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1669年、ケンブリッジ大学スカラー数学教授職に就く前に転職するとしたら…… 自分と比較!もしもアイザック・ニュートンが27歳でレジュメを書いたら
天才科学者と呼ばれる人物でも、若いころから多くの誇れる実績をもっていたわけではない。実績や成果よりも、情熱や可能性を訴える「レジュメ」の書き方があるはずだ。そんな「レジュメ」のポイントを歴史的人物で見てみよう。
(取材・文/中村光宏 総研スタッフ/山田モーキン)作成日:06.10.04
はじめに もしニュートンが転職するとしたら……歴史をひもとき、レジュメを代筆
 登録しておけば市場価値を相対的に把握できたり、登録者のレジュメを熟読した企業から、スペックや志向にふさわしいメッセージが届く、エンジニアのキャリア形成に役立つリクナビNEXTスカウト。ところが、いざ登録するためにレジュメを作り始めてみると、自分のことをうまくアピールできずに苦労するエンジニアは多い。そこで、Tech編集部はだれもが知っている超有名エンジニアのレジュメを作成してみることで、何かしらのヒントが得られるのでは?と考えた。
 今回取り上げたのは「アイザック・ニュートン」。科学界に決定的な変革をもたらした17世紀の科学者である。ニュートンが発見した力学的法則は、その後の自然科学全般に大きな影響を及ぼした。

「リンゴが木から落ちるのを見て、ニュートンは万有引力の法則を発見した」という有名なエピソードは、皆さんもご存じだろう。これは後の世の作り話だとする説もあるが、どうやら、ニュートンが84歳のときに若いころを回想して語ったエピソードだったらしい。
 光が屈折率の違ういくつかの光線が集まったものであることや、「慣性の法則」「作用・反作用の法則」といったニュートン力学の3法則について彼が着想を得たのは、1664年から1666年にかけての2年間に集中している。実は、ニュートンが爆発的な勢いで数学を開眼していったのも、この2年間のことである。その後の彼の人生は、この2年間で得た着想を形にしていくためのものだった、とも言えるかもしれない。そして、その作業は著書『プリンキピア』に結実する。
 ニュートンの誕生年は、ガリレオの没年と同じであるが、ニュートンが研究者として独り立ちするころには、教会の権威もガリレオの時代ほど絶対的なものではなくなっていた。特にイギリスでは、清教徒革命が起こって、自然科学を受け入れる土壌があり、『プリンキピア』には、観察と実験・検証によって自然界の法則を数学的に解き明かそうとする、新しい科学の世界が結実していたのである。

