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1592年ピサ大学の職が任期切れ。パドヴァ大学教授の道を捨て転職? もしもガリレオ・ガリレイが28歳でレジュメを書いたら
「レジュメ」を書くにあたって、誇れる実績がない、と悩むエンジニアも少なからずいるだろう。しかし、スカウトが着目するのは、決して過去の栄光だけではないはずだ。そんな「レジュメ」のポイントを歴史的人物で見てみよう。
(取材・文/中村光宏 総研スタッフ/山田モーキン)作成日:06.09.06
もしガリレオが転職するとしたら……歴史をひもとき、レジュメを代筆
 登録しておけば市場価値を相対的に把握できたり、登録者のレジュメを熟読した企業から、スペックや志向にふさわしいメッセージが届く、エンジニアのキャリア形成に役立つリクナビNEXTスカウト。ところが、いざ登録するためにレジュメを作り始めてみると、自分のことをうまくアピールできずに苦労するエンジニアは多い。そこで、Tech編集部はだれもが知っている超有名エンジニアのレジュメを作成してみることで、何かしらのヒントが得られるのでは?と考えた。
 今回取り上げたのは「ガリレオ・ガリレイ」。16世紀後半から17世紀初めのイタリアで活躍した科学者であり、近代的な自然科学、とりわけ実験科学への道を切り開いた天才として知られる人物である。

 ガリレオにまつわるエピソードのひとつに、「振り子の等時性」を発見したガリレオが、ピサの斜塔から鉄球と木球を同時に落として「落体の法則」を実証してみせた、というものがあるが、実際にはそうした記録は残っていないという。また、望遠鏡による天体の観測から「地動説」を支持して異端審問にかけられ、自説を捨てる際に「それでも地球は回る」とつぶやいたとされるが、これもどうやら後世の伝記作家による創作のようである。

 しかし、こうした逸話が事実として信じられるほど、ガリレオは、実験と観察によって仮説を打ち立て、実証して結論を導き出す、当時としては画期的な科学的手法を確立した科学者であった。当時はまだ、教会の権威と結びついたアリストテレス学派の勢力が絶大で、「世界はこうあるべき」という観念が科学を支配していた。宇宙の中心は地球であり、太陽や惑星は地球のまわりを回る存在でなければならなかった。しかし、ガリレオは天体の観測から、コペルニクスの唱えた「地動説」こそ、宇宙の正しい姿であると確信するに至る。

 さらにガリレオは、科学的知識を一部の特権階級のものから、一般市民のものへと押し広げた。当時の論文は、限られた知識人しか読むことのできないラテン語で記されるのが一般的だったが、ガリレオは、誰もが読めるイタリア語で論文を書き、出版するのである。それは、ガリレオの名を人々に知らしめると同時に、科学的な目をもてば、奇跡のような自然界の出来事も論理的に説明できるのだということを、多くの人々に認識させる役割を果たした。

 そんなガリレオも、青年期には多くの挫折を経験している。医者になることを父親から期待されて入学したピサ大学だったが、数学や物理学への興味が勝り、中退。のちに教授として同大学で働くことになるのだが、保守的な考え方に支配された大学内では、進歩的な論客であったガリレオは冷遇されていた。
 今回は、ガリレオがまだ世の中に名前を知られる以前のそうした時期に、もし転職を決意したなら、という仮定でレジュメを作成してみた。

 まだ何かを成し遂げたわけではない、でも、現状には満足しきれない。そんな思いを抱いてキャリアアップを望む現代のエンジニアにとって、自身のレジュメを書くうえでのヒントになれば幸いである。

