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懐かしの“アレ”がエンジニアの原点だ! Vol.23 まさにプログラマの原典!「ベーマガ」の魅力
100ページ以上に及ぶ「投稿プログラムコーナー」、ほかの追随を許さないほどゲーム攻略に力を入れた「スーパーSOFTコーナー」。さまざまな読者参加型の記事がエンジニアを育てた、『マイコンBASICマガジン(ベーマガ)』を今回は取り上げてみたい。
(取材・文/金沢桃子 総研スタッフ/山田モーキン)作成日:07.02.09
座談会テーマ:『マイコンBASICマガジン』はエンジニアにどのような影響を与えたか?
今回の座談会では、マイコンBASICマガジン(ベーマガ)を愛読していたエンジニアお二人に来ていただき、『ベーマガ』への思いを語っていただいた。
『マイコンBASICマガジン(ベーマガ)』とは?
電波新聞社が1982〜2003年に発売していたコンピュータ雑誌。通称『ベーマガ』。創刊当時はパソコンという言葉は一般的ではなく、BASICの習得がパソコンの入門だった。当時は互換性のないBASICが何十種類もあり、それらに対応するソースコードが誌面の多くを占めた。内容は主にゲームであったが、電卓やカロリー計算などの実用ソフトやゲーム音楽のプログラムのソースも掲載。プログラムやコンピュータの入門誌であり、手広くアプリケーションやゲームの情報を網羅し、現在のプログラマやSEなど、多くのエンジニアを育てた雑誌といえる。
『マイコンBASICマガジン』を愛読していたエンジニア2人のプロフィール
菅原さん(仮名・34歳) 土屋さん(仮名・45歳)
菅原さん(仮名・34歳)
コンピュータ社内システム運用
土屋さん(仮名・45歳)
企業向けシステム保守
『マイコンBASICマガジン』を読み始めたのはいつごろですか?
菅原:
ベーマガ 創刊号
ベーマガ 創刊号
11、12歳のとき、1984年ごろですね。友人の家にPC-6001(※1)があって、ゲームとかがあったんで面白そうだなって思って。もともと、工作とか機械いじりが好きだったので、パソコンにすぐに興味をもって、その後、書店に行って、雑誌を探してみて、『ベーマガ』が目に留まったんです。『ベーマガ』は読みやすかったし、ゲームの記事とかあってよかったんです。ほかにも同じジャンルの雑誌があったんですが、小学生にはちょっと高度で……『ベーマガ』はこれ一冊読めば十分って感じで親しみやすかったんです。
土屋:
大学のころでしたから、創刊時からですね。「ラジオの製作(※2)」の別冊から知っていて、気づいたら独立していました。当時、19万8000円のMZ(※3)をもっていたのですが、ネットのない時代なので、調べるのはすべて雑誌でした。自分はアスキー(※4)とかほかのパソコン雑誌もみんな買っていたのですが、そちらは確かに専門的で高度でしたね。ただ、『ベーマガ』ほどゲームのプログラムが載っていた雑誌はなかったですよね。ゲーム絵が表紙に載っていて親しみやすく、内容も難しくなくて、載っているプログラムも長くなくて1日かければ打ち込めるものでした。
『ベーマガ』をどのように利用していましたか?
菅原:
ゲームを作りました。友達の家でPC-6001をやったときに、ゲームがとにかく楽しかった。平安京エイリアン(※5)とかパックマン(※6)とかインベーダー(※7)もどきとかゲーセンにあったものができたんですよ。小学校5、6年のときにお年玉をためて、特売のX1(※8)を買ったんですが、買ってすぐにしたのは『ベーマガ』片手にゲームプログラムでした。横スクロールシューティングのグラディウス(※9)もどきを作ったのですが、スムーズにプログラムできなかったですね。スペル間違えをしても、当時はどこがエラーなのか教えてくれないんです。「構文エラー」としか出なくて。プログラムソースのページとにらめっこして、どこがダメなのか必死に確認していました。
土屋:
ベーマガ 投稿プログラムページ
ベーマガ 投稿プログラムページ
I/O(※10)とかでもインベーダーがありましたが、ベーマガはパックマンとかロードランナー(※11)とか市販ゲームに近いものでしたよね。自分が作っていたのは16進法の電卓とか実用的なプログラムです。そういう電卓を買うと高かったのですが、プログラムだと無料で作れたので。とにかく投稿プログラムのアイデアがすごくて、それが毎月載っていて感心しました。その後はコンピュータ音楽にハマって、ビープ音で音楽を鳴らすのに熱中してましたね。ベーマガにはそういう音楽のコーナー(※12)があったんですよ。後にシンセを始めてYMO(※13)のコピーとかやりました。趣味につながる実用的なものを作ったり、自分でもMZに88(※14)のソフトを移植したものとか、プログラム電卓とか作って投稿しましたよ。