 とはいえ、20代のころのニュートンは、まだ「17世紀の科学革命で最高の存在」と称されるまでには至っていない。多くの論文が刊行されるのは彼の後半生であり、20代半ばのニュートンは、画期的な発見につながるかもしれない着想にようやく数学的にアプローチし始めたばかりである。
 今回は、そんなニュートンがもし転職を決意したなら、自分をどうアピールするだろうか、という仮定でレジュメを作成してみた。
 実績はまだないが、意欲・情熱・可能性だけは誰にも負けないと自負するエンジニアの皆さんが、ご自身のレジュメを書くうえで少しでもヒントにしていただければ幸いである。
  それでは早速、ニュートン27歳の「職務経歴」「自己PR」「キャリアプラン」をご覧いただきたい。
profile
1642年、イングランド東部リンカンシャー州の農村ウールズソープに生まれる。1655年、13歳でグランサムのグラマー・スクールに入学する。グランサムでのニュートンは、薬剤師のクラーク家で下宿生活を送った。ここで彼は、薬の調合や化学実験、機械工作などの方法を身につけていく。
【職務経歴編】Tech総研編集部の仮説 爆発的な勢いで第一線の研究と画期的な発見を重ねてきたことを強調し、自分自身の秘めたる可能性をアピールするはず
1661年(19歳) ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジに入学
6月に準免費生となることを許可され、7月に免費生として入学が認められました。
1663年(21歳) 『若干の哲学的疑問』執筆開始……(ポイント1)
ルネ・デカルト、ヘンリー・モア、トーマス・ホッブス、ヨハネス・ケプラー、ロバート・ボイル、ピエール・ガサンディなど、新しい哲学(=科学)を提唱する人々の論文や著作を読み、そこから得た思索や、観察・実験の結果を、「原子」「量」「運動」など45項目に分けてノートに書き留めていきました。
1664年(22歳) 高等数学を独学で習得し、給費研究生となる……(ポイント2)
ユークリッドから始めて、オウトレッド『数学の鍵』、デカルト『幾何学』まで、最先端とされている高等数学を、読書と思索を重ねて独学で習得。
そして、解析幾何学と微分法に関するオリジナル論文の執筆を行い、初の数学論文として法線影決定法の論文を書き上げ、また「二項定理」を発見しました。
トリニティ・コレッジの給費研究生(スカラー)となりました。
1665年(23歳) 大学を卒業、バチラー・オブ・アーツ取得
トリニティ・コレッジを卒業。バチラー・オブ・アーツを取得し、さらに4年間、自分の研究と勉学のためにトリニティ・コレッジに残る資格を取得。
非球面レンズの製作に取り組むかたわら、無限小の概念に基づく微分法を発見。さらに、微分法研究を推し進め、流率法の概念を確立しました。
1666年(24歳) 二項定理、流率法の論文と、光学、重力の研究……(ポイント3)
二項定理の研究をまとめた論文(『無限個の項をもつ方程式による解析について』)の執筆に取りかかりました。
流率法の研究から、微分・積分を命題として取り上げた論文(10月論文)を執筆。
リンゴが木から落ちる現象から重力に思い至り、月について、重力の逆自乗則を検証しました。また、慣性原理、弾性衝突、遠心力などの概念についても着想を得ました。
プリズムを使った光学実験(決定的実験)を行い、光が屈折率の異なる射線で構成されていることを発見。
1667年(25歳) ケンブリッジ大学のマイナー・フェローとなる
ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジのマイナー・フェローとなり、『化学用語辞典』を作成。
1668年(26歳) 反射望遠鏡を発明・製作
光の屈折率に関する光学研究の成果として、反射望遠鏡を発明。
3月にケンブリッジ大学トリニティ・コレッジのメジャー・フェローとなり、7月にはマスター・オブ・アーツを取得しました。
1669年(27歳) 二項定理の研究論文を発表
『無限個の項をもつ方程式による解析について』を執筆。この論文は、バロー、ジョン・コリンズの手を経て、イギリス王立協会をはじめ多くの数学者に回覧されることとなりました。
より打ち込める研究環境と、研究成果発表の場を求めて、転職を決意しました。
【職務経歴】 Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 ニュートンの場合、着想を得てから実際にそれを論文として刊行するまで、かなりの年月を要するケースが多い。実際、彼の死後にようやく刊行された論文も少なくない。これは、彼が当初、自説の論文発表にはあまり関心がなかったことに起因しているかもしれない。大学生となって最初のころは、誰かと活発に議論を交わすというよりも、ひたすら読書にふけって、自分の中で思索を重ねていった様子がうかがえる。それにしても、当時最先端にあった科学者たちの論文・著作を読み込んでいる点は注目に値する(ポイント1)。しかも、ただ読むだけではなく、そこから詳細なノートを記して自分の研究に置き換える作業を行っているところが興味深い。

 そうした読書が、知識としてしっかり身についていることは、独学で高等数学を習得していることからもうかがいしることができる(ポイント2)。当時、そうした高等数学は師事して学ぶものであり、それを独学で習得するには、相当な努力を要したはずである。これは、ニュートンの勤勉さの証しであり、学究的情熱の表れでもある。また、興味のあるところだけをつまみ食いするような学び方ではなく、体系立てて学んでいる点も評価したい。最新の新しい考え方を理解するためには、原点となる過去の思想から説き起こして体系的に学んでいくことが重要であることを、このときすでにニュートンは身につけていたのである。体系的な知識があってはじめて、応用や発展が可能になる。

