産会を開催した実績から、全国にはまだ、知られていない産物が数多くあることを体験しています。鉱物資源も、外国に頼らなくても国内産で多くの量が賄えるはずです。安定した生産・供給を実現し、国内流通を活発にすることで、いくつもの事業や産業を軌道に乗せることができるはずです。必要な人材の確保、関係各所への交渉、有力者への協力要請なども、十分に担える自信があります。産業が育ち、国や藩の財政が潤えば、きっと人々の暮らしも豊かで安定したものにできると信じています」
自己PR Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 平賀源内の自己PRからは、日本が直面する経済の危機的状況を脱するためには、国内産業を活性化させるしかない、という強い信念がうかがえる。産業が発展して経済が好転すれば、人々の暮らしも豊かで安定したものとなり、さらに国内需要も活発に伸び、ますます産業が発展していくことになるという考え方は、現代にも十分通じる経済原理である。本草学を学んできた、いわば科学者の系譜にある源内が、こうした実業の視点をしっかりもっている点は注目に値する。具体的にどの分野で、どんな事業を興すつもりなのかは、ここでは触れられていないが、それがどんな事業であっても、安定生産とロジスティックが重要な問題となることを指摘している源内の視点は、事業家として欠かせないものだ。また、必要に応じてスタッフや出資者を集められる、とアピールしている点は、新規事業を任せることを考えたときに非常に頼もしく思える。
自己PR作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 自己PR編
【キャリアプラン編】Tech総研編集部の仮説 これまでの実績を継承しつつ、そこから思い切った展開を目指して新しいことにチャレンジしていく意欲のこもったキャリアプランを考えるはず
次のキャリアで
実現したいこと
「まず、これまでに計5回開催した物産会の出品物を分類・整理した図録の編さんを考えています。特に、第5回は出品物も非常に多く、これをまとめるだけでも貴重な日本全国の物産目録になるのではと思います。そのうえで、全国各地で新しい産業を興すべく、現地に赴いて開発・指導・人材育成に力を注ぎたいと思っています。特に、海外貿易の対価として国外への流出量が増大している金・銀・銅などの鉱物資源については、新規採掘、増産を急ぐべきであると考えます。また、もっぱら海外からの輸入に頼っている原料や製品についても、実際には、同等のものを日本国内で生産・製造することが可能だと見ています。例えば、朝鮮人参などの薬草類は、国内産のものでも十分な効能を持つことを実証済みです。希少な鉱物、西洋陶器、毛織物、砂糖なども、きっと国内で生産できるはずです。そうしたものの生産・製造にかかわるノウハウを身につけるため、また、ヨーロッパの最新科学技術や西欧諸国の動静について見聞を広めるため、再び長崎を訪れて見識を深めたいとも思っています」
キャリアプラン Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 最初に、これまで携わってきたことを総括して、そこから新しい出発点を見いだそうとするアプローチには好感がもてる。たしかに、今現在の国内産業を正しく把握できなければ、何がどこに欠けていて、どこでどんなことができるのか、新しい可能性を探ることは難しい。やみくもにアイデアをふりまくのではなく、源内は、そうした現状分析をしっかりとやれるだけの知識と見識をもっていることがわかる。さらに、産業育成による富国を考えるとき、不均等な海外貿易の是正を重要視している点は、源内の経済的センスの高さをうかがわせるものでもある。再度の長崎行きで見聞を広めたいという意欲の高さも評価したい。当時の長崎は、日本の中で唯一、世界に開かれた窓であり、そこであらゆることをどん欲に吸収しようという源内の意欲は、常に時代にキャッチアップする努力を惜しまず、むしろ時代を先取りしていくことで、自分自身のポテンシャルを高めていこうとする意識の表れである。そうした人材こそが、世界をリードする日本を創造していくに違いないという期待感を抱かせてくれる。松平頼恭や田沼意次が源内に惹かれたのも、彼がもつそうした魅力と可能性を感じ取ったからではないだろうか。
キャリアプラン作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 キャリア編
レジュメのポイント 具体的な将来目標は掲げられなくても、社会に向けて芯の通った信念を「レジュメ」で示せれば、キャリアアップの可能性は広がるはず
 今回は、平賀源内が、日本で初めての全国規模での物産会=エキスポを35歳で大成功させ、いよいよ意気揚々として自分の道を歩き始めるために転職を希望するとしたら、という前提で「レジュメ」を作成してみた。

 物産会の成功で、源内の名前は全国に知れ渡ることになるが、彼がその評価を確固たるものにするのは、その後の鉱山開発や、戯作本などさまざまな著作、寒暖計や「エレキテル」などの製作によってである。35歳までの源内は、本草学を中心に学んではいたが、学者や医者になろうという強い決意があったわけではないようだ。「この道を極めたい」と考えるよりは、「人々を豊かにしたい。そのために何ができるか」という一点で動いていたようなところがある。