思い出深い記事は何ですか?
菅原:
短期連載の「マシン語講座(※15)」ですね。ファミコンCPUのマシン語でした。学んでもファミコンを動かせるわけじゃないんですが、ファミコンの中ってブラックボックスでしたから、「こうやって動いているんだ」ってそのメカニズムに感心しました。BASICがすべてだったので、マシン語が本来PCを動かすものらしいというのを知って興味をもち、マシン語を学び始めました。
土屋:
「麻雀」のプログラムですね。88をMZに移植して、そのときにロジックでどう役を判断しているのかを見ました。あとはゲームの攻略で「ゼビウス(※16)」を読んでチャレンジしたり。ほかの雑誌には載ってなかった「隠れキャラ」なども載っていたんですよ。
競合誌と比べていかがでしたか?
土屋:
自作ゲームが楽しめる雑誌でしたよね。しかも、その中でプログラムが学べる。ファミコンゲームを移植したようなものができて、ファミコンだとプログラムは書き換えられないけど、登場キャラクターが死なないように設定したりと好きなように書き換えられて。プログラムを勉強しながら楽しめましたよね。
菅原:
健全な感じでしたよね。読者参加型なのが面白かった。載っているプログラムのほとんどが投稿でしたから。そのプログラムにコメントが載っていて、それがまた楽しかったんです。「ここをがんばりました」みたいなものがあって、作り手の一方通行じゃなく、自分も参加している感じが新鮮で、面白かったんですね。
土屋:
月に70〜80はプログラムが載っていましたね。投稿は倍以上のはず。編集さんとかはそれを全部やるから大変だったんじゃないかと(笑)。OSとかハードとかではなく、アプリケーション雑誌でしたよね。フリーソフトの先駆けともいえるものでした。
菅原:
あとは、コンピュータへのとっかかりとして敷居の低い雑誌でしたよね。『ベーマガ』は各PCを広く浅く包括的にやっていましたから。プログラムもひと通り載っていましたし、新しいゲームが出ると、そのレビューが出ましたし。
『マイコンBASICマガジン』が今のお仕事にどのように影響していますか?
菅原:
コンピュータの仕組みそのものを理解するのに役立ちました。プログラムですべてが動いているわけだけど、『ベーマガ』にはそれが載っていた。コンピュータがどう動いているのか、どうやったらコンピュータで動かせるのかという2点を『ベーマガ』で学んだのが今も生きています。トラブルが起きたときとか、画面の裏で何が起きているのか、自然とロジックが頭に浮かんでくるんです。経験と勘で当たりがつけられるというか。プログラムの原点を教えてくれたものですね。
土屋:
投稿のプロの人はコーディングがキレイで、見てすぐ直すことができる。段落をきちんとつけて、意味をつけて、ひとまとめにして、上できちんと定義してあって、コメントもきちんと、とかね。変数のセンスがあるんですよ。固定値で意味のある言葉を使うとか。BASICは適当でも動きますけど、COBOLとかは厳しいですからね。変な動きをすると、保守のときに困っちゃう。あと、工程のコストが安くできて非常にいいので、キレイに書いたほうがいい。キレイに書くクセは、『ベーマガ』で学びました。
菅原:
いいサンプルを見て作って自然と身についたってのはありますよね。プログラムへの興味が『ベーマガ』を見てなかったら少なかったかもしれないです。今の仕事を選んだのは『ベーマガ』のおかげです。ここからプログラムを始めたので、影響はかなり大きいと思いますよ。
土屋:
自分は学校が工学だったんですよ。でも、『ベーマガ』を見て、ソフトウェアを知ってすごいと思いました。なにせ元手がかからない。ハードだと秋葉原で何万円とかかかるのに、ソフトは土台があれば何万回でも書き換えられる。ゲームでも音楽でも実用品でも。これからはソフトの時代、アプリケーションの時代だと思って、プログラムを学びながら、今の業界に入りました。
あなたにとって『マイコンBASICマガジン』とは?
菅原:
プログラミングの面白さを教えてくれた雑誌です。ソフトウェアというモノづくりの面白さを教えてくれた。ロジックを考える楽しさ、それを実現させる作業の楽しさ、そして自分の思ったとおりにコンピュータを動かせることが何より面白かった。「プログラムはあなたの思ったように動かないが、あなたの作ったように動く」という格言どおりになるのが、プログラミングの醍醐味ですよね。
土屋:
自分の完成、ヒント、アイデアを広げてくれた雑誌でした。ほかのコンピュータ誌も買っていたんですが、ついつい面白い記事があると、『ベーマガ』にも手が伸びちゃいましたね。華やかさも興味を引かせるものもあった。キーワードが毎回よかったですよ。つながる感じがして、もう少しで手が届く感じがして。今のゲームを作っている人たちの基礎となったものじゃないかな。