 それでは早速、ガリレオ28歳の「職務経歴」「自己PR」「キャリアプラン」をご覧いただきたい。
profile
1564年、イタリアのピサに生まれる。当時のピサには職人が多く、ガリレオは幼いころから技術的なことへの関心が高かったという。1581年、17歳でピサ大学医学部の教養課程に入学。医学よりも、数学や物理学への興味が高まったこと、父親からの仕送りが途絶えて学費が払えなくなったことから、1584年に同大学を中退する。
【職務経歴編】Tech総研編集部の仮説 大学教授としての実績に乏しい分、数学・物理学・天文学に及ぶ旺盛な知識欲と、意欲的な論文発表をアピールするはず
1584年(20歳) 「振り子の等時性」を発見……(ポイント1)
ピサ大学医学部在学中に「振り子の等時性」を発見。振り子が一往復するのにかかる時間は、吊りひもの長さで決まり、ひもの長さが一定なら、振り子の揺れ幅が大きくても小さくても、往復にかかる時間は同じになります。その理論を応用して脈拍を測る装置を考案しました。
1586年(22歳) 最初の論文をイタリア語で執筆……(ポイント2)
アルキメデスの原理を応用した最初の論文『小天秤』をイタリア語で執筆し、高等工芸学校に提出しました。誰もが読めるイタリア語で執筆したことで、この論文は、高等工芸学校の生徒たちやフィレンツェの職人たちに広く読まれました。
1587年(23歳) 2つの論文発表
『流体静力学的秤』『固体の重心についての定理』の2つの論文をラテン語で発表しました。特に後者の論文は高い評価を得て、初めてローマを訪れ、イエズス会の神父であり、著名な数学者・天文学者でもあったクラヴィウスと親交を結びました。
1589年(25歳) ピサ大学の数学教授に就任
論文の好評価もあって、デル・モンテ侯爵の推薦を受け、母校ピサ大学の数学教授に3年の任期で就任しました。大学では、ユークリッドの幾何学と、プトレマイオスの天文学の講義を行いました。
1590年(26歳) 「物体落下の法則」を発見……(ポイント3)
質量が違っても形状が同じなら、落下する物体の速度は同じになる「物体落下の法則」を発見。『運動について』という論文を発表しました。物体の運動とそこに働く力について考え続け、実験を繰り返す手法を身につけました。
1592年(28歳) ピサ大学を退任
ローマ教会の勢力が強く、旧態依然とした学説に支配されたピサ大学ではなく、より自由な気風の中で新しい研究を続けたいと思い、転職を決意しました。
【職務経歴】 Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 28歳までのガリレオの職務経歴には、誇れるような実績はまだそれほど多くない。ガリレオがその才能を存分に発揮するようになるのは、ローマ教会の権威に対抗していた当時の自由都市ベネチアに移住して以降のことである。
 とはいえ、大学在学中に「振り子の等時性」を発見した点は、注目に値する(ポイント1)。ガリレオはこれを、ピサの寺院の天井に吊り下げられたシャンデリアの揺れから見いだしたという逸話が伝えられている。このエピソードも正式な記録として残っているものではないが、ガリレオが、非常にすぐれた観察眼をもっていたこと、誰もが何げなく見過ごしていることにも科学の目を向ける性格であったことは、学生でありながらこうした発見を成し得たところに見て取れる。

 大学を中退したガリレオだったが、勉学への情熱を失ったわけではなかった。むしろ、彼の探究心はますます旺盛になっていったことが、次々に発表する論文に表れている(ポイント2)。その関心領域は、数学・物理学・幾何学・天文学と、自然科学の広範に及んでいる。学ぶことに意欲的なガリレオの姿勢はおおいに評価できるものだ。また、そうした論文を当時の学術表現の常識であったラテン語で著述せず、あえてイタリア語で執筆して出版している点にも注目したい。広く誰もが読める内容にするためには、その論文テーマをガリレオ自身が十分に咀嚼できていなければならない。学ぶ情熱だけでなく、知識を自分のものとして吸収できるすぐれた理解力と、それをわかりやすく他者に伝えることのできる表現力を彼は兼ね備えている、と見ることができる。