 わずか数年のうちに高等数学を習得し、ニュートンは一気にその才能を開花させている。天才的なひらめきのように、次々と新しい考えが生まれていく様子が見て取れる(ポイント3)。これほど短期間に、画期的な発見につながる萌芽がいくつも飛び出してくると、将来それがどのように発展していくのか、興味は尽きない。まだ若いニュートンに投資してみよう、という気にさせられる。また、光学実験をはじめとするさまざまな実験方法を構築し、のちには自らの手で世界初の反射望遠鏡を製作していることなどから、手先の器用さ、機械工作などの技術力の高さもうかがえる。理論を実践に移せるスキルをもっているということで、この点も頼もしく思えるところである。今後、さらに驚くべき発見を重ねていくのではないかという、期待感をもたせてくれる職務経歴書である。
職務経歴作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 職務経歴編
【自己PR編】Tech総研編集部の仮説 自分が学んできたことを真摯に訴え、自分なりの科学の道を切り開いていきたいという熱い情熱をストレートにアピールするはず
自己PR 「デカルトやホッブスなど、今、最も注目を集めている科学者たちの最新理論を、独学ではありますが、ほぼすべて正しく理解できていると思います。体系立てて理論を学んでいくことは、私の得意とするところです。そのうえで、私なりの考察を加え、思索や実験・観察を通じて、そこから新しい法則を導き出すことに力を注いできました。現在、微積分法や光学において、これまでの通説を覆すに足る画期的な発見を得ています。また、自然界のさまざまな事象を説明できる運動の法則についても、いくつかの着想を得ています。そうした発見や着想を確実なものにするために、今後もさらに研究、学習、実験、観察を重ね、真理の追究に全力を傾けたいと考えています。新しいことを常に吸収し、成長していこうという意欲では誰にも負けないと自負していますし、そこから自分なりの道を創造して、来るべき時代への科学の扉を開いていこうという情熱も尽きることはありません」
自己PR Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 学ぶ意欲の高さ、その理解力の深さを切々と訴えてくる。しかも、ただ学ぶだけではなく、そこから自分の理論を創造することに大いなる野心を抱いていることが感じ取れる。
 確かにこれまでのニュートンの実績としては、いくつか注目すべき発見はあるものの、まだ確固たる理論として打ち立てられたものはそう多くない。そうした場合、実績よりも将来性、これからの可能性に、スカウトする価値を見出せるかどうかが重要なポイントとなる。謹厳実直なまでに研究に打ち込んできたニュートンの経歴と、「来るべき時代への科学の扉を開いていきたい」という情熱は、「この若者に賭けてみよう」と思わせるだけの説得力がある。光学や力学などの分野で得ている彼の着想からは、将来、科学史はおろか世界史にも名を残す存在となるかもしれないという期待感を抱かせる。
自己PR作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 自己PR編
【キャリアプラン編】Tech総研編集部の仮説 これまでに得た着想から広がる可能性と、将来を創造していこうとする自らの決意を込めたキャリアプランを考えるはず
次のキャリアで
実現したいこと
「これまでに着想を得てきた流率法や、光の屈折に関する研究をさらに推し進めたいと考えています。流率法の計算方法は、地上における幾何学から天体の動きまで、多くの事象を数学的に証明するための鍵となるはずです。また、光学研究からは、ガリレオ式の望遠鏡に代わる新しい反射望遠鏡を発明しましたが、光の特性を詳しく正確に調べていくことで、これまでにない光線の利用法が見つかるのではないか、と期待しています。将来的には、光が、時間の概念や、物質を構成する最小単位について考察するうえでも役立つことになる研究だと思っています。さらに、引力という概念を取り入れた運動の法則を確立することで、自然科学は、まったく新しい領域に踏み込めるのではないかとも考えています。そして、これらの研究は個々バラバラのものではなく、いずれひとつの大きな体系としてまとめることができるはずだと思っています。そのための研究に打ち込めると同時に、研究成果を発表して正しく評価していただける環境を欲しています」
キャリアプラン Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 ただ研究のための研究に没頭するのではなく、その研究成果が世界にどう影響するか、既成の常識をどんなふうに変えていく可能性をもっているのかを見通しながら、研究に打ち込んでいる。これは研究者として、大切な視点であろう。光学研究における望遠鏡の話など、何らかの具体的な成果を示せるものについては、キャリアプランとしてそれを示す、というのも有効なアピールになる。しかも、すぐ目の前のことばかりでなく、遠く将来への広がりにも目を向けながら進んでいこうとする姿勢は、なかなか頼もしい。研究の成果を体系立ててまとめたいという願いや、それをきちんと発表していこうという思いがあることは、研究者として大成を志すものであり、その目標の実現に向かって決して努力は惜しまない、というニュートンの決意がうかがえるキャリアプランである。
キャリアプラン作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 キャリア編
レジュメのポイント 仕事に向かう自分の姿勢、情熱、将来への可能性を強力に訴えかける「レジュメ」は、スカウトの期待感を揺り動かすはず
 今回は、ケンブリッジ大学のトリニティ・コレッジに入学したニュートンが、独学で高等数学を習得し、当時の最先端科学を貪欲なまでに吸収して、卒業後の研究で新たな発見や着想を得て、いよいよその成果を世に披露し始める27歳で転職を希望するとしたら、という前提で「レジュメ」を作成してみた。

 27歳の時点では、ニュートンは、ケンブリッジ大学に所属する、まだまったく無名の一研究者にすぎない。ニュートンが自分の研究の成果を公に開示するようになるのは、ニコラス・メルカトールが発表した『対数計算法』に対して、自分のほうが先に二項定理を発見していたことを示すためであった。負けん気の強さ、対抗者への徹底した闘争心は、裏を返せば、自分の研究に対する絶大な自信と情熱の証しでもあるのだろう。