PC-6001(※1)
1981年にNECが発売したPC-6000シリーズのひとつ。本体・キーボードが一体となったデザインで、パピコンの愛称で親しまれた。8色カラー表示、三重和音が可能なPSG音源、ボイスシンセサイザーなどの接続が可能など画期的なホビーパソコンだった。

ラジオの製作(※2)
1955〜1999年の間、電波新聞社が発行していたラジオ雑誌。通称『ラ製』。『ベーマガ』は1981年ごろこの雑誌の別冊付録として始まった。初期はラジオの記事が中心だったが、後にオーディオやアマチュア無線の記事が増え、パソコン通信の記事が増え、と時代とともに内容も変わっていった。
ベーマガ ラジオの製作
ベーマガ ラジオの製作
MZ(※3)
1970〜1980年代にシャープが発売していたパソコンのシリーズ。
マイコンキットから派生したMZ-80Kシリーズ、ビジネス向けだったMZ-80Bシリーズなどがあり、オールインワン筐体・キーボード未組み立てのセミキット80Kの完成品販売版「MZ-80K2」が19万8000円だった。

アスキー(※4)
1977年から株式会社アスキーが発行しているパソコン雑誌『月刊ASCII』が2006年7月に臨時休刊し、10月に新創刊したが、マイコン時代から続いている数少ない雑誌である。
平安京エイリアン(※5)
1980年に電気音響株式会社が発売した、平安京に侵入したエイリアンを、穴を掘って落として埋めて殲滅するというゲーム。1979年に東京大学の理論科学グループが開発して話題となった。BASICで作られており、ゲームボーイやSFCなどにも移植されている。

パックマン(※6)
1980年にナムコが発売した黄色い丸形のパックマンがモンスターを避けながら、迷路にあるエサを食べつくすゲーム。北米をはじめ世界中でリリースされ、世界的に知られている日本産ゲームのひとつ。2005年には「最も成功した業務用ゲーム機」として『ギネス・ワールド・レコーズ』の認定を受けた。

インベーダー(※7)
1978年にタイトーが「スペースインベーダー」を発売し、攻撃を仕掛けてくる敵キャラクターを移動砲台である自機で撃つというこれらのシューティングゲームは、総じてインベーダーゲームと呼ばれた。ゲームセンターや喫茶店などにあったが、当時は「ゲームセンターは不良のたまり場」という考えがあったので、子供はなかなか行けなかった。

X1(※8)
1982年にシャープが発売したパソコンのシリーズ。「いま、コンピュータと映像のクロスオーバー! 世界初パソコンテレビ」と銘打ち、AV機能に優れ、デザインもスタイリッシュで、初代機からローズレッド、スノーホワイト、メタリックシルバーという華やかな色がそろっていた。1984年X1turboシリーズが、1986年にはX1turboZシリーズが発売されている。