 相次いで発表した論文が、職人や市民の間でも評判になったことから、ガリレオは、当時の名士や実力者とも知己を得る。まさに実力で、そうした人脈を築いていったといえる。その結果、かつて中退したピサ大学に職を得ることになり、そこで「物体落下の法則」を発見している(ポイント3)。これは「振り子の等時性」から演えきされた理論でもあるが、ここでガリレオは、仮説を立て、それを実験によって検証し、その実験結果によってさらに新たな仮説を打ち立てていく、現代の実証主義的な科学の手法を生み出しているのである。当然「あるべき論」が支配する当時の世の中で、そうしたガリレオの研究姿勢がのちにニュートンなどに引き継がれ、今日の自然科学の確立をもたらした功績は大きい。机上の理論だけでなく、実際にそれを実証してみせるガリレオには、さらに大きな潜在能力があることを期待させるものでもある。
職務経歴作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 職務経歴編
【自己PR編】Tech総研編集部の仮説 確固たる実績がまだない分、意欲の高さ、これまでの評価、一般的な考えと異なる独自の考え方をストレートにアピールし、自分ならではの潜在価値に期待してもらうはず
自己PR 「数学、物理学、天文学と、自然科学の幅広い分野に強い関心をもち、多くのことを学んできました。そうして得た知識を生かして、これまでさまざまな論文を発表してきました。特に、振り子の等時性や固体の重心に関する私の理論には、有識者の方からも高い評価をいただいています。また、振り子の等時性を利用した脈拍測定器を考案しましたが、これは、既に医学の分野で実用化され、病気の診断などの際に役立っています。新しい理論構築だけでなく、理論を応用したそうした実用機器の製作についても、私は高い技術を有しています。さらに、過去に家庭教師や、ピサ大学で数学教授を務めていた経験から、若者の指導・育成にも実績があります。私は、自然を観察し、そこにある規則性を見いだして、自然界の法則についての仮説を立て、実験・観測によってその仮説を実証していくことに生涯を傾けたいと考えています」
自己PR Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 自然科学分野に関する探究心と学習意欲の高さ、そして、その見識が的を射たものであることは、これまでの職務経歴からも十分推察できる。今後、ガリレオが発表する論文や機器は、科学界のみならず、社会全体にとってもエポックメイキングな存在として評判を呼ぶ可能性があるだろう。そうした期待を抱かせるに足る自己PRである。しかも彼は、エキセントリックで独善的な存在ではなく、先達にも後進にも支持される人間性も兼ね備えていることをうかがわせる。これは、組織や集団を預かる立場からは、見落とせないポイントである。協調性に富むあまり個性を失ってしまっては元も子もないが、観察・実験・検証を追究するガリレオの姿勢は、そうした没個性への懸念を払拭し、何かを成し遂げてくれるのではないかという期待感を抱かせるものになっている。
自己PR作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 自己PR編
【キャリアプラン編】Tech総研編集部の仮説 科学に対する真摯な姿勢、自分の前に広がる可能性が人々の暮らしを豊かにすることを願ったキャリアプランを考えるはず
次のキャリアで
実現したいこと
「自然界の事象には、解明されるべき多くのなぞがあります。そして、そのなぞを解く鍵は、数学にあると私は考えています。物体の運動も、天体の運動も、いずれ数式によって表現できるものであるはずです。それらは、神の奇跡とは別の、ある一定の法則に基づく運動であり、そうした法則を解明することによって、私たちは、生活や文化をよりいっそう豊かなものにすることができるに違いありません。大切なことは、既成概念や既存の価値観にとらわれることなく、あるがままの自然を見つめ、そこから真に科学的な論理を導き出すことです。そのためには私は、自由な気風で、何ものにも縛られない研究が存分に行える環境を欲しています。そうして、さまざまな物体の運動や、この地球を含む天体の動きを新しい視点から正しく解き明かし、未来を開くための鍵となる研究を実現したいと欲しています」
キャリアプラン Dr.スカウトの分析「企業はこう見る!」
 まだ望遠鏡が発明されていないこの時点では、ガリレオは、「地動説」への直接的な言及を避けている。ただし彼の中では、地上におけるものの動きも、天空の星の動きも、同じ物理現象として論じようという意識が確立されていることがよくわかる。そこに潜む法則を見いだすことは、単に科学的証明にとどまらず、社会生活を豊かにする可能性を秘めていると考えている点は興味深い。科学は人々の暮らしに直結した学問である、と彼は考えていた。そうした考えもあって、彼は自分の論文を広く読まれるイタリア語で著述したのだろうと推測できる。これから取り組む研究が、人々の暮らしにとって役立つものであること。そうした信念をもって科学に取り組もうとするガリレオの姿勢が読み取れるキャリアプランである。
キャリアプラン作成の詳細に関しては、こちらをチェック!
企業にスカウトされるレジュメ作成術 キャリア編
レジュメのポイント たとえ実績はなくとも、高い意欲、強い意志、一般的な考えと異なる独自の考え方に貫かれた「レジュメ」はスカウトの心を動かすはず
 今回は、ピサ大学に数学の教授として就任したガリレオ・ガリレイが、3年の任期を終えたのちに再任されず、より自由な研究環境(と高給)を欲して28歳で転職を希望するとしたら、という前提で「レジュメ」を作成してみた。

 この時点でガリレオは、「振り子の等時性」や「物体落下の法則」など重要な発見をいくつか成し得ているが、その評価がヨーロッパ中に広まり、時代の寵児となるのは、教会勢力にくみしない自由都市ベネチアへ移住して以降のことである。
 ただ、既にこの時点でガリレオは、観察と実験によって科学的証明を試みる研究姿勢を確立している。そうして得られた知識を広く一般市民に公開することが、科学の発展のためにも、市民生活の向上のためにも、有益だと考えていたことは間違いなさそうだ。