 27歳のニュートンには、そうした自負心、自分の可能性に賭ける情熱がみなぎっていた。いくつかの重要な発見をしていながら、それらの発見が意味すること、自然科学の世界で大変革をもたらすことになる重要性については、まだ完全に気づいてはいなかった。したがって「レジュメ」では、貪欲なまでに学んできた姿勢を強調し、そこからオリジナルな発想を得て、自分の可能性が開きつつあることをアピールしている。常に学ぶことを厭わず、学んだことを自分のものとして吸収し、さらに独自のアイデアへと発展させていく研究態度は、現代のエンジニアにも求められているのではないだろうか。実績や成果を売り込むだけでなく、自分自身の情熱と可能性にスカウトが目を留めてくれるような「レジュメ」も、キャリアアップを後押ししてくれるはずだ。

 皆さんも、未知なる可能性に賭けて、ご自身のレジュメを作ってみてはいかがだろうか? そこにはきっと、自分自身が今まで気づかなかった新たな発見があるはず。

コラム ニュートン、27歳からの“ホントの人生”は……。
 27歳からのニュートンの実際の人生を簡単に紹介しておこう。
 ケンブリッジ大学のスカラー数学教授に就任したニュートンは、次々と論文の執筆、発表を行っていく。残念ながら教授としての人気は低かったようで、講義に出席する生徒はごくわずかだったようだ。もっともその分、自分の研究に専念できたようである。
 ただ、自分の論文に異を唱える研究者に対しては、徹底的に攻撃する姿勢を崩さなかった。そのためニュートンの後半生は、不毛な論争に明け暮れることになる。生涯を通じて友人はごくわずかしかおらず、いんぎん無礼で負けず嫌いだったようだ。
 20代で着想を得たさまざまな法則について、長年にわたって考察を重ねたニュートンは、集大成ともいうべき科学史に残る著述『プリンキピア』を完成させる。これが、彼の地位を不動のものとした。『プリンキピア』刊行後のニュートンは、学者というよりは、政治家としての顔をもつようになる。王立協会会長を死ぬまで務め、絶対君主のような存在になっていった。
 未熟児で生まれたニュートンは85歳でこの世を去るが、晩年まで体は頑強で、眼鏡もかけず、頭髪は豊かで、歯も1本しか抜けていなかったという。

1669年(27歳)
ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジのスカラー数学教授に就任。光学を講義する。

1671年(29歳)
『流率法と無限級数』を発表。

1672年(30歳)
王立協会会員となる。『光と色についての新理論』を発表。ロバート・フックとの光学論争が始まる。

1676年(34歳)
フックと和解。ゴットフリート・ライプニッツと微積分法についての論争が始まる。

1680年(38歳)
フックから逆自乗則を伝えられ、ジョン・フラムスティードとの間で彗星についての論争が起こる。

1684年(42歳)
『運動論』を発表。

1686年(44歳)
ケンブリッジ大学の全権委員の一人として高等宗務官裁判所に出頭。『プリンキピア』第1部の原稿を王立協会に提出。

1687年(45歳)
『プリンキピア』を刊行。

1689年(47歳)
ケンブリッジ大学を代表する国会議員に選出される。

1690年(48歳)
『ダニエル書と聖ヨハネの黙示録の預言についての考察』『聖書の2つの顕著な改ざんについての歴史的記述』を執筆。

1696年(54歳)
造幣局監事となる。

1699年(57歳)
フランス王立科学アカデミーの外国人会員となる。造幣局長官に就任。

1701年(59歳)
ルーカス数学教授職と、トリニティ・コレッジのフェロー職を辞任。ケンブリッジ大学選出の国会議員となる。

1702年(60歳)
『月の理論』刊行。

1703年(61歳)
イギリス王立協会の会長に就任。

1705年(63歳)
アン王女からナイトの称号が与えられ、「サー・アイザック・ニュートン」と呼ばれるようになる。

1707年(65歳)
『一般算術』を刊行。

1711年(69歳)
『無限個の項をもつ方程式による解析について』を刊行。

1713年(71歳)
『プリンキピア』第2版を刊行。

1717年(75歳)
イギリス政府はニュートンの助言に基づき、1ギニー金貨を銀21シリングと定める。

1726年(84歳)
『プリンキピア』第3版を刊行。

1727年(85歳)
膀胱結石の発作に見舞われるようになり、ロンドン郊外ケンジントンの自宅で死去。

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  山田モーキン(総研スタッフ)からのメッセージ  
山田モーキン(総研スタッフ)からのメッセージ
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自分の論文に異を唱える研究者に対しては、徹底的に攻撃する姿勢が生涯にわたって貫き通されているニュートンの人生。こんな人がもし私の身近にいたら、気苦労が絶えないだろうな、と思う一方、自分の意思を貫き通す生き方に少し憧れを抱いてしまいました。
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