グラディウス(※9)
1985年にコナミから発売された横スクロールシューティングゲーム。超時空戦闘機ビックバイパーを操り、バクテリアン軍団と戦う。全7ステージの無限ループ。グラフィックが美しく、東野美紀氏による音楽も評価が高く、その人気の高さゆえに、多数の続編、移植版がリリースされた。

I/O(※10)
1976年より工学社が発行しているコンピュータ雑誌。日本初のマイコン雑誌で、アスキーの創業者・西和彦氏も創刊にかかわっている。現在も自作派のためのパソコン情報誌として発刊されている。

ロードランナー(※11)
1983年にブローダーバンド社が発売、ハドソンがファミリーコンピュータ用に移植したアクションパズルゲーム。主人公は穴を掘るためのレーザーガンを駆使し、ステージ内にある金塊を敵に捕まらずに回収し、脱出する。

音楽のコーナー(※12)
1986年から『ベーマガ』はメーカーの許可を得て、ゲーム音楽をパソコンで鳴らすプログラムや楽譜が掲載されるようになった。1986年4月号のザ・ビデオゲーム・ミュージック・コレクション「スペースハリアー」が初回。投稿プログラムにもゲーム音楽が載るようになり、短期集中講座で「ミュージック・プログラム・マスター大作戦」といったものも連載された。

YMO(※13)
イエロー・マジック・オーケストラ。1978年結成。キーボードの坂本龍一、ベースの細野晴臣、ドラム・ボーカルの高橋幸宏で1983年に散開した。一般的に「テクノ」のジャンルに分類されるが、シンセサイザーを使い、自動演奏を使うという彼らの新しい音楽はDTMをする人たちに大きな影響を与えた。

88(※14)
1981年にNECが発売したPC-8801のこと。 PC-8001の上位機種で、富士通のFM-7、シャープのX1と並び、8bit御三家と言われていた。1982年に16bitパソコンであるPC-9800シリーズが発売されると、ホビーマシンとして使われるようになり、1985年に発売されたPC-8801mkIISRでその地位を確立させた。

マシン語講座(※15)
1986年に「短期集中連載:これでマシン語がわかる」があり、その後、1987年3月号から11月号まで「ファミコン・マシン語教室」という連載があった。第一回「2進数、16進数とは?」から始まり、最終回「スクロール・プログラムで学ぶ応用編」までファミコン・ユーザ向けに企画された。
ベーマガ マシン語講座ページ
ベーマガ マシン語講座ページ
ゼビウス(※16)
1983年にナムコから発売された縦スクロール型シューティング。「プレイするたびに謎が深まる!〜ゼビウスの全容が明らかになるのはいつか〜」がキャッチフレーズ。カラフルで奥行きがあるリアルな背景で、移動するごとにナスカの地上絵が出てきたり、景色が変わる。
コラム 『ベーマガ』の生みの親「電波新聞社」にて繰り広げられた制作の舞台裏
今回は20年以上にわたり、『ベーマガ』を発行してきた電波新聞社におじゃまし、当時のお話などをお伺いした。なお、今回取材に応じていただいた元編集部A氏が編集長なのか、あるいは当時の『ベーマガ』誌面で活躍した影さん、編さん、Dr.Dなのか、はたまた実はつぐ美ちゃんなのか? それは皆さまのご想像にお任せしたい。
・『ベーマガ』の読者ターゲットとなった年齢層は?

13、14歳ぐらいですね。うちはパソコン誌でもプログラムをメインにしようと考えて、やるなら面白くないとと思い、記事の中心をゲームにしました。その結果、年齢層が低くなりましたね。入門者向けと思ってふたを開けたら、中学生が半分以上でした。


・編集方針としてのポリシーとかはありましたか?