 ガリレオの名がヨーロッパ中に知れ渡るきっかけとなったのは、彼が製作した望遠鏡が評判になったことが大きい。その望遠鏡を天体観測に使って、彼は「地動説」への傾倒を深めていくのだが、それは、この「レジュメ」からはまだ少しばかり先の話である。
 28歳のガリレオは、自分がこれから何を成すことになるのか、想像もしていなかったに違いない。しかし、数学や天文学に強い関心を抱き、既存の概念にとらわれることなく、あるがままを観察して、実験によって仮説を検証することで、自分にも科学の新しい地平を切り開くことができるのではないか、という可能性は感じていたはずだ。
 大きな実績はなくとも、そうした可能性を信じる気持ち、自分自身に賭ける思いをストレートにぶつけた「レジュメ」も、きっとスカウトの琴線に触れるはずである。

 皆さんも、未知なる可能性にかけて、ご自身のレジュメを作ってみてはいかがだろうか? そこにはきっと、自分自身が今まで気づかなかった新たな発見があるはず。

コラム ガリレオ、28歳からの“ホントの人生”は……。
 28歳からのガリレオの実際の人生を駆け足で紹介しておこう。
 ピサ大学教授を3年で解任されたガリレオは、当時の自由都市ベネチアのパドヴァ大学に数学教授として招かれる。ここで、コペルニクスの唱える「地動説」の支持を表明し、独自の望遠鏡を製作(望遠鏡そのものはオランダで発明された)して、天体観測に利用する。その結果、木星の4つの衛星や太陽黒点を発見するのである。
 ますます「地動説」への確信を深めるガリレオであったが、そうしたガリレオの人気を快く思わない「天動説」派の学者や宗教家の働きかけによって、ついには宗教裁判にかけられて異端のらく印を押され、「地動説」が間違いであることを誓わされる。長年の観測が原因となってか、最晩年には両目とも失明。失意のうちにこの世を去った。
 ガリレオを異端としたローマ教会がその誤りを認め、彼の名誉が正式に回復されたのは、没後350年を経た1992年のことである。

1592年(28歳)
ベネチアのパドヴァ大学に数学教授として招かれる。
『タソー考』『簡単な軍事技術入門』『天球論』などの論文を発表。

1597年(33歳)
ドイツ人科学者ケプラーからの手紙を受け取り、コペルニクスの唱える「地動説」を支持することを表明する。

1604年(40歳)
論文『加速度運動について』を発表

1609年(45歳)
オランダのレンズ職人が望遠鏡を発明したと聞き、すぐさまその構造を見抜いて、より高性能な望遠鏡を製作、天体観測に利用して数々の発見をする。
・木星の4つの衛星を発見
・金星にも満ち欠けがあることを発見
・銀河(天の川)は星の大集団であることを発見
・太陽の黒点を発見

1610年(46歳)
それまでの観測結果をまとめた論文『星界の報告』を発表。自作の望遠鏡と木星の4衛星を、トスカーナ大公となったコジモ・デ・メディチ2世に献上する。
同年、18年勤めたパドヴァ大学を辞し、トスカーナ大公付き首席数学者兼哲学者としてフィレンツェに移り住む。

1611年(47歳)
ローマ法王パウロ5世に拝謁。リネキュース科学者同盟の会員となる。
翌年にかけて、温度計を考案する。

1613年(49歳)
『太陽黒点についての手紙』を発表。黒点の移動から、太陽が自転していることや、地球の自転、太陽を中心とした天体の運動を明らかにした。

1616年(52歳)
ベルラルミーノ枢機卿から「地動説」を放棄するように訓告を受ける。潮の干満は地球の自転によって起こると説いた論文『海の潮の干満についての対話』を発表。

1623年(59歳)
『黄金計量者』を発表。

1630年(66歳)
「地動説」が正しいことを3人の登場人物による対話形式で明らかにして見せた『宇宙に関する2つの偉大な天文学についての対話』(一般に『天文対話』と呼ばれるガリレオの集大成的論文)を完成させる。
ローマ教会と法王に『天文対話』の出版許可を求める。

1632年(68歳)
ようやく許可を得て、2月『天文対話』を出版するが、7月に発売禁止となる。

1633年(69歳)
ローマ法王庁に呼び出され、検邪聖省による異端審問の裁判を受ける。その判決に従って、地動説は間違いであることを誓う異端誓絶を行う。
フィレンツェ郊外のシエナで軟禁生活を送りながら、「物体落下の法則」など物理的問題を3人の対話形式でまとめた『新科学対話』の執筆にとりかかる。

1637年(73歳)
右目を失明。翌年には左目も失明し、全盲となる。

1642年(78歳)
アルチェトリの自宅で死去。

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山田モーキン(総研スタッフ)からのメッセージ
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最近、冥王星が惑星から外されるニュースが世間をにぎわせましたが、そういう意味でまだまだ天文学の世界は、日々進化しています。こうした状況をガリレオはどう見ているのか、今回のレジュメを通してあれこれ妄想してしまいました。
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