 今、転職を考えているエンジニアの中にも、「自分はこれがやりたい」「この分野のエキスパートになりたい」「この研究・開発を極めたい」といった、明確な将来目標をまだもてずにいる人はきっと大勢いることだろう。進むべき道がはっきりと見えているわけではないが、現状には満足しきれない。もっと自分を高めていきたい、好奇心を広げていきたいと考えている今のエンジニアたちの思いに近いものを、源内も、きっと胸中に抱いていたのではないだろうか。だから、薬草の研究もすれば、鉱山の採掘指導もする。万歩計をつくったり、随筆を書いてみたり、陶器製造に携わってみたり。その一方で、物産会のための全国取次所を組織したりもした。次々とやりたいことを見つけ、それを実現していったのは、行動力もさることながら、彼が、ひとつの分野にとどまることに満足できなかった性分だったからかもしれない。
 ただし、源内には、「国を豊かにすることが、人々を幸せにすることになる」という揺るぎない信念があった。たとえ具体的な将来目標を示せなくても、スカウトの心を打つことのできるそうした信念を「レジュメ」で示せれば、きっとそこからキャリアアップの可能性は広がっていくはずだ。

 皆さんも、未知なる可能性にかけて、ご自身のレジュメを作ってみてはいかがだろうか? そこにはきっと、自分自身が今まで気づかなかった新たな発見があるはず。

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コラム 平賀源内、35歳からの“ホントの人生”は……。
 35歳からの平賀源内の実際の人生を簡単に紹介しておこう。
 本草学からスタートした源内のキャリアだったが、やがて鉱山開発に注力するようになる。高松藩は、源内の藩職を抹消する代わりに他藩への仕官を認めない、という制限を付けたため、経済的な後ろ盾を失った源内は、文筆活動などさまざまな手立てで鉱山開発や長崎遊学の資金をねん出する。その結果、日本初のコピーライター・平賀源内が誕生することにもなった。
 その後、幕府の命を受けての長崎遊学、東北諸藩での鉱山開発指導など、一介の浪人である源内がここまで活躍できた背景には、老中・田沼意次の陰ながらの支援があった。
「エレキテル」の発明は、源内の最晩年の出来事。彼の最期は、刃傷事件を起こした末の獄死という非業のものだったと伝えられているが、それについても諸説あるようだ。
 田沼時代の重商政策の流れに乗って、国力増強のためには国内産業の育成こそが必要と、次々と開発のアイデアを打ち出していった平賀源内は、まさしく江戸時代のすぐれた起業家であったといえる。

1763年(36歳)
『物類品隲』全6巻、初の戯作『根南志具佐』前編5巻と『風流志道軒伝』全5巻を相次ぎ出版。国学者・賀茂真淵に入門。測量器具の平線儀を制作。

1764年(37歳)
金山調査のために訪れた秩父・中津川で、石綿の鉱石を発見。その石綿を使って火浣布をつくる。

1768年(41歳)
寒暖計を制作。

1769年(42歳)
『根南志具佐』後編を発表。歯磨き粉「嗽石香」の宣伝文を書く。中津川両神山の金山開発に失敗。浄瑠璃本『神霊矢口渡』を発表。

1771年(44歳)
天草での陶器製造が実現しなかったため、長崎からの帰路、故郷の志度に立ち寄り、そこで洋風陶器の製造を指導する。また、長崎から羊を連れ帰り、羊の飼育と毛織物を高松藩の産物にするべく取り組む。
大阪で多田鉱山を視察。坑道の排水のためのポンプの設計を思いつき、消防ポンプを発明、「竜吐水」と名付ける。

1772年(45歳)
江戸の大火で留守宅が焼失。刈り取った羊毛で初めて国産羅紗の試織に成功し、自らの号をとって「国倫織」と名付ける。

1774年(47歳)
中津川鉄山で、鉄の精錬に失敗。鉱山は閉山となる。その借財返済のため、小間物販売や戯作、商品の宣伝文などの創作に取り組む。
長崎から持ち帰った摩擦起電器「エレキセエリテイト」の復元に着手。

1776年(49歳)
「模造金唐革」を発売。また、菅原櫛を発売するに当たり、吉原で人気の遊女を起用するというタレント宣伝を行って大ヒットさせ、「源内櫛」と評判になる。
「エレキセエリテイト」の復元に成功、「エレキテル」と名付けて公開する。
ポルノ浄瑠璃『長枕褥合戦』を発表。

1779年(52歳)
最後の随筆『金の成る木』を発表。
転居先の神田久右衛門町の屋敷で来客2人に斬りつけて殺傷し、捕らえられる。伝馬町の獄中で、事件の手傷から破傷風にかかり、獄死。
本来、罪人の遺体は家族の元には返されない決まりだが、特別の計らいで遺体を引き取ることを許され、知己の間柄であった千賀道有、杉田玄白らによって火葬され、浅草の総泉寺に埋葬された。

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山田モーキン(総研スタッフ)からのメッセージ
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決して一つの枠に収まらずに、ありとあらゆる異分野に果敢にチャレンジしていく源内の生きざまに憧れる方も少なくないと思います。今回のレジュメも、常にその前向きな姿勢をアピールすることを意識して作成してみましたが、私自身、これを機会にまた新しいチャレンジをしてみたいなと、小さな野望を抱き始めています。
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