『ベーマガ』の前に創刊されていたPC専門誌にもプログラムのソースコードが載っていたのですが、長かったんです。プログラムの楽しさを教えてあげるには、わずかな時間でゲームを作れるものにしたかった。そのため「短いプログラムをたくさん載せよう」というコンセプトを『ベーマガ』は打ち立てました。
当時、子供にとってパソコンは高価で、電気屋さんやパソコンを持っている友達のところに行って触らせてもらうような状況の中、30分でプログラムを打って作って遊べるくらいの長さを目安にソースコードを掲載していましたね。


・『ベーマガ』の人気コーナーだった「投稿」について教えてください

プログラムの投稿は月に1000本以上あってそのうち、1983年当時で月に50本以上のプログラムを掲載していました。プログラムの内容はゲームがいちばん多かったですね。

掲載の基準は何よりアイデアがいちばんでした。これは目新しいなと思ったものを拾っていった。そして、次に重要なのはできるだけ短時間で打てる短いプログラムであること。アイデアが良くてもプログラムがあまり良くないという場合もありました。そうすると、Dr.Dが「ここが良いorダメ」と添削していたので、採用された人もそれで学んだと思います。

プログラム以外にもイラストの投稿がありましたね。プログラムを作れない方はイラストとか、あとはオーバーフローっていうはみだしのコーナーにたくさん投稿がありました。イラストではベーマガキャラクターの影さんが一番人気でした。ボケというか、よくパソコンを壊したり、仕事のじゃまをしたりというキャラでしてね。プログラムの注釈をつけるのはDr.Dだけど、編さんや影さんもゲームとしての面白さとかの論評とかを書いていました。オーバーフローに答えていたりとか。

そういうことも含めて、投稿にしても、イラストにしても、『ベーマガ』は読者の支えによって成り立っていた雑誌でしたね。


・制作側の楽しみはどんなところにありましたか?

やっぱり読者からの反応が楽しかったですね。はがきや電話で中・高校生の子から「プログラムが動かない」といった連絡がよくありましてね。話しているとすごく一生懸命でこちらが教えてあげると、その後「できました、ありがとう」って電話がかかってきてこちらがほっとしたり……。読者にとって自分に近い人たちが作っているってイメージがあったんじゃないかなって思います。

それとどこの会社にも、うちの読者だったという方がいてくれることですね。元読者でエンジニアになったというような方も多いですよ。
『ベーマガ』休刊前の数年間、学校の取材記事があって、そのときに先生が「読者だったんです」と言ってくれたりしました。「『ベーマガ』から取材が来るとは思わなかった」と喜んでくれて、自分も投稿をしたことがあるという話とかを聞いたりして。その先生が投稿したプログラムを掲載した記事を持参していくと、生徒が驚いて、先生が喜んで……と楽しい経験がいっぱいあります。

『ベーマガ』休刊をお知らせしたとき、ネットの掲示板ですごい数のスレッドが立って、その中の書き込みも「『ベーマガ』ありがとう」というコメントが多くて……。「自分が今あるのは『ベーマガ』のおかげ」と書いてくれる人もたくさんいて、すごくうれしかった。そのときのスレッドや書き込みは今でも印刷して大事にとってあるんですよ。


・読者にメッセージをお願いします

『ベーマガ』を読んでくれていた読者のみんなが今の業界でがんばってくれていると聞くと、とてもうれしいです。『ベーマガ』が終わるときに「ありがとう」と言ってくださった方がたくさんいましたが、こちらこそ「ありがとう」と言いたいですね。
理系離れの今、『ベーマガ』みたいな「手軽にプログラムが覚えられる」媒体が必要だと思っていますし、作りたいと思っています。
電波新聞社 元マイコンBASICマガジン編集部 A氏 さて私は誰でしょう?
電波新聞社 元マイコンBASICマガジン編集部 A氏
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山田モーキン(総研スタッフ)からのメッセージ 山田モーキン(総研スタッフ)からのメッセージ
プログラムやゲームを愛する多くの読者によって支えられてきた『ベーマガ』の存在は、時代や媒体は違えど、Tech総研スタッフとしてひとつの大きな目標です。より多くの読者に愛される存在になれるように、今後も魅力的なレポートをお届けしていきたいと思います。どうぞ末永いお付き合いの程、よろしくお願いします。

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